1ー3

 人気のないちっぽけな公園に自転車を停めて、河川敷の方まで歩く。家からずっと、流石に飛ばしすぎたから、肩で大きく呼吸をして息を整えながら。向かっていく道すがら浴衣姿の家族連れやサイケデリックな模様の水風船をぶら下げた小学生たちとすれ違い、沈み込んでいた胸はまた少し高鳴った。そうだ、こうなったら好き勝手してやろう。明後日の月曜からは二学期が始まるし、最後に思いっきり憂さ晴らししてやるんだ。学校が始まったら受験勉強を頑張る、と無理やり理由を付けて母さんからお小遣いも貰ってきたわけだし。

 携帯を見ると、まだ18時を回ったばかり。花火が上がるまでは少し余裕があった。

 サイクリングロードを兼ねた土手に立って河川敷を見下ろすと、沢山の出店が色とりどりに並び、これまた沢山の人がひしめき合っている。浴衣と、そうでない人が半々くらい。この暑いのにあんな人混みの中に入っていくのかと少しうんざりしたけれど、焼きそばの香ばしいソースの匂いが鼻腔をくすぐって、そんなことはどうでも良くなった。家で食べるさっぱり冷たい素麺と屋台のこってりとした熱々の焼きそば。この一見正反対の麺類は、それでもきっと両方とも夏の季語なんだろうな。

 土手の草むらを通って人混みに突入する。この花火大会の雰囲気は近所の神社のお祭りに近いけれど、音頭や祭囃子は聴こえない。景色が、匂いが、音が、全てがいつもと違う。この、花火大会特有の異世界にでも入ってしまったかのような非現実感が、ぼくは好きだ。

 そんな風に考え事をしていると、知らず知らずのうちにいつものクセで川下の橋の方に歩いているのに気がついた。

 コンクリートで固められた橋の下。カラースプレーで描かれた大量の落書き、品のない単語の数々。通称、落橋おちばし。普段は不良の溜まり場で大の大人も寄り付かないそこは、花火大会の日に限ってはぼくらのテリトリーだった。理由は単純で、橋げたが邪魔で花火が見えづらいから。不良というやつは意外とロマンチストで花火を見たがる、そういう生き物なんだ。逆に、花火そのものには微塵も興味ないぼくたちには都合が良い。鬼の居ぬ間に洗濯と言うか、そんな期間限定の聖域で、買ったばかりの綿あめやら焼きそばやらを食べながら、指笛を鳴らして、叫んで、思い思いに騒ぎ散らかす。それがぼくのだった。

 今日はその聖域に行くわけにはいかないのでくるりと踵を返す。なんだかこんなことをしている自分が虚しくなって、あわよくばクラスメイトにでも出くわして、彼女にフラれた、と笑い話でもできないかな、とかそんなことを思ってしまう。プライドと独りぼっちの寂しさがせめぎ合う中での落とし所。勿論そんな上手いこといかず、誰一人知り合いには会えることのないまま、大したあてもなくふらついた。

 人の流れに身を任せながら屋台を巡っていたら、あれよあれよという間に、いつのまにか橋の上にいた。落橋よりも上流の方の、四車線くらいある大きめの橋。ぼくを運んでいた人の流れはそこでピタリと止まり、暑苦しい人混みの中、ちょうど人ひとり入れるくらいのスペースにぼくはすっぽりと収まった。不思議と、人混みのど真ん中だけれど、そこまでの圧迫感はない。見回せば理由は明白で、辺り一帯カップルだらけで自分たちだけの世界を楽しんでいて、ぼくの方に掛ける体重なんて1ミリグラムたりともない、というだけの話。

 数時間前にフラれた手前心中穏やかではないけれど、花火が打ち上がる予定の南の方の空を見れば遮るものは何もないし、花火を見るのにはこれほど都合のいい空間はないのかもしれない。なるほど、この橋はきっと絶好の花火観覧スポットというわけか。パソコンや雑誌で調べるなりすればそういう情報があるのだろう。

 一人で青黒い空をぼうっと眺めながらりんご飴の棒をしゃぶっていたら、遠くで、バン、と弾ける音がした。辺りがにわかに色めき立つ。

 玄人のぼくはここで変にはしゃいだりしない。毎年のことだ、19時前になると小さめの花火が一発打ち上がる。もうこんな時間か、と思うだけだ。

 花火大会の始まりの合図のようなその小さな花火は打ち上げのテストでも兼ねているのだろうけれど、ぼくはその音がうなぎの次くらいに好きで、それでいて、うなぎの小骨よりも嫌いだった。

 毎年、日程的にだいたい花火の次の週くらいで夏休みは終わる。楽しかった夏の思い出が花火の音と一緒に頭に浮かんで、そして弾けて消えていく。そんな同じような時期に同じような花火が上がって、同じようにその花火の音を聞いているから、だからこそ残酷なほどはっきりと分かる。二度として同じ夏は来ない、ということ。全部が一度きりの夏休みで、今は今しかないんだ。19時の小さな花火は、そんな目を逸らしたくなる現実をぼくに容赦なく突きつけてくる。お前の夏は終わったぞ、と。

 寂しさと悲しさと焦りと虚しさと、そんな沢山の難しくて弱い感情で撚られた一本の糸に、まるで心臓を締め付けられているみたいで、泣きそうになるんだ。

 いつもみたいに友達と騒いでいればそんな感傷に呑まれることなんてなかったけれど、あいにく今年はひとりぼっちだ。小さな花火は静かに、糸でがんじがらめになったぼくの孤独な心臓をぎゅうっと鷲掴みにしてくる。

 夏休み最後のイベントをそんな悲しい気持ちで迎えるのは嫌だった。だから心の中で必死に強がる。いいや、花火なんて大したことないさ。金属の炎色反応に過ぎないと、去年の冬に理科で教わっただろう。花火の何尺玉かに詰まっているのは夢でも希望でも魔法でもなくて火薬と金属粉なんだ。

「花火楽しみだね。綺麗かなあ」

「うん、楽しみだね。でもマイも花火には負けてないよ」

 すぐ近くのカップルがこんな会話をする。

 いいなあ、ぼくも言いたかったな。花火なんかより浴衣姿の女の子の方が綺麗に決まってるじゃないか。花火なんて。花火なんて。

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