第15話 《幕間》彼の腕は、剣を振るわない

 彼は非常に恵まれていた。

 これはその家庭環境だけに限らず、恵まれた体躯に、恵まれた人との出会い。

 そして中でもとりわけ、努力や計算では辿り着けない程の運の良さには、確かに類まれなると表現できるほど、恵まれていた。


 かの竜眼の氏族、国が誇る第一位貴族。

 そのシシハリットに、自由騎士として選ばれた時に、彼はその才を自覚した。

 加えて努力もまた怠らず、その強運を後押しする。


 間違いなく、彼の人生の絶頂は、この時にあった。


「これより、ザガントッドが一子、ギレンダオ。ただのギレンダオとしてシシハリットにお仕え申し上げます」


 大したことの無い貴族と周りから揶揄されながらも、しかし必ずと言っていいほどに目端の利く者の瞳に幾度となく映され、彼はシシハリットの騎士としてここに完成する。


「よろしく頼むよ。ギレンダオ殿」


 その、シシハリットを統べる当主のたった一言に、彼は過去苛まされた立場や、何も無い肩書きや、自身を縛る劣等感から、確かに解放されたのを覚えている。


 そうして、立派な騎士として竜の意匠を抱いた装備を身に纏い、意気揚々とその一歩を踏み出したギレンダオであった。








 その、たった1年の後に、彼の人生は絶望に落ちる。


 きっかけは、未だ挨拶をできず、どころかこの目で見たことすらない。

 彼の所属する館に住む、長女の存在を耳にしたことだった。



「こんな所に住まいがあるとは……」


 目端の利く彼は、随分とあっさりかの長女の居場所を突き止めた。

 誰もが口を閉ざし、しかし確実に存在は認識されているらしい彼女に対して、彼は生来の運の良さと、そして執念に思えるほどの活力でもってそれを暴いたのである。


 何故斯様に気になるのか、本人ですら自覚は出来ていないが。

 少なくとも、噂にきく人を惹きつける全てを内包した少女とやらに、並々ならぬ興味を持ったことも事実ではある。


「有り得ないほど魅力的で、どの悪魔よりも苛烈で、それらを覆す程に異常な精神と聞くが」


 それらは果たして、自身の持つ力で御しきれるものなのか、騎士として気になる。

 それとも、それはもしかしたら彼の順調かつ幸運が故に気づかなかった他人の悪意というものへの興味という、すこぶる傲慢な考えから来ているものかもしれない。


「────お前、よくここまで来れたな」





 そうして、彼は彼女に出会う。


 シシハリットが長女。レレィシフォナが齢8つの時である。



 しばらく、彼は何かを口にすることが出来なかった。

 それすらこの奇跡的な空間を壊してしまうのでは、と感じてしまうほどに、少女の立つ姿は異質だった。


 見目は別段、奥方や次女に比べて余程優れているとは言えない。どちらかと言うと瓜二つと言える。

 むしろ次女の方が愛嬌のある笑顔が眩しく、それだけを見たら本来人の目を引くのはあちらかもしれない。


 だが、違う。


 その瞳から感じる力強さに、その身が纏う跪きそうになる圧力。

 背筋を伸ばして立つその姿はいっそ貴族らしくなく、どちらかと言うと貫禄のある歴戦の勇士に思えてしまう。


 そして、彼女の幼い体躯には不釣り合いなほどに感じる、強い殺気。


 あぁ、これは魔王だ。


 彼はそう感じた。


 これは、人を惹きつける魔の頂点だと。

 人に仇なす訳でもない。

 魔を引き連れてもいない。


 だが、確かに震える指先が、痙攣する喉が、告げる。

 この者に逆らってはいけないと。

 目をつけられてはいけないと。

 本能が、告げる。


「お前らはいつも黙るなぁ」


 嘆息混じりの声が少女から聞こえる。


 それはそうだろう、と朧気ながらギレンダオは思う。

 誰であれ彼女の前に立てばまず声を無くすだろう。

 そして次に自尊心が砕ける。

 彼女は、何もしていない。

 ただ立つその姿一つで、凡庸の身を、下手をしたら凡庸ならざる者でさえ、恥じる気持ちにさせるのだから。


「どうした。声が出ないのか」


 その問いに、やっとの思いでいつの間にか伏せていた顔を上げる。


「シ、シシハリットが自由騎士……。ギレンダオと申します」


 だが出た声は震え、未だ揺れる瞳は少女を直視出来ない。


「うん? そうか。宜しくな。だがそんなことは聞いてないぞ」


 そのギレンダオの様子に何ら気にかかることなく、彼女は続ける。


「よく、ここまで来れたな、と言っている。中々だぞ」


 当然ながら、ギレンダオはそこにどんな意味があるかも分からない。

 だが、それを問うことさえ恐れ多く思われ、黙ってしまう。


 その様子にまた一つ溜め息をこぼし、


「まぁいい。暇なんだ、付き合え」


 少女はそのまま、およそ人の住んでいる様子の無い屋敷に入る。

 玄関は、開かれたまま。

 まるでギレンダオが着いてきて当然とばかりの態度であったが、やはりと言うべきか。

 ギレンダオは、黙ったまま立ち上がり、震える体を鼓舞しながら、屋敷に向かって歩く。





 呆気なく、と言うべきか。それとも予想外と言うべきか。

 とまれ、かの魔王に見初められ、すわこのままどうにかなってしまうのではと思われたがそんなこともなく。


 お茶を出され、ギレンダオの騎士としての体験談をせがまれ。

 そして少々の、軽い鍛錬をやってみせろとせがまれて(命令に近い言葉ではあったが)。

 至って普通の、貴族の令嬢らしいその姿に。

 ギレンダオの警戒はあっと驚く間もなく溶けていった。


 騎士の中で得た訓戒をまるで教師のように説き。

 上位貴族に招かれたおかげで覚えた茶の銘柄をまるで友人のように語り。

 凛とした顔を時々笑いに崩す少女をまるで保護者のように見守り。


「また、いつでも来い」


 そうして告げられた言葉に、出会った当初の緊張など一つもなく。


「やはり、俺は運が良い」


 そんな誰ともなく呟いた声とともに、ギレンダオは洋々とその場を後にする。



 彼はこの時、彼女を指して異常な精神と評した誰かの言葉を、思い出すことは無かった。



 何がいけなかったのか。

 何が悪かったのか。

 その是非はついぞ分かることはできないが、一つだけ。

 確実に言える、たった一つの事実として。

 ギレンダオは、運が悪かった。






 ギレンダオにとって運命的な出会いだったその日以降、彼は暇を見つけては、まるで恋をする乙女のように足繁く少女の元に赴いた。


 赴いては話し、ちょっとした贈り物をし。

 茶を飲み、そして剣を振ってみせる。

 そうして時折見せる少女の笑顔に、彼は間違いなく魅了されていった。


 通い始めて、1年が過ぎ。


 彼はまた、今日も庭を越えて離れの屋敷に向かおうとする。


「どちらへ、行かれるのですか?」



 そんな彼に声を掛けたのは、彼女の妹であり、シシハリットの直系であり、誰にも愛されている、ラダトキィシヤその人であった。


 そして彼女の姉より口止めをされていたギレンダオは、勿論のこと事実を避けて告げる。


「ご機嫌麗しゅうございます、ラダトキィシヤ様。少し散歩をしようかと思いまして」

「池の向こう側に、ですか?」


 その言葉は、言い切るよりも早く、ラダトキィシヤに止められた。


「────な、にを」

「あの向こうに行かれるんですよね? あそこには何があるのですか? 誰がいるのですか? 貴方は何をするために行くのですか? どんな方なんですか?」


 そして彼女は止まらない。

 声を失ったギレンダオなどお構い無しに、普段であれば弾けんばかりの笑顔で騎士に声をかける彼女の顔は。

 いつになく真剣で、そして声は硬かった。


「言えないんですか? それは口止めをされているからですか? それとも言ってはまずいことになるからですか? 誰が許さないことなのですか? 私の父に止められていることなのですか?」


 止まらない。

 黙ってしまったギレンダオに、責めるように畳み掛けて言葉を紡ぐ。


「────申し訳ありません。私の口からは」

「分かりました。もういいです」


 辛うじて、言葉に出来た内容は彼女の疑問に何も答えるものではなく。

 常であればまた更なる追求が来るものだと思われるそれであったが。


 ラダトキィシヤは、告げるその表情と、声色と、体の緊張を一瞥し、彼を解放する。


「……何なのだ、一体」


 もう見向きもせず、1人で去ってしまうラダトキィシヤの後ろ姿を見送り、彼は呟く。

 不気味な、まるでシシハリットの家に渦巻く執念のような何かを彼女から感じ取り、身震いまでしてくる。


 頭を振り、しかし彼はやはり。

 今日は行くべきではないと理解しつつも、その体はまるで操られるかのように離れへと向かうのであった。










 彼は非常に運が悪かった。

 だがしかし、やはり彼は運が良かった。










 ────────────


「何だ。お前も、敵になるのか」








 当主から頼まれ、客人として迎えたやんごとなき人物の護衛につき。

 そうしてその人が離れの存在に気づき。


 誰もが止めるも関係ないとばかりに足を進め。

 体調が明らかに悪くなるその様子にも頓着せず。


 その人物は、レレィシフォナに出会う。


 彼は、シシハリットの秘蔵する最大の財産が目当てであった。

 それは目もくらむような金銀でもなければ、誰もが求める強大な秘術の類でもなく。


 ただ、声ならぬ声に聞く、恐れと、そして憐憫と、何より熱に浮かされたような声色で誰もが密やかに語る、

 レレィシフォナという存在であった。


「君、私の所に来ないかい?」



 そうしてその人物は、彼女の敵になる。


 レレィシフォナは、分かる。

 分かってしまう。

 自身に向けられるその目が。

 語られる口調が、言葉が。

 そしてそこに隠された、唾棄すべき感情が。


「────死ね」


 その言葉の返答は、彼女から出た短くも説得力のある言葉と、そして同時に翻され、首を落とそうとした腕によって齎される。


 護衛として着いてきていたギレンダオは、焦りと混乱のまま、咄嗟に彼女の腕からかの人を守らんと盾を構える。


 そうして普段見ない、冷徹な瞳に、心の底から震える殺気に。



 彼は、レレィシフォナという存在がどういうものだったのかを認識する。


「また黙る。もう一度、聞くぞ」


 そのまま、笑顔もなく、皮肉げな顔でもなく、ただ淡々と告げられる。


「お前も、私の敵になるのか?」


 もう一度言うのであれば、彼は非常に運が悪かった。


 ここで、仮に他に護衛についた仲間がいれば。

 仮に、やんごとなき人物とやらが離れに来なければ。

 レレィシフォナに見つからなければ。

 彼が騎士でなければ。



 少女の言葉を受け、彼がその言葉に心折られ、盾を下げ、剣を降ろさなければ。



 恐らく、彼は未だ騎士としてその身をシシハリットに捧げていたはずである。




「……いえ」


 だが彼は、やはり運が悪かった。


 敵ではないと、少女から数歩離れ、見守るように、少女を獲物にせんとした人物に相対した。


「ふぅん」


 そこで少女は、初めてギレンダオを名前で呼ぶ。


「リデル。お前は騎士じゃないな」


 その言葉は、理解が出来なかった。


「私の敵にすらなれないお前は、いらない」


 だが、次に起きたことは、もっと理解が出来なかった。


「なんっ────」


 巻き起こる風に、切り刻まれるように客人が血にまみれる。

 そして、それを見ていた己の腕が切り飛ばされる。


 意識を無くす寸前、彼の脳に居来したのは、


「何故ですか……っ」


 そんな、彼女を欠片も理解出来ない、純粋な疑問だった。










「ご無事ですか?」


 次に目が覚めた時、彼は何故か本邸にいた。

 そしてやはり何故か、彼を見下ろしているのは、ラダトキィシヤだった。


「貴方の腕、どうしますか?」


 だが彼女は何も聞かず、慌てず。

 ただギレンダオにそれだけを尋ねる。


「治しますか?」


 俯き、答えを口にしない彼に、続ける。


 ギレンダオの頭の中は、もはや後悔でいっぱいであった。


 何故、あそこで剣を下げたのか。

 彼女を止めなかったのか。

 それはまるで、騎士ではなく。


 ただ彼女に熱を上げている。

 先の見えない大馬鹿者ではないのか。


「敵にすらなれない」

 その言葉は、思い返す度に彼の心を抉る。


 もはや、この手は剣を握れない。


「……いえ、結構です」




 こうして彼は、騎士の道を自ら閉ざした。


 当てもなく、誰にも頼らず。

 現実に目を背け、自分の弱さから逃げ。


 必然のように行き着く先として、彼はいくつか離れた街の、路地に辿り着く。


 間違いなく、彼は運が悪かった。


 しかし、ただ一つの事実として。



 彼女の殺意から、ただ立ち向かうこともなく生き残れたのは。


 何よりも、運が良かった。










「久しぶりだな、リデル」


 腕を治され、後に告げられたその一言で。


 彼はまた、騎士の道を歩む。


 次は、間違えないように。


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