第2話 彼女は悪魔の子である

 愛と奇跡の邂逅、とヘイリシュは行きたい所であったが、その後頭部をやたらしなる癖に妙に硬い枝でぶっ叩かれたその後である。


「──────っ!!」


 声にならない声をあげ、ヘイリシュは堪らずその場で蹲り、転げるように敵(相変わらず浮いた木)から距離を取る。



「あっはっはっはっはっは!!」


 爆笑であった。

 かように儚く、まるで夜に咲くシラヤスの花のように可憐な薄窓の君から(先程の一瞬で彼はこの喩えを思いついた)、あろうことかその闇を切り裂く、いやどちらかと言うとぶち壊すかのような、はっきりとした、まさしく弾けんばかりの笑いが溢れる。


 痛む頭を庇いながらなんとか顔を上げると、その先に映る薄窓の君は、まさかの上半身を反らしながら両手をエギキのように何度も打ち合わせ、まるで大層面白い喜劇を見た下女のような下品な姿で、


 爆笑していた。



 感情が追いつかない────


 これまたポカンと口を開け、今見たのは幻惑か何かの魔導かと混乱の坩堝に支配された脳で、ヘイリシュは何とか体を持ち上げる。


「あー、面白い。お前、結構いい動きするな」


 まだ笑いが抜けてないのか、言葉の端々で音が抜けつつ、その目尻に(笑いすぎて)浮かんだ涙を、まるで白魚のような肌のその手ですくう。


 その仕草さえもヘイリシュにとってもはや魅力的なのか、またしても動きが止まってしまう。


「さっきからちょいちょい固まるな。油でも差すのか?」


 それすら面白いのか、少女は先程のように口角を上げつつ(端的に表現すればニヤニヤと)ヘイリシュを揶揄う。

 いつの間にか、くすんでいた窓は少し解放され、窓の先に肘を置き、手に顎を乗せるその姿がより一層鮮明になる。




 それを見たヘイリシュが、渾身の第一声を、考えに考え、捻りに捻って、混乱から立ち直った!と本人が思い込み、戦場におけるそれよりもはるかに凛々しく顔を、目付きを、眼差しを真剣にさせ






「────────結婚しよう」


 出た言葉は、どうやら未だ混乱から抜けきれていないようであった。





 ────────────





 どうなったか、と言うと


「くっ! はぁっ!」


 およそ木の枝が打ち付けられたとは思えないほどの鋭い音を響かせながら、ヘイリシュは敵との攻防を続けていた。









 こうなった経緯として、


「ふーん……私が欲しいのか」


 短くも濃厚な今まで見せた姿をかき消し、先の告白を聞いた少女は思案げに顔を顰める。


 そんな中、ヘイリシュは


(やってしまったぁぁぁぁぁ!!!)


 絶賛大後悔中であった。


 過去幾度にも渡る女性からのアプローチを華麗に、如才なく、たまに過激に避けながら、彼は人の感情を学んだ。

 見た目や才能に懸想するなど、貴族の関わりに縛られるなど、と、彼にとって女性とは、ひいては自身に向けられる行き過ぎた好意とは戦場における武力よりも悪質な力に近いものがあり、内心は興味が無いどころか若干の懐疑心すら抱くものであったはずなのだ。


 であるのに、まさに今挫くべき表面的な魅力に一刀で切り伏せられ、何よりぶれることの無かった心が根元からひっくり返された。

 これでは過去を笑えない。どころか今までの様々な女性に悪いことをしたのではないか。


 と、混乱が収まっていないためか、思考がズルズルと悪い方向へ行き、何ならと過去に囚われ始める始末であった。


「……ぃ。……おい。おーい!」


 随分と呑気に聞こえる呼びかけに、やっとのことで現実に戻ってきたヘイリシュだが


 じ、と見つめる少女と目が合うとまたしても思考が囚われかける。


 重症である。


「とりあえずお前、『さっき』のに気づいてここに来たんだろ?」


 その問いかけに、はたと冷静になるヘイリシュ。


「……え、ええ。さすがにあれだけ見られるとどうも気になると言うか……」


 見られるどころかイメージの中では何度か殺されていたが、そこは華麗に無視するのであった。


「さっきので多少気づいたと思うんだが、私は強いんだ」


 心なしか自慢げに顎を上向きにし、その顔を少し緩めながら少女は続ける。


「だからなぁ……、半端に好意を持たれたり、嫉妬されたりするとな……、いやまぁ私は凄まじく可愛いからそれは仕方ないんだが」


 まるでどこの阿呆だと言わんばかりに呆れたことを言うが、


(確かに可愛い。しかも美しい。式は聖ヒリュシィシカの本教会で挙げたい)


 もはやヘイリシュの方がどうにかなっているので会話が途切れることが無さそうなのが果たして幸いかどうか。


「それでなぁ、……うーん。つまり私は、色々と身の危険を感じることが多くてな。それでまぁ……その度に、相手が死ぬんだ」




 ???



 ここでさすがのポンコツヘイリシュも素に戻る。


 身の危険を感じたら相手が死ぬとはこれ如何に?


「つまりだな。敵なんだ、私にとって。幼くて、力が無さそうで、そしてやたら可愛くて完璧な私を何とかしようと私に近づく者っていうのは、つまりそういうことなんだ」


 そこまでは分かるのだが。


「敵は殺すだろ?」


 あっさりと口にすると、少女はそこから口を噤んだ。


 ………………

 …………

 ……



「え、それだけですか?」


「それ以外に何があるんだ?」


「えぇぇぇ……」


 いや何か特別な力を宿していて暴走してしまうとか、自分を過剰に守る精霊とかが彼女の意思に関係なくやり過ぎてしまうとか、そういうことではないのかと。


 単純に敵は殺すと宣う精神は果たして。


「お前だって誰かに刃物突きつけられたら何とかするだろ。許すかどうかはともかく」


 それはまあそうであろう、とヘイリシュは頷く。


「私は許さない。それだけだよ」


 そこまで話して、ヘイリシュも何とか理解ができた。


 恐らく、生まれてから今に至るまで色々とあったのだろうと。

 だからこのように、隠されるように離れた所にいるのだろうと。

 だから彼女以外に生きる者の気配を全く感じないのだろうと。


「だからまぁ、お前が私に殺されないくらい強くなったら考えてもいいぞ」


 ついその少女の境遇に寄り添い、悲しみに包まれていたヘイリシュは、その言葉を理解するのに少しの時間を要した。


「それは……」


 その意を噛み砕こうとヘイリシュが舌を湿らせる中、少女は続ける。


「うん、まあ。そういうことだ」


 としかし、ヘイリシュにとって希望に等しい宣言の後に、その美しい顔を意地悪げに歪めながら、


「ただまぁ、少なくとも私がそこらに散らばるゴミで適当に作った人形くらいは倒せないとなぁ」


 まだ悪戯は続くのだと告げた。


 結果、ヘイリシュはひたすらその人形らしき敵の振るう枝を、幾度となく体に打ち付けられるのである。







 もう何度目かも分からないほど地面に打ち据えられ、ヘイリシュは奥の歯を強く噛み締める。


 勝てない。


 どうやらその事実を受け入れなければならないほど、その腕は隔絶していた。

 ご丁寧に人形は、人の動作をこれでもかと模しているらしく


 剣を振るえばその入りから太刀筋が読め

 踏み込めばその腰がどこにねじ込まれるのか理解でき

 呼吸するかのように体が揺れればどこに目を向けたのか感じられる


 それでも勝てない。


 ヘイリシュは自らを誰よりも強いとは驕っていない。

 世界の中心とも呼ばれる、人魔の歩みの最前線である中央には、それこそ化物と呼ぶに相応しい者が跋扈すると聞く。

 そもそもこの国での現在すら、全ての騎士を含めて一番、とまではいかないのだからさもあらん。


 しかしそれでもどれだけ相手が強かろうと、食らいつくことはできた。

 騎士の王と呼ばれる、国王が所有する自由騎士、かのヨーギルであったり。

 それこそ5年前に魔導の手ほどきを受けた中央の冒険者であったり。


 誰が相手でも、彼らを唸らせる程のしつこさと、そして吸収力で食らいつき、最後には必ず一矢報いていた。


 勝てない。


 恐ろしいことに、この敵は何も才のある動きを見せない。


 ただ純粋にヘイリシュより鋭く、早く、的確に、大胆に。

 単純な動作一つを取れば、確実にヘイリシュの方がそれらに打ち勝てるのに


 何故か全ての動きが、ヘイリシュのそれよりともすれば気づけないくらいにほんの少しだけ上回る。


 剣を合わせても打ち負けない。

 同時に斬りあってもこちらが先に届く。

 踏み込めばその体を浮かせられる。


「はず」のそれが、どうしても現象に起こせない。

 正しく事の「起こり」を潰すように人形が動いているのが分かるのに、どう足掻いても見切られる。


 勝てない。

 これほど明確に、冷静に、しかし脳が沸騰するのではと思うほどの激情に駆られながらも、ヘイリシュは自覚した。



「もう終わりか?」


 そのつまらなそうな声が上から降りかかり、ヘイリシュはのろのろと顔を上げる。


「ひどい顔だ」


 その顔を見て、満足そうでありながら、どこか不満も感じられるように、器用に顔を歪めさせながら笑い


「目に頼りすぎなんだよ、お前は。見てからじゃ遅いんだ。目にしたら既に死ぬと思え」


 なるほど無茶苦茶な事を言う。


 苦みばしった顔を皮肉げに変え、ヘイリシュは答える。


「魔導を使えば勝てます」


 どうやら少女に対する恋慕の情よりも、勝つことへの執着が勝るのか

 ヘイリシュは先程までの浮かれた気持ちなど、下手をすれば婚姻を求めた男とはとても思えないほど、憎々しげに少女を見つめる。


 その睨みつけるかのような見上げる視線を受けても、少女は表情を何ら変えずに


「無理だよ」


 バッサリと、それはもうはっきりとヘイリシュの考えを否定した。


「元が出来てないのにちょっと手数が増えても無駄なんだよ」


 最初の悪戯っ子のような顔つきではなく、どこか物を知らない子供に教える教師のように、呆れた口調と顔で続ける。


「まず動けるようにならないと、殴る手が増えても相手の手が先に届くなら意味無いだろ?」


 まぁ、納得は出来ないだろうけど、と呟きながら


「とりあえず今日はもう帰りなよ。暗くなってきたしな」


「しかし……っ」


 やはりと言うべきか、食いつこうとするヘイリシュであったが、


「また来ればいい。親父殿には伝えておくから」


 と、話は終わりだとばかりに少女は手の甲を前後に振る。


 野良ポポリをあしらうかのように扱われたヘイリシュではあったが、その言葉に何より気が向く。


「え……、御家族とお話をされるんですか?」


 先程感じた憐憫が、もしかしたら勘違いだったのではないか。

 しかしそれならば何故このような薄暗い場所に一人でいるのか。


 またしても混乱しかけた頭であったが、


「話せるぞ。というか両親は私のこと大好きだからな」


 仕方ないなと、少女はその考えを修正してやる。


「お前がここに来れる時点で凄いんだよ。普通は私の傍に居たら、それこそお前が感じた視線を浴び続けたら、『潰れる』んだ。プライドとか、努力の末にだとか、嫉妬にかられだとか」


 強すぎる魔力を一身に受け続けたら狂うだろう、と。


「だから私は自分の意志でここにいるんだよ。親父殿はなんとかしたいと思っているらしいが、世間的にはもう世界のどこにもいない長女だからな」


 それは、そんなことは、親に愛されているのに、なのに、だからこそ、一緒にいられないと言うのは────


 ヘイリシュの痛ましく歪めた顔に気づいたのか、少女はまた呆れた口調で言う。


「別にいいんだよ。愛があればという話でなく、単純に、私自身が何もかも抑え込んで家族仲良く、など出来るはずがないからな。表面的な次元でなく、純粋に、住む場所が違うんだよ」


 ここまで言って、つと空を見上げる。


「……っと、そろそろ本当に帰れ。いつでも来れるようにはする。…………次は魔導を使っていいぞ?」


「……はい」


 最後にはそれまでの何ともし難い空気を壊すかのように、揶揄うような口調で告げた言葉に、

 ヘイリシュは項垂れながらその場を後にするしか無かった。









────────────



 レレィシフォナ・コドゥマフ・シシン・シシハリットは悪魔の子である。


 これはかの伝記のように見目が人と違うだとか、懐古的な観点からみた偏向主義者の戯言だとか、生まれたその時から大の大人が失神するほどの魔力を纏っていただとか(全て事実起きたことではあったが)、そういった「大したことのない」話ではなく。


 単純に、彼女自身の魅惑と、熾烈さと、その言動によって証明された、純然たる事実としての評価である(むろん当然のごとく、彼女の両親はことある事に彼女の不始末に奔走し、方方にその評価を隠そうとしたが、その頭角を削りきることは無かった)。


 口に人を呼びつければ全てを魅了し

 手に友愛を示せば謀すらを籠絡させ

 そして敵に刃を向けられれば二言と無くそれを散らした。

 また自身それに抵抗なく、尽くを囲い、獰猛に貪り、その振る舞いを持ってごく身近な者をも恐れさせた。

 レレィシフォナが11の歳になる今日日、彼女を拐かす者も、害さんとする者も、何より恐れぬ者もいないほど、

 悪魔の子は完成されていた。


 そんな彼女であるが、11を迎え、次の竜齢、つまり来年には中途からの魔導の学びを得る最後の機会を迎えてしまう今をもってなお、自身の存在が確立されていなかった。


 生来、貴族の子女、特に女性であれば遅くとも10の歳には領民に公表され、その存在を公とする。

 そして魔導や剣に優秀な者は学びを経て、領地に貢献せんと励む。

 勿論これは政略的な婚姻であったり、貴族間における非常に熾烈かつ不毛なやり取りを本人達に経験させたりと、様々な道程を経て、大抵は家督に見合った能力を発揮することになる。


 また別の道として、国や他の貴族が保有する使用人という未来もある。

 しかしながら現代において、言動が貴族的にお茶目(世間的には過激で我儘)なお嬢様であったり、無理に使用人を手篭めにするような貴族主義に耄碌した雇用主などは是とされていないため、使用人と言えど自身の貴族位は保たれることも相まって、中々に人気のある就職先であった。


 果てはまぁ、どう考えても人の下には付けないだろう、とレレィシフォナはおどけながら


 学びを経て、魔導の証を身分の証明として国を出たり、自由を求めんと活動する者も、いないではない。


 自身でも最近の、何度弾いても懲りない幾度にも渡るごく特別な調味料の入ったシチュー(控えめに言わなければ、強力な催眠薬や催淫剤が含まれた毒料理)に辟易していて(余談ではあるが既にそれを作った料理人はこの世界にいない)、いずれにしても国を出ることに変わりはないと、そこに至るまでに熟さなければならない行動に溜息を漏らす。


 通算14人目の、使用人と称した狼藉者を燃やし尽くした後の、両親との面会の折である。




 ────────────




「母よ。これ以上は無理だぞ」


 およそ親子が話すに相応しくないほどの、重く苦しい沈黙が支配する場をかき消すように、レレィシフォナは対面に座る親にそう言う。


「分かってるわ……。今年に入って既に3人目だもの。そろそろ他家に気づかれてもおかしくないわ」


 それでもやはり、彼女にとって受け入れ難い話なのか。ロロゥアシニは緩慢な所作で茶を含み舌を湿らせながら、


「……貴女には、死んでもらうことになるわ」


 悲痛な、ともすれば今にも泣き出しそうな顔で愛娘に告げる。


 だがそれを告げられた本人と言えば


「今更だよ。前から私は言っていた。さっさと処分すべきだと」


 自らのことなのに、どこかまるで違う誰かの話のようにレレイシフォナは答える。


 そこに来て目を閉ざし、じ、と腕を組みながら黙っていたブララマンはその瞳に娘を映す。


「……どうにもならんのか?」


 口にしたのは、現状何かを変えるものを模索したが故の発言ではなく、あくまでレレィシフォナに対する確認のそれであった。


「だから、『無理』だ。親父殿」


 その瞳を見つめ返し、静かに、だがはっきりとした意志を持ってレレィシフォナは答える。


「誰かに守られて、籠の鳥のように扱われれば済む話じゃないんだ。襲われて、殺さずに対処すればいいという話じゃないんだよ」


 分かっているだろう、と。

 レレィシフォナの持つ「それ」は、決して外から抑えつけられる程度のものでは無いのだと。


「…………」


 そのために、幾重にも渡り苦労を重ね、そしてその全てが無駄に終わったことを誰より知っているブララマンは、言葉を出せずに沈黙する。


「何より」


 改めて、レレィシフォナは両親に伝える。


「求めてるんだ。私の体が、私に流れる魔力が、私を動かす命が。耐えられないんだ、私を見縊る視線が。敵は殺せと叫ぶんだよ、腹の真ん中が。底から熱くなってどうしようもないんだ」


 もはやこれは呪いだ、と嘯きながら


「そしてそれが心地いいんだ。挫くことが、打ち倒すことが。私の存在を証明する圧倒的な暴力が。私にとって何より振るうべきは弦を奏でる指でなく、私にとって踏むべきは煌びやかな舞踏会の地面でなく」


 もうどうにも我慢がならない、とばかりに口を歪め、獣のように歯を剥き出しにしながら


「首をはねるための剣を、打ち払い突き進むための戦場を。その力を使う場所に行けと、ずっとずっと、『ここ』が燃えるように熱いんだ」


 ぎゅ、と自身の下腹部を掴み、少しでも興奮が表に出ないよう抑え込んでレレィシフォナは口にする。


 その熱力と、強い眼差しに晒され、ブララマンは息を呑む。


 隣のロロゥアシニなど、もはやその重圧に耐えられ無いのか、ただでさえ白い顔をさらに薄くさせ、小刻みに震えている。


 その様子を諦めたように眺めてレレィシフォナはしかし優しく微笑み、


「親父殿達ですらこれなんだ。他人だったら尚のことだよ。気ままに世界を回って、私に釣り合う男でも見つけるさ」


 そうやって、少し寂しげに嘯いた。


 死んでもらう、とはそのままの意味でもあるが、そうではない。

 貴族として既に名を連ねてしまっている以上、国には把握され、そして近しい者には悪魔と囁き混じりに認められているのだ。


 貴族の名を捨てる、とは正に現代において簡単なことではなく、死ぬこと以外にそれが認められることは余程のことがない限り、まず有り得ない。


 そうしてレレィシフォナは、目の前に鎮座する髪切り鋏を躊躇なく手に取った。


 常時では達人の剣すら通さない、どころか髪の1本でもあれば人の首をすぱりと落とせるほどのそれを、レレィシフォナは躊躇いなくその鋏で切り落としていく。


 鋏に込められた魔力と、その制御に蠢く魔導の流れに、ブララマンは目の前で起きる歴史的、また家族的に間違いなく悲劇のはずの出来事に思わずとも、


「……見事だ」


 感嘆の声を漏らす。


 そんな場違いな言葉に、レレィシフォナはようやっと弾けんばかりに顔を綻ばせ、


「娘が大事な髪を切って縁を切ろうとしてるのに、見事なりとはひどい親だなぁ」


 ころころと、喉を鳴らして笑うのであった。









「ところで母よ、ティアの様子はどうなんだ?」


 改めて、少しだけ和らいだ雰囲気の中、それに乗るように茶を口に含み、先程より幾分か短く、しかし綺麗に切りそろえられた髪を靡かせ、穏やかにレレィシフォナは訊ねる。


「……えぇ、元気なものよ。誰かに似て好奇心も強くて、ちょっと落ち着きがないのが難点ですけど」


 こちらも多少切り替えたのか、疲れを感じさせながらも優しく微笑み、ロロゥアシニは問うた彼女の妹を語る。


「最近ではずっと、ヘイリシュ様ヘイリシュ様って、恋する乙女のように口にしているわね」


 そのあどけない姿を思い浮かべ、くすと一つ息を漏らす。


 ティア、ラダトキィシヤは生まれてすぐ、一つの歳を離れた姉の強すぎる気に当てられ、生死の境を彷徨った経緯を持つ。

 それ故に、レレィシフォナは姉と宣言することも、ラダトキィシヤを可愛がることも、まして出会うことすらも自ら封じた。


 結果助かりはしたものの、立って歩けるようになるまで常に体が弱く、いっそレレィシフォナの悲劇に一役担うのではとも思わされた。

 しかしながら、そのおかげと言うべきか、体が出来上がる頃にはその弱さを全く感じさせず、むしろ姉の気を纏った影響か、強く似た魔力を幼い時分から馴染ませていた。


「あの子は私に似て可愛いからなぁ。下手にそれを振り撒いて色んな男を不幸にしないか、少し心配だよ」


 およそ11の女子が曰う言葉ではなかったが、不思議とその言葉は自然に受け入れられ、先程よりはるかに家族の会話を感じさせられた。


「私に似て、よ? シオン?」


 悪戯っ子のように母と呼ばれるその顔を端正なまま器用に解き、ロロゥアシニは娘の言葉を訂正する。




 そうしてやっと、11の歳月に見合わない、僅かな時間の邂逅を経て、彼らは家族のひと時を過ごすのであった。





 ────────────


「では娘よ、魔導の学びを歩んだその時をもってお前はただのレレィシフォナだ。そのことに相違ないな?」


 切られ、1つに束ねられた髪の房をしまい、ブララマンは「来年にはレレィシフォナの戸籍にバツの印をつける」と最後の確認をする。


「うむ、是非もない」


 しかしその重いはずの言葉にレレィシフォナはなんら気負うことなく端的に答える。


「そう悲しむな母よ。もしかしたら親子とは別の形で縁が芽生えることもあるかもしれないだろう?その時になってもまだそうやって泣きべそをかくつもりか?」


 そしてその様子に耐えられないロロゥアシニは、その目尻に大きく、今にも溢れんばかりの涙を浮かべながら両の手で顔を覆う。


 今日に至るまで散々に会話を重ね、親子の思い出も可能な限り叶え、これ以上如何ともし難いと思えるほどには義理を果たしたはずであるが。


 まるで駄々をこねる子供のように頭を振る姿に、レレィシフォナはどうにも絆されたのか、仕方ないとばかりに、


「……親父殿。これは可能性の話なのだが」


 出来ればあまり言いたくなかった、本人にとって今すぐ世界を歩まんとするその足を止めることになる(両親にとっては魅力的で歓迎すべき)提案をする。




 ────────────




「死した後に哀悼の意を持って学びの証を授与させる……か?」


 入学と同時にその命を散らした愛娘に対して、悲しみにくれる親の行い。その提案は、彼にとって思いもよらぬ、しかし確かにそれならば国も無下にはできないほど限りなく可能に近い方法であった。


「うむ。とりあえず死んだことにしておいて、このまま離れに置いておけばいい。14になって学びの証を貰えたなら、勝手に出て行くし、流れの魔導師として訪れることも可能だろう?」


 まるで簡単なことのように言うが、事はそう運ぶものでは無い。

 はずだが、


「確かに、何も持たぬレレィシフォナがいきなり高位貴族と出会えばすぐにその名が広まるが、研鑽所の出である証さえあれば違和感はない……か?」


 考え、実際にはそこまで悪くないように思える。


「理由なんて何でもいいだろう。ティアの魔導を高めるだとか、中央の研究に野良魔導師を召喚しただとか。それらしい理由なんていくらでもあるぞ」


 それに、と


「剣にしろ魔導にしろ、管轄は国ではなく研鑽所が担っているんだろう?そしてそこのトップは、絶対に個人の情報を流すようなことはしないよ」


 何故出会ったこともないはずの人物のそれを知っているのか、という疑問が無いではないが、なるほど確かに学びの元に地位を保証されれば、仮に名が知れてもどちらが脅かされることもない。


「……なるほど。それは、盲点であるな」


 とまれ、そういうことであると


「出来る出来ないは別として、試してみる価値はあるんじゃないか?」


 娘として、やはり親にはどうしても勝てないのだろうなと、レレィシフォナは口にする。


 そして席を立とうとして


「あぁ! シオン!」


 盛大に涙を流し、ドレスが、顔が、すっぽりと体に納めた娘がぐちゃぐちゃになるのも構わずに飛び込んだロロゥアシニの抱擁に包まれ、まんじりともせず時間が過ぎるのであった。


そうして結果、誰にも関わらず、ごく限られた者すらも常には近づかずに、ひっそりと、しかし本人としてはすこぶる楽しい鍛錬の日々を送れる、静かで穏やかな離れでの生活を獲得することとなった。








竜齢219年、レレィシフォナがヘイリシュと出会う、その僅か1年前のことである。










────────────



 ヘイリシュが屋敷を去って後、興奮醒めやらぬラダトキィシヤと賑やかな夕食を過ごし、寝屋に向かうその姿を見送った2人は、寝室で静かに腰を落ち着ける。


「……ヘイリシュ殿はシオンと出会ってしまったか」


 深く、深く沈み込み、ともすればそのまま椅子に埋もれてしまうのではと錯覚するほど、疲れきった体を預け、ブララマンは口を開く。


 当たり前ではあるが、過保護にすぎるこの2人が愛する娘を気にかけない訳もなく、当然のごとく監視の目は光らせていた(娘に対する、ではなく娘に近づく者に対する、である)。

 そしてあまりに唐突な、ヘイリシュが希望した個人行動。

 通常であれば例えどれだけ低い立場であろうとも、客人を放っておく貴族などいないと言うのに、では何故許しを出したのかと問えば、


「仕方ないでしょう。あの子が求めるならば、誰であれそれに抗うことなど出来ないのですから」


 娘がヘイリシュに興味を持ったから、に過ぎないのだ。

 でなければヘイリシュが気づくほどの視線など一切感じさせず、それこそ何が起きたか分からないままにその首元を掻き切るだけの圧倒的な技量と力を彼女は持っているのだから。

 そしてそれを、誰よりも両親は「知っていた」。


「しかしあれだけの力量と、による魔導……。彼ならば、とも思ったのだが」


 ヘイリシュがそれを見せた時、この程ブララマンが驚いたのは、それが知らぬものだからでは無かったのである。

 異常と称される、娘と同等の行いを、誰からも好かれる青年が人目を憚らずに見せたことにこそ、あの時彼は衝撃を受けていたのだ。そしてその方法が確立され、世界に広まるのであれば、娘の異常性は多少薄れるのではないかとの期待から、あれ程に興奮してしまったのだ。

 だからこそ、ヘイリシュの行動を認めた。

 娘と出会い、そしてもしかするならば人として触れ合えることが出来るかもしれないという希望をもって。


「確かに素晴らしい剣舞でしたね。もしやと思ったのですが……」


 結果として、ヘイリシュは彼女に触れることさえ叶わず、それどころか手慰みに作った人形を通してすら、手も足も出なかった。


「……少し、強くなりすぎではないか?」


 そう、強すぎる。

 生来からそのカリスマとも言えるほどに感じる熱量と、抑え込んでも尚溢れる魔力の波に慄いてはいたが、

 正面からぶつかった、一般的とは言えない騎士に対して、ただ人形の目を通して操るだけの『特殊ではあるものの基礎的な魔導』たった1つであしらってしまった。


 とりもなおさずそれはすなわちレレィシフォナ自身の、剣の技量がそれだけ高いということを示している。


 以前であれば、世が世なら兵を率いる女傑か、民を導く救世主になるのでは、という可能性もあった(と言うより、何とかして縁を切らぬよう、過去ブララマンはその方向にレレィシフォナの印象を修正しようと動き回っていた)。


 しかしながらその苛烈な性格も相まって、凡人では着いて回るどころか、相対するだけでどこかしら精神に異常を来すその姿に、結局はこの程の選択しか取れなかったのであるが。


 ただどちらにしろ、行き過ぎたカリスマは過去の歴史を詳らかにするに、大抵が悲惨な最期を迎えている。

 まぁ娘の場合それすら跳ね除け、一つの国どころか大陸を席巻してしまうのではと、シシハリットという肩書きを持つブララマンにさえ思わせるほどではあったが。

 とりもなおさずそれは、人魔共存の昨今に至るよりはるか昔、魔に連なる者たちの御旗として君臨し、人族と争いの歴史を紡いでいたかの魔王という存在に近しい。

 かようにブララマンは、レレィシフォナが害されることよりも、レレィシフォナが世界にとって害のある存在と認識されることこそを恐れていた。


 とまれ、それほどのカリスマとは言え、1年前の彼女はまだ人の範疇、それこそ天才の中の天才という程度の枠に収まっていたはずだ。



「そうでもないでしょう」


 しかしその、今感じる人の枠におよそ収まらないどころか、下手をすれば世界を片手取るほどの力に対する恐れなど、微塵も感じさせないような態度で、ロロゥアシニは夫の言葉と続く思考を否定する。


「考えてみればたった3つの歳で、平然と食事の最中に給仕をしていた者の喉をナイフで掻き切り、叫び声を上げたその者の口に腕を突き込み、いとも簡単に殺してしまう子ですよ?」


 初めは、誰もが声を失った。

 妹のために、と離れに住まいを1人移したレレィシフォナとの、中々取れない食事の時間。

 静かに、しかし穏やかに過ぎていた家族のひと時は、閃く銀線と、間欠泉のごとく吹き上がる血しぶきと、そして死の間際の慟哭によって容易く壊された。


 そして次に、阿鼻叫喚の地獄が現れた。

 悲鳴と、怒号と、そして何よりその全身を温める血を一身に浴びながらも、何一つ動揺を見せず面倒な仕事を押し付けられた平民の子供のようなつまらなそうな顔で、伸ばした腕で血の出処の喉を潰すレレィシフォナの姿に、誰かが叫んだ。


「悪魔だ」と。


 果たしてそれは呟きだったのかもしれない、もしかしたらそれを口にしたのはブララマンその人だったかもしれない。当時の状況を冷静になど分かりたくもないし、誰が口にしたなど調べようとは思わないが、ただ確かにその時その場所は


 レレィシフォナという悪魔に支配されていた。






 そうした中、ただ1人何事も無かったかのように佇むレレィシフォナの言った言葉は、今でも鮮明に思い出す。


 父、と一言呼んだ後に曰く、「こいつ敵」


 しばらく誰も理解できた者はいなかった、と断言出来る。

 舌足らずでありながらも明確に、端的に、と言うより端的に過ぎる言葉を飲み込むのに、そして何より未だ収まることの無い狂乱を静めるのに、かなりの時間を要したのは言うまでもない。


「調べてみたらあの使用人は貴族の青き血を信じていた者で、『普通ではない』レレィシフォナを害そうとしていた」


 事実すぐに分かったそれを、あの時あの場にいた者達に周知させ、更に口止めをするのに時間どころではなく笑えないほどの金銭も要したのはこれまた蛇足気味ではあるが致し方ないことだった。


 振り返り、ブララマンは妻の言葉に頷く。


「確かになぁ。剣も持たず、まだ学も修めずあれだけのことをいきなり仕出かすのだから、何が起こってもおかしくはないか」


 と、いよいよ麻痺している脳に苦笑するのだが。


「いいえ」


 ロロゥアシニは首を振る。


「おかしいのよ、やっぱり。貴方言ったわよね? ヘイリシュ君の無詠唱は中央の冒険者から学んだと」


 妻にとっての本題はこれからだと、


「シオンはどこで学んだの?誰に剣を習ったの?どうやってあの時『中央の研究』という言葉が出るほどの今の情勢を、────世界の中心を知ったの?」


 この言葉に、ブララマンは息を呑む。


 おかしいのだ。

 確かにいくら才があれど、習おうとした剣の指導者は早々に消えた。魔導の指導者も同様に消えた(どちらも当然のごとく物理的に)。

 であるならば、知らないはずなのだ。

 本も無く、平時では人が寄らないように施した住まいの中で、物を知ることなど出来ないはずなのだ。

 溢れ出た魔力が多少の影響を及ぼすことは過去あれど、唱えずに望んだ現象を起こすことなど、未だ『この世界』に広まっていないのだ。

 誰に聞いてもいないのに、あの人形の太刀筋は間違いなく、技術の粋を詰め込んでいた。

 どうやって足の運びを知った。

 どうやって的確な剣さばきを知った。


 幼い頃からの有り余る純粋な暴力、それこそ動物的かつ本能的なそればかりを目にし、彼らは今まで麻痺していたのだ。


 レレィシフォナという娘は、誰とも関わらずに無詠唱で魔導を顕現し、誰にも教わらずに随一の騎士を打ち倒す剣を持ち、誰からも知らされていない世界の中心の存在を、間違いなく我々よりはるかに知っている。


 言葉もなく、ただ唾を飲み込む夫の姿に目を細め、ロロゥアシニは彼女が初めて感じた違和感のきっかけを語る。


「あなたは覚えているかしら……。去年、あの子になんとか踏みとどまってもらおうとした時のこと」


 そうしてブララマンの反応を窺いつつ、


「あの子、『籠の鳥のように』と言ったのよ。あの時は素敵な言い回しだなんて考えたけれど……」


 言っていた。

 なんとか人目につかず、大人しく家に守られることはできないのかと言外にブララマンが問うた時、籠の鳥のように扱われれば済む話ではない、と。

 確かにその時、彼女は言っていたのだ。


「あんな例え話、普通はしないわよね?」


 そうなのだ。

『この世界』に鳥を籠で守り、部屋の中で飼う習慣はどこにも無い。


 そしてそういった、ある意味奇妙で、たまに難解で、または意味が伝わらない言い回しには、ある特徴があった。


「来訪者……」


 20年前の、ある日突然現れた、この世界でないどこかから来た、使命を帯びた者たち。

 世界の中心を作り上げ、そして今なお中央に位置するその都市で、急速にこの世界を押し上げようとする、人であって人でない者たち。それらが口にする、世界に無い、ものの例え。


 彼らを、『来訪者』と人は呼んだ。


「分からないけれど、ね」


 抱えていた悩みを溜息と共に、ロロゥアシニは吐き出す。


 この時彼女は、もう1つのきっかけについて口にしなかった。

 何故訪ねたことのないはずの、数ある学びを束ね、管理する研鑽所のトップを、レレィシフォナは知っていたのかということを。

 そして誰あろう、そのトップこそ、『来訪者』と呼ばれる人物に納まっていることを。

 口にしてしまえば、決定的な何かを見つけ、この手から、あの子が、レレィシフォナが、愛する娘が、


────離れていってしまうのではないか。




 静かな緊張感を含んだ空気がじっと流れる。


 時を刻む針の音だけが響く部屋の中、ブララマンは反芻するかのように先の発言を頭で整理する。








「────だが、娘だ」


 そうしてようやっと、時間にして寝る前に、と入れた茶がとうに冷めて香りが飛んでしまうほどのそれを有し、ロロゥアシニが敢えて伝えなかったことにも思い当たり、しかしそれでも、と重く口を開く。


 その答えに、求めていた答えに、緊張感を孕んだ空気が確かに霧散するのを感じ、ロロゥアシニは黙って頬を緩める。


「そうね。えぇ、そうよ。あの子が何を知り、何を成そうとしても、娘であることに変わりはないわ」


 どうであれ、彼女の親であろうとせんと


「だってあの子、あの時本当は黙って出て行く気満々だったのよ?」


 そしてそんな親だったからこそ、レレィシフォナはその意志を曲げてまで子であろうとしたのだと。


「あの子が貴方に話した提案、あれ多分もっとずっと前からその『やり方』を考えてたはずなのよ」


 だってあの場で言う利点など無いのだから

 だって彼女は息の詰まるこの屋敷から、この国から、さっさと出て行きたがっていたのだから


「あの場で貴方にちゃんと話したのは、あの子が私たちの娘であろうと思ってくれていたことに他ならないわ。そしてあの子が娘であろうとする限り、どこまで行っても私たちはあの子の親なのよ」


 くすくすと、あの時のレレィシフォナの、面倒くさそうでありながらも、母のために折れんとした顔を思い出しながらロロゥアシニは笑う。


「あの子は特別なのよ。どこまで行っても、誰かを巻き込んで目立ってしまう。それなら可能な限り、私たちの目が届く所にいて欲しいでしょう?」


 だからこそ、


「たかが1年であの子が強くなったのではなくて、私たちのためにその力をずっと隠していたのだとしたら」


 せめて


「ヘイリシュ君には、頑張って貰わないと、ね」


 何とも言わず、あの出会いが良き物になると予感させながら、ロロゥアシニは吐き出す。


 少しだけ家族の明るさを取り戻した部屋で、夫婦は穏やかな笑みで見つめ合った。






















「────しかしそうなると、ティアが可哀想だなぁ……」



 ただまぁ、彼らにとっての爆弾らしき物はまだまだ健在であるらしい。














────────────













 彼らは気づかない。

 決定的に、根本的に、どう足掻いても交わることのないそれに。


 ヘイリシュという騎士は、正しく騎士として己の力を磨いた。

 その根本にあるのは守るためであり、挫くためであり、本質はどこまで突き詰めても、他者に依存するそれであった。


 レレィシフォナという悪魔は、正しく悪魔として己の力を磨いた。

 その根本にあるのはただ殺すためであり、己が欲を満たすためであり、本質はどこまで突き詰めても、己にしか存在しないそれであった。


 彼らは交わらない。

 決定的に、根本的に、その在り方が違うことに気づけない。


 正しくレレィシフォナにとってヘイリシュは、敵にしかなれない存在だと言うことに。

 正しくヘイリシュにとってレレィシフォナは、脅威でしかない存在だと言うことに。


 気づかないまま、彼らは互いを求める。




────────




 シシハリットの本邸は、幸いなことに王都に存在している。

 と言うより、第2位までの貴族は国の政務に直接関わる頻度が多いため、揃って王都に住まいを移すことが許可されている。

 もちろん、変わり種で自身の領地に根差す者もいないではないが、大抵は高位貴族ほど、国の中心に近い場所に住する。


 対してボロボロの状態で帰路に着くヘイリシュはと言えば、王都にある騎士の学びの寮ではなく、贅沢にも同じくである商人街の一角に家を持ち、こじんまりとしながらも確かに値段を感じるそれに、こだわり抜いた調度品を配置した本人にとって渾身の城に向かっていた。


 考えるに、(未だ名前すら知らない)彼女の言葉は、確かに事実に違いなかった。

 切っても切れない、振っても当たらない、まるで物語に出てくる恨みを抱いた魂のように。

 ゆらゆらと、全ての剣がすり抜けるようであった。

 だとすれば無詠唱であろうと、目の前ならば剣よりはるかに遅いそれが、当たるはずもなく。


 そうして忸怩たる思いで帰宅したヘイリシュは、着替えや食事もそこそこに、その熱を持つ体を柔らかな寝具に横たえた。


 頭の中はすこぶる冷静でありながら、その目は獣のようにギラギラと輝き、何をするでもなく天井を見据える。

 冷静だったが、灯った熱は冷めない。

 打ち付けられた体が、見下された視線が、呆れたような言葉が。

 認めない。有り得ない。許さない。

 胸が、心が、命がそう叫ぶのだ。


 ヘイリシュは騎士たらんと努力し、正しく誰からもその姿を認められてはいたが、それでもやはり、この15の青年は。


 未だ夢やら希望やら、そして何より、負けん気だけは、子供のままに持っていた。


「……次は勝つ。絶対に」


 そう呟き、瞳を閉じるとすぐに。

 疲れきった体が休息を求めるのか、泥のように眠るのであった。







 ────────────





 日々の日課をこなし、学びの場に顔を出し、最低限の予定を終えたヘイリシュは、誰も寄らぬ唯一の、自身の家の裏にある小さな庭で、一心に剣を振っていた。


 本来であればすぐさま再戦、と行きたいところではあったが、悔しいかな。


「……勝てない」


 はっきりと、しっかりと、どうしようもなく切り分けられた、その立っている場所の違いに、彼は誰より正確に把握していた。

 現時点では、どう足掻いても触れることすら叶わない。


「こうじゃない、違う」


 もっと早く、もっと鋭く、的確に、大胆に、無慈悲に。


 その為に振るっていた剣先はしかし今、一つ空を切る度に止まり、振るう先を悩むかのように揺らしていた。


「目で見てからじゃ遅い……」


 何であれば、敵の助言に等しいそれを、ヘイリシュは素直に取り入れた。


「呼吸、だけじゃない。空気の揺れ、あと筋肉」


 一振りに全神経を集中させ、自身のそれであれば何が「起こる」のか、自らを把握しようとする。





 しばらく寝不足の日々が続き、そして学びの場ではかなりの頻度で多くなった独り言が、どうやら他者からは再三に渡る貴族との交渉に疲れ果てたように見え、

「天下のヘイリシュも貴族には勝てない」と噂されるほどとなっていた。


 そうして結果1週間と3日、実に13日ぶりにヘイリシュはかの敵を挫かんと、シシハリットの館に足を踏み入れるのであった。








 ────────────






 いざやゆかん、とばかりに気合いを込めたヘイリシュであったが、その僅か10分後には、13日ぶりの枯れた地面との逢瀬を果たしていた。


 そしてやはりと言うべきか、初めての時と同様に窓から覗いていた少女は、初めての時より数段と面白おかしく


「あっはっはっはっはっはっは!!! 『とったぁぶらげっ!』だって! ぶらげだって!!! いっひっひっひっひ!!! すっげえだせぇ!!!」


 ────爆笑していた。

 以前よりはるかに手応えを感じ、何合と打ち合い、そして初めて見つけた隙に、確信を持って一撃を入れようとして、そして人形から放たれた魔導の土くれにその顔面をぶち抜かれ、非常に格好よく決めようとしていた言葉を断たれ、非常に格好悪く地面を転がったという経緯である。


「ひぃーーー! ぶらげって!!! その顔でぶらげって!!! あっはっはっはっはっはっは!!!」


 うつ伏せに沈んだまま、気弱なエリーンのようにぷるぷると震えていたヘイリシュだが、いつまで経っても収まらないその不愉快な笑い声に、ガバリと体を起こし、


「ズルいでしょぉぉぉぉ!!! 何で! 魔導を! 使ってるんですか!!!」


 普段なりの言葉遣いをかなぐり捨てて、完全に自身よりも年下の少女にキレてかかった。


「いっひっひ……ん、ごほん。お前なぁ、……っくく、顔が凄いことになってるけどまぁいいや。魔導を使わないなんて一言も言ってないし、使っちゃダメとも言ってないだろう?」


 頭の弱い子を窘めるように、まるで「仕方ない子ね」だなんて言葉さえ聞こえてきそうな声で、笑いを堪えながら少女は言う。


「まぁちょっと予想よりも動きが良かったから、予定より早く使ってしまったのは事実だよ。悪かったな」


 それでも納得がいかないのか、ヘイリシュはムスッとした顔をそのまま変えない。


「……あとちょっとだったのに」


 どころかちょっと可哀想なくらいに子供じみた、不貞腐れた声で言う。


 あとちょっとで彼女の名前を知ることが出来たのに、と。


 何であればそれはしかし、初めの会話で、少女が遅ればせながら自己紹介をと口にしたのに、

 続く鍛錬で気付きを得て高揚している脳が寝不足と相まってちょっとおかしくなっていたヘイリシュの、「僕が勝ったら名前を教えてください」発言(この時彼は間違いなくめちゃくちゃ調子に乗っていた)によって潰えただけのことなのだが。


 そんなお馬鹿な様子をさらけ出すヘイリシュに、レレィシフォナたる少女は、


「レレィシフォナだ。ただのレレィシフォナだよ、私の名は」


 折れたというより面倒なのでさっさと口にしてしまえと、その名を告げる。


「レレィシフォナ様とお呼びよ。負け犬」


 それでも挑発するのを止めない当たり、お互いいい性格なのかもしれないが。















「まぁさっきのお詫びと言ってはなんだが」


 一転して機嫌の良くなったヘイリシュ、どうやら負け犬呼ばわりは気にならないほど浮かれているらしい、その顔を喜色に染めながら、レレィシフォナの名を口の中で何度も称える。


 そんな様子に呆れながら、レレィシフォナは言葉を続ける。


「せっかくだし、お前の魔導の駄目駄目っぷりから矯正していこうか」


 どうやらヘイリシュの無詠唱すら、彼女のお眼鏡には適わないらしいのだ。





 ────────────






「そもそも何でお前は無詠唱ごときを自慢するかのようにひけらかしたんだ?」


 レレィシフォナはまるで先生のように(当然のごとくヘイリシュがブララマンに魔導を見せたことを知っているのは割愛するが)、そう問いかける。


 そしてその問いはヘイリシュにとって予想外で、


「無詠唱は現代の最先端で、詠唱よりはるかに早い速度で展開できるから……です」


 自身が思い、また恐らく世間的な認知も間違ってはいない見解を述べる。


 しかしてその答えにレレィシフォナは一つ頷き、


「利点はそうだな、確かに早い。欠点は透明度の低下……お前らの言うところ、魔力伝導率が、詠唱より低くなる。これは強い魔導であればあるほど、だな。それでまぁ……もう面倒くさいからはっきり言うが、私の人形よりも早いお前の剣は、遅いはずのそれに届かなかったよな?」


 省略しすぎてほとんど要領を得ないのだが、実際細かく説明する気を無くしてしまったらしいレレィシフォナの端的な言葉に、


「ですが、第8位のように強力な魔導であればその効果は絶大かと」


 ヘイリシュは反論する。


「ほぼ半減するのにか?お前、剣を持ってるのに何で分かんないんだ?」


 心底不思議そうにその答えに疑問を唱えるレレィシフォナは、続けざま


「わざわざ遠く離れた所から絶大な威力でもって敵を殺し尽くす魔導を、目の前の、たった目に映る範囲の敵を殺すために、剣一つあれば出来ることを、無詠唱でもしかしたら殺せないかもしれない程に弱めてまで行使する理由ってなんだ?」


 核心をついた一言を告げる。


「それは、不意をつく、とか」


 当たり前のように、ヘイリシュにも剣で実現できるそれは、確かに


「意味ないだろ、それ。目の前にいるのに、魔導で不意をつかなきゃ行けない時点で、もう詰んでるよそれは」


 彼らならば、相手がそうであれば魔導が発現する前に潰せるのだ。


「実際それが分かってるから、お前は今日も魔導を使わなかったんだろう?」


 ヘイリシュにとって、あの時無理だと突き放されたことにムキになったという理由も多分にあったのだが、


「まぁ……そうですね」


 事実使っても勝てなかっただろう、と、たった10日余りの中で得た感覚が告げる。


「魔導も同じなんだよ。起こりがあって、顕現して、敵を打ち倒す。それを動きながら、同じようにこちらを狙って動く相手に確実に当てる」


 自らの手足と同じように、そして剣と同じように、


「要するに、魔導も所詮は手段でしかないんだよ。なのにお前らは剣と違って、魔導だけが自分とはどこか別の場所に存在する『特別』かのように扱うだろう。同じなんだよ。踏み込むと同時に斬るなら、避けると同時に魔導は既に顕現していないといけないんだ。神聖な儀式も、特別な供物も、悲痛なお祈りもいらないんだよ。呼吸をするのと、歩くのと、生きたそれと同じように使えないと意味が無いんだ」


 つまりは別段、


「だったら無詠唱じゃなくても、いつ顕現するか把握してるなら変わらないだろう」


 ということなのだ。















「そういう訳でな、とりあえずお前には、ボコボコにされながら、無様に逃げ回りながら、その全ての攻撃を第2位魔導で防げるようになるまで」


 話が終わってしばらく、納得出来たようなそうでないような、微妙とも取れる顔で考えているヘイリシュに笑いかけ、


「無詠唱と詠唱と、あとはまず魔力循環が足りない所からやっていこうか」


 そして魔力循環とはなんぞや、と答える間もなく、再起動した人形にしこたま殴られ、もはや涙すら流し始めたヘイリシュを眺め、口角を捻って上げながら指導する


「発現がバレバレだ! 相手もフェイントぐらいかける! 無詠唱ならもっとしっかり形を脳で描け! 紙っぺらより薄いぞ! あはは! 自分で出した泥に躓いてる! 馬鹿だ! 馬鹿がいる!」



 悪魔がそこにいた。










 それから2週間もの間、ヘイリシュはレレィシフォナのおもちゃとなるのだが、事実彼は元よりあった実力を、更に積み上げていくこととなる。








 



 ────────────




「んー、……まあまあ、及第点かなぁ」


 レレィシフォナは呟き、彼女の前で目を瞑り、瞑想するかのように静かに魔力をその身に巡らすヘイリシュをどことなく眺める。

 既に彼女は屋敷からその全身を飛び出し、ヘイリシュと同じ地面に足を着けている。

 とまれ、それほどには物理的に距離が近づきつつあった彼女は、まるで偉い指導者のように告げる。


「よし、やめ」


 そこで流れを止め、大きくヘイリシュは息を吐く。


「これ……ホントにキツい」


 何であればものの数分程度、外から何も知らずに見るに立っているだけだった彼の額には、大粒の汗が浮き出ていた。


 魔力の循環である。


「大分馴染んできたな。あとは動きに合わせながら、指の先、神経の根っこまで自然と重なるように実戦あるのみだな」


 と、そこでレレィシフォナはヘイリシュの隣に目を向け、


「お前も、もう止めていいぞ」


 既に声を聞く気力すらなく、足腰も立たず、顔を真っ青にさせながらも魔力を途切れさせなかった、勇敢なる小さな女の子供に告げる。


 事ここに至った経緯としては、レレィシフォナの多分な嗜好を含む、ヘイリシュをひたすらに痛めつける鍛錬をつけ始めて、時間にして1年余りのことであった。

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