第一話 嘘 1

 およそ一時間、乗り慣れない電車に揺られながらの通学にはもう慣れた。

 僕を乗せた電車は、高校の最寄り駅までの道のりを時間通りに走行している。

 しかし電車とは実に便利な公共交通機関だと、この歳になって実感させられた。


 何も十六歳になって初めて電車に乗った訳ではないけれど、僕の家庭の主な交通手段は父母の運転する車で、家族みなで電車に乗った試しは無く、電車の乗車経験を得た小学、中学の時分でさえ、利用するのが修学旅行などの特別な行事のみに限られていた事から、僕のこれまでの人生においての電車とは、決められた場所を決められた時間に決められた速度で走行する、只の背景的なものとしての感覚しか無かった。


 しかし、利用すればするほど、これほどまでに便利な交通機関は無いだろうと思い知らされる。 理由は色々あるけれど、やはり第一に目的駅へ時間通りに到着する。 これに尽きるだろう。

 その正確さを良い事に、今では始業時間の二十分前に目的駅へと着く電車を選んで乗車している。 駅から高校までは徒歩五分。 多少のんびり歩いても遅刻の気遣きづかいは無い。


 入学当初は慣れない早起きの所為せい億劫おっくうの毎日だったけれども、一週間を過ぎた頃には嫌でも体は順応していたものだから、先に述べた電車の利便性しかり、人間の順応性というものにもひどく感心させられた。


 決まった時間に目を覚まし、決まった時間に電車へ乗って、決まった時間に授業をこなし、決まった時間に帰宅する。 電車を利用するようになった事で僕の毎日にも電車のような正確性が身についていると知った時には覚えず失笑した。

 そうした日々のサイクルを早や一ヶ月こなしてきた僕の学校生活は順風そのものであり、今では学校に行く事が楽しみでさえもあるほどに、現在の生活は満ち足りたものだった。


 ふと、小説に向けていた視線を窓の外へやると、景色はすっかり住居区画。 年季の入った家屋かおくからモダンな家屋まで、様々な住宅が入り混じって立ち並んでいる。 この景色が見えたとなると、次の停車駅まではあと数分と掛からない。

 そろそろかと、僕は先程まで読んでいた小説のページしおりひもを挟んでからかばんの中にしまい込んだ。そうして鞄のチャックを閉め切ったと同時に、電車内にアナウンスが流れ始めた。


 それから電車の減速が始まったのを認めた僕は座席から立ち上がり、降り口からつり革三つ分ほど離れた場所に移動した。 移動はしたが、降りる駅はここではない。 僕の降りる駅はもう一つ先の駅だけれど、別に降りる駅を間違えた訳ではなく、明確な理由をってこの場所に移動したのだ。


 やがて停車した電車は、開いたドアから老若男女ろうにゃくなんにょの人々を分けへだてなく招き入れる。 ちょうど通勤通学時間ともあって、とりわけ学生の多いこの時間帯の混雑率は毎度この駅でピークを迎えているように思われる。 停車前までは多少余裕のあった僕の周辺も隙間無く人で埋め尽くされ、間もなく電車は発車した。


 身動きが取れないほどでもないけれど、無理に移動すると顰蹙ひんしゅくを買うぐらいの密度だ。 だから僕はつり革を握ったきり、その場で微動もしなかった。

 その代わり、先程僕の目の前に乗車してきた短髪の男子生徒と目を合わせ、口元で軽く笑みを浮かべた。 僕の無言のコミュニケーションに応答するよう、男子生徒も白い歯を見せながら豪快に破顔した。


「おはよう竜之介、今日も元気そうだね」

「おう、おはようさん。 そういうお前はいっつも眠そうやな優紀」

 馴染みに挨拶を交わしたのは、僕と同じ高校に通う友人、じん 竜之介りゅうのすけだった。


 高校一年生にして一九○センチ余りの長身は、幼少期から柔道で鍛え上げたという筋骨きんこつ隆々りゅうりゅう体躯たいくも助けて実際の数字より遥かに大きく見える。

 僕も彼と出会ったばかりのころは顔を合わせる度にその巨躯きょくと威圧感におののき、後退あとずさりしてしまうほどだった。


「早起きには慣れたけど眠たい事に変わりはないからね。 七時半起きの竜之介がうらやましいよ」


「やったらお前も地元の近い高校に行ったらよかったのに。 毎日わざわざこんな遠いトコまで通学とかようやるわ。 早起きなんか体に毒でええ事なんか一個もないやろ、俺がそんな生活しよったら三日でパタンやぞホンマ」


 流暢りゅうちょうな関西弁でまくし立ててくる竜之介は父の仕事の都合上、小学校を卒業するまで関西地方に住んでいたらしく、彼の現在居住している標準語の盛んな地方に移った今もなお、その口調は変わる事は無かったようだ。 それから僕は竜之介と閑談かんだんを始めた。

 こうして次の停車駅まで彼と他愛ない会話を交わすのが僕の最近の日課であり、楽しみでもあった。 僕が一駅前に席を立った理由はそこにある。


 それこそ、学校でなら休み時間ごとに会話は交わせるし、帰宅後でも電話なりSNSなりをつうじて語り合う事も出来る。 しかし、時間制限付の会話というものは理由こそ上手く説明出来ないけれど、いつにも増して盛り上がるものだ。

 制限時間が来てしまい『あぁ、もう少しはなしていたかったのに』という心持をいだく瞬間が、僕は好きでたまらない。


 そうして予定調和の如く流れた車内アナウンスは、今まさに盛り上がろうとしていた会話にはばかり無く水を差し、目的駅への到着を告げた。

 本日も例の余韻よいんを人知れず一人で味わいながら降車し、改札を抜けて竜之介と共に学校へとあゆみを進めた。 駅の出入り口より五、六歩足を進めた頃、彼はついと足を止めて、


「ここの桜も、もうみどり一色いっしょくやな」と、やや仰向きながら線路沿いに立ち並んでいる桜の木々を眺めてそう言った。

「そうだね」つられて僕も仰向いて、単簡に返した。


 一月ひとつき前まで淡紅色の花弁を枝一杯に咲かせていた光景も記憶に久しく、生い茂った若緑わかみどりの葉たちはすっかり皐月さつきの時節をいろどっている。

 時折風に吹かれて木々がざわつく様は生命を謳歌おうかしているようにも聴こえ、生命というくくりにおいては木も人間も大差は無いと思えてくる。 それから間もなく僕達はあゆみを再開した。


 僕の通う高校までの道のりは、最寄駅から東へほぼ直進の一本道である。

 午前八時を少し回った現在の時間帯には、電車通学の生徒達がまばらな列を成して当高校へと登校している姿がよく目立つ。 僕達も若干遅れ気味に参列し、冴え冴えしい五月の空気を感じながら高校までの道のりを歩んだ。

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