第2話 出会い
彼女との出会いは、突然だった。小学校4年の頃、9月に引っ越してきた川原ゆりは物静かで常に本を片手にしているような不思議な女子だった。明らかに遊び盛りの周りとは違う落ち着きを纏っており、しかしそれでも世渡り上手な気質も持ち合わせていた。大矢は、遠目に黒く大きなその瞳と艶やかな髪に見惚れていたのだが、転校生に蔓延る好奇心旺盛な女子たちが彼女を雲隠れする月のようにしていた。
初めて話したのは、彼女が転校してきてから二週間後、そろそろ無意味にたかる者はいなくなっていた頃だ。場所は図書館、そして、そこは大矢の秘密基地であり、その日以降は2人の秘密基地になった。
「ねぇ」
と先に話しかけたのは、彼女の方で、大矢は不意打ちのふわりとした柔軟剤の匂いと声に驚いた。見上げると、意外にもそこには話したことのない川原ゆいという転校生がいた。
「かわはら、さん?」
思わず腑抜けた声でする必要のない確認をする。
「うん、そうだよ。川原さんだよ。」
と彼女。川原さんって自分のことを川原さんって言うのね、とその時は本気でおかしな子だなと思ったのを覚えている。今思い返せば、女子と話慣れていなさそうな大矢への彼女なりの配慮だったのだろうと微笑ましく思える。
「あ、えぇ、あ、うん」
動揺しまくりだった。昨今、釘付けになってしまっていたあの瞳と髪が目の前にあるのだ。思ったより、まつげが長いんだなぁ、頬は少し赤く染まっている、可愛いなぁとか馬鹿正直に彼女を見ていると、川原ゆいは恥ずかしいそうに唇を甘噛みし、口を開く。
「ねぇ、何読んでるの?今持ってるやつ」
とにこりとして問い直す。そういえば、さっき彼女が話しかけたのはこれが要件だ。時間を無駄にしてしまったかなと、申し訳なくなり、大矢は何も言わずに右手に持っていた『鯨のソングに迫る』という分厚い本を両手で持ち直し、彼女に勢いよく見せる。見せつけるような勢いだったと思う。そして、今ドヤ顔になっていませんように。と、大矢は願うように思う。
「えっと、これ、鯨の本でね、ん、あのー」
やばい、鯨の本ということは日本人なら誰でも分かるだろ。小さく心で突っ込み、次に言うべき言葉を探す。しかし、こういう風に焦っているときほど見つからないものだと大矢は実は知っている。でも、それでも目の前にいる少女に何かまともな言葉を使って、この本を読んでいる理由を伝えたいのだ。
「えっと?鯨、好きなの?もしかして」
川原ゆいがぽかんとした顔から一転、少し興味ありげにこちらを見ている。
「そう、そうなんだ!」
頭では分かっているのに言葉にできない数学の証明の筋道が立ったときのような勢いで大矢は声を上げる。もちろん、この頃は数学など宇宙語でしかなかったが、再現するにはこれが最適なのだ。大矢は、つい嬉しくなる。
きっと満面の笑みだったろう。
「鯨は実は哺乳類で、人間も哺乳類で同じなんだ。生物学上、鯨と人間は同じしくみになってて、それで」
大矢は息を止めずに、一気に吐き出す。
「それで、」
今度はゆったりとした口調で続ける。
「鯨は歌を歌うんだ。人間みたいに、でもそれはもっと神秘的で壮大なものなんだ。ソングって言ってね、」
ついさっき読んだ、頭の良さそうな数字をあえて口にする。
「53ヘルツの高い音で会話をするの。それは、まるで」
まるで、
「宇宙の言葉みたいなんだ」
主人公みたいことを言ったなと思った。
そして、それと同時に、恥ずかしいことをもしかしたら言っているのかもしれないと思った。よく考えれば、彼女は何を読んでいるのか聞いただけで、次の質問でも、鯨が好きか聞いただけだ。YESかNOかで答えられる質問に対して、大した文字数で返してしまったと大矢は後悔する。大体、これってオタクっぽいよな。。と絶望的に思う。大矢自身に、〇〇オタクを語る人物への偏見はないのだが、若い女子ってこう言うのを嫌うらしいのだ。つまり、やっちまったのだ。はぁ、と出そうになるため息を喉仏あたりで止める。彼女の表情は、特段曇ってはいないが、理解不能といった感じだ。
「それって、」
きもいね。かな?とか本気で思い、自然と身構える。
「素敵だね」
ステキ?思わず、聞き返しそうになる。
その心の声を拾ったように彼女はこくりと頷く。
「綺麗」
今度ははっきりと「キレイ」と言う三文字が意味と一緒にスーッと入ってくる。瞬間、彼女は心の底からこう思っているのだろうと、何故か思う。
「あ、りがとう」
なぜ?と自分でも思いながら口にする。
でも、言わなければいけない気がしたのだ。
「どういたしまして」
ふふっと彼女は笑い、話を続ける。
「それってさ、私も好きかも。なんか自然や感じっていうか、マイナスイオンっていうかー?神秘的なの」
マイナスイオンとは、またこの少女は言葉のチョイスが面白い子だなと思う。しかし、その意味することは大矢にも理解できる。マイナスイオン、と小さく口に出し、くすりと笑う。すると、彼女の方もダムにせき止められていた可笑しさが込み上げてきたようで、笑い出す。気づけば、2人でお互いの顔を見ながら、笑い続けていた。
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