立春、そしてさようなら

磐座うみ

第1話 季節の戻った世界で

彼女はまるで春のような人だった。


桜のような淡いピンク色の頬を緩ませ、柔らかく微笑むその様がまるまる春のようだった。


彼女はまるで夏のような人だった。


汗が顳顬にだらだらと垂れていくその横顔も僕にとっては太陽のように眩しかった。


彼女はまるで秋のような人だった。

じわじわと広がっていく山の紅葉のように、僕の心に暖かさを教えてくれた。


でも、彼女は冬のようで、雪のようで、まるで畑に残ったまだ誰にも踏まれていない真っ白なままの雪のように、消えた。


四季のなくなったあの世界で、僕は、白兎のようなたった一人の少女から春も夏も秋も、冬までも教わってしまったのだ。


僕は、四季の戻ったこの世界で何が出来るのだろうか。


大矢がそんなことを考えている間にも、太陽はせかせかと今までの分を取り戻そうとするなのように刺さるような日光を発している。

こんな暑い日は、経験したことがない、と大矢は思い、いやこれが普通だったのかと思い直す。それでも、大矢の中では特段暑い日も寒い日も大雨の日もカラカラの日もないあの日常の方が、今の日常より、日常らしく思えるのだ。そして、せめて、この世界の住人たちもそう思ってくれと大矢は切に願う。


毎日の朝番組から聞こえる心のこもっていないはつらつとした「異常気象」という響きが頭から離れなくなる。何が異常で何が正常なのか、それをはかっているのは誰なのか。いや、気象庁か。でも、そうでもないような気がする。積み重ねられた日々がペンキの入ったバケツがひっくり返されたように、塗り替えられてもそれが異常なのか。

きっとそうじゃない、と大矢は思う。


少なくとも、あの頃は違かった。


彼女が生きていた頃、

世界が暑くなかった頃、寒くなかった頃、

あの頃は、それが正常で彼女が異常だったのだ。

大矢は真理にたどり着いたような達成感を一瞬感じたあと、すぐに別の感情が湧き立つのに気づく。


これは、怒りだ。


世界に対する、か。それとも不甲斐なかった自分に対する怒りなのかは分からない。数秒後、どちらもだということに気づく。彼女がこの世にいないという現実を受け止めさせようとする大衆たちが今も目の前で満員電車に揺られていることに苛ついている。

そして、この大衆たちにマシンガンを向ける勇気がない自分に苛ついている。

さっきまで急いで、この車両に駆け込もうとしていた自分は誰だったのか分からなくなるくらいに、ここにいては人でなしになるという別の恐れが生まれる。途端に吐き気がして、大矢は斜め40度上くらいにある電子パネルに写った路線図を見る。


次の下北沢まであと3分。


耐えられるろうか。そんなことに必死に頭を回転させていると、ふと、なんだかどうでもいいような気がした。そうか、この手があったのかと、悪戯っ子のような心持ちになる。


「おうぉぇ」

吐いた。

結構音を出してしまったかな、と大矢は真剣に反省し、見当違いなことを申し訳なく思っていた数秒前の自分に対して苦笑する。

そして、あ、今の変態みたいに見えてたらちょっとまずいなと思う。


ねちょりと音のしそうな薄黄色の胃液は、丁度前にいたOLらしき二十代後半の女にかかっている。彼女はぎゅうぎゅう詰になった満員電車の中で周りのサラリーマンたちを押し潰すように回転し、こちらを睨んでいる。

もちろん、文句を言っている。どうやら、この女のスーツ、新調したばかりだったようだ。大矢は心底申し訳ないと思いつつ、女の声は左から右へと通り過ぎ、古いスーツならいいのかよという違和感だけキャッチする。

そんな大矢の心情など気にした様子ももちろんなく、女は大きく息を吸い、

「この人痴漢ですっ!!」

と叫んだ。うわっ、と思わずこえにだしてしまった。

すると、女は二酸化炭素たっぷりのため息をわざとらしく吐く。あんたねぇ、と今にもとっかかってきそうな表情でこちらを見ている。


下北沢ー、下北沢ーというロボットのようなアナウンスが聞こえる。


やっと、だ。女は未だ蔑むような視線を向けているが、そんなことは大矢にはどうでもよかった。このむさ苦しい空間から出られることの方がよっぽど嬉しく、おそらくこの後連れて行かれる駅員室での尋問など気にもならなかった。むしろ、自分の口でついに断罪が出来るような、そんな清々しささえ感じている。

パッと、爽やかな笑顔笑顔を浮かべ、嘔吐物まみれのスーツを着た男の画像がよぎる。


「この変態!!」

平手打ち。これは痛いな、と大矢は唯一この嘔吐に対する後悔を見つける。


下北沢には、なんとなくオールドレンズ越しのように懐かしい雰囲気を帯びていた。

そして、大矢は、カステラの底紙を剥がすように、彼女との思い出を丁寧に再生し始める。


あれは、小学生4年の頃、遠いようで近い、まだ狂っていた世界でのことだ。

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