ましろの日々を紡いでく
磐見
第1話
「……あ。桜だ」
「それ桜じゃないよ、ハクモクレンっていうの」
すかさず口を挟んだわたしを見て、春孝くんはむっとした表情になった。彼の機嫌を損ねたわけじゃないのはわかっている。これは春孝くんの「納得」で、知らなかったことを恥じている表情なのだ。知り合って間もない頃は、鋭い目がわたしを見るたびにぎくりとして怯えたものだけれど、今ではすっかり慣れてしまった。
「緒璃子は花に詳しいな」
「好きなの。植物図鑑とか見るの、楽しくて」
ハクモクレン、ハクモクレン。馴染みのない名前を何度か繰り返して呼ぶ彼の声はすこしだけ拙くてあどけない。子どもが歌う、ちょっと音痴な童謡みたいだ。微笑ましくて自然と緩んでしまう口元を見られないようにしながら、春の陽気に照らされる街路を行く。
今月に入ってからはずいぶん日差しが暖かくなって、すれ違う人たちの顔も薄手のコートも、わたしの目にはいっそう明るく見える。自然が芽生える様子だけでなく、普段の生活の景色だって冬よりも柔らかに彩られている気がするから、わたしは春がとても好きだ。ついつい足取りが軽くなる。いつもは春孝くんがわたしの歩く速さに合わせてくれるけれど、最近ではわたしのほうが意識して春孝くんと足並みを揃えるようにしている。
そうだ、置いて行かないように。思い出してふと隣を見ると、春孝くんの姿が見えない。速く歩きすぎたのかなと振り返ってみれば、彼の足が、あのハクモクレンの木の前を通り過ぎたあたりで止まっていた。慌てて駆け寄ると、春孝くんは首をかしげて、細くもしなやかに伸びたハクモクレンの枝を指差す。
「不思議だと思ったんだ。この木には葉がついてない」
「え? ……そういえば、たしかに」
彼は聞き上手で、おしゃべりなわたしの話をいつでも、深く頷いて真剣に聞いてくれるけれど、自分のことはあまり話さない。聞く方が好きなのだというから、わたしは気楽に自分の雑談を持ち込むけれど……たまにこうして、彼がひとり考えたことをこぼしてくれるのは、とても嬉しいのだ。
思いつつ見れば、深い焦げ茶色の枝には、空を仰いで咲いている白い花だけ。緑色の葉はまだどこにも見当たらない。まるで寝坊しているよう、あるいは――。
「春が楽しみで、花の方が葉っぱより先に出てきちゃったのかもね」
なーんて。きっと本当は、そういう風にして花が先に咲く種類の木なのだろう。だから冗談のつもりで、最後には肩を竦めてみたのだけれど、春孝くんはそうかと呟いて「納得」の眼差しでわたしを見る。彼はしばしば、たわむれごとを、とても誠実というか――真面目に受け取るのだ。すっかり頭を使わずに言ってみただけのわたしはちょっと照れてしまう。彼のそんなところも可愛らしいのだけれど。
冗談だよと言うより早く、春孝くんが僅かに口元を和らげた。「緒璃子みたいだ」
「わたし? ハクモクレンが、わたしみたいなの?」
「春が好きで、楽しくて一足先に歩いて行ってしまうようなところが、特に」
「……気をつけます」
まさに、さっきのわたしの行動そのものだ。綺麗な花に例えてもらう嬉しさよりも恥ずかしさが勝って、顔から火が出る思いでそっと木の枝から目を逸らす。もちろん離れませんといった風に春孝くんへ距離を詰めると、彼は今度はわたしに向かって、首を斜めに傾けて瞬いた。
「今のは、冗談のつもりだった」
「……えっ?」
「その、冷やかしたのではなくて――ハクモクレンのそういうところは、緒璃子みたいで可愛らしいと思った。しかし直接言うのは、なんだ、ええと……緒璃子は褒めると謙遜してしまうから」
説明する声がどんどん小さくなってゆくのを聴くに、冗談にしたわけは、それだけじゃないのだろう。いや、大きな理由は他にあるに違いない。だって、わたしに可愛いと言葉を紡いでから、きみの顔はたちまち真っ赤になってしまった。触れたらわたしの頬よりも熱いかもしれない。
誠実で、真面目で、けれど自分の気持ちを表すのが苦手なきみが、こんなに赤くなりながらもわたしに思いを告げてくれている。つられて照れるやら嬉しいやらで、わたしはすっかり取り乱して、「ありがとう」と絞りだした声も上ずってしまった。
なんだか気まずい空気を打破しようと、わたしは先に歩き出して――気をつけますなんて言ったばかりなのに早足になってしまうのを止められずにいると、後ろから春孝くんの追ってくる気配がした。無防備に彷徨わせていた手を握られる。ほかほかとあたたかい彼の右手に、同じように熱を持った左手を寄り添わせる。
「俺は置いてゆかれたりはしないからな」
「……そうだね。一緒に歩こうね」
きっとこれから、この季節が来るたびに、花の咲いたハクモクレンの木を見るたびに――わたしは今日を回想して、また顔を火照らせる。……でも、これも幸せなことよと思い直す。いとおしい彼と一緒に過ごした思い出が増えて、いつもの日々が彩られてゆく。春の日和のように、あたたかく柔らかく。
今日の彼の言葉が、赤い顔が、何度も蘇れば蘇るほどに。未来のわたしはまた、春が好きになってゆくのだ。
ましろの日々を紡いでく 磐見 @Hitoha_soramitsu
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