4 調和と不和
部屋に戻ると、ノートパソコンがカントクおよび黒川のもとに移っており、オノディさんとヤギさんは、きわめて真剣な面持ちでその二人の様子をうかがっていた。
誰も一言も口をきかないので、僕も無言のまま、もとの座布団に腰をおろす。
「ふーん、なるほど!」と黒川が大きな声を上げたのは、それから約三分ほど後のことだった。
「なかなかいいんじゃないですか? まだ場面ごとのつなぎがギクシャクしてるけど、それはこれから調整するんですよね?」
「もちろんさ! それはバラバラに撮影した映像のOKテイクを順番通りに並べ直して連続再生してるだけだから、切ったり貼ったりはこれからだよ!」
「それなら、すごく期待できそうですね! ……なんであんなにNGが多かったんだろうって疑問に思ってたんですけど、さては、アングルを試行錯誤してたんですね?」
「バレたか……何せ撮影は素人なもんで。みんなには苦労かけちゃったねぇ」
申し訳なさそうに頭をかくオノディさんに、黒川はにっこりと笑いかける。
「全然アリだと思います! そのおかげで、すごく質が高くなりそうだし……って、あたしも素人なのに、めちゃくちゃエラそうですね。ごめんなさい。でもあたし、けっこう映画とか好きだから。正直、もっと素人くさい映像を想像しちゃってました!」
「おぉ、なんだか心強いなぁ! ……ああ、ゼンくん。ゼンくんもぜひ感想を聞かせてよ!」
「はあ。了解しました」
僕はおとなしくノートパソコンを受け取ったが、カントクがむっつりと黙りこくっているのが、なんだか気になってしかたがなかった。
そんな僕の心配など知るよしもない黒川が、すかさず僕の隣りに戻ってきて、横からモニターをのぞきこんでくる。
「ゼンくん、パソコンわかんないんでしょ? この三角のとこを押すと、再生だよ!」
「……それぐらい、わかってるよ」
奇妙なかたちに結いあげた髪が僕の鼻先にまでせまってきて、甘い花みたいな香りをふわりと漂わせた。
香水だかシャンプーの香りだか知らないが、これはけっこう落ち着かない。
「あ、そういえばゼンくんは、あたしが撮られてる間は着替えでいなかったんだよね! うわぁ、ちょっと恥ずかしいなぁ」
そんな黒川の言葉を聞きながら、僕は再生ボタンをクリックした。
いささかならず唐突に、黒川が空き地を歩いている場面が映った。
うららかな陽射しに目を細めながら、実に心地良さそうに――ダウン・ジャケットを脱がされたせいで、春先の情景に見えなくもない。
その後は、やはり唐突な感じで『戦闘員アブラム』が出現し、あわやというところで、『五十嵐道』が登場。黒川を救け、コミカルかつお粗末な格闘の末、『ケムゲノム』が出現し――そして、『五十嵐道』が『イツカイザー』に変身する。
「……今日はちょっと、アクション・シーンが荒かったよな」
と、ふいにカントクがぽつりとつぶやいた。
「映像としては申し分ない。ただ、そのことだけが、ちょっと気になった」
僕が思わず顔を上げようとすると、たちまち黒川に肩を小突かれた。
「ちゃんと観なよ。流れが大事なんだから。……カントクさんも、批評は後で!」
ひとり娘の先輩であるという少女に一喝されたカントクがどんな顔をしていたのか、確認することはできなかった。
画面上では、『イツカイザー』と『ケムゲノム』が攻防を繰り広げている。
僕のアクションは、荒い――のだろうか?
そういえば、金子さんもそんなようなことを言っていた。ヤケクソっぽいだとか何だとか。
しかしこのときは、ただがむしゃらに『イツカイザー』を演じており、ふだんと違うことをやった記憶もない。
それに、だいたい僕は自分の演技を映像として観るのは初めてだったので、ふだんとの違いなどわかるわけもなかった。
わかったのは、いささかならず気恥ずかしい変身シーンを生真面目な顔で演じられるトモハルの役者根性と、それに反比例したアクション・シーンの拙さ。それに、完全な素人のくせに、黒川はずいぶん堂々と芝居ができるんだな、ということぐらいだった。
「……どうだい?」
ネズミのように口をすぼめながら、緊張した顔つきでオノディさんが呼びかけてくる。
「うーん……僕にはちょっと、よくわかりません。アクション・シーンの音声とかは、後からつけ加えるんですよね?」
「そりゃあそうさ。舞台で使ってる音声をそのまま重ねようと思ってるんだけど」
「そうですか。……すみません。これだけ観ても、僕にはちょっと完成図が想像できないですね。ただ、自分や金子さんの演技を映像で観るのは新鮮だなって思えたぐらいです」
「えー? ゼンくん、ちょっと妄想力が足りないんじゃない? あたしにはバッチリ完成図が思い描けるけど?」
非難がましく黒川に言われたが、それが正直な感想なのだから、しかたがない。僕には本当に、バラバラに撮った映像をただ並べただけのようにしか思えなかった。
「それよりも……僕の演技は、荒かったですか?」
「ん。自覚してないのか? 必死なのはいつもの通りだが、何やら暴れたくて暴れてるように見えたぞ?」
そんな風にのたまうカントクに視線を向けられて、オノディさんも困ったように頭をかく。
「そうですね。ボクはほとんどレンズごしだったんで、そのせいで印象が違うのかなと思ったけど。確かに、荒いかもしれませんね」
「……スマートさがない。まるで道端のケンカみたいだ」
ヤギさんも、ひさかたぶりに口を開く。
不満の声をあげたのは、黒川だ。
「そうですかぁ? あたしは迫力があっていいなぁと思いましたけど……なんか、ホントにすごく強そうだなぁって」
「うむ。さっきも言ったが、広告映像としては、それほど問題じゃあない。ただ、舞台の演技までこんな調子でやられちゃマズいからな」
「雰囲気が殺伐としちゃいますからねぇ」
「……あくまで『イツカイザー』は子どものための作品だということを忘れてもらっては困る」
出た。ひさびさの三重奏だ。
しかし、無意識下の行動とはいえ、その原因に思い当たるフシはありすぎるぐらいあったので、僕としても「すみません」と謝るしかない。
「この前の稽古では、まあそれなりに成長が見られたからな。あの路線をキープしてもらわんと」
「もうちょっと古今の作品を観て勉強してもらったほうがいいのかなぁ」
「……単に、ムラがあるんだろう」
三日前も今日もカントクが『キャプテン・アブラム』として参加していたから、この三人がかりのバッシングも十日ぶりだ。なつかしくてちょっと微笑ましい気分にならなくもないが――そんな悠長なことも言っていられない。
僕はもう一度謝ろうとしたが、その前に、また黒川が割って入ってきた。
「ずいぶんスパルタなんですね? あたし的には、トモハルさんのアクション・シーンをもっとどうにかしたほうがいいと思うんですけど!」
「……トモハルか。あれはあれで、いちおう成長してるんだよ」
「そうですね。最初の頃と比べたら、格段に良くなってる」
「……彼は、まあ、あんなもんだろう」
これにはちょっと、黒川のみならず、僕も驚いてしまった。
何回見ても、僕がトモハルに劣っているとは、さすがに思えないのだが……
「えー? なんか納得いかない! それって、不公平じゃないですかぁ? トモハルさんはアレで良くて、ゼンくんはコレじゃ良くないっていう、明確な根拠を示してください!」
「明確な根拠と言われてもな……そもそも、『五十嵐道』と『イツカイザー』のアクション・シーンを同列にあつかうのが、間違っとる」
いくぶん黒川の勢いに押される格好で、カントクはそう言った。
「そりゃあもちろん、アクション・シーンも達者にこなせるにこしたことはないが、普通の演技もできて、アクションもこなせる素人俳優なんて、五街道中を探したって見つかりっこないだろう?」
「そうそう。俳優のタマゴだけあって、普通の演技は人並み以上なんだから」
「……天は二物を与えず」
僕は、この三人のフォーメーションが僕以外の人間に向けられるのを、初めて目の当たりにすることになった。
しかし、黒川はひるまない。
「それとこれとは話が別です! 結果的にレベルの高いほうがレベルの低いほうより厳しく非難されるなんて、見ていて気持ちのいいもんじゃありません! えこひいきに見えますよ? ゼンくんがスネちゃったら、どうするつもりなんですか?」
「おい、黒川……」
「黒川って呼ばない!」
不穏に光る大きな瞳が、今度は僕のほうにまで向けられる。まるで、全身の毛を逆立てたネコみたいだ。
禁煙パイプを上下させながら、カントクもちょっと本腰を入れた様子で身を乗りだしてくる。
「よし。それなら逆に聞かせてもらおうか。ゼンくん。キミは自分の演技を自己評価で何点ぐらいだと思っとるんだ?」
「ええ? 何ですか、突然? そんなの、考えたこともなかったですけど……まあ、百点満点で十点ぐらいじゃないですか?」
僕が答えると、かたわらの黒川がぎょっとしたように振り返った。
この前の稽古日で、何か手応えを感じたのは確かだが。感覚としては、まあ一割ぐらいの割合で納得のいく動きができることもあるな……という感じだった。だったら、十点ぐらいが相応ではなかろうか。
「おお、それはなかなかシビアだな! 俺だって、二十点ぐらいはつけてやってたぞ?」
ガハハとカントクは愉快そうに笑う。
「その十点だか二十点だかを、俺は百点に引きあげたいんだ。……でないと、『桜の戦士イツカイザー』は、納得のいく作品に仕上がらないからなぁ」
「でも……」
「いっぽう、トモハルは七十点か八十点だ。この意味が、わかるかな? ……ゼンくんがトモハルに劣っていると言っているわけじゃない。トモハルには、あと二十点か三十点ぶんぐらいののびしろしかないだろうなと踏んでいるんだ」
「……彼が十割の力を出しきっても、我々を本当の意味で満足させることはできないだろうけどな」
オノディさんをすっとばして、ヤギさんが低くそうつけくわえた。
そのいつも不機嫌そうな三白眼は、黒川ではなく僕を見ている。
「さらに言うなら、トモハルくんは我々が何を言ったって聞く耳を持ってくれないんだ。稽古初日にカントクがアドヴァイスをしたら、すっかりふてくされてしまって、『やっぱりやめようかなぁ』とか、ぼやいてましたもんね」
困ったように笑いながら、オノディさんはそう言った。
「でも、それが普通だろう? だって、心の奥底から特撮ヒーローを大好きで、理想の作品を作りあげたいと思っているのは、ボクとカントクとヤギさんとサクラさんだけなんだから。トモハルくんや田代くんや野々宮くんにまで、同じ情熱をもて! なんて強制はできない。……こんな四人がこんな近所に住んでるってだけで奇跡みたいな幸運だったんだから、それ以上のものを望んだりしたら、バチが当たるよ!」
「うむ。唯一、金子くんだけは持ち前の技術と才能だけで、我々の要求に過不足なく応えてくれたがな。……そして、ゼンくんもまた然りだ」
カントクのぎょろりとした目が、僕に強い視線を送ってくる。
「ゼンくんも、金子くんや他のメンバーと同様に、特撮ヒーローなんざには大した思い入れもないんだろうが……それでも、負けず嫌いなのか何なのか、我々の無茶な要求にしっかり応えようとしてくれとる」
「叩き甲斐があるから、ついつい叩いちゃうんですよねぇ」
「……まだまだ理想にはほど遠いがな」
僕は、思わず苦笑してしまった。
けっきょく、ほめられてるんだか、けなされてるんだか、よくわからない。
「……そうですか。何となくですけど、わかりました」
しばらく黙りこくっていた黒川が、おもむろにうなずいた。
「ごめんなさい。たいして深くも関わっていない小娘、があれこれ文句ばかり言っちゃって。……それじゃあ、あたしからも、ひとつ提案していいですか?」
「ん。何だね?」
「えーとですね、今度みんなが集まってこの前みたいに通し稽古をする機会があったら、それを最初から最後まで録画して、ゼンくんに観せてあげると良いと思います。ゼンくん、全体像を想像したりするのが苦手みたいだから、トモハルさんのアクション・シーンと自分のアクション・シーンがどういう流れでつながってるのか、うまく把握できてないみたいですよ」
「ほう。そうなのかね?」
「ええ、まあ……序盤の『アブラム』戦はコミカルで、『ケムゲノム』戦はシリアスで、そのギャップが面白いって黒川は言うんですけど……そうなんですか?」
「ああ、まあ結果論だがな。田代たちにシリアスなアクション・シーンを完璧にこなせ、なんてのは無理な注文だし。かといって、金子くんやゼンくんにコミカル路線に歩み寄ってもらうなんてのは論外だしな。……しかし、そいつを考えついたのはここ最近だぞ? あやめくん、キミの観察眼もたいしたものだな」
「えへへ」
黒川は照れくさそうに笑い、オノディさんは、ポンと手を打つ。
「そういえば、この前の体育館で、通し稽古を試し撮りしたんだった。必要だったらDVDに焼いてあげるけど、どうする、ゼンくん?」
「あ、それなら是非、いただきたいです」
「うんうん。言われてみれば、自分の演技を客観的に鑑賞するってのは有意義だよね。あやめちゃんには、色々と気づかされるなぁ」
オノディさんの言葉に、黒川はますます照れくさそうな顔をする。
「なに言ってるんですか! しょせん小娘のたわごとですよぉ。……あ、でも、思いつきついでに、もうひとついいですか?」
「うん。何かな?」
「えーっとですね、ずっと前に聞いた話なんで記憶も曖昧なんですけど。たしか、文化祭の巡業ではもっときちんとしたストーリーものの舞台にしたいって言ってましたよね? あれって、決定事項なんですか?」
「うん。そのつもりだよ。まだまだ下準備の段階だけどね」
「そうですか。でも、きちんとしたお芝居って大変じゃないですか? 素人じゃないのはトモハルさんだけなわけだし、週に一回の稽古ですら、こんなに集まりが悪いのに。たとえ半年がかりでも、お客さんにお披露目できるようなクオリティを目指せますかねぇ?」
いったい何を言いだすつもりなのだと、僕のほうがハラハラしてしまった。
上機嫌だったカントクはまた難しい顔になってしまい、オノディさんは、ちょっと悲しげ。ヤギさんは……うわあ、死神みたいな目つきになっていらっしゃる。
そんな三対の視線をあびながら、黒川はにこにこと語り続ける。
「そんでもって、そんな大真面目なヒーローのお芝居なんて、どれぐらいの需要があるのかなって。だって、文化祭でしょう? 高校だろうと大学だろうと、お客さんの大半は、特撮ヒーローなんかには関心のない若者ばかりなんだし。親子連れのお客さんにターゲットを絞るなら、今お稽古してる普通のヒーローショーのほうが、よっぽど受けもいいんじゃないですか?」
「それはそうかもしれないけれど……でも、ボクたちとしては、ボクたちが理想とする作品を完成させたいんだよ。普通のヒーローショーだけじゃあ、入念に作りこんだ設定を活かしきれないし、それだったら、そもそも新しい怪人を作り続ける甲斐もないし……」
「だったらそれは、今日やったみたいに映像作品にしちゃえばいいんじゃないですか?」
黒川はあっさりと言い、オノディさんは目を丸くした。
「……映像作品?」
「そうですよ。舞台だと一発勝負だから、それに向けての稽古が大変になっちゃうけど、映像作品だったら、好きなだけ撮り直しもできるじゃないですか。それに、爆発シーンとか効果音とかも入れ放題だし……そもそも特撮って、特殊撮影の略なんでしょう? 撮影してなんぼの世界なんじゃないですか? 文化祭のお芝居だと、花火ひとつ使うのだって許可を取るのが大変だと思いますよ?」
「…………」
「それに、マーケティングって部分でも……文化祭に足を運ぶような人たちより、お家でパソコンの前に座ってる人たちのほうが、狙い目なんじゃないですか? 今回みたいな予告動画を動画サイトに掲載して、ホームページで本編を有料配布するとか。ヒーローショーとシリアスなお芝居はきっちり線引きしちゃって、それぞれのニーズに合わせたやり口を模索したほうが……うきゃあっ!」
黒い影が、黒川に襲いかかった。
いや、石像のように座りこんでいたヤギさんが、常にはない俊敏さで黒川の前に飛びだして、そのほっそりとした指先をわしづかみしたのだ。
「……目から鱗だ」
「ええ? いやあ、あのお、何ですかあ?」
黒川はおびえたウサギのように視線をさまよわせたが、もちろん僕たちのほうこそが呆気に取られてしまっていた。
黒川の指先を両手で握りしめながら、ヤギさんは火のような眼光を走らせる。
「……カントク。オノディくん。私は彼女の意見に、全面的に賛同する。特撮とは特殊撮影の略……どうしてそんな真理を見過ごしてしまっていたのだろう。私は自分の不明に恥じ入るばかりだ」
「ちょ、ちょっと、ヤギさん?」
「……その方法論ならば、すべての怪人に魂を吹きこむこともできる。実際のところ、私の構想したストーリーを現実世界で再現させることなど不可能だとあきらめていた部分も多かったのだが……舞台ではなく映像作品であるならば、何も不可能なことはない!」
ヤギさんは、連続殺人鬼のように恐ろしい顔つきになってしまっていた。
そんなヤギさんの横顔を見つめながら、黒川はようやく笑顔を取りもどす。
「さっきの動画も、すごく完成度が高かったですからね。それであたしも思いついたんです。最近は、音楽や映像作品なんかでも、動画サイトから火がつくことが多いんですよ。だから、これだけみなさんが一生懸命に取りくんでる作品だったら……けっこう、話題になるんじゃないですかね? 特撮ヒーローとかよくわかんないあたしですら、こうやって感心してるぐらいなんですから」
「……もっと早く、君と語り合うべきだった」
一転して静かな声で言い、ヤギさんがそっと黒川の手を解放する。
カントクは「うむ」と力強くうなずき、オノディさんは「あはは」と笑った。
「本当に、目から鱗の一言に尽きますなあ。あやめちゃん、良かったら、ディレクターにでも就任してくれない?」
「オーバーですよぉ。思いつきを口にしただけじゃないですかぁ」
「その思いつきが、ボクたちには得難いんだよ! ボクたちは、何でもかんでも特撮ヒーローに対する情熱と思い入れだけで解決しちゃおうとする傾向が強いからね。うーん、本当に脱帽だよ!」
「しかしまあ、これは決定だな。サクラくんにも異存はあるまい。……となると、『マイマイゲノム』ではなく『ケムゲノム』の新しい脚本を完成させるのが最優先になるか」
「……大事ない。構想はすでに頭にあるのだから」
ふつふつと、たぎるような熱情が、室内の温度を二度ばかり上昇させているかのようだった。
僕は小さく息をつき、至極満足げな黒川の顔を盗み見る。
「黒川。お前って、すごいんだな」
とたんに黒川は、険悪な顔つきになって僕を振り返った。
「……あのねえ。今日だけでいったい何回おんなじことを言わせる気? 苗字じゃなく、あやめって呼んでってば!」
「だから、そんないきなり名前を呼び捨てになんかできないって。……あ、それじゃあ、あやめさんって呼んでやろうか?」
「うわぁ! 最悪! 義理の親父を思い出す!」
本気で怒ったように言い、いきなり座ったままキックを飛ばしてくる。
ミニスカートなんだから、それはやめろ。
「あたしだって、『麻生先輩』とか『ルリちゃんのお父さん』って言いそうになるのをこらえて、サクラさん、カントクさんって呼んでるんだから! 郷に入っては郷に従いなさい! 苗字もさん付けもキミもオマエも全部禁止!」
「そうだな。せっかくの同い年なんだから、仲良くやってくれ」
はなはだしく無責任なことを言いながら、カントクが愉快そうに笑いだす。
オノディさんも同じように笑い、ヤギさんでさえも、そんなに不機嫌そうな顔はしていない。
どうやら黒川は、初日のわずか数時間で、この異質なワールドにすっかり溶け込んでしまったようだった。
◇
その後はオノディさん宅で夜食の宅配ピザをいただいてしまい、予告動画以外のよもやま話にも花を咲かせ、けっきょく帰路についたのは午後の十一時近くになってからだった。
年長者三人は明日が日曜ということもあって宿泊も辞さない、というかまえであったので、これでも何とか早々に戦線離脱できたほうなのだ。
「あー、何だか楽しかったなぁ! ひさびさに休日を満喫できた気がするよ!」
暗く肌寒い夜道を歩きながら、黒川が満足そうな声をあげる。
さすがにこの時間では一人で帰らせるわけにもいかないので、僕も自転車を押しながら黒川の自宅まで同伴することになってしまった。
「ゼンくんは、しょっちゅうオノディさんの部屋に集まってるの?」
「しょっちゅうってわけじゃないけど……多くて、週に三、四回かな」
「十分、しょっちゅうだよ! いいなぁ。こういうのを期待して、あたしは参加させてもらったんだから! 入団三ヶ月目にして、やっと実現したよぉ」
三ヶ月……ということは、十一月あたりから、すでに黒川はこのプロジェクトのメンバーだったのか。
それでは、トモハルや田代たちも、それぐらいの時期から参加したのだろうか。
「うん、そうだよ。それと、前の『イツカイザー』役の人もね。……でも、稽古以外のミーティングなんて呼ばれもしなかったし、こっちも行く理由なんてなかったから。いいなぁ楽しそうだなぁって指をくわえてるだけだったの」
「……カントクもサクラさんも知り合いなんだから、その気になればいくらでも潜りこめたんじゃないのか?」
「だから、潜りこむ理由がなかったんだって。あんなマニアの巣窟に一人で乗りこんだって、部外者まるだしじゃん。……それに、カントクさんたちと口をきいたのは、このプロジェクトに参加してからなんだからね。もともと知り合いだったのは、カントクさんの娘さんのルリちゃんってコだけだよ」
そうか。そういえば、学校ではサクラさんと口をきいたこともない、と昼間にも言っていた。
「そうそう。だから正直なところ、サクラさんがどういう性格なのかも、いまだによくわかんないんだぁ。……そういえば、さっきの電話は何だったの?」
「……え?」
「電話だよ。どうせ、サクラさんからだったんでしょ?」
ダウンのポケットに両手をつっこみ、子どものように大股で歩きながら、黒川が探るような視線を向けてくる。
さすがに半日以上も行動をともにしていれば、こいつのけたたましさにもなれてきたし、思っていたほどは苦手な感じじゃないかもな……とさえ思えるぐらいだったが、それでも、サクラさんとの件には首をつっこんでほしくなかった。
サクラさんはトモハルに相談したのかもしれないが、僕は誰にも相談などをする気はない。
そう考えると、しばし忘れていた憂鬱がまたじわじわと胸中にひろがってきた。
「別に。……そっちには、関係ないだろ」
僕がぶっきらぼうにそう答えると、黒川は不満そうに唇をとがらせる。
「今度は『そっち』ときたか。いいかげんゼンくんも強情だね! ……ま、確かに関係はないけどさぁ。あたし、サクラさんをちょっと見そこなっちゃったんだよねぇ」
「……何?」
「だって、この前も今日も、トモハルさんと喋ってばっかだったじゃん? ああいう団体行動を乱すノリ、あたしはあんまり好きくない」
「……あれは、トモハルさんのほうが一方的に喋りかけてるんだろ?」
さすがに少しカチンときて僕はそう言い返したが、黒川はまったく納得した風でもなかった。
「ぱっと見には、そんな風に見えるけどね。要するに、サクラさんがしょんぼりしてるから、トモハルさんが必死になって元気づけてるっていう構図でしょ、アレは。甘えてるのは、サクラさんのほうだよ」
「そんなこと……」
「そんなこと、あるんだよ。トモハルさんがサクラさんにご執心なのは以前からだけど、さすがにあそこまで露骨な感じじゃなかったもん。で、サクラさんのほうもちょっと迷惑そうな顔をしつつも、それに甘えちゃってるしさあ。サクラさんってもっと毅然としたイメージだったのに、なんかガッカリだよ。……それとも、傷心か何かで人恋しくなってるのかな?」
「……誰だって、人恋しいときぐらいあるだろ? お前だって、そうなんじゃないのかよ?」
いくぶん八つ当たり気味に、僕は大きな声を出してしまった。
黒川は、いぶかしそうに眉をひそめる。
「何言ってんの? あたしがどうして傷心なのさ?」
「あの、田代って人と別れたばかりなんじゃないのか?」
よせ、やめろ、と、心の中でもう一人の僕が叫んでいた。
そんなのは不確かなウワサ話にすぎないし、仮に真実だとしても、僕に責める権利なんてない――
そう思っているのに、僕の口は、止まらなかった。
「お前は、サクラさんの身代わりなんてまっぴらだ、なんて言ってたけど、僕だって、誰かの身代わりなんてまっぴらだ。人のことをとやかく言う前に、自分の行動をかえりみてみろよ!」
僕はどうして、こんなに感情的になっているのだろう。
サクラさんのことを悪く言われたから――サクラさんがトモハルに甘えている、などと言われたから?
なんだか、それだけではない気がした。
「……ふーん。そう。あたしのこと、そんな風に見てたんだぁ?」
黒川は呆れたようにそう言って、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
が、やがて気を取り直したように振り返って、神妙な面持ちで僕を手招きする。
「だったら、いいこと教えてあげるよ。……耳貸して」
僕はまだ自分の感情を整理できていなかったが、黒川がトモハルの発言を否定してくれるなら、その言葉は聞いておきたい気がした。
だから僕は、素直に黒川のほうへと耳を寄せたのだが――黒川が背のびをして、いっそう顔を近づけてきたとたん、右の耳にものすごい痛みが爆発した。
一瞬、痛みで頭が真っ白になり、気づくと僕は、自転車もろとも横倒しに倒れていた。
「バカじゃないの? 何なの、そのヨタ話は!」
続いて、黒川の怒声が炸裂する。
僕はまったくわけもわからぬまま、右耳をおさえて黒川を振り返った。
「あたしが? 田代さんと? へーえ! つきあってもいないのに別れるって、ずいぶん器用な真似ができるんだね、あたしは! 確かに食事に誘われたことはあるけどさ、丁重にお断りしたし、アドレス交換すらしてないんだけど? どこをどうつついたら、それが別れただの何だのって話に発展するわけ?」
大きく開いた口から、白い歯がよく見える。
もしかして――その健康そうな白い歯で、僕の右耳を噛んだのか?
「く、黒川……」
「くっだらない! そんなバカげたウワサ話をバラまくヤツも、それをあっさり信じちゃうヤツも、大っ嫌い!」
子どもみたいに足を踏み鳴らし、キッと僕の顔をにらみすえる。
その目は、今まで見たこともないぐらい強い光を浮かべており、悔しさのあまりか、少し涙ぐんでいた。
「……バーカ! 死んじゃえ!」
僕に弁解の余地も与えず、小さな背中が走り去っていく。
そうか……と、僕は思いいたっていた。
僕は黒川のことを、そんなに悪いヤツじゃないんだな、と思い直していたので、トモハルの言葉の内容そのものに、怒りを覚えてしまったのだ。
そのふってわいたような感情を、黒川自身にぶつけてしまうなんて、見当違いもはなはだしい。
僕は激しい自己嫌悪を感じながら、倒れてしまった自転車をのろのろと引き起こした。
最後の最後で、僕は大失敗してしまったのだった。
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