5 血の誓約
「ふう。今日も厄介者のせいで、ちっとも仕事が進まなかったわい」
家に戻って変化の術を解除するなり、魔女エマはそのように言いたてた。
王都の女騎士アデリールを《針の森》の外に追いやったのちのことである。脱いだ
「今回は完全に、わたしが招き寄せた厄介ごとでしたよねー。心からお詫びを申し上げますー」
「ふん。まるで普段の騒動には、自分の責任がないかのような口ぶりじゃな」
「えー? わたしが何か、ご迷惑をおかけしたことがありましたっけ?」
「本気でそのように抜かしておるのなら、脳髄を弄って記憶を呼び起こす必要があろうな」
長椅子に腰を落とした魔女エマは、「さて」と表情をあらためる。
「それでは、おぬしの弁明を聞こうかのう」
「はい? 何についての弁明でしょうか?」
「とぼけるでない。おぬしはどうして、自分の身分を隠しておったのじゃ?」
フィリアは、きょとんと目を丸くした。
「わたしは、何も隠しておりませんよー? もしかして、魔女さんはわたしの身分に気づいておられなかったのですか?」
「当たり前じゃろうが。このように不遜で暴虐で破綻した小娘が、王国の王女だなどと察することはできまい」
「えー、そうだったのですねー。魔女さんは最初からわたしのことを『貴き血筋の人間であろう』とか仰っていたから、ぜーんぶお見通しなのかと思ってましたー」
そのように述べてから、フィリアはぽんと手を打つ。
「あー、そういえば東の魔女さんに、魔女さんはわたしの正体を知っているのか? なーんて聞かれたことがあったのですよねー。それってもしかしたら、わたしの身分のことだったのでしょうか?」
「当たり前じゃ。おぬしの心を覗き見たあやつであれば、氏素性もすべて知れたのであろうからな」
魔女エマは、ふてくされたような面持ちで肘掛けに頬杖をついた。
「で、どうなのじゃ?」
「え? 何がです?」
「本当におぬしは、身分を隠す気はなかったのか? 王女などという身分を明かせば、石の都を忌避する魔女にはいっそう警戒されてしまう――なんぞと、小賢しいことを考えておったのではないのか?」
「いえいえ、そのようなことはこれぽっちも考えておりませんでしたねー」
そう言って、フィリアはにこりと微笑んだ。
「わたしは故郷と一緒に自分の身分も捨てたつもりであったので、とりたてて気にしていなかったのです。それよりも、魔女さんとお会いできた喜びで、我を失っていた次第であります!」
「ふん……つくづく、破綻した娘じゃな」
頬杖をついたまま、魔女エマはひとつ肩をすくめた。
「しかし、これでおぬしは、れっきとした大罪人じゃ。あの親切な女騎士の温情を踏みにじった以上、もはや故郷に戻るすべはなかろうな」
「そうですねー。まさか、聖剣を盗んだ濡れ衣をかけられていたなんて、夢にも思っていなかったですー。まあ、あの兄様だったらやりかねない悪巧みですねー。そんなんだから、わたしは石の都に愛想を尽かしてしまったのですよー」
そんな風に言いながら、フィリアは無邪気な笑顔のままである。
「でもでも、さっきも言いましたけれど、わたしはそのおかげで魔女さんに出会えたわけですからねー。聖剣がなかったら、とうていここまで辿り着くことはできませんでした! そう考えれば、結果は申し分なしです!」
「呑気じゃのう。王国に戻れば、首くくりなのじゃろ?」
「はい。ですが、戻りはしないですからね」
フィリアは、にこにこと笑っている。
そのとぼけた笑顔をしばし無言で見つめてから、魔女エマは「うーん!」とのびをした。
「おかしな騒ぎに巻き込まれて、すっかりくたびれてしまったわい。ジェラが戻るまで、ひと眠りしようかの」
「えー? 秘薬の調合はしないのですかー? わたし、楽しみにしてたのにー」
「……我の仕事を見物するのも飽きてきたとかほざいておったのは、どこの誰じゃったかの?」
「え? わたし、そんなことを口走りましたっけ? まったく記憶にないですねー」
「度し難い脳髄じゃな……よいから、おぬしも寝所に下がれ。我の安眠を妨げたら、鼠と魂を入れ替えてくれるからな」
「それはそれで楽しそうですけれど、魔女さんのお眠りを邪魔したりはしませんよー」
フィリアは立ち上がり、寝所への扉が出現した壁のほうに歩を進める。
その背中に向かって、魔女エマは「了承する」と呼びかけた。
「え? 何か仰いましたかー?」
「了承する、と言ったのじゃ」
魔女エマはあくびを噛み殺しながら、長椅子に横たわった。
寝所への扉に手をかけつつ、フィリアは不思議そうに首を傾げる。
「だから、何を了承してくれるのです?」
「おぬしの弟子入りを、了承する」
「あ、ほんとですかー。それはありがとうございます!」
フィリアは屈託なく笑い、寝所の扉を引き開けた。
「ではでは、わたしは下がらせていただきます。ごゆっくりおやすみくださいませ!」
「うむ。ジェラが戻ったら、起こすのじゃぞ」
「はいはい、承知いたしましたー!」
扉が、ぱたんと閉められる。
そうして魔女エマはまぶたを閉ざしたが、次の瞬間にはものすごい勢いで肩を揺さぶられていた。
「ちょ、ちょっとお待ちを! わたしの弟子入りを了承するって、それ、本気で仰っているのですか!?」
「な、なんじゃ、おぬしは? 空間移動の魔術でも行使しおったのか?」
「その魔術はまだ伝授されておりません! それよりも、ご説明を! 弟子って、魔術の弟子という意味なのですか?」
「それ以外に、何があるのじゃ。とにかく、揺さぶるのをやめんかい!」
「だってだって、いきなりすぎるじゃないですか! なに言ってんだコイツと思って、ついつい聞き流しちゃいましたよ!」
「誰がコイツじゃ! いいから、落ち着けい!」
「とうてい落ち着いてなどはいられません!」
それでもようやく魔女エマの肩から手を離したフィリアは、3日ぶりの餌にありついた兎のごとき形相になっていた。
「ご説明を! どうしていきなり、弟子入りを認めてくださったのですか? わたしの中に、きらりと光る魔術師としての才覚を見出されたのですか?」
「逆じゃな。おぬしはおそらく、この世でもっとも魔術から縁遠き存在であるのじゃろう」
フィリアがのしかかるような位置にいたので、魔女エマは長椅子に寝そべったまま、そのように答えた。
「魔術とは、石の都の文明と対極を為す存在であるのじゃ。然して、おぬしは石の都の王家の血を継ぐ小娘であり、しかも、あの忌々しき聖剣の力を十全に引き出すことのかなう人間でもある。おぬしの内には、至極濃密なる王家の血というものが渦巻いておるのじゃろう」
「あー、わたしの母様は、前の王妃よりも王家の血が濃いのだとかいうお話でしたねー。だから兄様たちは、わたしや母様をいっそう疎ましく思っていたのだとか何だとか……あ、そんな話は、どうでもいいです! それでそれで? 続きをお願いいたします!」
「じゃから、石の都の象徴のごときおぬしが、果たして魔術を体得することなどかなうのかどうか、そこのところにわずかばかりの興味を覚えたというだけのことじゃ」
ことさら気のなさそうな表情で、魔女エマはそのように言いたてた。
「まあ、万にひとつも、おぬしが魔術を体得することはかなわなかろうな。そうして、おぬしが絶望に打ちひしがれる姿を見届けるのも、また一興じゃ」
「そんな姿を面白がっていただけるのなら、いくらでもご覧ください! でもでも、わたしはこの生命が尽きるまで、決してあきらめたりはしませんから!」
「近い近い。我の唇を奪うつもりか?」
「はい! 感謝と喜びの接吻を贈りたい気分です!」
「くびり殺すぞ」
「それじゃあ、やめておきます! わーいわーい! 嬉しすぎて、この気持ちをどう表現すればいいかもわかりません!」
フィリアは弾かれたような勢いで身を起こすと、そのまま兎のように室内を跳び回り始めた。
魔女エマは、面白くもなさそうに「ふん」と鼻を鳴らす。
「言うておくが、主従の盟約を交わすからには、我の命令は絶対じゃからな?」
「はい! 承知しておりまする!」
「我が死ねと命ずれば、その生命を惜しみなく捧げるのじゃぞ?」
「わたしの生命なんて、何度でも捧げてみせましょう!」
「では、盟約じゃ」
魔女エマは寝そべったまま、右手の親指の先を小さく噛み破った。
それに気づいたフィリアは、てけてけと魔女エマのもとに駆け戻る。
「そら、おぬしも同じようにせい。血の盟約を交わすのじゃ」
「はいはい、承知いたしました!」
フィリアは団子でもかじるように、笑顔で自分の親指の先を噛み破った。
血に濡れたふたりの指先が、ぴたりと重ねられる。
「我、エマ=ドルファ=ヴァルリエートは、石の都を捨て去りし王女フィリアと、主従の盟約を交わす。我が主であり、フィリアが従である。どちらかの魂が天に召されるまで、我らは血を分けた同胞として生くる。……汝、フィリアはこの盟約を承諾するか?」
「石の都を捨てた王女フィリアは、この盟約を大いなる喜びとともに承諾いたします!」
「血の盟約は、交わされた。……いまこの瞬間から、おぬしは我の従僕じゃ」
フィリアは「わーい!」と雄叫びをあげてから、魔女エマの身体に抱きついた。
「ありがとうございますー! 誠心誠意、魔女さんにお仕えいたしますねー!」
「ええい、苦しいわ! 命令じゃぞ、即刻その身を我から遠ざけるのじゃ!」
フィリアは最後にぎゅうっと魔女エマの身体を抱きすくめてから、「とりゃー!」と後方に跳びすさった。
「身を遠ざけるって、どれぐらいですか? もっと遠ざかったほうがいいですか??」
「ああもう、やかましいのう。こんなにすぐさま盟約を破棄したくなるとは思わなかったわい」
「そんなことより、ご指示をくださいってば! これぐらい? もうちょっと?」
「やかましいわ! おぬしはまず、主人に敬意を払うことを心がけよ!」
「それは、めいっぱい払っているつもりでありますよー。むしろ敬意があふれかえって、空回りを起こしているようなものであるのです!」
「……じゃったら、きっちり自重せんかい」
「いやー、それは難しいですねー。でも、それも含めて頑張ります!」
魔女エマから遠ざかった場所で、フィリアは満面に笑みをたたえた。
それを横目で見返しながら、魔女エマは自分の頬を撫でさする。
「魔術の世界にようこそ、といったところかのう。……まったく、長々と世話をかけおって」
フィリアには聞こえぬように、魔女エマはこっそりそのように囁いた。
手の平で隠したその口もとには、何やら楽しくてたまらないような笑みがこっそり浮かべられていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます