第6幕 魔女の弟子
1 始まりの朝
「おはようございます、お師匠さんに従者さん!」
寝所の扉を叩き開けるなり、フィリアは大声をほとばしらせた。
魔女エマの部屋はまだ薄闇に包まれており、ふたりは長椅子で就寝中である。まずは安眠をさまたげられた従者のジェラが長椅子から身を起こし、非難するようにフィリアを見た。
「どうしたのです、客人……じゃなかった、フィリア様。まだ夜は明けていないはずですよ?」
「はい! でも、体内に燃えさかる情熱の炎をなだめることがかなわなかったので、ちょっぴり早起きさせていただくことになりました!」
「……早起きするのはご自由ですが、我々がそれにおつきあいする理由はございません。また、主人たるエマ様のお眠りをさまたげることなど、弟子たるあなたに許されるはずもないでしょう?」
「えー? 可愛い一番弟子のやることだったら、きっと寛大にお許しくださるのではないでしょうか?」
ジェラは、げんなりした様子で肩を落とした。
「あなたはエマ様の弟子になるという望みが果たされても、まったくお変わりないようですね、フィリア様」
「えー? そんなことはないですよー。この、変わり果てた姿をご覧ください!」
フィリアはこれまでに纏っていた装束を処分して、魔女エマと同じような緋色の
その姿を見せびらかすように、
「昨晩から、そのお姿はさんざん拝見しています。というか、それは私が織りあげた装束ですよね」
「はい! こんなに素敵な装束を作っていただけて、心の奥底から感謝しておりますです!」
「とにかく、お声を落としてください。エマ様が起きてしまわれるでしょう?」
ジェラは囁くような声でたしなめたが、フィリアはその場で地団駄を踏むように足踏みをした。
「でもでも、じっとはしておられません! 何か、お仕事はないですかー? 朝の食事の下ごしらえとか、薬草の菜園のお世話とか!」
「……あなたは王国の姫であられたのですよね。厨房や菜園などに立たれたことはあるのですか?」
「ありません、一瞬として!」
「……では、どうぞご自分の寝所にお戻りください」
「えー!? それじゃあこの、身の内に煮えたぎる情熱はどのように処理すればよいのでしょう? せめて、従者さんが話し相手になってくださいませんか?」
「……あなたは、私をなんだと思っているのですか?」
「はい! 都合のいい話し相手ではなく、同じ主人に忠誠を誓った同胞であると思っております!」
そう言って、フィリアはとろとろと笑みくずれた。
「同胞! 素晴らしい響きですねー! わたしはすべての同胞を捨て去った身ですし、そもそも母様以外に同胞と思えるような人間はひとりとして存在しませんでした! そんなわたしが、いちどきに2人もの同胞を手にしてしまったのです! なんだか幸福すぎて、心臓が爆発してしまいそうです!」
ジェラは溜め息をつきながら、大儀そうに身を起こした。
「わかりました。とにかく、別の場所に移りましょう。エマ様のお眠りをさまたげるぐらいでしたら、私がおつきあいいたします」
「わーい、ありがとうございます! 従者さんって、本当にお優しいですよねー! わたし、従者さんのことも大好きです!」
「お、おやめください! そのような甘言で懐柔されたりはしませんからね!」
大きな声をあげてから、ジェラはハッとした様子で口もとを押さえた。
そうして、おそるおそる長椅子のほうを振り返ると――薄闇の中で、金色の双眸が怒りに燃えていた。
「……それで? おぬしたちはいつになったら、我に安眠を与えてくれるのじゃ?」
「エ、エマ様! 起きておられたのですか?」
「このように耳もとで騒がれて、眠っておられるわけがなかろうが!」
「わーい、おはようございまーす! お師匠さんも、一緒におしゃべりしましょー!」
「やかましいわ! 破門にするぞ!」
大儀そうに身を起こした魔女エマは、右手で頭上の空間を薙ぎ払った。
それに呼応して、うすぼんやりと輝いていた天井近くの白い花たちが、いっせいに光を強くする。瞬く間に、室内は昼間のような明かりに包まれた。
「おぬしたちのせいで、すっかり目が覚めてしまったわい。……ジェラ、茶じゃ」
「はい! いますぐに!」
ジェラは狼のような素早さで、壁に出現した扉の向こうに駆け去っていく。
それと入れ替わりで長椅子に近づいたフィリアは、喜びと幸福のあふれかえった笑顔でぺこりと一礼した。
「あらためまして、おはようございます、お師匠さん! 一番弟子のフィリアでございます!」
「朝っぱらからけたたましい声をあげるな、うつけ者め。……だいたいな、その呼び方は何なのじゃ」
「えー? お師匠さんって呼び方、何かおかしいですかー? 先生さんだとアデリール先生とかぶっちゃいますし、主人さんだとしっくりこないし、魔女さんだと面白みがないから、お師匠さんって呼ぶことに決めたのですけれど」
「呼称に面白みなんぞ求めてはおらんわい。じゃったら、ジェラと同じように、エマ様とでも呼べばよかろうが?」
「えー、でもぉ、人の名前を呼ぶのって慣れてないからぁ、ちょっと照れ臭いなぁとか思っちゃってぇ」
「身をくねらせるな。くびり殺すぞ」
「あとあと、石の都の住人の前では、お名前を呼ぶことははばかられるのでしょう? わたし、とっさに呼び方を変えるなんて器用な真似は絶対にできそうにないので、普段からお名前は呼ばないほうが安全だと思うのですー」
「そんなていどの知能しか持たない人間に、魔術を体得することなどかなうのかのう」
「知能は関係ありません! きっと天真爛漫な人間性が災いしているのでしょう!」
「うむ。人間性に問題があることは明白じゃな」
不機嫌の極みといった表情で魔女エマが言い捨てたとき、厨房に引っ込んでいたジェラが盆を手に戻ってきた。
「エマ様、お茶をおいれいたしました」
「うむ、ご苦労」
「あー! そういう雑用は、わたしにおまかせくださいよー! 意欲と情熱が有り余っているのですからー!」
「……わたしが茶をいれるように命じられたさまは、フィリア様もご覧になっていたはずですよね?」
「そうでしたっけ? お師匠さんが起きたのが嬉しくて、目に入らなかったのかもしれません!」
「恐るべき視野の狭さですね」
「はい! ですから今後は、どうぞわたしにお申しつけくださいませ!」
「いや、厨房に立ち入ったことがないのでしたら、茶をいれた経験だってありはしないのでしょう?」
「ありません、1度たりとも!」
「では、おまかせすることはできません」
ようやく普段の沈着さを取り戻したジェラは、切れ長の黒い目でフィリアの姿を見下ろした。
「そもそも、エマ様の身の回りのお世話をするのは、従者たる私の仕事となります。あなたは弟子というお立場なのですから、他に為すべきことがあるはずでしょう?」
「はい、魔術の修行ですね! どんな荒行でも、どーんとこいです!」
フィリアは嬉々とした表情で、両腕を振り上げた。
魔女エマは、溜め息とともに熱い茶を飲み下す。
「……どーんとこいです!」
「やかましいわい! 聞こえておるわ!」
「ではでは、荒行を! わたしは、何を為すべきでしょう?」
「……魔術のまの字も知らん小娘に、何ができると思っておるのじゃ。まずはその身が魔術に適した肉体に変じるまで、修行もへったくれもないわい」
「魔術に適した肉体?」
フィリアは、きょとんと首を傾げる。
茶の杯を卓に置きつつ、魔女エマは「うむ」と応じる。
「以前にも説明したじゃろう。魔力の枯渇しつつあるこの地において魔術を行使するには、こちらの肉体を魔力に感応しやすいように保たなければならんのじゃ」
「えー、そんなこと仰ってましたっけ? これっぽっちも覚えてないですねー」
「……おぬし、本当に魔術を体得する気があるのか?」
「もちろんです! ただ、これまでの半月は浮かれに浮かれまくっていたので、いまひとつ記憶が曖昧模糊としているのです!」
「ふむ。しかしおぬしは念願の弟子入りがかなって、いまこそ最高潮に浮かれまくっておるはずじゃな?」
「はい! 気を抜くと宙に浮かんでしまいそうなほどであります!」
「では、今日聞かされた言葉を記憶に留めることは?」
「できません、きっと!」
「よし、破門じゃ」
フィリアは敷物の敷かれた床にひれ伏し、魔女エマの
「どうぞご慈悲をー! なるべく忘れないように努めますのでー!」
「そこでなるべくとか言っておる時点で、我のやる気は木っ端微塵じゃな」
「でもでも、すべてを口頭で教わるというのは、いささか無理があるように思います! 大事なお言葉は書面にしたためるべきではないでしょうか?」
「書面にしたためる、か」
魔女エマは、気のない表情で肩をすくめた。
フィリアは床に這いつくばったまま、「あり?」と首をひねる。
「そういえば、魔女さんのお家って面白そうなものがたくさんあるのに、書物の類いは1冊もないですよねー。秘蔵の魔道書などは、どこかに隠されているのですかー?」
「そんなもん、この世に存在するわけがなかろう。文字というのも、石の都の文明じゃろうが?」
「ほえ?」と、フィリアは魔女エマの仏頂面を見上げた。
「ちょいとお待ちを! 魔術の世界に、文字というものは存在しないのですか?」
「じゃから、そう言うておろうが。そんなもんは、100年の昔に生み出された出来立ての手管にすぎん」
「えー、意外ですねー! それじゃあ魔術師の教えというのは、すべて口頭で為されるのですかー?」
「魔術の習得には、言葉すら必要はない。すべては、魂で感ずるものであるのじゃからな」
フィリアに裾をつかまれたまま、魔女エマは肘掛けに頬杖をついた。
「まずは、魔力に感応しやすいように、肉体を作りかえる他なかろう。第1段階は、精霊の姿や声を感知することじゃな」
「あー、従者さんは、精霊の姿や声を感知することができるのですよね。でも、こちらから声を届けることはできないというお話でしたっけ」
「ええ、その通りです。よく覚えておられましたね」
「当然ですよー。従者さんと交わした楽しいやりとりは、すべて記憶に留めておりますー」
「ほう」
「あ、違います違いますー! お師匠さんとのやりとりはさらに上をいく楽しさであったので、浮かれまくりからの記憶忘却という作用が働いてしまったのですー!」
「おぬしの脳髄は、いったいどのような作りをしておるのかのう」
魔女エマは小さな手で拳をこしらえると、それをフィリアのこめかみにぐりぐりと押しつけた。
「では、そのお粗末な脳髄に叩き込んでおくがいい。まずは、その肉体を魔力に馴染ませるのじゃ。この世界には数多くの精霊が存在するのじゃと、そのように心がけて日々を送るのじゃぞ」
「この世界には、数多くの精霊が……え? それじゃあこのお家にも、精霊さんが漂っていたりするのでしょうか?」
「当たり前じゃろうが。ここは我の結界の内であるのじゃぞ? 外界よりも数多くの精霊が居座っておるわい」
「えー! そんなの、想像もしていませんでした! どこどこ? どこに精霊さんがいるのです? わたし、踏み潰しちゃったりしておりませんかー?」
「ああうるさい。心底うるさい。そのように騒いでは、精霊たちも逃げ散ってしまうわ」
フィリアは慌てた様子で自分の口に手で蓋をした。
その姿に、ジェラがくすりと笑い声をもらす。
「フィリア様。わたしやあなたの声は精霊に届かないという話をしたばかりでしょう? いまのは、もののたとえです」
「なーんだ、びっくりしたー! じゃあじゃあ、精霊さんはどこにおられるのです? 従者さんにも、そのお姿は見えているのでしょう?」
「どこというなら、この家の中のすべてです。この空間は、精霊の力に埋め尽くされているといっても過言ではないでしょう」
そう言って、ジェラはしなやかな腕をふわりと振りかざした。
「そうであるからこそ、この家はエマ様の思いのままであるのです。あそこで光る花の輝きも、床から生える椅子や卓も、荷運びをする蔓草も、すべて精霊の力によって為されているのです」
「なるほどー! 従者さんの説明はわかりやすいですー!」
「ほう」
「あ、違います違いますー! お師匠さんの説明がわかりにくいということではなく、ただ、思わせぶりな言い回しとか、舌足らずな声とか、のじゃのじゃ口調が理解のさまたげとなって、わたしの頭を素通りしてしまうだけなのですー!」
「のじゃのじゃ口調って何じゃ! 本気で八つ裂きにしてくれようか!」
長椅子に座ったまま地団駄を踏んでから、魔女エマはジェラの長身をじろりとにらみあげた。
「……こんなことなら、この小娘はおぬしに弟子入りさせるべきじゃったの。我よりも、よほど説明が巧みであるようじゃし?」
「そそそそのようなことはありません! 私などエマ様に比べたら、洗い忘れた壺の裏に付着する水垢のごとき存在です! 腐臭漂う蛆虫の屍骸も同然です!」
「あー、駄目ですよー。嫉妬に駆られて従者さんをいじめないでくださいねー」
「やかましいわい! すべておぬしが元凶じゃろうが!」
「いえ、お待ちください」と、フィリアはふいに真面目な顔になった。
「わたし、ひとつ、思いついたこと、あります」
「なんで片言なんじゃ」
「あ、これはラクーシャさんの真似をしてみました。あの知的な雰囲気にあやかれないかなーと思って」
「…………」
「それで、わたし、思ったのです。真実、おそらく、ひとつです」
「即刻口調をあらためんと、火だるまに処す」
「はい。思うに、お師匠さんは自由に魔術を扱えるがゆえに、そうでない人間と思考や感覚が乖離してしまっているのではないでしょうか? お師匠さんにとっては当たり前のことも、わたしにとってはすべて奇妙奇天烈摩訶不思議であるのです。言葉も覚束ない幼子にこの世の道理を説いても意味を為さないように、お師匠さんのお言葉は難解に過ぎるのです。幼子に言い聞かせるためには、大人に対するよりもいっそう言葉を選ぶ必要があるのではないでしょうか?」
魔女エマは、毒気を抜かれた様子で身を引いていた。
「なんじゃ、いきなりべらべらとわかったようなことをまくしたておって。悪いものでも喰ろうたのか?」
「今日はまだ何ひとつ口にしておりません。おなかが空いたので、そろそろ話を収束させようかと考えた次第でございまする」
「……ふん。しょせんは魔術の何たるかも知らぬ人間の浅知恵じゃな。魔術の習得には言葉すら不要と言うたじゃろうが? おぬしは幼子ですらなく、人語を解さぬ虫けらのごとき存在であるのじゃ」
そう言って、魔女エマはほっそりとした下顎を撫でさすった。
「じゃから、言葉を重ねるのも無益ということじゃな。相分かった。まずはおぬしに、精霊の力というものを体感させてくれよう」
「ふむふむ。わたしを火だるまにしてくださるのですか?」
「それも一興じゃが、『癒やしの宝珠』を無駄にしたくはないのでな。もっと別の手段をもちいる」
その言葉に、ジェラが表情と姿勢を改めた。
「エマ様、もしや……フィリア様を、精霊王のもとまでお連れするおつもりなのでしょうか?」
「うむ。我々も、そろそろご機嫌うかがいに出向く頃合いじゃろうしの」
「危険では……ないのでしょうか?」
ジェラは、きわめて真剣な面持ちになっていた。
しかし魔女エマは、ふてぶてしい顔でにやりと笑う。
「確かにこやつは無礼で低能で魔術のまの字も知らぬ上に、つい昨日まで石の都の王女であった身じゃが、いまでは我の弟子であるのじゃ。それに文句をつけようというのなら、我がぞんぶんに組み伏せてやるわい」
「そ、それが危険ではないかと言っているのです。相手は、精霊王なのですよ?」
「人間と精霊の間に上下はない。我がへりくだる必要はなかろ」
そう言って、魔女エマはごろりと長椅子に寝転がった。
「そうと決まれば、腹ごしらえじゃな。早々に準備をするがいい」
「わーい! 朝の食事も精霊王さんも、どっちも楽しみですー!」
フィリアは無邪気に、にこにこと笑う。
その笑顔を憂いげに見やってから、ジェラはひとり厨房に引っ込んでいった。
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