5 最愛の母
『あなたはいい子ね、フィリア……あなたという存在をこの世にもたらすことができて、わたくしは幸福よ』
フィリアの母親は、とても静かに言葉を紡いでいった。
そのやわらかい胸に顔をうずめながら、フィリアは「はい……」と涙をこぼす。
「わたしも母様の子として生まれ落ちることができて、心から幸福だと思っていました」
『ありがとう……それなのに、あなたをひとりぼっちにしてしまって、ごめんなさい……』
「それは、母様の責任ではありません! 悪いのは、病魔です!」
母親の胸に顔をうずめながら、フィリアはぷるぷるとかぶりを振った。
「母様は、わたしにとてもよくしてくださいました。だから、謝ったりしないでください。こうして夢の中では母様にお会いできるのですから、わたしは幸せです」
『でも……わたくしが魂を返してしまったから、あなたは孤独に耐えきれなくなってしまったのでしょう?』
母親の手が、愛おしそうにフィリアの髪を撫でる。
『あの冷たい城の中で、わたくしたちはおたがいの存在だけが拠り所であったのですものね……』
「はい。母様さえいてくれれば、わたしはちっとも寂しくありませんでした!」
『でも、わたくしは死んでしまったもの……それであなたがこのように道を踏み外してしまうことになって……わたくしは、それだけが気がかりであるのです』
「何もご心配はいりません! わたしは楽しく、日々を過ごしていますから!」
母親の顔を見上げながら、フィリアはにこりと微笑んだ。
そんなフィリアを見下ろしながら、母親は悲しげに眉を曇らせている。
『でも、魔女に弟子入りを願うなんて……そんなのは、決して許されることではないでしょう……?』
「いいのです。母様のいなくなった石の都なんかに、未練はありません!」
『だけどあなたには、まだたくさんの家族が残されているのに……』
「わたしにとっての家族は、母様おひとりです。たとえ血の繋がりがあっても、父様や兄様たちを家族と思うことはできません」
そう言って、フィリアは子供っぽく口をとがらせた。
「だってあの人たちは、わたしや母様のことを邪魔者あつかいしていたではないですか? あんなのは、家族じゃありません」
『それはきっと、わたくしのせいなのでしょう……わたくしが至らないばかりに、あなたにまでそんな思いを抱かせてしまって……』
「そんなことはありません! わたしはわたしの好きなように振る舞っていただけです! その上で、あの人たちとは相容れなかったのです!」
『でも……それでもあなたは、父様の貴き血を継ぐ存在であるのですよ……? そんなあなたが、魔女に弟子入りを願うだなんて……』
「いいじゃないですか! わたしが何をどうしようと、父様が心を動かすことはありません! 他に3人も立派な息子がいれば、末の娘がどうしようと関係ないのです!」
母親はその目に涙をたたえながら、フィリアを見つめ返した。
『ええ、そうね……わたくしだって本当は、あんな家のことはどうでもいいと思っているの……でも、あなたのことが心配であるのです……』
「わたしのほうは、大丈夫です! 満ち足りた日々を送っておりますので!」
『いいえ……あなたの心は、絶望に塗り潰されてしまっている……だからこそ、自分の生命を顧みようとしないのでしょう……?』
母親の震える指先が、フィリアの身体をそっと抱きすくめた。
『あなたの希望は、絶望の裏返し……あなたの笑顔は、泣き顔の裏返し……石の都に絶望したあなたは、魔術の世界に希望を見出した……あなたがこれほどまでに、明るく、朗らかで、楽しそうにしているのは、すべて石の都という現実に対する、憎悪の裏返しであるのでしょう……?』
「……はい。きっとそうなんだろうと思います。でも――」
『あなたの魂は、絶望と憎悪にとらわれてしまっている……もしもあなたが魔術の世界でも居場所を失ってしまったら、これまで抑えつけていた絶望と憎悪があなたを呑み込んでしまうことでしょう……』
「…………」
『あなたが弟子入りを願った、あの赤髪金眼の魔女……エマ=ドルファ=ヴァルリエートが、もしもあなたの期待を裏切ってしまったら……魔術の世界が憧憬に価しない存在であると、あなたがそんな真実に行き当たってしまったら……きっとあなたは、石の都に対するよりも激しい気持ちで、魔術の世界を呪うことになるでしょう……すべての希望を失ったあなたは、この世界を滅ぼしてしまうかもしれない……石の都という現実の世界も、幻影のように儚い魔術の世界も、あなたはその憎悪の刃で――』
「そんなことは、絶対にしません!」
母親の身体をきつく抱きすくめながら、フィリアは叫んだ。
「わたしにそんな力があるんだったら、とっくに石の都を滅ぼしています! わたしは――わたしは父様も兄様たちも、大嫌いです! 大好きな母様にあんな苦しい思いをさせた人間たちを、心から憎んでいました! こんな世界は滅んでしまえばいいって……母様が魂を返された夜から、ずっとそんな風に考えていたんです! ずっとずっと、この世界を呪っていたんです!」
『フィリア、あなたは――』
「だけどわたしは、自分が間違っていることを知っています! 石の都に順応できないのは、わたしが歪んでいるからです! この世で母様のことしか愛することができなかったのは、わたしが最初から破綻していたからです! わたしはきっと、生まれた瞬間から道を踏み外してしまっていたんです!」
フィリアの頬に、新たな涙があふれかえっていた。
それを見つめる母親の頬にも、同じように涙があふれている。
「だけどわたしは、魔術の世界に希望を見出すことができました! 小さい頃から大好きだった古文書や御伽噺の世界の中こそが、わたしの居場所だったんです! それがどんな困難に満ちた世界でも、わたしは決して呪ったりしません! もしもそれが、わたしの期待にそぐわない世界であったなら……わたしは世界でなく、自分を呪います! 自分を憎悪します! 自分のことを、憎悪の刃で滅ぼします!」
フィリアは泣きじゃくりながら、母親の胸に取りすがった。
「だからどうか、わたしの無謀な行いを許してください……この世でただひとり、母様にだけは見捨てられたくないのです……この世の誰に憎まれても、母様にだけは憎まれたくないのです……」
『わたくしがあなたを憎むだなんて……そんなことが、ありえるわけはないでしょう?』
母親の指先が、フィリアの頭をそっと抱きかかえた。
『泣かないで、フィリア……苦しいときこそ、あなたは笑いなさい……それこそが、あなたの強さなのですから……』
そんな言葉を最後に、母親の存在が薄らいでいった。
フィリアが涙に濡れた面を上げると、慈愛に満ちた母親の笑顔が、闇に溶けていく。
フィリアはぎゅっとまぶたをつぶると、衣服の袖で乱暴に顔をぬぐった。
そうして何度か深呼吸をしたのちに、決然とした面持ちで背後を振り返る。
「いまのも、あなたの魔術であったのですか?」
闇の中に、山羊の頭骨が浮かびあがっていた。
山羊の頭骨は『いえ』と、沈着に応じる。
『母親の幻影、あなたの心、映したものです。偽物、ありません』
「そんなことは、わかっています。あれはまぎれもなく、わたしの母様でしたからね」
目を赤く泣きはらしたフィリアは、幼子のように口をとがらせた。
「でも、夢の中でこんなにはっきりと母様の存在を感じ取れたのは初めてだったから、それはあなたの魔術の効果なのかなーと思ったのです」
『はい。肯定します。あなた、心、探るために、母親の思い出、抽出しました』
「やっぱり、そうですか。心の中の、一番大事な思い出をひっかき回されたような気分です」
『私、憎みますか?』
「いえ。あなたにとっては必要なことだったのでしょうから、憎むことはできません。ただ、わーっと叫びながら、あちこち走り回りたい気分です」
『はい。ご随意に、どうぞ』
「いや、そこは止めてくださいよー」
がっくりと肩を落としてから、フィリアは「あ、そうだ」と顔を上げた。
「そういえば、ロムロムさんはどうなったのですか? お亡くなりになったりはしていないですか?」
『はい。あなた、魔術師ではありませんので、夢の中、他者、殺めること、できません』
「そうですか。あと、ロムロムさんがわたしを襲ったことが、何かの罪になったりはしませんか?」
『はい。夢の中、不問です』
「それなら、よかったです」
フィリアは、ほっとしたように微笑んだ。
「それで、この後はどうしましょう? わたしは魔女さんとの約束がありますので、死なない努力をしなければいけないのですが……」
『不要です。あなた、検分、終了しました』
そんな風に述べてから、山羊の頭骨がすうっとフィリアに近づいた。
黒い眼窩の向こうから、銀色に光る瞳がフィリアをねめつける。
『ただ、最後、質問あります』
「はいはい、なんでしょー?」
『《針の森の魔女》、あなたの正体、知っているのですか?』
フィリアは、きょとんと目を丸くした。
「わたしの正体って何ですかー? わたしは見たまんまの存在ですよー?」
『そうですか。ならば、いいのです』
銀色の瞳が、ふっとやわらかい光をたたえる。
その瞬間、暗黒に閉ざされていた世界が、白い光に包まれた。
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