4 黒き夢の世界

「あれー? ここはどこでしょー?」


 フィリアが目を覚ますと、世界は闇に包み込まれていた。

 鼻をつままれてもわからないような、真なる闇である。どこを見回しても世界は暗黒に閉ざされており、上下や左右の感覚までもが虚ろになるほどであった。


 ただ一点、おかしな現象が起きている。

 何の光もない暗闇の中で、フィリアの姿だけが白くぽっかりと浮かびあがっているのだ。

 色彩は、欠落してしまっている。その身に纏った装束も、袖から覗いた手の先も、すべてが灰色がかった白一色に染めあげられてしまっている。フィリアは「うーむ」と首を傾げながら、自分の顔をぺたぺたとまさぐった。


「変化の術も解けちゃってるみたいですねー。これはいったい、どういう状況なのでしょー」


 そんな独り言にも、答えるものはいない。

 そこに広がるのは、絶対的な暗黒と静寂ばかりであった。


「あのー、誰かいらっしゃいませんかー? わたし、どうしたいいのでしょうかねー?」


 フィリアが声を張り上げても、それは暗黒の向こうに吸い込まれてしまう。

 フィリアは腕を組み、再び「うーむ」とうなり声をあげた。


「これは困りましたねー。魔女さんには死なない努力をしろって命令されましたけど、こういう場合はどうしたらいいのでしょう」


 そこでフィリアは、はたと思い至った。


「あれ? それとももしかして、わたしはとっくに死んじゃってるとか? ここは死後の世界ということなのでしょうか? たしかわたしは、ロムロムさんから受け取ったお茶を飲むと同時に、意識を失ったはずだから……あのお茶に、毒が仕込まれていたということなのでしょうか?」


 フィリアは組んでいた腕をほどくと、栗色の頭を抱え込んだ。


「そうだとしたら、一大事ですー! 魔女さんとの約束を破ったことになっちゃうし、それに……《黒き沼の魔女》さんが、罪もない人間を殺めるという禁忌を犯したことになっちゃうじゃないですかー! わたしなんかのせいで《黒き沼の魔女》さんの魂が穢れちゃったら、申し訳なさすぎますよー!」


『…………』


「でもでも、わたしって本当に罪がないのですかねー? 魔女さんと従者さんにはご迷惑をかけっぱなしだし、自分の我が儘で魔女さんの家に居座るなんて、十分に罪深いように思うのですけれどー」


『…………』


「これぐらいの罪では、さすがに死罪にはならないのでしょうかね? そのあたりのこと、あなたはご存知ですかー?」


 言いざまに、フィリアは背後を振り返った。

 そこに待ち受けていたのは、奇怪にして巨大なる1体の獣である。

 その恐ろしげな巨体を前に、フィリアは「わあ」と瞳を輝かせた。


「書物で見たことがあります! あなたは、たしか……東の王国に棲息するという、竜亀さんですよねー! 本物は、ものすごい迫力ですー!」


 フィリアの述べた通り、それは巨大な竜亀であった。

 首から上は竜の姿で、それ以外は亀の姿をしている。頭部や四肢は刃物のようにささくれだった鱗に覆われており、頭頂部には鹿のように枝分かれした角が、巨大な口には恐ろしげな牙が生えている。人間よりも遥かに大きな図体で、その身は鈍い金色の輝きを放っており、瞳は翡翠が燃えているかのような、鮮烈なる緑色をしていた。


「なるほどー。ロムロムさんの正体は、竜亀さんだったのですかー。言葉は巧みでしたけれど、やっぱりお生まれは東の王国であったのですかー?」


 竜亀は、その巨体を縮めたいかのように身じろぎをした。


『……どうして僕が、ロムロムだとわかったのですか……?』


「えー? だって、いかにもロムロムさんっぽいじゃないですかー。その優しそうな目つきなんかは、ロムロムさんそのものですしねー」


『……僕は、優しくなんかありません……』


 竜亀が、のそりと右の前肢を振り上げた。

 鋭い爪の生えた、丸太のように太い前肢である。

 それが頭上に振り下ろされて、フィリアは「うきゃあ!」と闇の中を転げることになった。


「ど、どうしたのですかー? 理由もなしに人間を殺めるのは、禁忌なのでしょー?」


『ここは、夢の中であるのです……夢の中でどのような暴虐を働いても、罪になることはありません……』


 巨大な前肢が、今度は横殴りの格好でフィリアを襲った。

 とうてい亀とは思えぬような、俊敏なる動作である。

 フィリアはごろごろと転がることで、なんとかその攻撃を回避することができた。


「ちょ、ちょっとお待ちください! 夢の中で踏み潰されたら、わたしはどうなってしまうのでしょう? わたし、死なない努力をするという約束を、魔女さんと交わしているのです!」


『どうでしょう……現実のあなたが魂を返してしまうようであれば、その罪は僕が贖うのです……』


「そんなの、駄目ですよー! ロムロムさんが、そんな罪をかぶる必要はありません!」


 竜亀は答えず、その巨大な口をくわっと開いた。

 そこから生えのびた牙に頭を噛み砕かれそうになったフィリアは「ひゃー」と声をあげながら、闇の中をひたすら転がる。上下もわからぬ闇の中であるために、フィリアは立つことも走ることもかなわなかったのだ。


「お、お願いですから、やめてくださいー! わたしは魔女さんとの約束を破るわけにも、あなたを罪人にするわけにもいかないのですー!」


『……でしたら、ご自分のお力でどうにかしてください……ここはあなたの夢の中なのですから、あなたの好きにできるはずでしょう……?』


「そ、そんなこと言われてもー! ……ぐえっ」


 フィリアの腹のど真ん中が、竜亀の前肢に踏みにじられた。

 くすんだ金色に照り輝く巨大な顔が、間近からフィリアを覗き込む。


『これでおしまいなのです……あなたはしょせん、ここまでの人間であったのです……』


 フィリアのあばら骨が、めきめきと軋んだ。

 鋭い爪が衣服と皮膚を引き裂いて、大量の鮮血を噴出させる。ただし、その血も灰色がかった白色であった。


「く、苦しいですー……これ、本当に夢なのですかー……?」


『夢なのです……だけど魔術の世界においては、夢と現実に大きな違いはないのです……』


「だったらやっぱり、あなたがわたしを傷つけるのは禁忌じゃないですかー! そんなことをしたら、駄目です!」


 次の瞬間、世界が白銀の閃光に包まれた。

 竜亀の弱々しげな悲鳴が響き、それと同時にフィリアの身体が解放される。

 フィリアは「げほっ」と血の塊を吐いてから、半身を起こした。

 世界は暗黒に閉ざされており、竜亀の姿はどこにもない。


「あれー? ロムロムさん、どこに行っちゃったんですかー?」


 きょろきょろと視線をさまよわせたフィリアは、途中で息を呑むことになった。

 自分の右手に宝剣が握られていることに、ようやく気づいたのだ。


「ど、どうして宝剣が? あの『封印の匣』は、魔女さんじゃないと解放できないはずですよー? わたしだって、縛りの術式を解放していませんし!」


 しかしやはり、答えるものはいなかった。

 フィリアは「あうう」と左手だけで頭を抱え込む。


「まさかわたしは、ロムロムさんを退治してしまったのでしょうかー? これじゃあ余計に、魔女さんに叱られてしまいますー!」


『案ずることはありません』


 と――闇の向こうから、とても優しげな声が響きわたった。

 フィリアはきょとんと、顔をあげる。


「いまの声は……母様ですか?」


『そうですよ、フィリア』


 闇の中に、白い人影が浮かびあがる。

 まごうことなき、それはフィリアの母親であった。


「わーい、母様だー! 夢の中だと、いっつもこうやって母様にお会いできるのですよねー!」


 思わず喜色を満面に広げてから、フィリアは再び眉を下げた。


「でもでも、いまはそれどころではないのですー。ロムロムさんが死んじゃってたら、わたしはどうしましょう……」


『案ずることはないと言ったでしょう? あなたは正しいことをしたのですよ、フィリア』


 そう言って、フィリアの母親は慈愛にあふれた笑みを浮かべた。


『石の都の住人にとって、魔術に属する存在は悪であるのです。あなたは悪しき魔物を退治しただけなのですから、何も気に病む必要はありません』


「でもでも、ロムロムさんは決して悪いお人ではなかったのですー! 美味しい料理をたくさん食べさせてくれましたし!」


『それだって、あなたを油断させるための罠であったのですよ。実際に、あの魔物はあなたに襲いかかってきたではないですか?』


 やわらかい微笑をたたえたまま、母親がフィリアに近づいてくる。

 そのしなやかな指先が、フィリアの髪をそっと撫でた。


『あなたは何も悪くありません。あなたは、わたくしの誇りです。……いつも、そう言ってあげていたでしょう?』


「……はい。母様からかけてもらった言葉は、ひとつ残らずすべて覚えています」


 フィリアは、にこりと微笑んだ。

 その頬を、透明の涙が伝っていく。

 その手に握っていたはずの宝剣は、いつしか消え去ってしまっていた。

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