2 第二の魔女

 その日の、夜である。

 人間としての顔に戻されたフィリアは、満面に笑みをたたえながら、魔女エマの仏頂面を覗き込んでいた。


「夜ですね! このお家の中にいると昼も夜もわからなくなりますけれど、おなかの空き具合からして、夜になったかと思われます! そろそろ出発の頃合いではありませんか?」


「やかましいのう。おぬしは何を騒いでおるのじゃ」


「だって、他の魔女さんにお会いできるなんて、わたしは想像もしていなかったのです! これが騒がずにおられましょうか!」


 はしゃぐフィリアと対照的に、魔女エマは昼からずっと不機嫌そうな顔をしていた。そんな主人と客人の姿を、ジェラはいくぶん悩ましげに見比べている。


「つくづくおぬしは楽天的であるのじゃのう。魔術の世界に生きる人間と、石の都に生きる人間は、決して相容れない存在であるのじゃぞ?」


「はい! だけど、《黒き沼の魔女》という御方はわたしを晩餐に招いてくれたのですから、それほどの敵意はないのではないですかー?」


「敵意はなくとも、好意などは持つはずがなかろう。そうであるにも拘わらず、わざわざおぬしを晩餐に招こうというのが、解せぬのじゃ」


 そう言って、魔女エマは鼻のあたりに皺を寄せた。


「そもそも、我とあやつはおたがいを家に招き合うような間柄ではないのじゃからな。いったい何を企んでおることか、知れたものではないわい」


「では、魔女と魔女の魔術合戦ですか? それも、心が躍りますねー!」


「…………」


「あ、嘘です嘘です! 魔女さんがお仲間と相争うことなど、わたしはこれっぽっちも望んでおりません! 平和が一番! 平和大好きー!」


「思わず八つ裂きにしてやりたくなるほどの浮かれっぷりじゃのう」


 重い溜め息をつきながら、魔女エマは長椅子から立ち上がった。

 壁からのびてきた蔓草が、その肩に外套マントをかけ、手には杖を握らせる。


「とはいえ、こうまで正面から挑まれたら、それをじゃけんにすることもできん。ジェラよ、おぬしも何があろうとも、決して短慮を起こすのではないぞ?」


「はい。重々承知しております」


 厳しい表情で答えてから、ジェラはフィリアのほうを見た。

 その秀麗な形をした眉が、苦しげに寄せられる。


「お客人……わずか10日ばかりのおつきあいでしたが、あなたと過ごした日々を忘れることは決してないでしょう」


「はい、ありがとうございます! ……あれ? まるで今生のお別れみたいなご挨拶でありますねー?」


「はい、おそらくあなたは、この夜に魂を返すことになるのでしょう」


「でもでも、魔術の世界に生きる人間は、罪なき人間を傷つけることを禁忌にしているというお話ではありませんでしたかー?」


「《黒き沼の魔女》というのは、きわめて思慮深く、そして、計算高い御方でもあるのです。あなたを罪人に仕立てあげることや、あるいは自分の手を汚さぬままに生命を奪うことなど、思いのままでありましょう」


 そのように語りながら、ジェラはほろりと涙を流した。

 フィリアは頭をかきながら、魔女エマのほうに向きなおる。


「えーと……《黒き沼の魔女》という御方は、そんなにも無慈悲な御方なのでしょうか?」


「魔術師が、石の都の人間に慈悲をかける理由はない。9割がた、おぬしの生命は今日までじゃろうな」


「そうなのですかー! そうとは知らず、ついつい浮かれた姿を見せてしまいました!」


 そんな風に言ってから、フィリアは「てへへ」と頭を掻いた。


「ロムロムさんがお帰りになってから、ずーっとおふたりが暗いお顔をしていたので、なーんかおかしいなーとは思っていたのですよねー。なんだか、幸せな心地ですー」


「な、何が幸せだというのですか? あなたは今日、魂を返すことになるかもしれないのですよ?」


「はい。おふたりがそこまでわたしなどのことを気にかけてくださっていることが、幸福でたまらないのですー」


 魔女エマは、「ふん!」と勢いよくそっぽを向いた。


「我はただ、おぬしなんぞに『癒やしの宝珠』を使うてしまったことを惜しんでいただけじゃ! あれを錬成するには、途方もない労力がかかるのじゃからな!」


「あー確かにー。たった数日分の寿命をのばすために、そんな大事な宝珠を使わせてしまっただなんて、これは申し訳ない限りですねー」


 魔女エマはそっぽを向いたまま、フィリアの笑顔をねめつけた。


「……おぬしはどうせ、自分の生命などどうでもよいと思っておるのじゃろうな」


「はいー。もちろん無駄死にはしたくないですけれど、《黒き沼の魔女》という御方だって、理由もなくわたしを殺めようとしているわけではないのでしょうからねー」


「おぬしのそういう部分は、実に気に入らん」


 魔女エマはフィリアのもとまで歩を進めると、その胸ぐらをひっつかんだ。


「我はおぬしの身柄をひと月預かると約定を交わした。よもや、それを忘れたわけではあるまいな?」


「はい、もちろんですー。それがどうかなさいましたか?」


「では、そのひと月の間におぬしが不測の事態に見舞われれば、それは我の不手際ということになる。ジェラがおぬしに犯した罪も、贖われぬまま宙を漂うこととなろう」


 魔女エマは金色の目を爛々と燃やしながら、そのように述べたてた。


「つまりおぬしには、この家の客人としてひと月を過ごしてもらわねばならんのじゃ。よって、この夜に魂を返すことはまかりならん」


「はあ。それでは、どうしたらいいのでしょう?」


「死なぬ努力というものをしてみせよ。さすれば、すべてが丸く収まる」


 フィリアはしばしの沈黙ののち、「わかりました」と微笑んだ。


「魔女さんにそんな風に言っていただけたら、生きる希望がむくむくとわいてきました! 何ができるかはわかりませんが、死力を尽くして生き抜いてみようかと思います!」


 魔女エマは「ふん」と鼻を鳴らしてから、フィリアを解放した。


「では、出発するぞ。家を訪問する際の礼儀じゃから、外套マントを身につけよ」


「はーい、承知いたしました!」


 フィリアは壁に掛けていた外套マントを羽織りつつ、「あ」と目を輝かせた。


「魔女さん魔女さん、次善の策を思いつきました! なかなか妙案だと思うのですが、如何でしょう?」


「何じゃ? どうせまたロクでもない話なのじゃろうな」


「もしも《黒き沼の魔女》さんがお怒りなようでしたら、わたしを殺めるのはひと月後にしていただくのです! そうしたら、魔女さんとの約定も果たせますし――」


 魔女エマは振り返りざまに、フィリアのこめかみへと杖の先端を叩きつけた。


「もうよいから、おぬしはずーっと口をつぐんでおれ! 一言でも喋ったら、《黒き沼の魔女》よりも先に、我が昇天させてくれるわ!」


「いたーい! ひどいですよー、魔女さん……あり? また兎さんになってるー!」


「いちおうの用心じゃ。おぬしは本物の兎さながらに口をつぐんでおれ」


 そのように言い捨ててから、魔女エマは長衣ローブの内側をまさぐった。

 そこから取り出されたのは、細くて鋭い獣のあばら骨である。ロムロムが預けていったもので、それが《黒き沼の魔女》の招待状であった。


「では、出発じゃ。いきなり襲いかかってきたりはせんじゃろうが、決して気を抜くのではないぞ」


 魔女エマは身を屈めて、小さな骨を壁にたてかけた。

 それから杖の先端を骨の表面に触れさせると、壁にぐにゃりといびつなゲートが開く。


 魔女エマ、ジェラ、フィリアの順番で、そのゲートをくぐり抜けた。

 その先に待ち受けていたのは、黒みを帯びた岩盤で形成された鍾乳洞である。

 岩盤はじっとりと水気を含んでおり、あちこちに生えた苔がぼうっと青白い光を浮かべている。なんとも陰鬱な様相であった。

 魔女エマはまた「ふん」と鼻を鳴らしてから、大きな声を張り上げる。


「《黒き沼の魔女》の招きによって、参じたぞ! 我は《針の森の魔女》、エマ=ドルファ=ヴァルリエートである!」


 正面の岩盤に新たなゲートが開かれて、そこからロムロムがまろび出てきた。


「よ、ようこそいらっしゃいました。主人がお待ちなのです」


 ロムロムは気弱そうに視線をさまよわせながら、自分の出てきたゲートを指し示した。

 そこをくぐると、また岩盤で形成された空間である。しかし今度は、いびつながらも楕円形をした、天然の広間とでもいうべき様相であった。


 周囲の壁も天井も、すべてが黒みがかった岩盤であり、ただ足もとにはけばけばしい色彩の敷物が一面に敷かれている。また、天井のあちこちに炎に似た色の明かりが灯されており、部屋全体を橙色に照らし出していた。


 その敷物の最果てに、小さな人影がちょこんと座している。

 ロムロムの案内で、3名はそちらに歩を進めることになった。


「お、お客人が到着しましたのです」


「ロムロム、ご苦労でした」


 感情の欠落した声が、岩造りの部屋に響きわたる。

 その人物――《黒き沼の魔女》は、実に奇妙な姿をしていた。

 巨大な山羊の頭骨をかぶっているために、どのような顔をしているのかもわからない。ただ、頭骨の左右からは、美しい白銀の髪がこぼれ落ちていた。


 その身に纏っているのは漆黒の長衣ローブで、銀色の首飾りをじゃらじゃらと下げている。身体の大きさは、10歳児ぐらいに見える魔女エマとあまり変わりはないようだった。


「お待ちしていました、《針の森の魔女》。あなたと会う、ひさかたぶりです」


 ちょっとたどたどしい、異国の民さながらの喋り方である。

 白く照り輝く山羊の頭骨を見下ろしながら、魔女エマは「ふん」と鼻を鳴らした。


「そちらも息災そうで何よりじゃの。して、我らにいったい何用じゃ?」


「用件、ロムロム、伝えたかと思いますが」


 頭骨に空いた黒い眼窩が、ロムロムのほうを見る。

 ロムロムは恐縮しきった様子で身を縮めながら、「はいぃ」と答えた。


「よ、用件は昼に伝えましたのです。こ、これは新たな従僕を迎えられたエマ様を、お祝いするための晩餐会なのです」


「はい。過不足、ありません」


 禍々しい2本の角を生やした山羊の頭骨が、静かにうなずいた。


「新たな従僕、迎えたこと、祝福します。祝いの晩餐、準備しています。お楽しみいただけたら、幸いです」


 そう言って、《黒き沼の魔女》は3名にも着席をうながすように、右腕を差し伸べた。

 漆黒の長衣ローブから覗くその手も、炭を塗ったように漆黒の色合いをしており、そして、手の甲には灰色がかった色彩で、魔女の刻印が刻みつけられていた。

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