第4幕 黒き沼の魔女

1 魔女の使者

 フィリアが魔女エマの家に逗留してから、10日目のことである。

 その日の昼下がり、魔女エマが普段通りに秘薬の調合に励んでいると、それを見物していたフィリアが「ねえねえ」と声をかけた。


「あのさ、ちょっと魔女さんに聞きたいことがあるんだけど」


「……何じゃ、そのぞんざいな言葉づかいは? 殺すぞ」


「てへへ。そろそろ気安い言葉をつかっても許されるかなーと思ったのですけれど、時期尚早でしたか―」


「一気に距離を詰めすぎなんじゃ! 人間づきあいが下手にもほどがあろう!」


「そんなに怒らないでくださいよー。ちょっとした茶目っ気じゃないですかー」


 フィリアはこたえた様子もなく、にぱっと笑った。


「それでですね、魔女さんにおうかがいしたいことがあるのですけれどー」


「天地がひっくり返っても答えたくない気分じゃな」


「そんな意地悪なこと言わないでくださいよー。わたしにとっては、とても大事なことなのです!」


 椅子の上から身を乗り出しつつ、フィリアは言葉を重ねた。


「あのですね、わたしがこちらにお邪魔してから、もう10日目となりましたよね」


「うむ。苦悩と憤懣にまみれた日々であったな」


「で、わたしはつい4日前まで、おなかに穴が空いて昏睡の状態にありましたよね」


「うむ。あのままくたばっておれば、誰もが笑顔であったじゃろうにのう」


「わたしは丸3日もの間、ずっと意識を取り戻さずに昏睡していたのです。この期間も、逗留を許していただけたひと月の中に含まれてしまうのでしょうか?」


 慎重な指づかいで硝子瓶に青色の粉末を注ぎ込んでいた魔女エマは、うろんげに眉をひそめてフィリアの姿をねめつけた。


「おぬしが何を言わんとしておるのかさっぱりわからんのじゃが、これは我の理解力が足りておらぬのかの」


「はい、そうだと思います」


「くびり殺すぞ」


「わたしはあの3日間、この家で過ごしていたという自覚がないのです! だから、ひと月という逗留の期間から、その3日間は差し引いていただけませんかー?」


「またわけのわからんことを……意識があろうがなかろうが、おぬしがこの場所で過ごしておった事実に変わりはなかろうが?」


「変わりがないことはありません! わたしには意識がなかったのですから、そんなものは存在しなかったも同然です。よって、あの3日間は期間外であったと認めていただきたく思います!」


「どれだけ傲岸な人間であれば、そのように身勝手な要求を思いつくことができるのかのう」


「わたしぐらい傲岸な人間であれば、これぐらい身勝手な要求を思いつくことができるのだと思います」


「…………」


「あとですね。魔女さんが逗留を許してくださったのは、わたしがこの家を訪れて2日目のことです。ということは、最初の1日は期間に含まれないということですよね? ね? ね? そうですよね?」


「必死じゃのう、おぬし」


「はい。それも認めていただければ、わたしはまだこの家で6日間しか過ごしていないことになります。残り25日間、どうぞよろしくお願いいたします」


「待て。しれっと1日増えておるではないか。ひと月といえば、普通は30日じゃろうが?」


「いえいえ、年に数回は31日の月があるのですから、そちらに合わせることにしましょう」


「30日で終わる月のほうが圧倒的に多いのに、どうしてそちらに合わさなければならんのじゃ」


「それにわたしは、ひとつの考えに思い至りました。閏月うるうづき、ご存知ですよね?」


「つくづく人の話を聞かん娘じゃな。……閏月が、何だというのじゃ」


「この大陸において、1年は12ヶ月で構成されています。ですが、この暦を運行していると、いずれ季節とのズレが生じてしまうため、それを調節するために、3年に1度、13ヶ月の年を差しはさむ。その余分に生まれた13番目の月が、閏月です」


「それぐらいは、我とてわきまえておるわ。そもそも月と星の運行を読み解いて暦というものを生み出したのは、魔術師であるのじゃぞ?」


「はい。その閏月の概念を持ち込むと、ひと月の逗留期間がふた月になる……という事態もありえるのではないでしょうか?」


 魔女エマは調合を終えた硝子瓶に蓋をすると、それを大事そうに卓に置いてから立ち上がり、壁の蔓草が運んできた木の杖を受け取るや、裂帛の気合とともにフィリアの脳天へと振り下ろした。


「いたーい! 魔女さん、ひどいですー!」


「ひどいのは、おぬしの倫理観じゃ! わけのわからん与太話を長々と聞かせおって!」


 魔女エマは、金色に光る瞳を部屋の隅に差し向けた。

 そこでは椅子に座したジェラが、優雅に編み物にいそしんでいる。


「おぬしも何とか言うたらどうじゃ! というか、主人がこれだけロクでもない災厄に見舞われておるというのに、知らんぷりとはどういうことじゃ!」


「申し訳ありません。おふたりがあまりに楽しげであったので、口をはさむ機会を逸しておりました」


「何をどう聞いておったら、これが楽しげに聞こえるのじゃ!」


 わめきながら、魔女エマはどすんと長椅子に腰を下ろした。


「だいたいな、おぬしは我に弟子入りを願っておったのじゃろうが? それとも、ひと月が過ぎたら大人しく帰る心づもりになったのか?」


「いえいえ、とんでもない! わたしは何としてでも、魔女さんに弟子入りを認めていただく所存ですー!」


「じゃったら、逗留期間なんぞ取り沙汰する意味はなかろうが?」


「いえいえ、魔女さんを篭絡するには時間がかかりそうなので、なるべくゆとりを持たせたかったのですよー」


 そこでフィリアは、ぽんと手を打った。


「あ、そうだ! いますぐ弟子入りを認めてくだされば、客人としての逗留期間はいつ打ち切ってくださってもかまいませんよー?」


「おぬしと語らっておると、こちらの知能まで低下してしまいそうじゃ」


 そのとき、コンコンという来客を告げる音色が響いた。

 虚空に目をやった魔女エマは、「うむ?」とうろんげに眉をひそめる。


「どうしたのですー? 使い魔さんを入れてあげないのですかー?」


「これは、使い魔ではない。客人じゃ」


「えっ! 魔女さんのお家にも、客人などが訪れるのですか?」


 フィリアの問いには答えぬまま、魔女エマはしばし思案した。

 その末に、杖の先端でフィリアのこめかみを殴打する。


「いたーい! どうしてわたしを叩くのですかー!」


「やかましいわい。いちおうおぬしの人相を隠しておこうと思ったまでじゃ」


「人相?」と首を傾げながら、フィリアは自分の顔をまさぐった。


「あー! また兎さんになってるー! 変化の術だー、わーいわーい!」


「やかましい。我が許しを出すまで、おぬしは口をつぐんでおれ」


 魔女エマは、羽虫でも追い払うように手を振った。


「そら、おぬしはジェラのもとに控えておるのじゃ。勝手に口をきいたら、今後は『魔女の正餐』しか食べさせぬからな」


 フィリアは椅子から立ち上がると、兵士のように敬礼をしてから、ジェラのほうに足を向けた。

 ジェラはすでに編み物を取りやめて、壁を背にして立っている。その黒い瞳には、鋭い射るような光が灯されていた。


 フィリアがジェラの隣に立ち並ぶのを待ってから、魔女エマは「入れ」と入室の許可を出す。

 それと同時に「はわわー!」という悲鳴が響き、何か丸っこいものが天井から落下してきた。

 床に墜落したその物体は、頭を抱え込みながら「あうう」とあわれげな声をもらす。


「お、おひさしぶりなのです、《針の森の魔女》……あうう、いたいよぅ」


「相変わらず、どんくさいのう。おぬしが姿を見せるのは、ずいぶんひさびさじゃな」


「は、はい。我が主の命により、参上つかまりましたのです……」


 床にうずくまっていたその物体が、のそりと身を起こした。

 それは、身長も年齢もフィリアと同じていどに見える、ごく無害そうな少女であった。


 丸顔で、深い緑色の大きな目にはとろんと眠たげにまぶたがかぶさっており、鼻は小さく、口が大きい。なかなか愛嬌のある顔立ちで、左右でちょろんとおさげにされた髪はくすんだ黄褐色をしていた。

 その身に纏っている外套も、髪と同じく黄褐色であり、その下には旅人風の胴衣や脚衣を着込んでいる。しかしもちろん、腰に刀を帯びたりはしていなかった。


「……客人とは、あなたでしたか。確かに、ずいぶんひさかたぶりの来訪であるようですね」


 壁際からジェラが声をあげると、少女はおどおどとそちらを振り返った。


「お、おひさしぶりなのです、ジェラ。お、お元気なようで、何よりなのです」


 少女は一瞬だけフィリアのほうを見やると、すぐに魔女エマへと向きなおった。


「そ、それでは主人からの言葉をお伝えさせていただきたく思うのですが、よ、よろしいでしょうか?」


「ふん。どのような用件であるかは知らんが、どうせそこの兎の顔をしたうつけ者にまつわる話であるのじゃろうな」


「はわわ。ど、どうしてそれをご存知なのですか?」


「このような時期にいきなり使者を送りつけられれば、嫌でも察することができるわい。……おぬしたちも、こちらでともに話を聞くがよい」


 魔女エマが杖をひとふりすると、硝子瓶をのせた卓が遠ざかっていき、空いた空間に椅子が生えのびた。長椅子の近くに2脚、それと向かい合う格好で1脚という配置である。フィリアとジェラが長椅子の近くに着席し、客人が向かいに腰を下ろすと、魔女エマはしかつめらしい面持ちで口を開いた。


「この者はロムロムといって、《黒き沼の魔女》の従僕じゃ。我にとってのジェラと同じ立場であるわけじゃな」


 フィリアは無言のまま、兎の瞳をきらめかせた。

 いっぽうロムロムと紹介された少女は、恐縮しきった様子で縮こまっている。


「《黒き沼の魔女》は、石の都の住人が言うところの、東の王国を根城にしておる。予言や読心を得意とする、いけ好かない輩じゃ」


「わ、我が主人はご立派なお人なのです。け、決していけ好かない輩などでは……ないと思うのですけれど……あうう」


 と、ロムロムは黄褐色の頭を抱え込んでしまう。

 長椅子にふんぞり返った魔女エマは、面白くもなさそうに肩をすくめた。


「すまんの。おぬしの気弱げな顔を眺めておると、ついつい嗜虐の気持ちをかきたてられてしまうのじゃ。魔女の従者としては申し分のない力を持ちながら、どうしておぬしはそう意気地がないのかのう」


「も、申し訳ないのです。ぼ、僕は元来、気弱なもので……」


「まあよい。それで、《黒き沼の魔女》めは、なんと言うておるのじゃ?」


「は、はい。我が主人は、みなさまがたを晩餐にお招きしたいと仰っているのです。ご、ご了承いただけますでしょうか?」


「晩餐?」と、魔女エマは杖の先端で頭を掻いた。


「いかにもあやつらしい、迂遠なやり口じゃの。要するに、このうつけ者のことを探りたいのじゃろうが?」


「は、はい。《針の森の魔女》が新たな従僕を迎え入れたのなら、ぜひともそれを祝福させていただきたいと仰っていたのです」


 魔女エマは、長椅子の上でがくりとくずおれた。


「あのなあ……我は従僕など迎えておらんぞ。こやつはただの、居候じゃ」


「は、はあ、そうなのですか? で、でも、魔術師が従僕でもない人間を家に招き入れるわけがない、と我が主人は仰っていたのですが……」


 ロムロムは、眠たげな目でフィリアの顔をちらちらと見やっていた。

 フィリアは期待に満ちた眼差しで、魔女エマとロムロムの姿を見比べている。

 魔女エマの眉間には、これ以上ないぐらい深い皺が刻まれてしまっていた。

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