7 生還

「いやー、さすがに今回ばかりは、魂を返すことになるかと思いましたよー」


 寝台に半身を起こしたフィリアは、正体の知れない朱色の果実を美味しそうにかじりながら、笑顔でそのように述べたてた。


「とはいえ、魔女さんに傷口をぐりぐりされたあたりから、記憶はないのですけどねー。あれってとどめを刺されてるのかと思いましたけれど、本当はわたしに治癒の魔術をほどこしてくれていたのでしょう?」


「さて、どうじゃったかの」


 床から生やした椅子にふんぞり返った魔女エマは、不機嫌の極みといった表情でそのように言い捨てた。

 もちろん両名とも、変化の術式は解かれている。辺境の町の妖魅を退けてから、すでに3日が経過しているのだ。


 3日間の昏睡からようやく目覚めたフィリアは、以前と変わらぬ無邪気な笑みをたたえながら、しゃりしゃりと果実をかじっている。昏睡している間も『魔女の正餐』を口の中に流し込まれていたために、これといってやつれた様子はない。灰色の夜着に包まれたその身体にも、若鹿のごとき生命力が蘇っていた。


「やっぱり魔女さんはすごいですねー! あんなに大きな穴がおなかに空いてたのに、すっかりふさがっちゃいました! ほらほら、傷痕すら残っていないのですよー? ついでに左腕の傷まで完治しちゃいましたし!」


「見せんでいい! ……まったく、余計な手間をかけさせおって。『癒しの宝珠』を錬成するのに、どれだけの労力が費やされていると思っておるのじゃ」


 魔女エマがぶちぶちとぼやくと、フィリアは「ごめんなさい」と頭を下げた。


「でもでも、わたしのことなんて見捨ててくださってもよかったのですよー? 魔女さんに弟子入りできないなら、生きている甲斐もないのですからねー」


「……じゃったら、宝珠を吐き出してみい。そうすれば、お望み通りに昇天できるじゃろうよ」


「えー? どうすれば吐き出せるのですかー? お返しできるなら、お返しいたしますよー?」


 魔女エマは椅子の背もたれに片腕をかけてそっぽを向きつつ、「ふん!」盛大に鼻を鳴らした。


「『癒しの宝珠』は人間の体内で分解され、血や肉や骨と化すのじゃ。術式の後に吐き出せるわけがなかろう」


「なーんだ、そうなのですねー。申し訳ない限りですー」


 そう言って、フィリアはふにゃりと微笑んだ。


「まあ何にせよ、魔女さんがお元気そうで何よりですー。夢の中で母様と楽しく語らっている間も、それだけが気がかりであったのですよー」


「死にかけた人間に気づかわれる筋合いはないわい! おぬしが余計な手出しをせずとも、あのような木っ端妖魅は返り討ちにできたのじゃからな!」


 魔女エマが何度目かのわめき声をあげたとき、寝所の扉が外から叩かれた。

 入室してきたのは、もちろんジェラである。いつも通りの凛然とした面持ちで、ジェラはフィリアのもとまで歩を進めた。


「ずいぶん賑やかなことですね。もう騒ぐ元気を取り戻されたのですか?」


「いえいえ、騒いでいたのは魔女さんだけですよー。従者さんもお元気そうで何よりですー」


「それはまあ、ここ3日間のあなたに比べれば、この世の生けとし生けるもののすべてが元気であったことでしょう」


 あくまで淡々と応じながら、ジェラはその手に抱えていたものをフィリアのかたわらに置いた。もともとフィリアが纏っていた装束の一式である。


「破れた部分はつくろって、血の汚れも清めておきました。石の都の装束であるので勝手が違いましたが、それほどの不備はないかと思われます」


「わあ、ありがとうございますー! お世話をかけちゃって、申し訳ありませんでしたー」


「……あなたに礼や謝罪の言葉を言われる筋合いはございません」


 そのように言い捨ててから、ジェラはフィリアの耳もとに唇を寄せた。


「むしろ、礼を言うべきはこちらでしょう。あなたはエマ様をお救いするために、それほどの深手を負うことになってしまったのですからね」


 そのように囁くジェラの瞳には、とてもやわらかい光が灯されていた。

 フィリアはきょとんと目を丸くしたのちに、「えへへ」と気恥ずかしそうに頭をかく。


「やめてくださいよー。大事な大事な使命を持つ魔女さんに比べたら、わたしの生命なんてなーんの価値もないのですからねー。こんなの、当たり前のことじゃないですかー」


「しかしあなたは、魔術師になりたいという野望を秘めておられるのでしょう? 魂を返してしまったら、その野望も潰えてしまうではないですか」


「そんなのは、わたしひとりの勝手な願いですからねー。そんなものは潰えてしまったほうが、世のため人のためなのではないですかー?」


 そんな風に言ってから、フィリアはにっこりと微笑んだ。


「でもでも、自分からこの願いを手放すことはできませんので! 生命ある限りは、どうぞおつきあいをお願いいたしますー」


「まったく、あなたというお人は……隅から隅まで破綻しておられるのですね」


 困ったように微笑みながら、ジェラは主人のかたわらまで身を引いた。

 魔女エマは、むくれた顔でそっぽを向いたままである。

 にこにこと笑いながらその姿を見比べていたフィリアは、果実の最後のひと口を呑み込んでから、「そういえば」と発言した。


「あの、妖魅に襲われた町はどうなったのですかー? 妖魅の殲滅は、もちろん完了したのでしょう?」


「はい。ですが、妖魅とともに町そのものも壊滅することになってしまいました」


「え?」と、フィリアは目を丸くする。


「町が壊滅って、どうしてですかー? みーんな妖魅に憑依されちゃったのですかー?」


「いえ。少なくとも領民の過半数は、生き永らえたはずです。しかしその代わりに、町を囲んでいた木の塀や家屋などが、あらかた焼失してしまったのです。領民たちは、余所の町に移り住むこととなったようですね」


 フィリアは「ほへー」と、おかしな声をあげた。


「それは大変なお話ですねー。でもでも、魔女さんの魂は大丈夫だったのですか?」


「はい。エマ様の魂がどうかされましたか?」


「だって、罪もない人間を殺めるのは、大きな禁忌なのでしょう? 火事で人が死んでしまったら、それは魔女さんの責任になってしまうのではないですか?」


「ええ。ですが、火災による死者はありませんでした。逃げ遅れた人間は、私とエマ様が力ずくで外に放り出しましたので」


「なるほどー」とうなずきかけてから、フィリアは「あり?」と首を傾げた。


「でもでも、そういう火事を起こさないために、魔女さんは泥人形ゴーレムさんの魔術を使ったのではありませんでしたっけ?」


「…………」


「もしかしたら、従者さんが火事を起こしてしまったのですか?」


 心配そうにフィリアが問うと、ジェラは「いえ」と苦笑した。


「私の受け持った側にそれほどの妖魅はおりませんでしたので、そのような失敗は犯さずに済みました。妖魅の大半は、エマ様のほうに向かってしまったのでしょう」


「あー、そうだったのですかー。せっかく泥人形ゴーレムさんまで引っ張り出したのに残念でしたねー、魔女さん」


「やかましいわい!」と、魔女エマは虚空に向かってわめきたてた。


「どのみちあの場所は、瘴気に犯されておったのじゃ! 首魁の妖魅は地の底に潜ってしまったのじゃから、この先も死者が出るたびに屍鬼グールが生まれておったことじゃろう! しょせんは人間ではなく妖魅の領土であったということじゃ!」


「あー、なるほど。でもでも、これでまた魔女さんの間違った風聞が流されてしまうのではないですか?」


「べつだん、間違ってはいないのでしょう。家屋や塀を焼いたのは、エマ様の魔術に他ならないのですからね」


 魔女エマが横目でねめつけると、ジェラは慌てて居住まいを正した。


「……何にせよ、石の都の住人の風聞など、我らには関わりのないことです。真実を見抜く目も持たない愚民どもに、弁解や釈明をする理由などございません」


「そうですかー。わたしも石の都を捨てた身ですから、風聞などはどうでもいいのですけれど……でもでも、魔女さんや従者さんにあらぬ疑いの目を向けられるのは、ちょっと面白くないですねー」


「何故です?」と、ジェラは不思議そうに問いかけた。

 難しげな表情を浮かべかけていたフィリアは、「あはは」と笑い声をあげる。


「そんなの、決まってるじゃないですかー。わたしにとって、おふたりは何よりも大事な存在であるからです!」


 ジェラは不意打ちを食らった様子で、身をのけぞらせた。

 いっぽう魔女エマはそっぽを向いたまま、横目でフィリアをねめつけている。


「ふん! 我にとってのおぬしなんぞは、道端の石ころにも等しい存在じゃがな!」


「えっ! 魔女さんは、そんな相手に大事な宝珠を使ってくださったのですか? それは、慈悲深さの極致ですねー」


 フィリアは感じ入ったように、天を仰いだ。


「わたしもそれぐらい、慈悲深い人間になりたいものですー。道端の石ころにも等しい存在に情けをかけるなんて、なかなかできることじゃないですよねー」


 魔女エマはくたびれ果てた様子で、椅子の背もたれにしなだれかかった。

 そんな主人の様子を盗み見しながら、ジェラは笑いをこらえている。

 フィリアは何も気づいていない様子で、さまざまな感慨を噛みしめているようだった。

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