5 峡谷の怪

 魔女エマの生み出した光の門ゲートをくぐると、そこは荒涼とした岩山の中腹であった。

 いくぶん黄色みを帯びた岩盤がどこまでも続いており、ところどころにしなびた樹木が生えのびている。人間どころか獣すら潜んでいなそうな、実に陰鬱な風景である。


「ふーん、へーえ、ここは大陸のどのあたりなのでしょうねー?」


 かたわらのジェラは、表情を殺して立ち尽くしている。ふたりがくぐってきた光の門ゲートは、すでに跡形もなく消滅していた。


「……それでは、エマ様の結界までご案内いたします。こちらにどうぞ」


「はーい、ありがとうございます! ……あの、従者さんはわたしの先輩さんになられる御方なのですから、もっとぞんざいに扱ってくださってかまわないのですよ?」


「……この試練を終えるまでは、あくまで客人の立場であられますので」


 そんな風に述べてから、ジェラはぎらりと双眸を光らせた。


「ただし……あなたが本当にエマ様の従者となられたあかつきには、私も先達として然るべき対応をさせていただきます」


「はーい、よろしくお願いいたします!」


 そうしてふたりの娘は、そこそこの険しさを持つ岩山を進み始めた。

 硬い岩盤を踏みしめながら、フィリアはかたわらのジェラを見上げる。


「従者さんって、背が高いですよねー。わたしの故郷の殿方でも、こんなに背の高いお人はそんなにいなかったように思いますよー」


「…………」


「それに、すごく綺麗な黒髪ですね! 黒い髪も黒い瞳も、わたしの故郷ではあまり見ない色合いです。従者さんのお生まれはどちらなのですかー?」


「……私の故郷は魔術師の聖域であり、その場所を石の都の住人に語ることは禁忌とされております」


「へー! それじゃあ従者さんも、魔術師の一族だったのですか?」


 ジェラは棘のある眼差しで、フィリアの顔を見下ろした。


「……私は魔術師の一族の同胞ではありますが、同じ血族ではありません」


「同胞だけど、血族ではない? ちょっと意味がわからないですねー」


「石の都の住人に、理解の及ぶ話ではないのだと思われます」


 そこでジェラは、こらえかねたように言葉を重ねた。


「あの、私からも質問をさせていただいてもよろしいでしょうか?」


「はい、なんなりとー!」


「……あなたは本気で、エマ様への弟子入りを願っているのですか?」


 フィリアは無邪気な笑顔で「はい!」とうなずいた。

 ジェラは、くすぶる熾火のように双眸を燃やしている。


「何故です? 石の都の人間は、魔術に連なる存在を忌み嫌っているはずです」


「そうですねー。でも、わたしは魔術の世界に憧れを抱くことになりました。たぶんわたしは、生まれる場所を間違えてしまったのでしょう。石の都というのはとても息苦しくて、わたしにはとうてい耐えられないような場所であったのです!」


「……だから、魔術の世界に逃げ出そうと考えたわけですか」


「はい、まさしくその通りです! 魔女さんにも従者さんにもご迷惑をかけるばかりで、心から申し訳なく思っています!」


「……笑顔でそのような言葉を聞かされても、まったくありがたみがないようですね」


 フィリアは「てへへ」と頭を掻いた。

 ジェラはフィリアへの関心を失った様子で、押し黙る。


 そうして両名は、その場所に到着した。

 干上がった峡谷の底である。

 左右には断崖がそそり立ち、それが陽光をさえぎってしまっている。黄昏刻のような薄暗さであり、余計に陰鬱な雰囲気であった。


「……この峡谷を抜けた先に、洞穴があります。そこが、エマ様の作りあげた結界となります」


「ずいぶん歩くんですねー。もっと目的地の近くに、あの光る門を作ってくれればよかったのにー」


「……そうすると、結界にほどこした魔術に干渉してしまうのです。エマ様が、そのようなお考えもなしに道を開くとお思いですか?」


 ジェラのぶっきらぼうな返事に、フィリアは「なるほどー」とうなずく。


「ところで、その結界というのは何なのです? たしか、魔女さんのお家もその結界というもので守られているのですよね?」


「結界とは、余人の立ち入りを禁ずる空間を築く術式です。エマ様はいくつかの結界を所有しており、瘴気を帯びた魔具などを封印するために使っております」


「なるほどー。でもでも、この宝剣がお邪魔なのでしたら、森の外にぽーんと捨てちゃえばいいのではないですかー?」


「……それで心悪しき人間がその宝剣を手にしたら、何とします? それは、エマ様でさえ処理に困るほどの、不浄の存在であるのですよ?」


「あー、そっか。やっぱり魔女さんは、色々と考えておられるのですねー。あんなに可愛らしいお姿をしているので、ついつい見くびってしまいますー」


 ジェラはぎりっと歯を噛み鳴らすと、足を止めてフィリアに向きなおった。


「お客人。あなたのお言葉には、エマ様に対する敬意というものが、まったく感じられません。それで本当に、エマ様の従者がつとまるとお思いなのですか?」


「はい。考えの足りていない部分は、気合と情熱で補うつもりです!」


「……私には、とうていあなたを同胞と認めることなど、できそうにありません」


 ジェラの声に、したたるような憎悪がこめられた。

 フィリアはきょとんとした面持ちで首を傾げる。


「でもでも、わたしを傷つけるのは禁忌なのでしょう? 従者さんにも認めていただけるように頑張りますので、どうか短慮は起こさないでくださいねー」


「エマ様は、どうしてあなたのような下賤の人間を――」


 ジェラは途中で口をつぐむと、ハッとした様子で視線を巡らせた。

 その矛先は、これから向かおうとしていた峡谷の果てである。


「この気配は……まさか、妖魅が……?」


「妖魅? ここには妖魅が出るのですかー?」


「そんなはずはありません。しかし、何かの間違いで瘴気が噴出したとすると……」


 ジェラはふいに身を屈めると、足もとの岩盤に両方の手をついた。


「あなたは、下がっていてください。私が妖魅を始末します」


「えー、大丈夫なのですかー? いったん引き返すという手もありますよー?」


「それでは、途中で追いつかれることでしょう。ここで始末する他ありません」


 ジェラの黒瞳が、凄まじいまでの炎を噴きあげていた。

 その黒髪は、まるで生あるものであるかのように、ざわざわと逆立っていく。


 フィリアは頭をかきながら、後ろに退こうとした。

 そこに、上空から黒い影が飛来してきた。


「うひゃあ!」と、フィリアはひっくり返る。

 しかし、その黒影はジェラののばした右腕に弾き返されていた。

 黒影はその勢いのまま宙に弧を描いてから、金属的な咆哮をあげる。


 それは奇怪な、妖魅であった。

 細長い蛇のような体躯に、蝙蝠のごとき翼を生やしている。そのすべてが漆黒の色合いをしており、双眸だけが青い鬼火のように燃えていた。


「醜悪なる妖魅め……私の仕事の邪魔はさせん!」


 ジェラは再び両手を地面につくと、腰を高く持ち上げた。

 それと同時に、みしりと不気味な音色が響く。

 それは、ジェラの体内で骨が軋む音色であった。


 ジェラの肉体が、みしみしと形を変えていく。

 秀麗なる面はざわざわと獣毛に覆われていき、鼻面が前側にせり出した。

 その身に纏った黒い毛皮の外套マントは、いつしかジェラの肉体と一体化し――フィリアが瞬きをしている間に、彼女は巨大な一頭の黒き狼に変貌していた。


『さあ、かかってくるがいい、妖魅め!』


 フィリアの頭の中に、ジェラの声が響きわたった。

 狼と変じたその姿では、もはや人間の言葉を語ることもかなわないのだろう。


 翼を生やした蛇の妖魅は、うなりをあげてジェラのもとに急降下した。

 ジェラは横合いに跳びすさってから、目標を失った妖魅の胴体にかじりつく。

 凶悪なる白い牙に胴体を寸断された妖魅は、金属を擦り合わせるような断末魔とともに、この世から消滅した。


「す、すごいですねー。従者さんは、狼さんだったのですかー」


『近づくな! まだ終わっていない!』


 ジェラの怒号に応じるように、どこからともなく出現した黒影が飛来した。

 しかも今度は、複数である。

 ジェラは岩盤を蹴って跳躍すると、前肢の爪でそれらの妖魅どもを一掃した。


 しかし、妖魅は次々と出現して、ジェラへと襲いかかってくる。

 ジェラの攻撃を回避した妖魅の一体が、その咽喉もとに巻きついた。

 別なる妖魅が、ジェラの背中に牙を立てる。

 ジェラは咆哮をあげながら、岩盤の上でのたうち回った。


「だ、大丈夫ですか、従者さん!?」


『近づくな! そして、決してその宝剣を抜くのではないぞ! それを結界に封印するのが、エマ様のご命令であるのだからな!』


 ジェラは身を起こすと、我が身にからみついた妖魅は放置したまま、空中の妖魅へと躍りかかった。

 漆黒の狼が、漆黒の翼ある蛇を、次々と屠っていく。それは、悪夢のような光景であった。


 そして――十体以上もの妖魅がすべて消滅し、我が身にからみついていた妖魅をも爪と牙で撃退すると、ジェラはぐったりとした様子で岩盤に這いつくばった。


「お、お疲れ様でしたー! 噛まれたところは、大丈夫ですか?」


『近づくなと言っている……いや、貴様はとっとと逃げろ! 門の入り口まで戻って声を張り上げれば、きっとエマ様がお気づきになられるはずだ!』


「な、何から逃げればいいのですか? 見たところ、妖魅はすべて片付いたようですが……」


『首魁は、これから現れるのだ……貴様は、逃げろ!』


 そのとき、大地が鳴動した。

 硬い岩盤が頼りなく揺れて、フィリアに尻もちをつかせる。


 そして、それが現れた。

 岩盤の陰から滲み出るように、黒い瘴気がたちのぼっていき――それが、翼ある蛇の形を作ったのだった。


 形状は、これまでの妖魅と同一である。

 ただし、この妖魅は途方もなく巨大であった。

 胴体は、フィリアの腰よりも太い。青く燃えあがるその双眸は、フィリアの拳よりも大きかった。


「うひゃあ、これは大物ですね! 従者さんおひとりで、退治できるのですかー?」


『……たとえ私の力が及ばずとも、後の始末はエマ様がつけてくれよう。貴様は逃げて、エマ様にこのことを伝えるのだ!』


「そうですか。承知いたしました」


 フィリアは立ち上がると、『解』の呪文を口にした。

 縛りの紐は弾け飛び、フィリアは宝剣を抜き放つ。

 その姿を見て、ジェラは驚愕の声をあげた。


『な、何をやっている! 決して縛りの術式を解いてはならぬと、エマ様に申しつけられていたであろうが!』


「でもでも、従者さんを置いて逃げることはできません」


 フィリアはにっこりと微笑みながら、妖魅のほうに足を踏み出した。

 錆びた斧で鉄鍋をかきむしるような咆哮が、妖魅の口から放たれる。フィリアの身体ぐらいであれば、ひと呑みにできそうなほどの大きな口であった。


「今度は、わたしがお相手をします。この宝剣には妖魅を斬り伏せる力が備わっているとのことでありますので、そのおつもりでかかってきてください」


『よせ! 貴様などの手に負える相手では――』


 妖魅の鎌首が、フィリアのもとに突き出された。

 フィリアは両手でかまえた宝剣を、おもいきり振りかぶる。


 白銀の閃光が、妖魅の巨大な頭部を真っ二つに断ち割った。

 青い双眸が光を失い、妖魅の巨体は爆散する。

 虚空に散った黒い塵は、地面に落ちる前に消滅し、後には死のような静寂だけが残された。


「あはは。ほんとに退治できちゃいましたー」


 フィリアはジェラに向きなおりながら、白銀の宝剣を鞘に戻した。


「でもでも、縛りの術式を解いちゃったから、もう封印はできないのですよね。とりあえず、魔女さんのお家に戻りましょうかー」


『貴様は……いったい、何なのだ? いかに力を持つ宝剣であっても、それだけであのような妖魅を退治することはかなわないはずだ……』


 岩盤に力なく這いつくばったまま、ジェラは呆然とつぶやいた。

 フィリアは頭をかきながら、「てへへ」と微笑むばかりであった。

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