第2幕 魔女の従僕

1 最初の朝

 少女フィリアは、ぐっすりと寝入っていた。

 魔女の住処の、寝所である。大きな寝台の上で温かそうな毛布にくるまりながら、フィリアは実に健やかなる寝顔をさらしていた。


「……いつまで惰眠を貪っておるのじゃ、おぬしは」


 魔女エマが、その側頭部に木の杖を振り下ろした。

 ごちんと小気味のいい音色が響き、フィリアは「いたーい!」と飛び起きる。


「何をするんですかー! 魔女さん、ひどいですよー!」


「ひどいのは、おぬしの精神構造じゃ。よくもまあ魔女の住処なんぞで、何の警戒心もなく惰眠を貪れるもんじゃのう」


 昨晩はずいぶん疲弊した様子を見せていた魔女エマであるが、すっかり復調した様子であった。小さな身体に緋色の長衣ローブを纏ったその姿を、フィリアは涙目で見つめ返す。


「この部屋で休めって言ってくれたのは、魔女さんじゃないですかー。それでどうして、わたしが怒られないといけないんですかー?」


「じゃからといって、くつろぎすぎじゃろう。あれは何じゃ?」


「何って、宝剣です」


「そんなことは、言われんでもわかっておる。どうしておぬしにとっては唯一の拠り所である宝剣を、あんな風に無造作にほっぽり出しておるのじゃ? いま、我が魔術を行使したら、おぬしなんぞは一瞬で灰燼と化すのじゃぞ?」


「だってあれは、魔女さんに捧げるって言ったじゃないですか。宝剣を手もとに置いていないのは、わたしが魔女さんを心から信頼しているという証です!」


 フィリアがにっこり微笑むと、魔女エマは深々と溜め息をついた。


「娘よ、おぬしは肉を喰らうな?」


「はい! お肉は大好きです!」


「では、おぬしが兎を捕らえるために、罠を仕掛けたとする。その罠に掛かった兎に『あなたを信頼しています』などと言いたてられたら、おぬしは何とする?」


「そうですねー。その信頼に応えられないことを詫びてから、美味しくいただくことになるかと思います!」


「……では、我がおぬしをどのように料理しても、文句はないということじゃな?」


「はい、もちろんです!」


 にこにこと笑顔で答えてから、フィリアはふっと小首を傾げた。


「あれ? わたし、魔女さんに料理されちゃうのですか?」


「うむ。そうしたくてそうしたくてウズウズしておるところなんじゃが、どうするべきかのう?」


「そうですね。なるべく痛くしないでいただけると、ありがたいです」


 フィリアは胸の前で手を組むと、明るい鳶色の瞳をまぶたに隠し、魔女エマのほうに頭を垂れた。


「……どうしておぬしは、そうまで覚悟完了しておるのじゃ?」


「はい。魔術の世界で生きられないのなら、わたしに生きる意味は残されていません。すべては魔女さんの判断におまかせいたします」


「……徹頭徹尾、厄介な娘じゃのう」


 魔女エマは再び溜め息をつくと、フィリアの脳天に杖を振り下ろした。


「いたーい! 痛くしないでって言ったじゃないですかー!」


「やかましいわい! 他者の生命を軽々しく差し出された我の気持ちを考えてみよ! どうして我が、縁もゆかりもない人間を殺めて、この先の長き人生を重苦しい罪悪感とともに生きていかなくてはならないのじゃ!」


「だったら、わたしを弟子にしてくれればいいじゃないですかー? そうすれば、わたしを殺さずに済むでしょー?」


「どうして我が、そんな二者択一を迫られなければならないのじゃ! すべてはおぬしの我が儘から始まった話ではないか!」


「いやだなー。魔女のくせに、良識家ぶっちゃって」


「あ、むくむくと殺意がわいてきた。いまなら、殺せるかもしれん」


「あはは。冗談ですってばー」


 フィリアは寝台の上で座りなおすと、怒りに震える魔女エマに屈託なく笑いかけた。


「それで、どうします? 弟子入りを認めてくれますか? それとも、わたしを殺しますか?」


「……なるほど。どちらの行く末を迎えても、おぬしの側に不満はないということじゃな」


 魔女エマは、その手の杖でどんと床を突いた。


「よし、決めた! 我はどちらの道も選ばぬぞ!」


「え? それはどういうことですか?」


「おぬしの弟子入りを認めたりはせんし、おぬしを殺めたりもせん。おぬしはこれからも魂を返すその日まで、石の都の人間として生き続けるのじゃ」


「えー、それは困りますよー!」


「いっひっひ。ようやく胸がすいたわい」


 魔女エマはひとしきり満足そうに笑ってから、くるりときびすを返した。


「さて、面倒ごとも片付いたことじゃし、朝の仕事に取りかかろうかの」


「あー、ちょっと待ってくださいよー、もー!」


 フィリアは寝台から飛び降りると、壁にたてかけておいた宝剣を手に、魔女エマを追いかけた。

 扉の外は、魔女エマの部屋である。フィリアが寝所から飛び出すと、魔女エマは鼻歌まじりに巨大な棚の硝子瓶を物色していた。


「ねえねえ、魔女さん。わたしのことは、どうするおつもりなのですかー?」


「じゃから、どうもせんよ。今度おぬしが隙を見せたら、森の外にほっぽり出してやろうかの」


「そんなことしたって、わたしは何度でもやってきますからねー!」


「じゃったら、大陸の反対側にでもほっぽり出してやろうかのう。さすれば、半年や1年はその顔を見ずに済むじゃろう」


「うぬぬ……宝剣を抜いて、ひと暴れしちゃおっかなー」


「そうしたら、敵と見なして退治するだけじゃ。まあ昨日も言った通り、その宝剣の力と我の魔力は拮抗しておるから、仲良く共倒れじゃろうな」


 フィリアは、子供のように口をとがらせた。


「そんなの、駄目ですよー! 魔女さんには、妖魅を退治するっていう大事な使命があるのでしょう? どうしてわたしが眠っている間に始末をつけなかったのですか?」


「じゃから、罪もない人間を殺めることなど、許されるはずもなかろうが? おぬしは、魔術師を何だと思っておるのじゃ?」


 魔女エマは、横目でフィリアをねめつけた。


「魂の穢れた魔術師は、妖魅と変わらぬ闇の存在に成り果てる。我らは石の都の住人よりも、遥かに数多くの制約に縛られておるのじゃよ」


「……だったら、わたしが眠っている間にほっぽり出せばよかったんじゃないですか? 宝剣がなかったら、わたしは2度とここまで辿り着けないはずなのですから」


「馬鹿を抜かせ。鋼の宝剣などという不浄の存在を、この家に残されてたまるかい。ほっぽり出すときは、その宝剣ごとほっぽり出してくれるわ」


 魔女エマは棚からいくつかの硝子瓶を取り上げると、それを抱えて長椅子のほうに足を向けた。


「さて、秘薬の調合じゃ。大事な仕事の邪魔をするのでないぞ?」


「秘薬の調合ですか。それはいかにも魔女っぽいお仕事ですね!」


 フィリアは両手で宝剣を抱え込んだまま、身もだえた。


「あのー、やっぱりわたしは、何としてでも魔女さんに弟子入りさせていただきたいです! どうにか考えなおしていただけませんか?」


「それは、どうにもならんのう」


「わたしを弟子にしてくださったら、きっと色々と便利ですよ! どんな雑用でも、一生懸命頑張ります!」


「ふん。従者なんぞには不自由しておらんわい」


 そんな風に述べてから、魔女エマはきゅっと眉根を寄せた。


「そうか、従者か……そっちのほうも、何とかせねばならんのう」


「はい? 従者がどうかされましたか?」


「いや、我には従者がおるのじゃが、あやつもなかなか血の気が多いので――」


 そこに、コンコンと軽やかな音色が響いた。

 フィリアは、きょろきょろと視線を巡らせる。


「また誰か来たみたいですね。昨日の鴉さんですか?」


「いや。仕事を任せておった従者が、二日ぶりに戻ったようじゃな」


 魔女エマは、真紅の髪をわしわしとかき回した。


「おい、娘。従者に入室を許すので、決して騒ぎなどを起こすのではないぞ?」


「はい、もちろんです! わたしにとっては、先輩にあたる御方なのですからね!」


「こやつは従者であって弟子ではないし、おぬしに弟子入りを許すことはないぞ。とにかく、おぬしは大人しくしておるのじゃ」


「はい! 了解いたしました!」


 魔女エマは疑り深そうにフィリアの笑顔をねめつけてから、「入れ」と入室の許しを与えた。

 それと同時に、天井から黒い人影がふわりと舞い降りてくる。

 そして――その人影は、有無も言わさずにフィリアへと襲いかかった。


「うひゃあ!」と、フィリアがひっくり返る。

 赤い血が、木造りの床に滴った。襲撃者の爪が、フィリアの左の二の腕を引き裂いたのだ。


 魔女エマは、「やめい!」と鋭く声をあげた。

 襲撃者は、魔女エマとフィリアの間に傲然と立ちはだかる。


「……汚らわしき石の都の住人め。私が八つ裂きにしてくれよう」


 その者は、憎悪に満ちみちた声で言い捨てた。

 魔女エマは深々と溜め息をつきながら、フィリアはきょとんと目を見開きながら、それぞれその姿を見守ることになった。

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