3 妖魅の村
すでに太陽は沈みかけており、世界は紫色の薄暮に閉ざされつつある。
魔女エマに続いてその地に降り立ったフィリアは、「ふーん?」と視線を巡らせた。
「いつの間にか、夜になっちゃってたんですねー。ここは、どこですか?」
「名前など知らんわい。どこぞの辺境に開かれた村落じゃな」
ねじくれ曲がった杖を手に、魔女エマも鋭く視線を巡らせる。
「何にせよ、おぬしの属する石の都の領土であることに違いはない。このような辺境では、石造りではなく木造りの家屋に住んでおるようじゃがな」
魔女エマの言う通り、視界に入る家屋はすべて粗末な木造りであった。屋根は藁葺きで、丸太の壁は古びており、窓には明かりも灯されていない。
「じゃが、結局は鋼の道具で樹木を伐り倒し、魔術ならぬ技で造られた家屋じゃ。このような辺境の果てにまで、おぬしたちの文明は猛威をふるっておるわけじゃな」
「ふむふむ。でも、石の都の領土で魔術を使うことはできないっていうお話ではありませんでしたか?」
「この地には、瘴気が強く残されておる。人間どもの侵略にもめげずに、妖魅どもが悪あがきをしておるのじゃ」
魔女エマは小さな鼻をひくつかせて、辺りの匂いを嗅ぐような仕草をした。
「こういう地であれば、我も魔術を行使することはできる。妖魅とて、本来は精霊と根を同じくする存在であるのじゃからな」
「そうなのですか? 妖魅というのは人間に害をなし、精霊というのは人間に力をもたらす、という印象であったのですけれど」
「それは要するに、人間の都合で分類しておるに過ぎん。己で制御できる存在を精霊、制御できない存在を妖魅と判じておるに過ぎんのじゃ」
そのように述べながら、魔女エマは無造作に足を踏み出した。
「なおかつ、石の都の人間にとっては、もはや精霊を制御することもかなわぬからな。この世ならぬ存在は、のきなみ邪なものと見なすしかないのであろうよ」
「では、この地に現れたのは精霊なのですか? それとも、妖魅なのですか?」
「妖魅じゃ」と魔女エマが答えると同時に、ガサリと草を踏む音がした。
家屋の陰から、黒い人影がまろび出てくる。その姿に、フィリアは「ひゃあ」と声をあげた。
「で、出ましたよ! 妖魅です、妖魅! いかにも妖魅らしい、不気味な姿ですね!」
その妖魅は、全身がぬめるように青黒く照り輝いていた。
蛙のように、ぬめっとした質感である。左右に離れた真ん丸の目玉も、平たく潰れて鼻孔の見えている鼻も、横に大きく裂けた口も、何やら蛙に似ているようだ。
しかしその妖魅は、2本の足で立っていた。
なおかつ、粗末な布の胴衣と脚衣を纏っており、首には飾り物を下げている。醜い妖魅が人間の格好を真似ているかのようで、何ともおぞましい姿であった。
いくぶん前屈の姿勢で、両腕はだらりと下げている。手足の先には鋭い爪が生えており、指の間には水かきが張っている。真ん丸の目玉は薄闇の中で青白く燐光のように瞬いており、大きな口からは紫色の巨大な舌がでろりと垂れ下がっていた。
「た、退治しますか? わたしが受け持ちましょうか?」
フィリアが腰の宝剣に手をのばそうとすると、魔女エマは「やめい」とたしなめた。
「鋼の刀剣には、魔を滅する力が備わっておる。おぬしの携えたその宝剣であれば、あのていどの妖魅は簡単に退治できるじゃろう。……しかし、同胞の魂を救うことはできんぞ」
「同胞の魂?」
「うむ。あれは、人間が妖魅に憑依された姿であるのじゃ」
フィリアは蛙の妖魅にも負けないぐらい目を見開いて、魔女エマの仏頂面をまじまじと見つめた。
「魔女さん、本気で仰っているのですか? 人間は何をどうしたって、あんなお顔になるとは思えませんよ?」
「じゃったら、おぬしが斬り伏せてみるか? 魂を返せば、もとの姿に戻るやもしれんぞ」
「はーい。やってみます」
「わー、嘘じゃ嘘じゃ! 殺して済むなら、いちいち我が出張っては来んわい!」
「痛い痛い! 杖でぐりぐりしないでくださーい!」
「まったくもう」とぼやきながら、魔女エマは妖魅のほうに近づいていった。
妖魅のほうも、両足を引きずるような緩慢なる動作で、こちらのほうに近づいてきている。その巨大な目玉には、獣じみた飢餓の光が灯されていた。
「げうっ!」という奇怪なうめき声とともに、妖魅がふいに跳躍する。
これまでの緩慢な動きからは想像もつかぬほどの、俊敏な動作である。
両手の鋭い爪が、魔女エマの頭上に振り下ろされる。
くわっと開いた大きな口には、細かい牙がぞろりと生えそろっていた。
魔女エマは「ふん」と鼻を鳴らすや、杖を振り上げる。
その杖の先端が妖魅の胸もとに触れた瞬間、白い閃光が爆発した。
フィリアは「ひゃー!」と悲鳴をあげて、うずくまる。
閃光の中で地面に墜落した妖魅は、フィリアの足もとにごろごろと転がってきた。
フィリアはすかさず宝剣を抜きかけたが、その動きは途中で止められる。そこに横たわっているのは、まだ若いのに髪がまばらになってしまった、至極純朴そうな青年であった。
「妖魅の姿に変貌する際に、髪は抜け落ちてしまったようじゃの。まあ、そこまでは責任もてんわい」
青年は、安らかなる表情でまぶたを閉ざしていた。
いくぶん頬がこけており、毛髪は老人のように抜け落ちてしまっているが、とりたてて手傷を負っている様子はない。
「さあ、行くぞ。こんな小物を相手にしておったら、キリがないからの」
「え? 妖魅退治は、完了したのではないのですか?」
「こんなものは、妖魅の瘴気にあてられたに過ぎん。その根源を叩かぬことには、どうにもならぬのじゃ」
魔女エマは、面倒くさそうな面持ちでフィリアを振り返った。
「うかうかしておると、おぬしもそやつらの仲間入りじゃぞ? まあ、我はそれでもいっこうにかまわんがな」
「え? それはどういう――」
と、そこでフィリアは息を呑むことになった。
いつの間にか、周囲を黒い人影に取り囲まれていたのである。
いびつな輪郭をしたその影たちは、いずれも青白い鬼火のごとき眼光を灯していた。
「それでは、達者でな」
「うわわ! ま、魔女さん、置いていかないでくださいよー!」
「何じゃ、妖魅に憑依される気分を味わってみればよかろうに」
「そ、そんなお試し感覚で、髪の毛をなくしちゃうのは嫌ですー!」
ふたりが駆け足でその場を離れると、妖魅たちはそれこそ蛙のようにぴょんぴょんと飛び跳ねながら、後を追ってきた。
そして行く先々でも、新たな妖魅が現れる。そのたびに、フィリアは悲鳴をあげることになった。
「す、すごい数ですね! もしかしたら、この村落に住む人たちが、みんな妖魅に憑依されちゃったのですか?」
「それはそうじゃろう。石の都の人間に、あらがうすべはないじゃろうからな」
こともなげに言いながら、魔女エマはすいすいと移動していく。まるで宙を飛んでいるかのような、なめらかなる足取りである。歩幅には大きな差があるはずであるのに、フィリアがどれほど必死に駆けても、置いていかれないようにするので精一杯だった。
「そら、瘴気の根源は、あそこじゃ」
行く手に、巨大な沼が現れた。
薄暮の中、水面はねっとりと青黒く瞬いている。
ふたりがそちらに近づいていくと、後を追ってきていた妖魅どもは、途中でぴたりと動きを止めた。
まるで、この沼を恐れているような――あるいは、神聖な場所に近づくことを躊躇っているかのような様子だ。
そうしてふたりが沼のほとりに到着すると、水面の中央から巨大な何かが頭をもたげた。
ざぶんと波をたてながら、沼の水があふれかえる。
そこに出現したのは――途方もなく巨大な、蛙に似た何かであった。
「あ……あれが本当の、妖魅ですか?」
「うむ。おそらくは、かつてこの地で祀られていた存在の残り滓じゃろうな」
魔女エマは、面白くもなさそうに答えた。
「かつての神々の半分は、新しき文明の世においても、神として祀りあげられた。しかし残りの半分は、忌むべきものとして捨て去られてしまったのじゃ。信仰を失った神々とその眷族は、邪神や妖魅として在るしかない。言ってみれば、これも世の人間が選んだ結果のひとつじゃよ」
「ご、ごめんなさい。いまひとつよくわかりません」
「それはそうじゃろう。そんな簡単にわかられてたまるかい」
言いながら、魔女エマは
それから手の先を大きく振り上げると、金色の飛沫が薄闇にきらめく。
まるで、虎目石をすり潰したかのような、美しいきらめきである。
その飛沫がはらはらと雪のように舞う中で、魔女エマは小さく呪文を唱えた。それは、この地で使われているものとはまったく異なる言語であった。
その呪文の詠唱に応じるように、金色の飛沫がふわりと浮かびあがる。
やがてそれは強風に吹かれるように渦を巻いて、天高くまで舞い上がった。
まるで何かに歓喜しているかのように、金色の飛沫が躍っている。
そうして魔女エマが杖の先端を巨大なる妖魅のほうに差し向けると、金色の渦巻きがそちらに突撃していった。
蛙に似た平べったい顔面の真ん中に、金色の渦巻きが突き刺さる。
その瞬間、妖魅の巨体が金色の炎に包まれた。
沼に沈んでいる部分も、同じように焼かれているのだろう。暗く澱んだ水にまで金色の閃光が浸透し、まるで沼そのものが光り輝いているかのようだった。
妖魅の声ならぬ絶叫が、びりびりと世界を震撼させる。
そして、金色の炎に包まれた妖魅を中心にして、沼の水面が渦を巻き始めた。
それにつれて、妖魅の巨体はずぶずぶと水面に沈んでいく。
いや、注意深く観察すると、沈んでいるのは水面そのものであった。沼の水位がぐんぐんと下がっていき、それにつれて妖魅の巨体も下降しているのだ。
やがて沼の水は竜巻のごとき勢いで渦を巻き、妖魅もろとも地中に吸い込まれていく。
最後にあわれげな絶叫をほとばしらせて、妖魅は大量の水とともに何処へともなく消滅した。
あとに残されたのは、地面にぽっかりと口を開けた、巨大な窪みのみである。
沼そのものが、この世から消え果ててしまったのだ。
それを見届けてから、魔女エマは「さて」と杖の先端で頭を掻いた。
「これにて、今宵の雑事は終了じゃな。とっとと住処に戻ることにするかの」
「え? だけど、村の人たちは――」
と、フィリアは途中で言葉を呑み込んだ。
沼を取り囲むようにして立ちはだかっていた妖魅どもは、全員が人間としての姿を取り戻した上で、その場に倒れ伏していた。
男もいれば、女もいる。幼子もいれば、老人もいる。
そのすべてが安らかなる寝顔をさらしており、そして、毛髪のほとんどを失ってしまっていた。
「一夜にして、沼の水と領民の毛髪が失われた。今宵の出来事は、どのような伝承として語り継がれていくのかのう。なかなか興味深いところじゃ」
そう言って、魔女エマは人の悪そうな笑みを浮かべていた。
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