第3話 出会った頃の彼女に戻してください

 

 吉川との出会いは一年前。高校の入学式の日まで遡る。


 人多すぎだろ……


 私立三葉さんよう高等学校──堅牢な造りの校舎は今日から通う忌まわしきプリズンだ。


 全くもって目に優しくないショッキングピンク色の桜が、砂嵐のように視界を覆う。


 目眩がしてきた。自重のない美はかえって毒になるのだ。


 足を止めて、目頭を強く抑える。

 瞼の裏にこびり付いたピンク色が黒に塗りつぶされてくれないかと策略したが、全く無意味。


 昔に見た催眠動画みたいだ。いつまでも頭の中に残り続ける。


「猫背、直したほうがいい」


「え?」


 ポン、と背中を優しく叩かれた。

 振り返ると、一人の女の子が隣を通り過ぎて行くところだった。


 風にさらわれる髪を抑えながら、流し目で俺を見る。


 初めて桜が主役ではなく、ちゃんと人を引き立てている所を見た。


 桜も悔しかろう。

 名前も知らぬ彼女の前では、主役を掻っ攫う名脇役のお前も、舞台装置に成り下がるのだ。


「ほんとにあれで高1かよ……」


 背中に力を入れるとミシミシ、と嫌な音がした。

 猫背がデフォルトになっていたせいで、化石のように凝り固まっている。


 うおっ、と情けない声を出しながら背筋を伸ばすと、いつもと違う景色になったような気がした。




 教室に入る寸前、後ろからやってくる気配に気付いた。

 振り返ると、さっきの美少女が驚いたように目を丸めた。


「あっ、猫背の人。背筋が伸びると別人みたいね」


「え、ああ……ははっ」


 ふふっ、と上品に笑う彼女に上手く返しができず適当な返事になってしまう。


「俺より先に入ったのに、教室に着いたのは俺が先だね」


「この学校広いから……迷っちゃって」


 恥ずかしそうに目線を泳がす仕草すら様になる。


 俺は今、間違いなく異界の人物と話をしている。


 未知との遭遇だ。

 生きてきて早16年目に突入した俺の人生だが、ここまで心が不安定になったのは初めてだ。心臓の鼓動が早すぎる。確実に寿命を削られてる。


「私は吉川夜明。名前、なんて言うの?」


「俺?」


「君しかいないでしょ?」


「ああ……」


 えっ、自己紹介ってホームルームで強制的にやらされるイベントじゃないの?

 こんな場所でするなんて初めてすぎてどうすれば分からないんですが……


 とりあえず、名前だけ。


「藤本直樹」


「猫背の藤本くんね。よろしく」


 いきなり二つ名みたいなの付けられてるし。


「同じクラスみたいね。初めて入る教室は緊張しちゃうから、藤本くんとお知り合いになれてよかった。心強いわ」


「……そうですか」


 俺はそれ以上にさっきから向けられている周囲の目線が痛くて仕方ない。


 きっと全て、この人のせいだ。


 彼女の美貌はあまりに目立ちすぎる。


 くすんだ宝石の中に一つだけ、ピカピカに磨かれたダイヤモンドが放り込まれたような感覚。俺も一緒に有象無象として扱ってくれたらいいのに、彼女が隣にいるせいでこんな小石にもスポットライトが当たってしまう。


 ある意味では彼女の方が場違いとすら言われても納得できるのだが、そんな場面にも慣れっこなのか、


「長話しちやったわ。そろそろ行きましょ」


 と周囲を見渡して言った。


 少しだけ周りの男どもに優越感を抱いていたのは、言うまでもない。


 吉川はそのスペックで瞬く間に学園のマドンナ的な存在になってしまったが、その後の関係もクラス替えで別々になるまでは悪くはなかった。



 なのに……



「ふぅ、スッキリしたわ。最高ね」


 個室から出てきたのは落ち着いた表情の奥底でご満悦の吉川。


「どうしたの? そんな浮かない顔して」


「なぜ俺は、吉川の放尿音を聞く羽目になったのだろう……」


「何を今更」


「どこの世界に男子トイレで用を足す女の子を守る男がいますか……?」


 ここにいます、と俺を指さすもんだから、俺はスっと避けた。


「吉川」と肩を掴んでジリリと詰め寄る。


「な、何? ちょっと近くないかしら……」


 目線を泳がすあたり、吉川にもまだギリギリ人間としての恥じらいが残ってるかもしれない。


「今ならまだ間に合う。お前は人間に戻るべきだ」


「私は人間よ」


「いいや違う。確かに見た目は超絶可愛いかもしれないが、美少女の皮をかぶった獣だよ。お前は四捨五入したら切り捨て。人間ではなくなってしまうんだ」


「褒められてるのか貶されているのか……なんか複雑だわ……」


 そうだ吉川。人を疑え。そして男子トイレから出てきた自分自身を何よりも疑ってくれ……


「とにかく、このままじゃマズい。どのぐらいマズいかというと、冷えてカスカスになったマ〇ド〇ルドのポテトぐらいマズい」


「……よく分からないけど、藤本くんはこの性癖を改めろって言いたいの?」


 さすが吉川だ。頭のネジは飛んでても、勉強は出る子。


 俺は期待を宿した目で吉川に詰め寄る。


 が……


「それは全くもって無理な相談よ」


「どうして?」


「私にとってこの行為は呼吸と同じなの。もし、禁止されたのなら、私は教室のど真ん中で漏らす覚悟があるわ」


「わー、本気すぎてやばーい」


 なんだ……なんなんだ滾ったその目は……

 君のどの部分が感化されているんだ。


「藤本くん!」といきなり肩を掴み返してきた。俺はすっーっと目を逸らす。


 次は何を言われるのだろう……もう俺の常識が届く場所に吉川は存在していない。


「なんでございやしょう」


「私は別に、男子トイレに忍び込む事が一番とは言ってないわ。背徳感を味わえるなら、なんでもウェルカムよ」


「つまり、今よりエキサイトできれば、少なくとも男子トイレに侵入は諦めてくれるってワケ?」


「侵入と言われるのは少々腑に落ちないけど、まぁ、そういうことね」


 自分でも侵入って言ってだろ……


 俺は肩に置かれた手を解いて、うーん、と唸る。


 一体どうすれば吉川を清く正しく導けるのだろうか。


 チラリと覗くと、吉川は疑問符を頭の上に浮かべた。


 こんなアホっぽかったか?


 1年前の凛々しい吉川と、今の腑抜けた顔の吉川が重なる。


 がああああああああああああああああああああああッッ! 全てのイメージが塗り替えられていくぅぅぅ!!!


 確か、吉川はよく授業中に解答を求められていた。優秀かつ、端麗な彼女を近くで見たいという教師の策略もあったのかもしれない。


 しかし、今、俺が伝えたいのはそこじゃない!


 吉川が黒板に解答を書く時、やけにチョークが折れていたという事だ。


 まさか……まさか吉川。わざと力を入れて折っていたのか!? ボキッと豪快に弾き割っていたのかぁ!? ニヤリと黒板に向かってほくそ笑んでいたと言うのかァァァ!?


 帰ってきて! 僕の愛した吉川夜明っ!

 カムバック! 吉川!


「うずくまってどうしたの? お腹でも痛むの?」


「痛いのは頭と心臓です」


「まぁ、大変」


「大変なのはお前だよ……」


 同じ目線に屈んで心配そうに覗き込んでくれる吉川の気遣い。その気遣いをもっと別のベクトルに向けてください。お願いですから。


 吉川は、あっ、と声を上げて、スクールバッグからスマホを取り出した。


「連絡先を交換しましょ?」


「……」


 暫し続く沈黙。俺はひたすらに考えを巡らせていた。


 吉川と連絡先を交換できるなんて、有象無象の男子の一人である俺にこんな幸運が訪れてもいいのか!?──とつい先日の俺なら思っていただろう。


 しかし、今はどうだ?


 吉川の化けの皮はゆで卵のようにトゥルットゥル。キレイさっぱり剥がれたのだ。


 連絡先を教えてしまう=皆目見当もつかない吉川の行動に付き合わされる可能性が増し増しと考えてしまうのは……心配しすぎだろうか?


「どうしたの? あっ、スマホ持ってない? だったら、お家に連絡するからそっちの電話番号でも構わないわよ」


 目がガチだ。吉川の正体を知らないままなら、喜んで連絡先を差し出していたのに、目が本気すぎて恐怖しかない。


 それはもう獲物を逃がさない蛇の目だ。


 カエルの俺はもう逃げられないようです……


「分かった。交換しよう。だから家にだけには近づかないで欲しいし、出来る事なら連絡も来ないことを祈るよ」


 ピロリン


『明日は図書館に行きましょうね』


「はえぇよ!」


 吉川はクスクスといたずらっ子のように笑っている。どちらかといえば、クールでお淑やかなイメージが強かった。意外な一面を見た。


 んだよ……やっぱ、可愛いな……


 しかし、翌日。


 吉川に抱いていた淡い期待──度が超えたハチャメチャを起こすような女の子じゃない──なんて、するだけ無駄だったと思い知る事になる。


 彼女の中に公序良俗など、既に無いに等しかったのである。

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