第2話 この日さえなければ俺の平穏は保たれていただろう

 

「説明してもらってもいいか?」


「……」


 衝撃の事実(吉川の男子トイレ侵入事件)が発覚したのも既に30以上前。


 気まずい空気のまま。しかし、お互い何も言わず別れる訳にもいかないという雰囲気を感じ取っていた。


 言葉は無くとも、必然のように人気のない空き教室に入り、向かい合うように座っている。


「黙ってちゃ分からない。お前、男なの?」


「見た目は女。下も女」


「こらこら。どこぞの名探偵みたいに言うんじゃない……て、普通じゃねぇか」


 余計、変態になっちまったよ……

 どうせならブツが付いてて「実は男でしたー」の方がまだマシだったまである。


 吉川は俯いたまま、もじもじと肩をこすっている。

 その所作は普段の落ち着き払った彼女とは別様であり、男の庇護欲を掻き立てるものであった。


「聞にくいんだけど、何で男子トイレに?」


「あっ、そ、それは……事情があるというか……」


「そりゃ無かったらわざわざ入らんだろうけど」


 上目遣いで覗き込んできた吉川の瞳は僅かに潤っていた。

 やめて、結構効くから。


「笑わないで聞いてくれる?」


「笑わない。それ以上に引かないか心配だ」


「実は……」


 あっ、言っちゃうんだ。

 こっちから聞いといてなんだけど、そんなあっさりと告白してくれるなんて思ってなかった。


「私、悪いことをしてる背徳感とか……そういうので快感を覚えちゃうみたいなの」


「……」


 ああ、神よ。今こそご慈悲を。

 思い描いてた吉川夜明さんは、もうズタズタの灰になって消えてしまいました。


 今、目の前にいる女は、ただ過ちに悦浸る愉快犯です。さあ断罪の雷を。


「藤本くん、聞いてる?」


「聞いてる。願わくば右から左へ聞き流しかったけど」


 しかしまあ、よくもそんなハレンチな内容を惜しみげもなく言えたもんだ。


 人気の高さが仇となったか吉川よ。

 お前はもう何を言っても可愛いと許されるヒロインではない。

 ただの特殊性癖残念美人なのだ。


「で、いつからやってんの?」


「べっ、別にそんな何回もやってないわ!」


「嘘だ」


「うそじゃない! 信じて!」


 グイッと迫る吉川に、あのなぁ、と首を落として落胆を示す。


「個室から出てきた瞬間に恍惚な表情浮かべるような奴、信じられるか!」


「なっ……!? そんな顔してたの!?」


「してたよ! ドアにもたれかかって、やってやったぜ、みたいな顔しやがって! 常習犯しにか見えねぇよ!」


 そう言うと、吉川は照れるように両手を頬に添え、照れるわね、と息を吐いた。


 なぜ少し嬉しそうなんだろう……

 全く褒めてませんが。


「はよ教えろ」


「そんなに長くはやってない。確か中学3年の頃からだったと思う」


「えぇ……もう3年目じゃん。そこそこベテランじゃん……」


「そんなに褒めても何も出ないわよ」


 どうやったらこれが褒め言葉になるのか。

 本当のベテランに謝れ。


 それにしても、中3から高2まで。

 3年目に突入した今日までなぜバレなかったのだろうか。むしろ興味すら出てきた。


「よく今までバレなかったな」


 吉川の目の色が変わる。

 機会を狙っていた獣の目だ。


 うわっ、なんか面倒くさくなりそう。と思ったのも束の間。

 落語家もビックリな早口で、


「当然! バレるかバレないかの瀬戸際を愉しむ事が最も興奮するんだけど見つかったら意味は無いでしょ!? 全て私がこの完璧な頭脳を使って危険な火遊びをコントロールしてるの! どうかしら、凄いでしょ? 凄いわよね!?」


「あんた、今日バレたがな……」


 つまり、吉川はバカだ。

 勉強の良し悪しではなく、そもそも前段階として頭のネジが1本……いや2、3本外れている。


 俺は立ち上がって鼻息を荒くしている吉川の肩を掴んだ。


 ん? と首を傾げたが、お構い無しに椅子に座り直させる。


「吉川さん。俺はもう帰ります。このことは無かった事にするので、今後はお互い不干渉でいきましょう。それでは」


 言う事は言った。

 さあ帰ろう、と背を向けて1歩目を踏み出した瞬間。


「ぐえっ」


 腕を掴まれて、強く引かれた。


 つんのめった体を戻し、おずおずと振り返ると笑顔の吉川。


 まぁ、いい笑顔ですこと。

 とても男子トイレで用を足してる女の子には見えません。穢れてなさそう。


「ダメよ」


「な……なにが?」


「だって、これじゃ私が興奮できないわ」


「意味がわかりません……吉川さんほどの手練ですと、いかなる場合でも鼻息荒く興奮できるのでないでしょうか……」


「無理よ。誰かに知られてたらシラケちゃう」


 吉川は自分の美貌を最大限見せつけるように、小悪魔的な笑みを浮かべた。


「これから藤本くんには私のパートナーになってもらいます」


 何を言い出してんだこの人は……


「今日みたいなことは私も望んでない。だから、藤本くんにはトイレの前で私を守る門番をやってもらうわ」


「この愚行をやめるという選択肢はなかったんですか?」


「ある訳ないじゃない。私の生きがいなんだから」


「生きがいの使い所間違えてます……」


「遠くから聴こえる吹奏楽部の演奏が私を祝福するかのような音を奏で、雨の日は室内で練習する運動部員達がすぐそこに……ああっ! 興奮する……っ!」


 ダメだ……こいつはダメだ……


 ふと、こちらに向き直った吉川は胸を張る。


「バレるかバレないか、一生を賭けたギャンブルは諦めるわ。だから、藤本くんが見張ってくれてる時だけにします」


「それは諦めじゃなくて、妥協って言うんだよ吉川。国語頑張ろうな。……で、見張りって?」


「さっき言った通りよ。私が男子トイレに侵入してる間、入口で見張り番を引き受けてほしいの」


 侵入の自覚はあったのか……


「断る」


「どうして!?」


「なんで俺がお前の手助けをしなきゃいけないんだよ。メリット無さすぎだし」


「メリット?」


 吉川はニヤリと口の端を上げた。

 まーた、ろくでもないこと考えつきやかがったな。


 予想は的中した。


「メリットならあるわ。私の放尿音を合法的に聴ける事よ」


「……」


 俺は合法的でも、お前が違法じゃねぇか。


「どうかしら?」


「どうって言われても……」


「ダメ?」


 うっ……

 路頭に迷う子猫みたいに甘えた声出しやがって。取り返しようがない変態でも、見た目は可愛い。


 人間、中身とはよく言ったものだ。その言葉通り、俺はもう吉川を純粋な目では見えなくなっている。


 ──しかし、それでも尚、吉川は美しい。


「分かったよ。他の奴にバレないよう手伝ってやる」

 

「ホント!? 嬉しい!」


 古今東西、どこを見渡せば異性のトイレに忍び込み、あまつさえ見張りを頼み込む女子高生がいるのだろうか。


「よろしくね、藤本くん」


「ああ……よろしく」



 吉川夜明──男なら、一度は彼女とお付き合いする事を夢に見る美少女であり、俺のヒロイン(昔)。


 彼女と結ばれた不思議な関係は、俺の高校生活を大いに狂わせていく。


 願わくば、この時まで時間を戻し、吉川との関係を断っておくんだった……


 未来の俺は切に思う。




「あっ……クソっ! 最悪だ……」


 しかも、本来の目的であるスマホはしっかり教室に忘れてきた。

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