第15話
第7章: ディーダの森、ダーク・ローズの森。
1、
〈眠る前に、お昼の薬を飲まなければだめでしょう。キファ。お薬飲ませますからね、いいですね?〉
眠っているのに、ユニルフの声が遠くで聞こえる。あたしはなんとか返事をした。眠くて目覚められないのだ。お昼の薬を飲み忘れたのは確かにあたしのミスだ。眠っていて起きられないでいると、口のなかに彼が、錠剤をひとつ入れてくれた。苦くはなくて甘い味の錠剤は舌の上で溶けて消えた。水を飲まないでも大丈夫な薬もあるんだなあとあたしは知った。この薬の味を覚えておこう。眠りの病のどんな症状にどう効く薬なんだか知らないけど、定期的にユニルフが起こしにくるときには、たぶんこの薬を飲ませてくれて起こしに来てくれるのだろうという気がした。食事もとらないといけないしね。
あたしの頭のなかは、真っ白だった。雪が降ったみたいに、どこまでも真っ白い景色が広がっていた。あたしはそのなかを歩き出した。振り返っても、あたしの足跡は残っていなかった。あたしは気にしないまま、また前を向く。するとそこには、すごい美男が立っていた。
どこかで見たことのある男だなあと思っていたら、有名な映画の俳優だった。あたしはあまり映画を見ないんだけど、あの映画だけは特別好きだった。かっこよくて、さわやかな整った顔立ちだけど、ちゃんとセクシーさのある美男で、黒髪も身体も雨に濡れたようにくっしょりしていて、しかも裸だった。どうしたんだろう、と思ってあたしは恥ずかしくなりながらも彼を見ていたんだけど、彼はうつむきがちになりながらも、さわやかないい声で「シャワーを浴びてきたんだ」と言うのだった。もしかしてあたしのために? とか思ってしまったんだけど、いくらあの美男のいい男が濡れぼそって、髪も額にはりつかせて、魅惑的に立って待ってくれていても、あたしは「ユニルフじゃないなら要らないや」って気持ちになったんだ。いやーん、おいしそーって、全然ならないや。あたしの身体はすでにユニルフ専用になってしまっているのだろう。だからあたしは他の男のことはほしくならないし、他の男に興奮しなくなる。あの美男には申し訳ないけど、他の女のところへ言ってもらうように伝えなければ、と思っていたら、彼はすでに帰ってしまっていた。いなくなるのがやたら早いな、と思っていたらあたしはしつこい男が大嫌いなので、結果的に彼の印象がよくなったのだが、やっぱりユニルフじゃないとあたしはどうしてもしたいとは思わないのだった。そういうことをユニルフに伝えたいなと思っていたら、どこから用意したのかとてもまっとうな生物的な根拠を小さな声でとうとうと教えてくれはじめたので、そういういやらしい知識をそんなふうに言うからさらにいやらしいじゃないか、とか思ってあたしは顔を真っ赤にして、「ユニルフ、それなんだかとってもえっちぃよ」とだけ言った。希薄な男はつまらない。ただ美しいだけの男も要らない。表面だけのぺらさ、感じのよさはいらない。内側に秘められたセクシーさがあたしは見たい。ユニルフは顔を赤らめてまだあたしの手を繋いでいて、隣にいるような気がする。薬が効いている間は、彼のそばにあたしはいることができるのだろう。あたしはどこにもいかないで、彼のそばで座ってじいっと待っていようと思った。「なにか話して、ユニルフ」あたしの声は聞こえただろうか。
「なにかって言われてもすぐには思いつかないですけどね」彼にはそういうところがあるからあたしは彼のそういうところはあまり好きじゃないんだ。もたもたしてるっていうか、うてば響くっていう感じじゃないところが。のんびりしてるところ。あたしはせっかちなんだ。なにかをする自分スピードがあう人と一緒にいないと、いらっとするって聞いたことあるけど、こういうことを言っているのかもしれない。「なんか思い出話とかして、ユニルフ」
まだ彼はもごもご言ってってる。彼は受身なのかもしれない。あたしになにかをしてもらいたい男なのかもしれない。あたしもそんな彼になにかをしてもらいたいと望んでも、それは叶えられることはないのだろう。たがいになにかをプランニングをして楽しもうという態度を身につけなければ、二人して退屈だ退屈だといってぼうっとしているしかなくなってしまう。そういう意味ではあたしはお嬢ちゃんだし、彼はお坊ちゃんだ。だれかがなにかをしてくれるのをお行儀よく待っているお利口さんだ。あたしたちは歩き出さなければならない。二人で手を繋いで、同じ方向を向いて一緒に歩き出さなければならない。「ねえユニルフはどんなお家に住んでいたの。あたしは人の家がどんなだったのかを聞きたがる変な癖があって。ユニルフの住んでいたお家がどんなとこだったか知りたいの。あたしには自分の家といえる家がなかったから。あたしはいつか自分の家がほしいの。そのせいかあたしは家というものが特別に特別なものに思えるの。あたしが思う家には庭があってその庭にはお母さんが手入れをしているその家の花壇があって花が咲いていて、家と長い間一緒に立っている木もいくつか生えていて、その木にはその季節になったら果実がなって、食べごろになったら保護用の緑のネットをしているのにもかかわらず真っ先に烏や小鳥がその家のものたちよりも先に食べにきて、家族みんなで鳥たちから免れたものを洗ってガラスの器に小さく載せて食べて、熟れ過ぎたら地面に落ちてその家の子どもの履いて走りまわっている靴底にはその果実の匂いがするようになって。そんな日当たりのいい庭がある雰囲気のいい、感じのいい家。その庭にはたくさんの奇麗な花が咲いていて、その家のお母さんが、指の長い細めの手袋をして、柔らかい土から雑草を抜いて、白色の花の名前の書かれた小さなかわいいプラカードがささってて、赤や黄色や青や紫のかわいい花が数え切れないほど見事に咲くの。風が吹いたら咲いた花が揺れて花のにおいがして、その庭ではその家の子どもたちがとびとびに配置されている石の上を片足で飛んで遊んだり、白っぽい丸い石の湿った裏をひっくり返してみたり、芝生のなかに隠れているちいさい虫を捕まえたり、雑草の小さな花を摘んで植木鉢の受け皿に料理のようによそって並べてままごとをしたり、子どもたちの誕生日に買ってもらった飼い犬の小屋も庭にあって毛がふわふわしたかわいい眼をした子犬と一緒に遊んだりするの。その家のお父さんの日曜大工でつくってくれた手づくりのブランコがあったり、天気のいい日にはお母さんが真っ白なシーツや洗濯物を庭に干していて、その下をくぐると石鹸洗剤と柔軟剤の花のようないいにおいがする。そんな庭があればいいなってあたしはずっと小さいころからそういう家に憧れていた。庭で子どもたちは鬼ごっこをしたり、なんとかごっこという彼らだけの遊びを思いついて、日当たりのいい庭の穏やかな天気の空の下で、元気いっぱいに遊んで育っていくの。そういう健全なものにあたしはとても憧れるの。あたしが持っていなかったものだからかな。映画や本やだれかの家の話や昔遊んだだれかの家や遠いどこかの街で見た新しいお家で遊んでいる子どもたちをとてもうらやましく思っていた。だれかから聞いたものの継ぎはぎじゃなくて、健全な明るい自分の家の庭で遊んだ思い出があたしにもちゃんとほしかった。あたしの見る夢のなかにもどこかの家の庭にいるあたしの夢を見ることがあるの。新しい家の新しい庭。古い家の古い庭。明るい家の明るい庭で育ってきた人間と暗い家の暗い庭で育ってきた人間は、どこかが違うとあたしは思う。家というのは、人格形成にとても関係があるようにあたしには思える。家がある子と家がない子では、もっと違うだろうとあたしは思う。でもただあたしが大げさなだけかもしれないね。そういう家の庭をあたしが持っていなかったから、逆にそういうものに執着してるだけなのかもしれないし。どこで育ったって子どもは放っておいたって大人に成るし、家族や家だけがファミリーじゃないって、そこの地域や施設の育てた全体の子どもっていう考え方の大人もいるしね。だけどいつかあたしはあたしだけのものだって言えるあたしの家がほしいの。あたしの家、あたしの庭と呼べるようなものが」
ユニルフは泣いていた。すすり泣く声が聞こえてくる。あたしがこういう話をだれかにしたことはいままでなくて、彼に泣かれたこともなかった。あたしが彼に愛されていると認識したときに泣くのとよく似ている感じがした。彼はささやくようなちいさな聞きとれるか聞きとれないかくらいの声で、(ぼくがいつかきみにそんな家を買ってあげるよ。必ず)と言った。あたしはそれを聞いてあたしも泣いてしまった。彼が買えるとか買えないとかそういうのではなくて、その彼の気持ちの優しさに。彼にも彼の家の話も聞きたかったけど、彼はいまは話せないよとだけ言った。どうしてだかわからないけど、彼はあたしにあまり自分の話、過去に関する話をなかなかしたがらない。あたしもそういう自分の話をしたがらない人間だけど、彼はさらに上をいくくらい話たがらない男だ。話したくないのか話せないのか故意的に口をつむいでいるのか、あたしにはそれはまだわからないけど、なんらかの理由がそこにはあるはずなのだ。あたしはそれが解明されるのを待つ。ちょっと寂しいけど。彼のことを知りたくても教えてもらえないのは、すごく悲しいことだけど。彼が話したくなるまで、あたしは待とう。
彼が(もう帰らなければならなくなったから帰るよ)と言った。そのときにすぐに気づいた。彼の家は放火によってすでに喪われてしまったんだ。どうしていままで忘れていたんだろう。どうして忘れていたんだろう。彼がその手の話を喜んでできるほど、まだ彼の心の傷は癒えていないのだ。彼の手を離したくなかったし、まだ一緒にいてほしかったけど、入院しているあたしと違って、彼にも自分の生活があるから、あたしはうなだれて彼の手を離した。仕事が夜からまたあるんだろう。なかったら一緒に朝までつき添っててくれるかもしれないのにな。彼の手が離れて、彼は歩いて帰っていった。(また薬を飲まなければならないときには起こしに来ます。それまで元気で頑張って)きっと彼の心は痛んでいる。あたしは彼の傷を癒さす手伝いをしなければならないのに、余計に突っついてしまったかもしれない。ごめんね、ごめんね。彼はそっと離れて行った。笑顔をつくってあたしに精いっぱい手を振ってくれた。
あたしは彼に手を振って見送った。次に彼がくるのは夕飯のときだろうか。あたしたちは働かなければご飯は食べられない。じゃあなんでご飯を食べるの。エネルギーになって、身体を動かすために必要だから。それは働くために、なのか。働くために生きているなんて、そんなのって、変だ。あたしたちには一日が毎日それぞれ与えられていて、働くために生きているとは思えない。あたしは年齢的に子どもを生んで母になれるころだけど、あたしはそういう気持ちにはなれない。子どもを生んでその子を育てるために働いて死ぬ。子どもを残すために生きているという考え方をしている人たちからすれば、子どもを残さないというあたしの考えは、それではなんのために生きているかわからないというだろう。子どもを生まないのなら、あたしはなにをしても意味がないのか。あたしは絶対的なものがほしかった。強さだとか力だとか他人を屈服させうるほどの神のごときなにかが。あるいは愛だとかあたしが跪きたくなって信じて頼って生きられるようになるほどの神のごときなにかが。なにかに頼らないと、この攻撃的で生きてきづらい世界で生き残ることはできない。あたしは片手にいつも使っているナイフを持って下げて歩いていた。白くてなにもない世界のなかで、ひとりで蹲って震えて泣いているだけではいけないのだ。あたしはあたしの強さに頼って武器にして生きる。あたしは強い女だから、一人でも戦って生きていける。あたしは泣かないし、逃げないし、負けないし、傷つくことを恐れない。だれに嫌われても、あたしはあたしの心を大事に守る。あたしはあたしを守るために、あたしのナイフを持って、歩いていく。あたしはあたしだけを信じて、あたしのために生きて行く。
あたしはナイフの柄を強く掴んだ。刃が光る。あたしは獣人だから、ほかの普通の人間よりも、きっと野生的に普通の人とは違ったナイフの使いこなし方ができる。獣のように戦えるだろう。強い野良猫は捨て子だった。野良猫の親はどこの猫だかわからない。ゴミ捨て場に捨てられていたあたしを、お婆さんが拾ってくれた。あたしはそれから森のなかに棲んでいた。森のなかの小屋にひとりで住んでいたお婆さんに拾われて、育てられたんだ。お婆さんはあたしのことをキファと名づけた。この森の名前は、ディーダの森。だからおまえの名前は、キファ・ディーダ。ディーダの森の子どもだよ。お婆さんは金色の眼を隠そうとしなかった。初めて見る自分と眼の色が違う人。あたしの眼は紫色だ。お婆さんはまほうつかいだった。金色の眼を黒く擬態させる必要もないほどの強い魔法使いだった。わたしは獣人の子を育てるのは初めてだよ、と言っていた。お婆さんは淡白な性格で、さばさばしている人だった。お婆さんは若いころ、森ではなく〈ゲヘナ〉のスラム街の孤児院で働いていた。お婆さんはたくさんの孤児たちの母親だった。あたしはそのころのいろいろな話を、おばあさんから聞いたことがある。お婆さんは若かったころ、ダーク・ローズと呼ばれていた。今は白い卵形の顔は深い皺だらけのくちゃくちゃで、小鹿のように可憐な真っ黒い小さな眼をした背の低い可愛らしいお婆さんが、昔は彼女のような強いまほうつかいには、どんな人間も敵わないという意味をこめて〈彼女に触れたものは必ず死ぬ〉というジンクスまでできたといわれるほどの女性だったことは、あたしにはなぜだか信じられるような気がする。だれよりも強く美しかったお婆さんは、〈暗闇色の薔薇(ダーク・ローズ)〉と呼ばれて、畏れられ、熱い憧れの眼で見られたりしたのだろう。孤児たちの優しい美人のお母さん。だれにも触ることのできないほど強いまほうつかいのダーク・ローズ。
お婆さんは森の滝のそばの泉の水を木の桶で汲み、森のなかの他の村や外の森に出ていって粉を買ってきて、自分でパンを練って焼いてつくっていた。家の近くには薬草が生えていて、ただの大量の雑草の茂みにしか見えないけど、それを何十種類も見分けることができて、それでいろいろな病気に効く薬をつくっていた。裏の暗い畑にはいくつかの野菜を育てていた。庭には雑草の茂みしかなかった。お婆さんはあたしを拾ってくる前は、ずっとこの森のなかで一人で暮らしていたのだという。お婆さんには子どももいないし夫もいないし家族もいないのだ。きのこや野菜の澄んだ色のスープをつくり、あたしが森で遊んで暗くなる前に帰るときには、ウサギか小鳥かネズミかを追いかけて捕ってくるように言った。鶏肉の焼いたものなんかが出るとあたしはとても嬉しかった。お婆さんはあたしに字を教えてくれた。親のいない孤児で学校にも行っていないあたしがなぜ識字ができるのかと不思議がる人も多いが、それはお婆さんが教えてくれたからだ。お婆さんは子どもに字を教えるのは得意だ。倹約家のおばあさんのつくる料理は少なかったので、育ち盛りのあたしはいつもお腹を空かせていたが、そのうち慣れた。あたしがいまも痩せていて小食なのは、そのころの食生活のせいでそういう体質になったのかもしれない。お菓子の類はあまり食べたことがなかった。ふわふわのスポンジケーキやオーブンで焼いた木の実入りのクッキー。お婆さんの手作りのお菓子は美味しかったけど、そのころのあたしの舌にはあまり好みの味ではないようだった。砂糖がほんの少ししか入っていなくてなんだか口のなかにいつまでも残ってぼそぼそした。あたしはお菓子の代わりに花を摘んでその甘い蜜をちゅっと吸ったり、野いちごをお腹が一杯になるくらい食べたり、甘い薬草をくちゃくちゃ噛んだりするほうが好きだった。森の味がする自然のお菓子のほうが、あたしの身体には合うようだった。野イチゴを食べながら昼寝をしたり森のなかを駆けまわって、ウサギと駆けっこをしたり追いかけまわしたりしていた。秋になるといろいろな木の実やキノコがたくさん採れるから、いつもより豪華な食事が食べられるのが楽しみだった。赤や黄色くなった炎の色をした落ち葉を見るのも好きだった。
「お父さんやお母さんに会いたいだろうねえ。かわいそうな子。でも、あなたのお父さんやお母さんは、あなたが憎くて捨てたんじゃないんだよ」お婆さんは優しかった。あたしは自分を捨てた親のことを知りたかった。あたしがどういう親から生まれたのかを知りたかった。お婆さんは余計なことを言わなかった。ただあたしのことを自分の孫のように大事に育ててくれた。短気なあたしが些細なことで怒って、お婆さんに失礼なことを言ったことがある。あの一言だけは言わなければよかったと、いまでも悔いている、あたしの吐いた酷い暴言。お婆さんと喧嘩をしたとき、あたしは思わずこう言った。「お婆さんなんか、あたしと血がつながってないくせに。血が繋がってないあたしのことなんて、本当はどうでもいいと思ってるくせに。あたしのこと、拾ってきたんじゃなくて、本当は、あたしのお父さんとお母さんのところから、誘拐してきたんでしょ!」自分でも子どもっぽいと思ってるし、いまでも思い出すだけで胸が苦しくなって、居心地が悪くなってくる。捨て子のあたしのことなんか、だれも望んで誘拐したりしないのに。捨て子のあたしを一生懸命育ててくれているのはお婆さんなのに。それから三日くらいお婆さんはあまり話しかけてくれなかった。ふたりとも黙った夕飯のときに、味気のないうすいスープを飲みながら、あたしは心がひもじい、ということを涙を流しながら思い知った。
でもあたしは森のなかにいるのが好きだった。みすぼらしい木でできた小さな暗いお婆さんの家に引きこもって人形遊びをしたりしているのは嫌だった。あたしはただ森のなかで日を浴びたり、背の高い木々の間を走って、乾いたり湿ったりしている木の葉の舞い上がるなかをイタチを走りまわって追って殺して家に持って帰ってお婆さんに夕食にしてもらったりするのが好きなんだ。お婆さんの小屋から離れたところに、鳥人の家族が住んでいることを知っていて、森のなかでたまに出会うことがあった。彼らがあたしたちの唯一のご近所さんだった。鳥人の子どもは生えたての翼で飛ぶ練習をしていた。太い木の枝にちいさい鳥人の兄弟がとまって、不安げな眼でこちらを見つめてくるのを、見たことがある。彼らの小さな指が幹につかまって震えていた。妻の鳥人は夫や子どもたちほど飛ばない。妻は外に出たら地面に落ちている食べられる草や木の実や果実を集めて料理の材料にするのが主な仕事なんだ。鳥人の家族は森のなかにいる彼らの神を崇拝していた。森を守ってくれる女神だ。彼らの父親は彼らの神の祭祀だった。彼らの宗教にはあたしは気にならなかったし、それについて知りたいとも思わなかった。あたしは、彼らが早朝に森のなかの滝まで厳かな顔つきで頭をたれて恭しく歩いていく姿をたまに見た。彼らの神は滝にいるようだった。一家で白い服を着て小さな声で神を讃える歌を歌いながら滝へ歩いていく姿は、真面目な信者そのものだった。あたしは神が信者である彼らにいったいなにをしてくれるのだろう、と不思議に思って見ていた。神を信じることによって、彼らの一家はたぶん救われているのだろう。あたしは小さな洞窟のような巣穴を見つけて潜って熊の赤ん坊を見つけたり、鳥人のまねをして木の幹につかまって枝の上まで登って遠くを見わたしてみたり、燃えるような色の落ち葉のなかにうずもれて眠ってみたり、木と木の間にハンモックをかけて昼寝をしたり、木々になる果実や木の実を拾って食べたりして、あたしは自分が獣人であることをちいさいときから充分に自覚していた。お婆さんのよくやっていた薬の調合や簡単なまほうの使い方を習ったりするのは全然したくなかった。識字はできるけど、本を読んだりするのはあたしは嫌いだったし、苦手だからしたくなかった。お婆さんは「おまえは獣人だからねえ。おまえのよく聞こえる耳、よく切れるちいさな牙、よく切り裂ける爪、だれよりも速い足、愛らしいその黒い尻尾、おまえのなかの息づく獣人の魂が、おまえは獣人であることを証明しているからね。おまえが獣人らしく生きられるように、おまえは獣人らしく生まれたのさ」といってあたしをまほうつかいにするのを諦めた。
あたしは小さいころは森のなかが世界のすべてだと思っていたけど、お婆さんの昔の話を聞きながら育っていくうちに、外の世界のことも気になりだした。あたしは森が好きだけど、森の外がどんな風になっているのか、自分の眼で見たことがないから、どんなものなのかを確かめてみたくなった。あたしはお婆さんと一緒に暮らすのはちっとも嫌じゃなかったけど、ときどき退屈になって、あたしと同じ年ごろの子どもや人間たちと話をしたりかかわってみたいと思っていた。あたしはあたしやお婆さん以外の人間ともお喋りがしてみたかった。知らない人がどんなことを考えてどんなことを話すのかが気になった。あたしがそんなことを口にも出さないで一人で隠していたけど、あたしの気持ちや考えはおばあさんには伝わっていたようだった。お婆さんはある日、自分の若いころの話をしてくれた。ある一人の青年の思い出話だった。「わたしは〈ゲヘナ〉にある孤児院の院長だった。スラム街の孤児たちの母親代わりだった。わたしは子どもたちを危険から守るために、ときにはまほうをつかって、意地の悪い悪党や子どもをさらっていく犯罪者やいろいろな悪いものと戦わなければならなかったんだ。わたしは確かに最強のまほうつかいだったけど、わたしの強さはわたしの大切な子どもたちを守るために使っていた。ある雨の日に、わたしはあの青年に出会ったんだ。スラム街の隅のほうのゴミ捨て場に青年が倒れていたんだ。助けると、彼は自分は放浪の画家だと言った。各地で絵を売って旅をしているうちに、この最も危険な街〈ゲヘナ〉のスラム街に迷いこんでしまったのだ。全身がずぶ濡れになった彼は雨のなかにいた仔犬のようだった。彼は繊細で弱くて涙もろくて優しい人だった。〈ゲヘナ〉に棲む人たちや孤児たちの暮らしのことをわたしが話すと何度も涙ぐんで、孤児たちを抱きしめて本当に泣いてしまったりするような人だった。孤児たちの面倒もよく見てくれて一緒に遊んだりできるような人だった。スラム街のゴミ捨て場に浮浪者の死体が放り投げられて置かれているのを見つけて、彼は死体に近づいていって自分の持っていた旅用のマントを死体にかけて隠してやった。《かわいそうだから》と言ってまた彼は泣いていた。死体には見慣れているのに、わたしも涙が出そうになった。浮浪者の死体なんかもう動かないんだから放っておけばいいのに。彼の反応や行動や態度を、わたしやまわりのものたちは珍しいものを見るような眼で見ていた。彼のような人間は、〈ゲヘナ〉には珍しいのだった。彼は〈ゲヘナ〉で生きるにはあまりにも優しすぎた。でも彼の心の感じ方のほうが、本当の人間らしい気持ちなのかもしれない、とわたしは思うようになっていた。死体がゴミ捨て場に放ったらかしにされていてかわいそうだと思う気持ちは、とても人間らしい素直な優しい気持ちなのだろう。わたしはみんなの優しい母親だと呼ばれて自分でもそう思っていたけれど、感覚が麻痺しているところもあったのだろう。それにあの青年は、戦えなかった。武器を渡して、わたしと一緒に戦って、と頼んでも彼は悲鳴を上げて、そんなことできませんよう、と言って逃げ惑っているだけだった。いらっとするけれど、なぜかわたしは彼のことが気になるようになってきた。だんだん彼の本物の優しさに惹かれるようになっていた。わたしたちの気を引くために、わざと優しいふりをしていたのかとはじめはだれもが思っていた。でも違った。《彼と結婚したらどうかな?》まわりの人はいつも一緒にいるわたしたちを見て、そうからかった。彼は弱い男だから、なにかあっても、わたしのことをきっと守れないだろう、ということはわかっていたけれど。彼はよく言っていた。《ぼくはだれかと喧嘩がしたいんじゃない。だれかを傷つけたいんじゃない。ただみんなと仲良くしたいだけなんだ。それだけなんだよ。傷つけられたら悲しくなることを、ぼくは覚えているから、ぼくはだれも傷つけたりしないよ》
ここが〈ゲヘナ〉ではなかったら、彼の言い分は聞き入れられたかもしれない。でも彼とわたしは〈ゲヘナ〉で出会ってしまい、そこは確かに〈ゲヘナ〉だった。彼は見る見るうちにやせ細っていき、とうとう精神を病むようになってしまい、〈ゲヘナ〉から出て行ってしまった。それ以来、わたしは彼と会っていないし彼の姿を見ていない。どこかの病院で療養したか、どこかで死んでしまったか、それはわからない。出会う場所が違っていれば、過ごす場所が違っていれば、いまも彼と一緒にいられたかもしれないのにねえ。彼が弱いなら、わたしが守ってあげるよ、くらい言えばよかったんだ。彼が繋いでくれた暖かな手のことを、わたしは何十年たった今でも忘れないで覚えているんだよ。彼が繋いでくれた手があんなに暖かな気持ちにさせてくれるなんて、ってわたしは驚いたものだよ。今ごろ彼はどこでどうしているんだろうねえ」
あたしはその青年のことを考えた。お婆ちゃんが話を終えて夕飯の皿を洗うのを見終わったあと、夜寝る前まで考えていた。心優しい青年。あたしもその人に会ってみたい。どんな顔をしていて、どんな眼をしていて、どんな声をしていて、どんな姿をしているのか。あたしは会ったことのない人に会ってみたいんだ。眠る前に、あたしの小さな手と、だれかが手を繋いでくれるのを想像した。お婆ちゃんの言っていたような、手を繋ぐと暖かい気持ちになれるようなだれかの手を。
あたしは朝起きて森に出た。あたしは森のなかにあたしとお婆さん以外にだれかがいないかを探すことにした。鳥人の家族でもいい。だれかに会いたい。かかわりたい。単純にそう思って、あたしは森のなかを歩き出した。おばあさんのくれたコットンのワンピースを着てみた。いつも着ているぼろのほうの服ではなくて、ちょっと小奇麗な白っぽい柔らかいワンピース。あたしが歩くとふあんと裾が動くところがお気に入りだ。お婆さんがあたしのためにミシンでつくってくれたんだ。道に、変な死に方をした小動物が落ちていた。身体のまんなかから二つに折れるように、固まりかけた血が出ていて身体が千切れかけていたアナグマだった。きっと銃で撃たれたに違いない。銃で撃たれて体に穴が開いて、内臓も破裂して苦しんで死んだんだ。銃で撃たれて死ぬのは嫌だ。銃を持っただれかがうろついている。あたしは家に帰ろうと思った。お婆さんが銃を持っている人には絶対に近づいてはいけないと言っていたからだ。猟銃を持っている猟師という人種で、獣や鳥や獣人を狩ることを趣味や仕事にしているあたしにとっては天敵で、絶対に見つかってはならない相手だった。会ったらきっとまだ子どものあたしでは逃げられずに殺されてしまうだろう、とお婆さんは言っていた。だからお婆さんはむやみに森のなかを遠くまで遊びまわってうろついたりしてはいけないと日ごろ言っていたんだ。この近くに猟師がいる。あたしは死んだアナグマのまわりから漂ってくる特別な煙のにおいを覚えていたから思い出して、あたりに同じにおいがしていないかを嗅いで探した。あたしは走って家に逃げ帰ろうとした。背後にだれかが草を踏む足音がした。もうすぐそばに猟師が来ていたことにあたしは全然気づかなかった。あたしは急いで走った。木の後ろからだれかが走り出したあたしの手を急につかんだ。
「どこに行くんだい、お嬢さん。そんなに走ったりして?」あたしの背後に黒い帽子をかぶった背の高い男が立って低い声で言った。すぐにこの男は猟師だとわかった。背中に特別な煙のかおりのする猟銃を背負っていたから。「悪魔のような醜い耳と、みっともない野蛮な尻尾。みすぼらしい身なりなんかして汚い娘だな。おまえ、獣人だろう?」猟師の言い方に、言葉にあたしは一瞬よくない悪質なものを感じて、なんだかわからないけれど嫌な気持ちがして、悪寒がした。あたしの手をつかんでくる手が気持ちが悪い。背筋にぞわぞわっと鳥肌が立って、猟師の手を振り払った。「離して!」
猟師のことが恐ろしくなって、近づいてくる身体を手で突き飛ばして走って逃げた。
「無駄だよ、馬鹿女。おれを撒(ま)けると思うなよ。獣人は必ず狩る」
猟師は眼を暗くらんらんと輝かせながら、悲鳴をあげて逃げて嫌がるあたしの背中に、猟銃の銃口が向けられたのがわかった。殺される。
バーン! と銃声がして、あたしが眼を開くと、だれかが地面に倒れる大きな音がした。後ろを振り返ると頭から血を流して、猟師が死んでいた。どうやら銃で撃たれたようだ。
あたしが震えあがりながら、猟師の死体に近づいてみると猟師の頭は半分吹き飛んで脳みそが見えていた。だれかがこちらへ歩いてくる足音とだれかの声がした。
「今日の夕飯は猟師汁にしようかねえ。死にたての生きのいい猟師が獲れたねえ」
決して若いとは言えないしわがれた女の声がした。
助かった、と思って腰が抜けたように脱力してその場に座りこんでしまいそうになった。声の主を探すと、森の奥から、小さなお婆さんが白煙のたなびく銃を持って現れた。どうやらの小人のようだった。小さい尖った猫の両耳がついた、背の低い獣人の小人のお婆さんだ。吊った眼が細められて、鼻が小さくて、裂けたような大きな口からは尖った歯が見えていた。笑った顔が猫そっくりだ。「いやらしい猟師は先に殺していただいて帰るよ。これからも猟師には気をつけるんだよ、お嬢さん」
ライフル銃を持った小人のおばあさんの後ろから続々とそっくりなお婆さんが6人現れて、さっさと猟師の死体の足をつかんでずるずる引きずって森の奥へ帰っていった。6人の猫の獣人の小人のお婆さんが、深い森のなかに住んでいるという噂を聞いたことはあったけど、会ったのははじめてだ。遠くからわざわざ猟師を狩りに出てきたのだろう。猫の小人はいなくなって、代わりにまっすぐ引きずられて地面に残った赤い血のあとが線のように続いていた。
《悪魔のような醜い耳と、みっともない野蛮な尻尾》あたしの気に入っている身体の一部を、そんなひどい言われ方をしたのは初めてだった。《みすぼらしい身なりなんかして汚い娘だな》あたしはところどころ薄くなっていて、汚れもついている自分の古いワンピースを見下ろして、裾をぎゅっと掴んだ。泣きそうだった。あたしは他人からそんな風に見えるのだということを知って、ショックだった。あたしが獣人だから、嫌う人もいるんだ。あたしは当然のように対等に扱われていないことに傷ついて泣き喚きたくなった。猟師につかまれた手が、いつまでも気持ちが悪くて、嫌なものがまとわりついて消えないような不快な気がした。あたしの背後に立ったときの、胃が重苦しくなるようなぞっとする威圧感。猟師は正体不明のなにか嫌な感じを撒き散らしていた。この気持ちの悪さは手を洗っても落ちない類のものだろうとあたしは悟った。吐きそうだった。《獣人は必ず狩る》あの猟師の言葉は、はっきりと自分が獣人狩人であることを証明していた。この森にもついに獣人狩りが行われるのだろうか。森を焼いたり、ゲームのように次々と獣人を狩って殺して楽しむあの凶悪な猟師たちがこの森に他にも何人もいるのだろうか。そうだったらあたしもお婆さんもここにいたら危ない。あたしは走って家に帰った。お婆さんはあたしの顔を見て「なんだい。死神にそこで挨拶されたみたいな顔して?」と驚いてみせた。
「猟師に会ったの。猟師が出た。獣人狩りの猟師かもしれないの!」
「獣人狩りの? もうここにもとうとう………」
「猟師が《獣人は必ず狩る》って死ぬ前に言ってた。猫の小人のお婆さんが危ないところで、ライフル銃でそいつを撃って殺して持って帰ったよ」
「キファ、おまえは逃げなきゃいけないよ。ここから出て、獣人狩りのハンターから、逃げ続けなければならない」お婆ちゃんはあたしの両肩に手を置いて、あたしの眼を見てそうはっきり言った。
「お婆ちゃんは、逃げないの。ここに一人でいても、大丈夫? 一緒に逃げようよ」
「わたしは大丈夫。一人でもまだ戦えるし、わたしはおいぼれのまほうつかいだからね。獣人ハンターは獣人にしか興味がないんだよ。ここにあたし一人しかいないと知っても、まさか殺しはしないだろう。
いいかい、キファ。よくお聞き。獣人ハンターは、獣人のことを殺してもいいと思っている。もちろんそれはれっきとした差別で、悪いことで、でたらめなんだ。それは獣や獣人のことをいじめてるんだ。いじめは悪いことだって、キファならわかるだろうね。獣人は強いけど、猟師を面白半分で殺して捨てたりしない。獣人ハンターの方が、悪いんだよ。おまえは悪くない。もしそういう風に言われたなら、いじめるな、とはっきり言っておやり。幼稚な理由で殺人を正当化するような卑怯ものめ、と罵っておやり。それでも引き下がらなければ、そいつを痛いめに遭わせることだね。全力で叩きのめすことだよ。あたしのことを甘く見るな、と言ってそいつをいじめ返してやるんだ。殺すと脅してもいい。わかったかい?」
全力で叩きのめす。二倍三倍四倍にして仕返しをする。果敢に殴りかかっていく。この手に握ったナイフで必ず刺してやる。そうすることで、あたしはあたしを救うことができる。あたしがあたしを救わないで、他のだれがあたしを救うことができる? あたしを犠牲にしても、馬鹿なやつらはあたしを馬鹿にして喜ぶだけだ。あたしはあたしを生贄にしない。あたしの嫌なことを嫌なのに嫌だと言わずに我慢したりしない。嫌なことを言われたりされたらはっきり嫌だと言おう。あたしを犠牲にしないで得られるものが、本物。あたしの心が血を流すほど痛めつけられたり、泣くこともできなくなるほど苦しめられたりする、言葉を失うほどの辛い犠牲を払って、あたしのためになるようなものは、なにひとつとして得られない。ますます酷い目に遭うだけだ。その不快さを我慢をする努力は間違っている。あたしの心が嫌だと言っているのだから。
あたしは大切にされたいんだ。自分にもだれかにも、大事に扱われたいんだ。粗末にされたり蔑ろにされたり見下されたりしたくない。「人間の本性には自分より弱いものみつけるといじめたがる性質がだれにでも本当はあるから、人をいじめたくなる幼稚な気持ちを抑えて我慢して、だれかをいじめないようにしなければならないし、だれかにいじめられたら、必ず反撃しなければならない。耐えてずっと我慢していたら、仕舞いにはいじめ殺されてしまうだろう」あたしは言った。
いいこと言うじゃないか。ですか。そろそろ時間ですよ。お腹空きませんか。お薬ですよ。起きてください。起ーきーなーさーいー。その声は。ユニルフ。彼がどうしてここに? 起きるって? ああ、病院。薬。ご飯を食べる時間なんだ。あたしは眼を覚ました。
「ユニルフ」あたしはまだ朦朧とする頭のまま、ゆっくり眼を開いた。重たい瞼を持ち上げるのが面倒だ。また眠ってしまいたくなる。うす汚れた古い天井が見えた。クリーム色のカーテンに仕切られた白いベッドにあたしは寝ていた。ベッドの隣の椅子にユニルフが座ってあたしの顔を見ていた。「おかえりなさい」と彼は言って、そっと笑った。
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