第14話
2、
彼が起きた。あたしは彼の肩にあたしの歯形が残っているのを見た。そういえばユニルフの身体のいいにおいがするから、硬い肩の皮膚に噛ぷりついてやったんだ。彼が服を着ないでいると、あたしは彼の身体のにおいを嗅ぎつけて、まるでまたたびを見つけた猫のようにくにゃんくにゃんになって、あーもーこりゃたまらんってなってしまって、近寄っていって彼にどーにかせずにはいられないようになってしまうんだ。あたしはユニルフ中毒か、依存症患者のようだ。彼は身体から、あたしを虜にするようなかおりを撒き散らしている。気づいてて出してるのか、知らないで出してるのか知らないけど、勝手に自分の身体からあたしが夢中になるような匂いを発することができる彼って、ずるいなあ、と思う。
(どーしてそんなにいいにおいがするのっユニルフ! あー)
そんな美味しそうなにおいがさぁ。あたしとは違うにおい。あたしからは絶対に発せられない男だけのにおいがしてさぁ。食べたくなっちゃうんだよぉ。
「野獣の眼になってますよ、キファ」と言って彼は笑う。
「にゃあんっ」あたしは彼の顎の下に生えたての髭を見つけて、そこにキスしてあげた。すぐに剃られちゃうけど、生えたてのお髭ちゃん。噛んでひっぱちゃおー。
「痛っいですよー」
彼の足に自分の足を絡ませて、彼の温かい胸に顔をすり寄せたりして好き好きアピールをしていると、ユニルフの長い指がゆっくり口のなかにぬぷぬぷ入ってきた。そういうことをするときのユニルフの眼が、あたしは大好き。すごく男っぽい眼をしてるから。どーしてそーいうことするかなぁ。うっとり。どきどき。痺れる。あー。あたしはサカってる馬鹿なめす猫かもしれないけど、すごく幸せだから、それでいいんだ。ユニルフに愛されてよかった。寝ぼけてて髪には寝癖もついてるし無精ひげも若干ひげってるけどすね毛もそよそよってるけど、彼のそれらならあたしはそんな彼をも含めてすべて愛してる。愛してるって言うと彼が喜ぶから余計にまた愛してる愛してる愛してるって言って、ぼくも愛してますよと言われるとたまらなく嬉しいのだ。馬鹿みたいだってだれかに笑われても、ジャンキー状態だから、全然気にならない。あたしは完全にこの愛にのみこまれてしまっているのだろう。彼がもっとオープンに自分のことを話せばいいのに。あたしもたぶん彼にもっと自分をさらけ出せばいいと望まれているのだろうけど、そういうのは本当に苦手だから、もっとうまくあたしを飼いならしてから期待してね、とこころのなかで思っているのだった。彼の話す言葉やする行動から、あたしは彼がどんな人で、どのくらい愛を持ってるひとで、どのくらいあたしのために頑張れる人なのかどうかをさりげなく見て、計算しているのだ。嘘はばれる。手抜きは嫌い。本物が好き。たいてい合格で、たまに号泣させられてしまう。彼はかつてないほど成績がよい。あたしも負けずに高得点を叩き出さなければね!
ユニルフの部屋には、テーブルがない。あたしは彼の家に一緒に住んで、すぐに不便だと思った。一緒にご飯を食べるときに、テーブルがないと、食べづらいのだ。あたしたちはいままでそれぞれの食べ物を抱えて食べていた。ドリンクの場合は、手で持っているか直接床に置いてるかどちらかだ。あたしは明け方に起きて、近所のコンビニで何日か前に大量に買い置きしていた、コーヒーのぬるい缶を二本簡易折りたたみベッドの下からごそごそとり出して、二人で開けてそれぞれ飲んだときに、あたしは「ねえ。テーブルがないって不便だね」と言ったのだ。せめてぬるく甘い缶コーヒーをいったん置くちいさな置き場所というか台、がほしい。
「それもそうですね。いままで一人だったので、気づきませんでした」ユニルフは言った。
「テーブル、買っちゃおうか」
「荷物が多いと、次にどこかに移動するときに困るんですよね」
「そうだね」
あたしは最近まったりしすぎていると思う。ユニルフに完全にのみこまれちゃって、自分らしさとか自分はこういう風にしたいんだというか、そういう強い自己主張みたいなのが出なくなっている。何でかしらないけど、ユニルフの意見に寛大に賛成したいという大人しい人間に成り代わってしまっている。なんでもユニルフの望むようにしたらいいよと、あたしもそうしたいし、みたいな。前からあたしは馬鹿だとは思っていたけど、これではもう本当に本当の馬鹿じゃないか。いまのあたしは彼に守られていて満たされていて、なに不自由なく暮らしているというかんじ。この調子だとあたしは彼の子がほしいと望むようになるだろう。あのあたしが。彼の子を生んで彼との家庭を持ちたいと願うだろう。あたしは本能のままに従うのが好きだったけど、まさかあの殺戮者のあたしが人間の男の子を生んで育てたいと思うようになるとは思わなかった。ここで馬鹿なあたしがぽこぽこ子どもを生んだらあたしの馬鹿な遺伝子を継いだかわいいかわいい子どもがたくさん生まれて、みんなで楽しく暮らして。………って、また! なってるし! 彼とあたしの性質を半分ずつ継いだ愛らしい子どもたちが。って! もう! 違うって!
愛するとはその人に飲み込まれるということ。
その人がこうなりたいこうしたいこうなってほしいという願いをあたしにも願うようになれと望まれる。あたしはその人を愛するあまりに苑願いを信じて受け入れて飲み込まれて生きていくだろう。その人の信じた世界の姿に飲み込まれて。ということは、彼はあたしの子が欲しいと望んでいるのだろうか、おそらくそうだろう、無意識のうちにあたしが気づくくらいなのだから。
一人の自分の世界と、愛する人がつくった世界。一人の自分の世界を持っているあたしが愛しただれかの世界に飲み込まれるということ。それを信じてあたしの世界の姿が変わっていくということは、効果不幸になるかはその時点ではまだだれにもわからないけど、その世界にたった二人でいる二人でいることが、愛ならそれはその世界の夢から醒めたら、二人のその関係はなにか変わるのだろうか。あたしはこのユニルフの世界に飲み込まれてしまっている。あたしはユニルフの望むように生きることを願う。そうして当分、いやこのまま一生、この甘い夢は覚めることはないのだろうと思っている。そうしてあたしと彼の世界は一緒くたになるのだ。融合されて、二人だけの世界になる。
彼は今ではあたしのことを「おっとり猫ちゃん」と幸せそうな顔をしてそう呼ぶ。攻撃的なところはまるでないし、フェロモンオーラを放つセクシーなところもない。これでは完全に彼に愛されるかわいい奥さん状態だ。あたしは愛に生きて愛に死ぬ。とでも言いかねない。というかんじで、あたしは彼とあたしの洗濯物をコインランドリーで洗ってきたものを、部屋の隅にあった袋から出してきて、彼の下着やシャツやあたしのタオルかなにかを甲斐甲斐しく畳んであげたりするのだった。なぜだろう。「ここがゲヘナじゃなかったらなぁ」あたしはいつの間にかつぶやいていた。ため息をつく。
「きみが望むなら、どこへだってぼくは引っ越したってかまわないんだよ」ユニルフは笑ってそう言ってくれる。なんて優しいのかしら。ユニルフの歯が真っ白に光って、前よりかっこよく見えてきた。服だっていつもの水色っぽいシャツ姿じゃなくて、早く起きなさい。見たことがないようなきらびやかな衣装になってて。スパンコールのマントとかついてて、起きてください。そばには優しい眼をした彼の乗る白馬が控えてて。その後ろには立派なお城が………このままだと死んじゃいますよ!
「やめなさい。早く!」
彼の大きな声であたしは急に眼が覚めた。あたしの鼓膜のなかで、まだ彼の大きな声がぅわんぅわんと響いている。彼はあたしの両肩をしっかりと掴んでいて、それが痣になりそうなくらい痛くて、さっきから眠っていたあたしを起こそうとして揺さぶっていたのだ。
「ここは……?」
どこだろう。どうもユニルフの家ではないようだった。きついアルコール消毒液のにおいがあたりに漂っていて鼻が刺されるようだった。横になっているベッドも真っ白い硬くて糊のききすぎたシーツとふとんで、クリーム色のカーテンで仕切ってあって、高い天井は古い建物のせいか、うす汚れていた。
「病院ですよ。ようやく気づかれましたか」ユニルフが長く緊張の続いた後のように疲弊して、あたしを見てそう言った。あたしのベッドの隣に椅子に座って、ため息をついている。
「どうして……」
「なにも覚えていないんですか? 困ったなあ。あなたは、倒れたんですよ。ぼくと一緒にいたときに。まだ思い出せませんか?」
思い出せない。彼がなにを言っているのか自分ではさっぱりわからない。さっきあたしが見ていたのは夢だったんだ。どこからが夢だったんだろう。
あたしが焦点の定まらないような眼で混乱したように自分の頭を抱えていると、彼はちょっと顔を赤くして、逡巡した後思い切って、声を潜めてこう言った。「あなたは、死にたいと思いませんでしたか。もしくはその、殺されたい、とか、望みませんでしたか」
「あたし望んだ」と言って、あたしは頷いた。すぐになにかを思い出そうとする。「ユニルフに、殺されてもいいって」小さく言う。
彼はやっぱりと言うように顔を赤くしながら、首を横に振った。「すぐにすべてを思い出せるようになるでしょう。あなたも〈ゲヘナ〉での暮らしは長いはずですから」
「全然思い出せない。ねえ、教えて」
彼はますます顔を赤らめて、あたしに顔を近づけてこう言った。「〈ゲヘナ〉では死にたいとか殺されたいとか望んでしまったら、知らないうちにその希望が叶えられてしまうことがあるから、気をつけなくちゃだめじゃないですか。〈ゲヘナ〉には死にたい人は生きていられないんですよ? 俗にいう〈五本足の悪魔(ブエル)の娘の呪い〉という睡眠の奇病です。かわいそうに。弱って死んでしまう方もいるそうですよ。でもあなたは強いですから、きっと大丈夫ですよ。頑張って、生きるんだ、と強い気持ちになって、ね? 絶対に治しましょうね!」
「〈ブエルの娘の呪い〉……? 知らない」
「困ったなあ。どんな夢にとり憑かれてしまっていたんでしょうね? ブエルの娘の呪いはやがてあなたを確実に死に導くでしょう。それは偽もので夢であなたの見た幻でしかないんですよ。次にどんな夢を見ても、必ず、こちら側の現実の世界に、必ず、帰ってきてくださいね。ね、約束ですよ」
ユニルフはあたしの手をとって小指に自分の小指を絡ませて、約束、と言ってぎゅっとして手を離した。
「ご飯の時間ですから起こしましたよ。ご飯も食べるのを忘れて眠り続けて何日間も起きられなかったら、あなたはブエルの娘の見せる幻の夢の世界から二度と帰って来れなくなります。眠ったままあなたは死ぬんです。わかりましたか。そうならないようにぼくは定期的にあなたを起こしに来ます。この病院にもお金を払いましたから、ちゃんとご飯を出してくれるようにお願いしましたし、あなたが眠り過ぎないように看護師も見まわりに来てくれると思います。いいですね?」
「あたしは自殺を望んだんじゃないのに………あ、そうか。だから起きられたのかな」
「医者の言うとおりあなたは軽症でよかったですね。お昼ごはん食べたらどうですか」
ユニルフは椅子の隣の簡易テーブルの上に、昼食が届けられているのを、自分の身体をねじってよけて、あたしに見せてくれた。あたしはベッドの上にテーブルを移動させて、ベッドの上に上半身を起き上がらせて、フォークを持って寝ぼけながら昼食を食べはじめた。デザートにシュークリームがついていた。なにかの魚と海草のスープと、鶏肉の照り焼きと、サラダとパンだった。コップ一杯のあまりかおりのしないお茶を全部飲み干した。ぬるく冷めたお茶の入っていた陶器とプラスチックのあいのこのような硬くてつるんとした器のなかから最後の澄んだ一滴も飲みきった。小さなコップをところどころ錆びた銀色のぼこぼこしたお盆の上に置く。なにかの白い魚の柔らかい団子のようなものを歯で割って食べる。暗い色の柔らかい海草が髪のように見えてきた。ユニルフの黒い髪のようだ。ちゅるんとパスタ麺をすするように食べていると、彼の髪や毛の生えて黒っぽく茂っているところを口に含んだり吸っているようなことを思い出してきて、彼を食べているような気持ちになってきた。ぷりっとした甘い柔らかい鶏肉の皮に噛ぷりついて肉汁をちゅうちゅう吸いついたり歯形をつけて食べたりしていると、彼の美味しい皮膚を齧って味わっているような気がしてきた。他のサラダやパンは食べなかった。最後にデザートのシュークリームのがさがさする透明なビニール袋を開けて、柔らかでふかふかのそれを食べると、なかから溢れる甘いクリームが出てきた。白っぽくてとろりとしたクリームを吸いながら、なぜか彼はきっとこのシュークリームに違いないと思ってしまう。甘くてとろんとしたクリームである彼を、あたしは美味しく食べる。ユニルフのことを愛してると思いながら眼を閉じて食べる。
あたしが食事をしていると、ユニルフはいつの間にか隣にはいなかった。きっとあたしの食べ方がいやらしかったので、一緒にいづらくなって、病室から出て行ったのだろう。そのうちすぐに帰ってくるだろうから、あたしは別に心配していない。あたしはユニルフのことを食べたいとか言うけど、それはとっくに使い古された言い方で、食べてしまいたいくらい好きだ、という意味だ。本当に昼食のように食べてしまいたいということではないのに。あたしは昼食を食べながら、彼のことを思い出して彼を味わうことを思い出しながら、どっちがどっちだかわけがわからなくなっていた。あたしは獣人だけど、ちゃんと人間で、食肉(カニバライズ)することは決してないのに。変なあたし。どうしたんだろう。このことをどういうふうに彼に話そう。あたしはベッドの下にあった簡易トイレを使って、すばやく排泄して、脱臭液がにおいを消すのを見ていた。青い脱臭液がどんどん招集していくのを見ていると、また眠くなってきたので、ベッドにもぐって短く眠った。食べたら排泄しなければならないのが、生き物の面倒なところだ。
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