第11話

2、



 ユニルフは優しくとてもうまくあたしのことを愛してくれる。ユニルフの隣で目覚めたとき、横になったままの彼の手をあたしは自分の手でやさしく包んでみた。彼はあたしを見て「あなたはなんだか前よりも優しい眼をするようになりましたね」と言ってくれた。「気づいていましたか?」と笑う。「ううん」あたしは曖昧に笑う。彼は汗をかいているみたいで、たぶんいま肌に触ったらしっとりとしてすべやかなんだろうと思った。金色のふわふわした産毛が背中に気持ちよさそうに生えている。彼は枕元に置いてあったペットボトルの水を飲んだ。寝ぼけていたのか、少量が彼の唇からこぼれて流れそうになった。彼は手の甲で水をぬぐった。あたしは身体を伸ばして手をつかまえて彼の唇の触れたあたりを軽くキスするみたいにちゅっと吸ってそのわずかな水を舐めた。彼が笑ってちょっと赤くなったので、あたしは甘えるふりをして、彼の膝の上に上半身を乗せてもたれかけて、かわいらしく下から彼を見上げて笑ってみた。「ユニルフの味がする」彼はにこにこ笑いながらあたしを抱えて膝の上に乗せなおしてくれた。?って寝ぼけているあたしのなかになにげなく彼が入ってきて、あたしはまんまと寝込みを襲われて、抵抗できずに、気持ちよくてたまに短い声を小さく上げながら、顔を赤くしたまま襲われてしまう。「やぁ、ん。ぁ。そういうとこ、やらしーよ、ユニルフー」とかあたしが喋りづらい口で言うと、「キファこそ、あたしの体じゅうにかけてーとか変態みたいなおねだりするくせに」と言ってあたしの頬ずりしながら何度もキスしてきた。寝起きから突然激しい愛情表現をする男なので、あたしも驚く。あたし、愛されてるんだ、と涙が出る。ベッドが軋む。息を切らして快感に酔う。

 彼はペットボトルにキャップを閉めて枕元にまた戻して、うにゅむにゅ鳴いてぐずぐずになってしまっているあたしの黒い髪をやさしく撫でた。彼の足の間に身体を置いて両足で挟んで守ってもらうみたいにしてもらうと、なぜかとても安心してまた眠ってしまいそうになった。背中を抱きしめてくれるユニルフが温かくって、ユニルフに愛してるって言いたくなる。「愛してるー」彼はあたしの背中にキスをした。あたしはユニルフの全部が好き。彼のお膝の上に抱えられたときは全然怖くなくて、普通の人のときだったら恐ろしいと思うはずなのに、はしゃぎたくなりそうなほど逆に嬉しくなってしまった。なんでなんだろう。ちっとも怖くない。心地が良い。さすがユニルフ。

 ユニルフは眠りそうになっているあたしの頬に手を当てて触った。ユニルフのたくましい手。「家に引っ越して来ればいいのに。そうすればぼくはキファともっと一緒にいられるでしょう?」

 それを聞きつけたあたしの耳としっぽがぴんと立った。あたしはすぐにユニルフと一緒に住むことにした。もうあんな場所からはさよならできるんだ。あの変な管理人の嫌がらせからも解放されるんだ。ユニルフのアパートに引っ越すために、あたしはすでに荷物をまとめた。もともと荷物は少ないんだ。ユニルフの硬い手を歯で甘噛みして優しく齧る。ユニルフの爪。五本の太い指。分厚い掌。ユニルフの手の味が滲みだしてきて美味しい。ユニルフはそんなあたしのことを優しい眼で見ている。反対の空いた方の掌で立ったうすいとんがった獣の黒い耳をぐにぐに揉んだり軽くひっぱったりする。

 あたしが畏れていた破壊衝動のことも、なんとかうまくいっている。彼の前ではあたしの気持ちは穏やかだから、彼を殺しそうにはならない。彼は穏やかな男で、彼が激昂しているところをあたしは見たことがない。温和な人柄なんだ。あたしが彼にぶちギレることはめったにないけど、たとえあたしが怒っていても、機嫌が悪くても、彼は冷静さを失わない。彼に会っていないときに気分が荒れると、なにかを壊したりすることがある。金属バッドを片手に夜なかに家を抜け出して昔のように粗大ゴミを叩き潰しに行ったりした。彼にもらった青い携帯電話だけはまだ壊さずに保ってある。あれを見ると彼のことを思い出すから、あたしにはあの携帯電話を壊すことはできない。青い金属質の携帯電話をあたしは指で撫でる。彼が使っていたことのある彼のものだったから。携帯電話は革パンのポケットに入れてある。

「最近なんか楽しそう。キファさん。なんかあったの?」

 あたしがいつものように〈リヴァイアサン〉でバイトをしていると、路上で半裸で立って煙草を吸っているダークプリンセスにそう話しかけられた。暇さえあれば、あたしはユニルフのことばかり考えている。あたしは裏口の陰の段差に腰掛けたまま、彼女の寒そうな衣装と白いけどかさかさに乾燥して痛々しい露出された肌を見ながら、答えた。「ちょっとね」

「なによぅ。教えてくれたっていいじゃない」煙草から口を離すと、煙草に赤い口紅の跡がついた。細い指に煙草を挟んで、口を尖らせる。ダークプリンセスは王冠のように金色の髪を今日も派手に盛り立てていた。まわりに暇そうな通行人の男の客がいないかをすばやく探して、だれもいないのを見ると、胸の大きさと細いウエストを強調するように編み上げのきつそうなコルセットをつけ、ふんわり広がった短すぎるスカートのすそを揺らして足音を立てずにすばやく近づいてきて、彼女はこちらを見透かすように言った。「ね、男でしょう?」

 あたしは青いポリバケツのそばに座ったまま、彼女を見上げて曖昧に苦笑した。なんて答えよう。

「きっとキファさんにも男ができたのね。素敵なダーリンが。いいなあ、羨ましい」

「ダーリンとかじゃないよ」あたしは自分の顔が笑顔になるのがわかって、それを抑えながら首を横に振った。自慢をするのは嫌なんだ。

「なに買ってもらったの? その人お金持ち? なんでもわがまま聞いてくれるの? お金くれたりする? ね、ね? いいなあ。あたしも早く飼ってくれる男をつかまえなくちゃ!」

「なにも買ってもらったこともないし、たぶんそんなにお金持ってないと思うよ。ダークプリンセスが期待してるような人じゃなくて、ごく普通の人だよ。あたしと仕事を一緒にするようになってから、仲良くなってさ」

 そういうと、ダークプリンセスは急に興味を失ったような顔をして、「ふぅん」と言ってつまらなさそうに言って、小首を傾げてあたしにこう聞いた。「じゃ、その人と一緒にいてなにが楽しいの?」

 この子は娼婦なのに最も娼婦らしいところには触れないで聞くんだなあ。あたしの普段の外見からは、そういう素質がないみたいな風に勝手に判定されちゃってるんだろうか。あたしが小悪魔的でセクシーじゃないからって、女じゃないみたいに言うんだもの。失礼な子。無意識に失礼なことする子。でもこの子はそういう方面のプロフェッショナルだから、あたしなんかには負けないっていう自負とか誇りとかがあるのかもね。それともそういう仕事してるから当たり前すぎて、その価値とか意味とかの感覚がちょっとおかしいのかもね。

「なんでだろう。そういうの、考えたことないや」あたしがわざとはぐらかしてそう言うと、ダークプリンセスはそれを聞いてあたしのことを〈あ、この女は意外と馬鹿だな〉って思ったのだろう、一瞬にやっとしかけながらそれを抑えてから、「わかった、わかった」と笑って言って首を振って、手も振って、走り去っていった。

 店のごみ類がまとめて捨ててあるゴミ箱のそばにいると臭いけど、まわりからあたしの姿が見えづらくなるから、ここにずっと腰掛けているだけで、他の店の用心棒は、いかにもっていう感じのいかつい大男が二人くらい店の入り口や裏口に厳しく立っていたりするんだけど。あたしのように女でちょっと弱そうなんじゃないか、っていう用心棒係を裏口に座らせているのは、〈リヴァイアサン〉くらいだろう。「そういうのって、なんかおしゃれじゃないかな?」とか幽霊男は言っていたが、そこんとこはまあ、どうなんだかわからない。近隣のカラオケもできるスナックや若い男女が踊ったり飲酒したりするクラブもあって、いい時間帯になると客足が増えて通行人が多いときは多くなる。二つか三つくらいの遠くの店から軽快なダンスミュージックが流れているのが聞こえてきた。あたしは音楽のことは良く知らないけど、流行っている曲のこともよく知らないけど、昔っぽいゆったりとしたジャズっぽい曲だった。トランペットが鳴っているのが聞きとれる。ユニルフはいまなにをしているんだろう。また〈ブルー・ヴォイス〉の曲を聞いているんだろうか。ユニルフ。会いたいよ。不意にのどが渇いてきて、何日か前にユニルフが飲んでいた透明なペットボトルに入った、あの美味しそうな水が飲みたい、と思った。ユニルフの気に入っていていつも買っているあのメーカーのペットボトルのミネラルウォーターがどうしてもいま、飲みたい。冷たいあの水を飲み干したい。ユニルフが途中まで口をつけて飲んだ、その残りのミネラルウォーターを、あたしにも飲ませてほしい。軽く力をこめてつかんだだけで、ぐしゃりと音を立てて歪んでしまうほどの柔らかなペットボトルになみなみと入った、透明で澄んでいて光が当たると小さな虹がいくつもできる奇麗なあのたふたふする軟らかい水。ユニルフの唇に滴って潤すあの水。ユニルフがあのときあの部屋で飲んでいたとき、あたしにも口移しで飲ませて欲しいって、頼んだら良かった。あたしはもうすでに彼となにもかもわかちあいたい気持ちでいっぱいなのだ。

 あたしが裏口付近で腰掛けてぼうっとしていると、隣の店の用心棒が軍人のような歩き方で、こちらに向かってあたしに近づいてきた。大柄なその男は警棒を腰から下げていた。この男に警棒で思い切り殴られたら相当痛いだろうなとあたしは思った。見上げるような大男で、あたしは首を反らして「なにかご用ですか?」と聞いた。鍛えられあげたたくましい筋肉が盛り上がっているのが、服をしっかり着ていても、はたから見たらすぐにわかる。

「先日おれたちの店の近くで、客の女が店を出てしばらくした後に殺された。犯人はどうやらどのあたりの店かはわからないがどうも用心棒だったらしい。おまえを疑うわけではないが、まだ犯人が捕まっていないから、おまえも気をつけたほうがいい」ぶっきらぼうな言い方だった。〈クラブ・レッドスコーピオン〉と書かれた赤いロゴと蠍の店のマークの入った動きやすそうな黒い制服を着ていた。

「ありがとうございます。ご親切にどうも」あたしは頭を下げた。

「あと、その女の死体には、片足首がなかったそうだ。殺された後、足の肉が食いちぎられたようになくなっていて、今も見つかっていないらしい。どうやらそいつが左の足首だけを切断して持ち帰ったんだろう、というのがいまの段階ではいちばん有力な情報だ。精神異常の変質者かもしれない」そう言って、〈レッドスコーピオン〉の用心棒は自分の仕事場に帰っていった。

 あたしは自分のいつもの場所に戻って、さっき聞いたことを考えていた。あたしが数日前に聞いた女の悲鳴は、もしかしたらあの男が言っていた、用心棒らしき人物に殺されて足首を切断されたあの女だったかもしれない。一瞬心臓が針で刺されたように痛んだが、いまごろ悔いたところであの女の命はもう帰ってこない。その女がなにをしていてどうして殺されてしまったのかはあたしは知らないが、あの用心棒はあたしのことをもしかしたら疑っているのかもしれない、という気がした。あたしに会って、おまえが殺したんじゃないか、ということをそれとなく探るために、疑われているよ、というようなことを細かく小さくだけれども、ほのめかしたのだ。あたしはいままで近所の用心棒たちとなんのかかわりももたなかったし、話したこともなかった。それが急にだ。あたしの頭のなかには、女を殺した後、左足首を噛み千切ってこのあたしが飢えをしのいだとでも言いたいつもりなのか、と思うと胃のあたりが暗く重たく煮えるほど熱くなってきて、奥歯を噛み締めた。

 しばらく〈リヴァイアサン〉の奥の扉の鍵を持っていたので勝手に開けて入り、金網の扉の鍵も外して向こうの本格的なゴミ捨て場の散らかっていたものの片づけとほうきを使っての掃除を、ひとりで黙々としていると、店内の換気扇の排気口から、トイレのきつすぎる芳香剤の柑橘系のにおいと便器用の洗浄剤と、煙草の煙の匂いが混じってあたりに漂っていた。店内からはじけるような女の甲高い笑い声が聞こえた。大人一人がなかに隠れることができそうな巨大な箱のふたの上には、痩せた野良猫が一匹、鎮座していた。痩せたまだら柄の猫を手で追い払って、ふたを開け、ごみの詰まったごみ袋を箱のなかに入れてまたふたをした。奥の二枚の扉にそれぞれ施錠して、あたしは元の場所に座り込んだ。そのころにはだいぶ頭もすっきりしていて怒りもどこかに消えてしまっていた。もし女の見つかっていない左足首が噛み千切られて捨てられたか持って行かれたかではなく、殺しただれかがその場で食べてしまったとしたら? 〈食人鬼〉ユニルフの言っていた、食人鬼。名前は、〈ランタン男〉でいいのかな。人間の肉を食らう人間がいるとしたら? あたしのことをカニバリストではないことを知らない人たちからしたら、獣人で空腹でしかも用心棒のあたしがかなりの確率で怪しいということになるのは別に不自然な推理ではないだろう。獣で、人間を襲い、しかもその肉を食らうらしい、という獣人たちに、殺した人間の肉を食う、という習慣があると思いこむような偏見が世のなかにあったとしても、あたしは別に驚かない。

 バイト中に、あたしのことをちらちら見るような通行人たちは、特にあたしの尖った黒い耳や鋭く長い爪やお尻あたりから生えている長い黒い尻尾を盗み見ていたり、胡散臭いものを見るような、なにかを言いたそうな顔をしていたが、あたしは全部無視した。空に日が完全に昇りきったころに、あたしは閉店した店内に戻って、どこにいるんだかわからない幽霊マスターに話をしてみようと思って、カウンターの席に着いた。

「掃除中だよ」黒く艶を放つグランドピアノの上を、磨き布だけが往復していた。

「掃除しててもいいから、あたしの話を聞いてくれない? 悩んでることがあるの」あたしは言った。

「給料なら値上げしないよ」

「それじゃないって。値上げする気もないくせに」

「今日はやけにおかんむりだね」

「数日前に近所で殺人事件が起こったの、知ってるでしょ。どっかの店の客の女が、どうもどっかの用心棒に殺されたらしいって、あたしは今日聞いた。この店の近所の店の用心棒がわざわざここに来てね、教えてくれたの。その殺された女には、左足首がなかったんだって。そこだけ噛み千切られて持ち帰られたみたいだったって」

 木の床の上を移動する硬い靴音がした。幽霊マスターの足音だ。幽霊だけど、彼にもちゃんと足もあるし靴も履いているのだ。幽霊マスターは、冷蔵庫から冷えたグラスと瓶をとり出した。表面が白っぽくなったグラスに、彼は静かにビールを注いだ。「その話なら知ってるよ。客の女のことが好きになっちゃって、ストーカーみたいになった店の用心棒が、その女にはっきり断られて頭に来たもんだから殺したんだってさ。女を殺したあと店を辞めて、行方をくらましたらしいよ」冷えたグラスが中に浮いて傾けられ、ビールが減っていって全部飲み干されてなくなった。

「どうしてそいつは左足首を切断したの?」

「さぁ? おれにはわからないよ。そいつ、きみと同じで獣人だったらしいけど、そういうのっておれよりきみの方がわかるんじゃないかと思ったんだけどね?」

 あたしは黙ってビールくさい空気のするあたりを睨みつけた。「あたしは頭おかしくなって好きだった相手を殺して片足首なんか持ち帰ったりするようなやつのことなんか、ちっともわかんないよ!」

 幽霊男は笑って、あたしに封筒のなかに入った今日の給料を渡した。

あたしはもうひとつ知りたかったことを聞いてみた。「ねえ、あれってさ、もしかして〈ランタン男〉の仕業じゃないの?」憶測の段階で勝手にだれかのことを犯人扱いするのは、あたしは好きじゃないしあたしの主義主張に反することだけど(いい加減で自分勝手に人を傷つけていることにも気づかない愚かな野次馬みたいで嫌だからだ)、この話だけは聞いてみたかった。これは相手が〈ランタン男〉のことをいったいどういう人間であるかと定義づけているかを尋ねる言葉遊びでもあるのだ。〈ゲヘナ〉だけの、〈ゲヘナ〉に長いこと棲んでいる間のものだけに交わされる質問。質問された相手は、知ったかぶりをしてそれらしく答えなければならない。わからない、と答えたら、新米かモグリかもしくは馬鹿だと思われる。だから相手も一生懸命真剣になって答える。

 幽霊はビールをふき出して笑った。「あぁ、面白かった。久しぶりに聞いたよ、その名前。もしかしてきみは〈ランタン男〉をまだ信じているのかい? 懐かしいなあ。〈ランタン男〉っていうのは、さびしがりやな男の変身した化け物の姿で、本当の姿はだれからも愛されなくなったのが悲しい熊の古いぬいぐるみのお化けなんだよ。可哀想な愛されたがりの甘えん坊なんだよね。かわいそうだよねえ。(ランタン男)かあ。いやあ、懐かしいねえ。帰ったら、彼に聞いてごらんよ。きっと彼も教えてくれるだろう。そういえばきみにも彼ができたんだって? ダークプリンセスから聞いたよ。おめでとう」

 幽霊男がいつまでも笑っているので、あたしはむっとした。古いくまのぬいぐるみのほら話。あたしはいまいち気に入らない。あたしのことを子どもだと思っているんだろうか? まったく、ふざけている。「ねえ、それって、嘘でしょう。あたしの聞いた〈ランタン男〉はねえ、」

《〈ランタン男〉は同性愛者で、しかも愛した人間を殺して食べるのが趣味らしいのですよ》

 ってユニルフが言っていたよ、とあたしが言おうとすると、バーのカウンター席に残っていた男が振り向いた。

 金髪の美青年はさわやかに笑って言った。ゲオルク、まだバーに残っていたんだねえ。「えぇ? 〈ランタン男〉っていうのはさあ、現実世界に具現化しただれかの頭のなかの別人格だよ。そんなことも知らないのぉ?」

 あたしたちは、ふたりそろって(一人は姿が見えないが)頭の上に?マークを浮かべた。それって、どういうこと? あぁ、あたしたち、頭が悪いなあっ。

 あたしたちは彼の話す言葉の意味がよく理解できないことが多い。あたしは彼が彼の自分の話す言葉に対して説明不足だからだと思うが。頭のいい人の言うことは難しい、と言われるが、本当に頭のいい人の言うことはわかりやすい、とさらに頭のいい人が言っていた。つまり、彼の頭の良さはまだまだ中途半端なものだということだ。いまの言葉だけでは彼の頭の中で起こっていることを、あたしたちは充分に推測することもできなければ、彼も完璧に自分で話して伝えきることもできないようだ。一人で満足してまた酒を呑みはじめた。あたしたちが自分の話を理解できていないということすらも認識できているかどうか怪しい。金髪頭で整った顔立ち、すらりとしたモデル体型の若い青年。ファッション雑誌なんかでポージングした写真が普通に載っていそうな感じだ。

早朝の日差しのようにうざったいこの無駄に美貌の青年は、パパが死神で、だから半分神の血が入っていてパパから仕事を引き継いだ二代目墓苑の管理人で、いつも暇なので〈リヴァイアサン〉に来て、だれかといつもにこにこと上機嫌で話をしている男だ。だれと話しているのかとまわりのだれもが彼を見たときに思ったり勇気のあるものは問うたりするのだが、彼曰く「死んだ幽霊マスターの幽霊の奥さんと話をしているんだよ」といつも真っ白い歯が光りそうなほど素敵な笑顔で答える。なにを意図してなにを狙って話しているのかわからない。あたしたちを混乱させたいのかとも思う。正体不明というか謎めきたがりというか。している本人はなにが面白いんだか知らないけど、それなりにいい気分なんだろうけど、こちら側としてはなにがなんだかわからないし、別に本人ほど面白くもなんもないし、ただ扱いに困る面倒くさい奴というか迷惑なんだよね。ちなみに幽霊支配人はバツイチだ。別れた奥さんはまだ別の街に住んでいてご存命で他界していないそうだが。それについて幽霊支配人はなにもコメントしてくれない。彼はカウンターの指定席にいつも座って独りごとを喋っている気持ちの悪い美青年としてこの店の名物になっている。彼はしかも構ってちゃんなので、長い間ひとりで放って置かれると、急にひとりでめそついて泣き出したり、変な自作の詩を吟じだしたり、彼の内職である造花作りの作業をはじめていたり、だれかの会話を盗み聞きしていて、突然変なタイミングで無理やり会話に割り込んできて空まわりして理解不能な変なことを言ったりするような変な人だ。パパは有能な紳士的な死神で有名だったのに、息子はすることが意味不明で喋っていることの意味が伝わらなかったりするような、ちょっと残念な暇人だ。もう少し頭がまともだったら、彼は映画俳優にでもなれたかもしれないのに、とまわりの人は彼を見るたびにとても惜しむ。美貌に恵まれていても、必ずしも恵まれた人生を歩めるわけではないというケースをあたしたちは彼によって知ることになる。ちなみにダークプリンセスは彼のことを「馬鹿なんだか頭がいいんだかよくわからないところがかわいい」と言って半年前から一緒に同棲している。変わり者を愛する変わり者もいるということだ。彼は自分では自分のことを完全に頭がいいと思い込んでいるに違いない。自分のことを人間だと思っているペットのようなものだ。
















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