第10話

第5章: アパート〈5&A〉とペットボトルのミネラルウォーター



 1、



 ユニルフのアパートの前まで歩いてきて、インターホンを押そうとすると、青緑色の錆びかけた玄関のドアに、スプレーでなにかが書かれた跡がうっすら残っていた。なにやら卑猥な記号と攻撃的なスラングが誤字まじりで書かれてあった。ペンキ落としで奇麗に消したように見えるが、顔を近づけてよく見れば、まだ見えるのだ。ユニルフも家の玄関にスプレーで落書きをされたことがあるんだ、と思い出してあたしは小さく笑ってしまった。いつ落書きされたんだろうって彼は不思議がっていた。ユニルフの家にはまだきっとペンキ落としの缶が残っているんだろう。ユニルフにあたしの家の玄関にもスプレーで落書きされたことがあるよって言って、貸してあげたんだ。ユニルフにはあのアパートの件を話してあげた。〈ゲヘナ〉の住宅用品が売ってある小さなあの店には、いつもペンキ落としが売り切れだったから。その代わりに彼は接着剤を溶かす特殊な、くさくて鼻が死にそうになるくらい悪臭を放つ正体不明の液体を使って、あたしの家の玄関のドアを開けてくれた。お礼に彼を泊めてあげたら、料理をつくってくれて、あたしはなんだか照れて恥ずかしくなった。料理は得意なんだと彼は言っていた。

 そう思っているうちに玄関の鍵が開いて、重たい鉄の扉が開いて、ユニルフが顔を覗かせた。あたしの顔を見ると、静かに扉を大きく開けて、なかにあたしを招き入れた。彼はなんだか元気がなさそうだった。落ちこんでいるみたいだ。

「どうしたの?」あたしは部屋のなかの狭い廊下を歩きながら聞いた。かれは椅子とベッドくらいしかない部屋にあたしを入れた。ユニルフはベッドに腰掛け、あたしに椅子に座るように勧めた。顔色が悪いユニルフは、あたしの顔を見ると、笑顔を無理してつくって「ぼくのことは心配しないでください」と首を振った。

 あたしはポケットのなかから、青い携帯電話をとり出して、双子の死体の写真を彼に見せようと思ったけど、それはいったん床に置いて、服の胸ポケットに入れておいたガラスの写真立てをまず先にユニルフに手渡した。「それは依頼人の双子のメイスくんとララちゃん。写真を抜いて裏返してみたら名前が書いてあるよ。確認したかったらどうぞすればいい。残念だけど、それがあった同じ部屋に彼らの死体があったの。写真も撮ったから、見たかったら見せてあげる。失踪人の捜索の仕事は、それでいい?」

 ユニルフは写真を裏返して見ながら、「不十分です。もっと詳しく続けてください」と言った。

 あたしは仕事が不十分だといわれたのかと思ってわけがわからなくなりそうだったけど、あたしは情報が足りないといわれたのだと気づいて言った。「双子の死体の写真を見ればそこにも写ってるけど、双子は服毒自殺したようだったわ。毒死した人間の死体は、他の死因の死体とは違うの。たとえば青酸カリを飲んだら死体の顔や皮膚の色は赤くなる。鉛毒だと皮膚が灰色っぽくなる。砒素毒だと顔は紫色になり皮膚は黄色っぽくなる。双子らがどんな毒を飲んで死んだかはそこまではあたしは断定できないけど、たぶんどの家にもあるような汚れ落としかなにかの劇薬の洗浄液でも飲んで自殺したんんじゃないかと思うんだけど。死体は腐敗がはじまっていて、毒のにおいはもう残っていなかった。写真には彼らだと、母親だったらすぐにわかるかもしれないね。まだ生きていたころの面影が死体には残っているから」

 そう言って、あたしは携帯電話を彼に渡した。彼はなにも言わないで画面に見入っている。

「彼らの遺体を、彼らの母親に渡すことができなくて残念だよ。二人の遺体を担いで逃げ帰るわけにも行かなかったし。あなたは知らないだろうけど、あのあたりは飢えた食肉植物人種が群れになって徘徊していたんだよ。あたしは危うく彼らの餌になるところだんだよ? そのうえ、あたしが依頼人の家から出ようとしたら、地雷が爆発して、家が吹き飛んだんだ。あたしは両足ごと持って行かれるところだったんだからね!」

「依頼人の仕事はこれでいいです。遺体から髪の一房や着ていた服の一部などのなにかの遺品を持ち帰れたらより良かったのですが、家が爆破されてしまったのではもう言っても仕方がないことですしね。依頼人には写真とあなたが大事に持ち帰ってくださった写真立てを渡して今回はよしとしましょう。お疲れさまでした。ぼくから依頼人に報告をしておきます。報酬をいただいたら、約束どおりきちんといつものようにあなたにお支払いいたしますよ。ありがとうございます」彼は写真たてを受けとり、新聞紙で包んで、空いていたスーツケースに丁寧にしまいこみ、あたしの携帯電話から写真のデータを自分の写真に移していた。あとでプリントアウトして依頼人に必要か必要でないかを一応聞いてから、そっと渡すのだ。彼の流麗な字で書かれたお悔やみの言葉を添えて、白い封筒に入れて。

「ところで、質問というのは?」ユニルフは終えたあと手を止めてあたしに向き直って聞いた。

「依頼人の家に地雷が仕掛けてあったこと。他の家にはなかったのに。変だと思うでしょ? 一階の、出口付近に設置されてた」

 ユニルフはしばし沈黙して「そんなに気にしなくてもいいことだと思いますよ」とだけ言った。「いろいろな可能性が考えられますけど、ひとつに断定するには情報が少なすぎるんです。でも食肉植物人種が設置したのではないと思います。彼らの住居を襲撃されたのは、彼らですから。ますます犠牲者を出すことを、彼らは望まないでしょう。それに爆破されて粉々になった餌よりもそのままを一気に丸呑みするほうが、彼らの好みだと思いますしね」彼は笑った。

「ひどいよ、ユニルフ。あたし命からがら逃げてきたのに」あたしは言った。

「はは。冗談ですよ。………おそらく、数日前の、襲撃の残りでしょう。食肉植物人種の居住地〈エフ・バール・オブ・トロピカルヴェジテーション〉を、計画的に悪意を持って襲撃したという証拠です。なにものかの集団が居住地を爆破し、昼間に眠っている人々を次々に銃殺し、金や宝石や高級品を奪って、火を放って逃げたのです」開き気味の膝の上に置かれた彼の大きな手がわずかに震えているのを、あたしは見つけた。

「だれが、なんのために………」あたしはうつむいて、彼の手から眼を逸らした。あたしのアパートのあたりも襲撃されたらと思うと、安心して昼間に眠れなくなる要因がまたひとつ増えた。

「なんのために?」ユニルフの眼が暗く力を持って光った。「そんなこと、ぼくにはわかりません。わかるもんか。だれもだれかのことを完全に理解することなんか、絶対にできない。でも世のなかにははっきりしていることがあるんです。弱いものを面白がっていじめて踏みにじる人間が確かに存在するということと、人を蔑ろにして殺した輩は必ずそれにふさわしい罰を受けるということです。いまに、わかりますよ」彼は黙って下を向いた。なにかを考えている黒い眼は、金色を帯びていた。彼の眼が変色するところは、あたしははじめて見た。彼はいま油断しているのだろう、彼の心の本質の姿が見えかけていた。暗い空に浮かぶ、月色の眼が、あたしはだれのどんな眼よりも特別なものに見えた。もっと近くでずっと見ていたかったけど。

「ねえ」堪えられなくなってあたしはユニルフに優しく声をかけて聞いた。「双子はどうして服毒自殺したんだと思う? 彼らはクローゼットの後ろの狭い空間に二人で身体を寄せ合って死んでいたの。襲撃されて自分たちはもう生きられないだろうと絶望したから自殺したのかしら?」

 彼は膝の上に乗せた片手の指でとんとんと軽く膝を叩いた。すこし迷って、こう言った。「別に差別したいわけではまったくないんですけど、大人がひどく汚くて嫌な生き物に見えていたころって、あなたにはありませんでしたか?」彼の眼はだんだん黒に近く変色しつつあった。

「大人って、汚い。ぼくは子どものころ、子どもっぽくそんなことを考えていたことがありましたよ。大人になりたくないというか。大人は醜くて鈍感で汚くて図々しいって。そういう嫌なところをぼくは拒絶したい、というような気持ち。子どものころは、嫌いなものがたくさんあった。些細な理由で、すぐに嫌いになった。幼かったからでしょうね。双子の死に際に、双子がなにか醜悪なものを目の当たりにしたのか、するのが嫌だったのか、彼らは死を選んだ。ぼくには若くして自殺する人間の気持ちが、理解できるような気がする。ぼくも、大人になりたくなかった人間だったんです。生きるために、大事なことに、どんどん無感覚になっていって、鈍感になっていくのが、嫌だった。それに生きることに対して、ぼくは罪悪感が強かった。生きることに対してとても不安で、いろいろなものを畏れていた。たいした理由じゃないのに、自分もいずれまわりと同じように大人になるのに、そういう要素だってぼくのなかにも持っているのに、自分だけ、ぼく一人だけは大人とは違って美しく、清らかに生きよう、みたいなことを考えた時点で、そういうところがまた、自分でも嫌いになってしまった。ぼくは偽善者を〈自分だけが良いことだけをしている完全に良い人間なんだ〉と思っている間抜けな馬鹿だと思って、嫌っていたけど、ぼくもそういうぼくの嫌いな人たちと、どこも違わない、まったく同質の分類の人間だということに気づいたんだ。それで、美しいとか汚いとか考えてこだわるのを、やめました。ぼくは人間が嫌いな子どもだったんだ」

 ユニルフは簡易ベッドのそばに置いてある一つの古びた茶色い革製のトランクをそっと開けた。彼はなかから古くなって表紙がぼろぼろになって、くたくたになって、黄色く変色した一冊のうすいノートを丁寧にとりだした。「ぼくには、双子の弟がいました。ぼくたちは、双子だったんです。ぼくの住んでいた街は、ぼくが17のころに、放火で焼失し、ぼくの家もほとんど燃えてなくなりました。ぼくの弟は、19のときに自殺しました。これは、ぼくの弟の、たったひとつの遺品です。まだ、あなたのほかにはだれにも見せたことはないのですが。彼とぼくのために、読んでもらえませんか」

あたしは丁寧に彼のノートを受けとった。鉛筆書きのうすい字で、彼の弟の名前が表紙の裏の下の方に書いてあった。《シフルフ・ルセロ》

ユニルフの姓はルセロで、彼の弟はシフルフというんだ。あたしたちは、本名を明かすことをとても危険なことだと思っている。あたしは一度にユニルフやユニルフの弟の本名も知ってしまった。あたしの手がわずかに震えた。それがどれだけ危ないことか、甘美なことか。ノートを開いて、拾い読みした。ノートには断片的に、短い小説のようなものが書いてある。青いインクのボールペンか万年筆のようなもので、几帳面そうな細く整った字で書かれていた。




 サンタの話。赤いサンタと黒いサンタの話。

サンタは赤だけではない。黒もいる。黒いサンタ、黒サンタ。赤いサンタは太った白ひげの優しそうなお爺さんだが、黒いサンタは痩せた黒ひげの怖そうなお爺さんだ。黒サンタの気が向いた夜に、黒い布袋を背負って、だれにも見えないようにやってくる。黒サンタは大人たちの部屋に入ってきて自分の気に入ったものを袋に入れて去っていく。わたしたちのものがよくなくなるのは、あのお爺さんが寝ているうちに盗んでいくからだ。黒サンタにものを盗まれた人は、その年のクリスマスに、例年より三倍ハッピーなことが起こると言われている。小規模な数値なので、たいていだれも気づかない。赤サンタは黒サンタに対してはなにも言わない。赤サンタは子どもに夢を与えて、大人になったかつての子どもたちには、穏やかなあの優しい微笑みで見つめるのだ。赤サンタはなにも言わないで微笑みで語る。赤サンタはきっと子どもが好きで、確かに優しいが、黒サンタは、赤サンタがきっといつも優しい人のふりをしているのが嫌になったときの顔なのだ。黒サンタになって悪いことをしてしまった自分が嫌になって、赤サンタは黒サンタが盗んだものを換金してクリスマスに子どもたちにプレゼントを配るのだ。そうすることによって彼は贖罪している。彼はできれば善なる存在になりたいと願っていた。黒サンタは盗んだ後、こんなことをしなければよかったと思うのだ。赤サンタというのは、どこかおかしいと常々思っていた。彼もまた、悩める人の一人なのである。



かわいいイルカ

こんな夢を見た。ぼくは海にいた。海のなかを泳いでいたら、近くにイルカがいた。水色のつるっとした可愛らしいイルカだった。ぼくは近寄っていって、イルカに「一緒に泳ぎませんか」と言った。イルカは真っ黒いつぶらな眼を細めてキュイっと鳴いた。それってどういう意味だろう、と思っているうちにイルカはひれでぼくの顔を殴った。ぼくの頬が痺れた。すごい強い力でイルカに殴られ、さらに数回顔がはれ上がるくらいイルカに殴られ続けた。イルカはとても獰猛に殴る。なぜぼくはイルカにぼこぼこに殴られるのかが理解できない。ぼくは眼を見開いたまま、なにがなんだかわからないまま、ぼくを殴ったイルカを言葉を失ったまま、ただ見ていた。どうして、と頭のなかでつぶやいた。さらにイルカは分厚いひれで殴り、さらに尻尾でぼくの腹を何度も何度も鋭く打った。ぼくはこのままわけのわからないままこのイルカに殺されるんだ、と悟った。理不尽な死。あまりにも理不尽な死。ぼくは殺されながら、ぼくはあんなにかわいいイルカに敵意なんて持ってちっとも持っていなかったのに、と伝えきれないまま死んだ。



「ぼくはもう、なんのために生きてるのかわからないよ」ペシミスティックな妖精のペシミンは泣きながら友達のエビリデイに言いました。

「朝ごはん食べて花を摘んで、みんなでダンスして日向ぼっこして寝るだけさ。それがどうして気に入らないんだい?」エビリデイは不思議そうです。

ペシミンはさらに大きな声で泣きわめきました。そう、ペシミンは重い病気に罹っていたのです。



生きていくことは、だれかの犠牲の上に成り立つこと。犠牲の重さに、ぼくは耐えられない。今にも折れそうだよ。自分のために人のものを奪ったり、自分のために人を踏みにじったりして生きることを肯定すれば、ぼくは心が痛む。生きることが楽しいなんて、無神経じゃないか。自分だけが楽しめるわけなんて、ないのに。楽しいと思うことは、罪なんだろうか。笑うことは、悪いことなんだろうか。人を殺して、人肉を食い、その人の皮を剥いで、自ら防寒のために被っておきながら、平然とその人の骨の上に家を建てて居座って、それでも自分だけが、生きていきたくて、幸せに、幸せになりたいだなんて、願うなんて! 生きている自分の顔の横には、食べるためにくりぬかれた不幸な死者のたくさんの空洞の眼窩の虚ろな死に顔が浮かんでいるのに! そう言っているこの瞬間にも、たくさんの数え切れない犠牲の上にぼくがいるとしても、ぼくは辛くて、これ以上人を犠牲にして、人を貶め、虐げて、生きていくことなんて、望めないよ。とても、できない。怖いよ。苦しいよ。でもぼくも犠牲になることを望めば、ぼくは生存できない。自分だけのために生きていけたらいいけれど。自分だけの人生では、ないんだろうけれど。



 生きていくなら、苦痛からは永遠に逃れられないんだってことを、ぼくはとっくに気づいていたんでしょう。辛くて苦しいのが人生だなんて、戦うことを強いなければ生きていけないなんて、それをぼくたちに選ばせることを、一体だれが定めたんだろう。神が偉いなら、あなたやぼくたちが間違っているとでも言いたいの? そうでしょ?

 みんなの幸せが自分の幸せだなんて、そんなの嘘だってこと、みんなが幸せでも自分は決して幸せにはなれないってことを、ぼくはとっくに気づいていたんでしょう。自分だけの苦しみが、世界で一番で、自分だけは世界でいちばん不幸な人間なんだって信じていた。でもぼくはそれが赦せなかった。自分だけがかわいいと思う気持ちが、自分だけはみんなの幸せを、心から決して望めないということの枷となり、それが事実となり証明となり、それがそのまま自分だけのためなら人を犠牲にしてもいいという理屈につながることを畏れて憎んでいて、それを拒みたかったけれども、できなかった。そう、ぼくはできないんだ、だから。



もう疲れた。生きていくのに、疲れた。戦いたい人は戦えばいい。ぼくはこんな場所には嫌気がさしたんだ。

空は奇麗なんかじゃない。だれでも空では平等に焼かれてしまう。

海は優しくなんかない。たくさんの命を奪っても平気でいられる。

人間は美しくなんかない。仲間同士で殺しあっている残酷な生き物だ。

さようなら。


世界はぼくが生きるには、あまりに野蛮だ。自分が小奇麗だって言いたいんじゃない。ぼくはこの世で生きるには、あまりにも脆弱すぎる。




「………見せてくれて、どうもありがとう」

 あたしはノートに綴られた、神経が過敏で、傷つきやすくて、感受性が強い少年の葛藤をいくらか読んだ。彼は人生と全力で戦ったけれど、戦い続けることを諦めて、彼は死んだ。19歳まで全力で生きた優しい少年。他の人を押しのけてでも自分だけは生き残りたい、と出しゃばるあたしとはおおよそ正反対のタイプだ。気を使い過ぎて、とうとう自らが消えることを選んでしまうほどの優しいある意味天使のような人間は、確かに長いこと生きていられないだろう。

弱いものは生き残れない。この世は弱いものから淘汰され、消されてしまうようにできているんだ。弱いことは劣等していることと同じこと。脆弱すぎる人間は、最終的には自分から消えてしまうことを選ぶ。彼はだれかの犠牲になりたかったんだろう。だれかの犠牲になって、生贄として死にたかったのだろう。彼は醜くなんて、生きていられないのだ。だれよりも醜くみっともないあたしだって図々しく生き延びているというのに、彼は罪悪感が強かったんだろう。生きている罪悪感。人は生まれたときから罪の子だ、と神の教えを説くものがいつか言っていた。神に愛されたものは、早死にする。神がその者を早く自分のそばに置きたがるから。この世に生き残ったものは、神に嫌われたものたちばかり。神に背いて神を嫌って罪を重ねて醜く生きる。苦痛に満ちた人間の生に、醜く滅ぶだけの生に、なんの意味があるんだろう。なんの意味もないのだ。なんの意味もないし、だれもあたしたちに生きることを強いる人はいない。自分の人生は自分の好きなようにすればいいのだ。

あたしは生きたい。他人を押しのけて踏みにじって、醜くても生き延びたい。這いつくばっても楽しい思いがしたいんだ。あたしはそういう人間。奇麗に死にたいやつはさっさと死ぬがいい。だれが止めても、そういう人たちは、放っておいても自分から死ぬ。あたしはそんなやつを笑い飛ばすだろう、といつも言っていた。人間は生まれてきた時点で、お奇麗になんて生きられない生き物なんだから。ぼうっと立ってだれかになにかを言われるのを待っているだけのやつもすぐに殺されてしまうだろう。自分から行動しなければ、なにも変わらない。

「かわいいイルカって、なんだか面白かった。笑っちゃいけないんだろうけど、笑っちゃった」

「かわいいでしょう、あの話。ぼくも好きですよ」

 ユニルフはシフルフの血の繋がっている双子の兄だから、彼も弟と似通った思想を持っていたのかもしれない。シフルフは死んで、ユニルフは生きている。繊細で脆弱な弟の遺品の古びた一冊のノートを、すくない持ち物のなかの貴重品としていつもトランクに入れて〈ゲヘナ〉の街のいくつかの小さな貸部屋を泊ってまわっている彼があたしにはとても可愛く思えてしまう。彼が今も死んだ弟のノートを持ち歩いていて、彼の心のなかにいつまでもあり続けることを思うと、あたしは涙が出そうになる。

「焼け野原に行くのは………怖かったんだ。行方不明の双子のことを聞いて、興味を持ったけど、やっぱりぼくには行くことができなかったんだ。だから、双子のご冥福を、ぼくは祈ります」

 あたしはうつむいたユニルフの頬に優しく指で触れた。「もう大丈夫。仕事は終わったから」

「昔のユニルフにも、あたしは会いたかったな。きっと奇麗な眼をしていて、繊細で、いまより優しい声をしていて、可愛らしかったんだろうね。弟思いで。なんにもできないかもしれないけど、お姉さんがあなたを守ってあげるって、ちいさいユニルフにそう言って、ぎゅうって抱きしめたい。怖くないよ―――もう大丈夫」

 あたしは優しく笑って、ユニルフの唇にキスをした。

「きっと喜びますよ。ありがとう、キファ」彼もやわらかく笑ったので、あたしは彼の背中にそっと両腕をまわして、丁寧に抱きしめた。ユニルフの身体は、温かい。子どもだったユニルフがあのころ流していた涙も、あたしたちの間の熱で溶けてなくなって、報われますように、とあたしは彼の背中を手のひらで暖めながら願った。彼の腕があたしの背中で脈打っている音が伝わった。



 

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