第7話

4、



〈ブルー・ヴォイス〉の曲が、ユニルフの音楽再生装置のスピーカーから小さな音で流れ続けている。「古典的な主題を、モチーフにしながら、斬新なリズム旋法で、今までになかったある一つの個性を確立した、才能のある天才アーティストで………」などとユニルフは彼が眠るまで、あたしの横で囁き声で優しく説明してくれたが、あたしもまどろんでいたのでよく覚えていない。あたしが〈ブルー・ヴォイス〉の良さを教えてほしいとお願いしたので、話してくれたのだった。あたしは彼が〈ブルー・ヴォイス〉のどういうところに惹かれてどうして好きなのかを知りたかったのだけれど。彼にはいまいち伝わりきらなかったようだ。彼にはそういうところがある。あたしとは違う思考回路の人間のようだ。あたしと彼との違うところを見つけると、あたしはとても嬉しくなる。

 彼の白いベッドにあたしたちは一緒に入って眠っていた。清潔な白いシーツからは、彼の匂いがした。あたしはこのにおいをたぶん忘れることはない。彼はまだ眠っている。閉じられた瞼の柔らかな睫毛にあたしは息を吹きかけて揺らしてみた。安らかな表情で眠っている彼を見ていると愛しくなってしまう。美しい男。「食人鬼のことは、忘れてください。あなたを怒らせないように言いたいのですが、ぼくは獣人の女性に、一度、そういう妄想の有無についてどうしても聞いてみたかったのです。ぼくを愛するときには、あなたはぼくを人だと思っているのですね。安心しました。ぼくはもっとあなたに好かれたいですしお菓子のように食べられてもいいくらいですが、殺されてしまってはたまりませんからね」ユニルフはそう言って笑っていた。失礼なのか礼儀正しいのか、なんだかよくわからない。その黒い眼はあたしを畏れていなかった。あたしを見透かしているのか。変なやつ。あたしはひとりで笑ってしまう。

 あたしはベッドから出て、床に散らかっていた服を着た。彼とはずっと長い間一緒にいたいから、あたしはすぐにここから出なければならない。あたしは彼を起こさないように、彼の部屋を出た。あたしの楽園から離れるのは辛かったけど、彼にすぐに飽きられてしまうのは、もっと辛いから。

 ぬいぐるみはあたしの話を聞いてくれるし癒してくれるだろう。でもあたしはぬいぐるみより彼に抱かれたい、彼を抱きしめて寝たい。お菓子は甘くてお腹がいっぱいになるだろう、でもあたしはお菓子よりももっと甘い彼を食べたい。あたしは彼のアパートの階段を降りながら、胸中で思い出していた。彼はあたしのオアシスのようだった。あたしの荒野に、あたしを迎えてくれる場所が見つかったんだ、という安堵。新しい湧き水の流れるにおいがして、口に含むと水は甘く、喉の乾きは癒される。白く光り輝くこの世のオアシス。風が吹いて、瑞々しい樹木の潤った葉を揺らせて、あたしは歯を立てると唾液がわいて口のなかが甘くなるような瑞々しい果実を食べて、匂いを嗅いだ。地上の美しい花々や美味しい果実が、すべて生えている砂漠のなかの楽園の近くにいるみたい。あたしは夢を見ているのだろうか。荒野に天国のような泉があるなんてあたしは知らなかった。オアシスがこんなところに現れるなんて、夢だとしたら、なんとまばゆい幻覚なんだろう。こんな感覚になったことは、生まれて一度もなかった。本当に、こんなことなかったし、存在することすら知らなかった。あたしは道を歩きながら、ひとりで泣いていた。涙が頬を伝って、いつまでも流れてくる。彼からはあたしは離れられないだろう。あたしは彼に完全に囚われてしまった。虜になってしまったというべきなのか。そういう予感が確信に変わって、あたしは世にも幸せな女の一人になったのだった。あたしはひとりで生きられなくなるのを、とても畏れていたのに。あたしは木陰の後ろに隠れて、思いきり泣いた。

好きになってやりたかったからやったのに、あたしは彼の前に完全に跪きたくなってしまっている。ずるいよ。ずるい男。あんなにあっけなくあたしを夢中にさせてしまうなんてさ。あたしは誓ってもいい。ユニルフだけは、殺さない。



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