第6話

3、



「食人鬼?」

 あたしは言った。「言っておくけど、あたしは違うよ。確かにあたしは獣人で、人間を噛み殺すのは好きだけど、殺した人間の肉は食べたことはないの。というか、食べたくない。あたしの残された人間の部分が、どうしても食人肉嗜好を拒否するから。楽しみのために殺すことはあっても、食欲を充たすためには殺さない。殺した人の肉を食べることに関して、あたしは別に夢も妄想もなにも抱いていない」

 アンティーク調の色の暗い椅子に長い足を組んで腰かけ、ユニルフはあたしの眼を見て話を聞いている。長く太く整った人さし指が、鼻筋の上の眼鏡の位置を直した。

 まだあたしを疑っているみたいで、ユニルフはさらに質問を重ねようと、言葉を探している。

 あたしはユニルフの部屋のひとつに行った。至るところに隠れ家を持つ理由は、部屋が一つしかなかったら、簡単に居場所を特定されてしまうし、襲撃されやすいからだという。ここは彼の趣味の骨董品の椅子と携帯用の食料品と衣服くらいしか置いていない、がらんとした空疎な部屋だ。

 あたしは床に座って、ユニルフを見ている。部屋の隅には彼のスーツケース一つと、ミネラルウォーターのペットボトル三本。床はフローリングで、まだ新しい。

 あたしはさきほど道で切りとられた人の指を見たことを話した。彼はそれは幻覚やでたらめや白昼夢ではないかと聞いた。あたしは違うといった。彼はあたしにカニバリストではないかと聞いた。あたしは違うといった。人を殺して肉を食うようなファンタジーを持っていないかとも聞いた。あたしは持ってないといった。彼はあたしに食人鬼ではないかと聞いた。

「まったく意味がわからないし、あたしには全然関係のない話だよ。本当に」

「それに関してですけど、あなたが人を楽しみのために殺すといった欲望について、ぼくは内容を詳しく聞かないと、はっきり断定できないんですよね。でもぼくのような他人にそういう極めてプライベートな話をしろだとかいうような無神経な男じゃないつもりですから、その話は保留にしておきましょう。そのあたりはぼくがどうすればいいのか考えればいいだけの話です」ユニルフは口をつぐんで、あたしを見た。彼は嘆息して、肩をすくめた。

「〈ランタン男〉」ユニルフはスーツの上着を脱いで、床に放った。「一部でなぜかそう呼ばれている食人鬼はどうも男性のようです。あくまで噂ですが。でもあなたが違うなら、それでいいです」    

ユニルフはうまく聞きだして言ったものだ、とあたしはそのときすべてを悟って舌を巻いた。彼はあたしのことを〈ランタン男〉ではないかと聞いたのだ。彼にとっての〈ランタン男〉が、あたしではないのかを確認したかったんだ。

どこの家でも見るようにこの部屋の窓にもトタン板が釘でうちつけられ完全に塞がれている。頭上の電球がいまにも消えそうに数回瞬いたり消えたりして点滅している。あたしはスーツの上着を脱いだユニルフをはじめて見た。カッターシャツを着た身体は思ったとおり奇麗で、あたしは彼から眼が離せない。黒い髪は柔らかく乾いていて、彼が顔を上げると、横髪が後ろ側へさらりと流れた。鼻梁は高くて細く、今まで見た男性のなかで一番美しい形をしていた。どうして今まで気づかなかったんだろう。どうして今気づいたんだろう。

 彼はミネラルウォーターのキャップを捻って開けて、そのまま口をつけて飲んだ。うすい唇が水気で湿った。大胆だねえ。意外だ。あたしは彼がそういうことをするところを見たことがなかった。彼ははじめて見たときから、礼儀正しくて神経質な男に見えたから。不良少年のことを「醜い」といい、「馬鹿でどうしようもなくくだらないゴミだ」といって嫌う彼の過去のことを、あたしはあまり知らない。「いつも群れていなければ怖くてなにもできない低脳で、性質が悪くて、ただ構って欲しいいだけの幼稚な子どもで、まだ人から愛されたいと夢を見ているところがたまらなく阿呆」だと彼は言った。「とっくに人から見捨てられて呆れて見られていることを認めずに、自分も人間だということを認めて欲しい、と懇願するような眼をして人に縋りつこうと考えているような最低な屑」だといった。「そんな馬鹿を処分するのはぼくがやる。そんな馬鹿な考えが二度とできなくなるように徹底的に壊してやろう。そんな甘えた考えを持ったままで生きていきたがる最低弱者は、ぼくがこの世から抹消してやろう。お仕置きだよ」

「馬鹿を殺すのは、楽しいです。とても」とユニルフは笑顔で笑っていた。ユニルフはちょっとどこかが壊れている。あたしはユニルフのその欠落にも自分の指で優しく触ってみたい。

 ユニルフの本当の仕事は仕事をしくじったとか目障りだとか言われた馬鹿不良を、人から依頼されて処罰する仕事をする、〈犯罪者狩人〉だ。あたしはべつに同情してるわけじゃないけど、なにかそのときの彼の眼や表情や声を聞いていると、彼に特別な気持ちを持ってしまったのだ。いやそうじゃない。

本当は。もっと前から。ずっと。

あたしは彼の声をはじめて聴いたときから彼のことが頭から離れなくなってしまった。こんなことは今まで一度だってなかったのに。この男はなんて優しい声をしているんだろうと思った瞬間から、あ、危ないなあたし、って警報が鳴り響いたんだ。

彼の留守番電話のメッセージをいつまでも保存しておきたいと思ってしまうあたしは、完全に危険信号を発していた。いつもの冷静なあたしのままではいられなくなる。

他の男の声を聞いたときとは違って、ユニルフの声は快感を覚えるくらいで、あたしの好きなとてもいい声だ、とも思ってしまった。耳が痺れるくらい好きになってしまったんだ。彼の声を聞くたびにあたしは恍惚となってしまう。その声であたしの名前を呼んでほしい、と願うのも時間はかからなかった。

ユニルフは頭が切れて、奇麗な容姿をしていて、自分に自信があるように見える。あたしの異常性を知っても、他の男のように意味もなく恐れたり嫌ったり拒んだりしない、かも、しれないのだ。頭おかしいとか酷い罵声をユニルフから浴びせられたことは一度もない。あたしはいろいろ彼に迷惑をかけたり、意地悪くからかったりしたのに、彼はあたしのことを、ひどく傷つけようとしなかった。あたしにとって、それは非日常的な出来事のように感じられるほど、それはそれはすごい衝撃的なことだったのだ。彼は優しい。

あんなに素敵な男があたしのそばにきたら、好きになってしまうに決まっている。あたしが正しい恋愛ができないかもしれない人間だったとしても、もしかしたら人間ですらない化け物であるというのに、ユニルフのことが好きだという気持ちがあたしのなかからどうしても消すことができないのだ。あたしは人を好きになってはいけないんだろうと思っていたし、好きになったとしても、かつては自分を誤魔化したり忘れようとして離れたりして、好きだという気持ちを容易になかったことにできたし、そういう自分を知っていたけど、自分の心がこんなに扱いにくく面倒なものだとは思ってもいなかった。あたしはユニルフを好きになってしまった。愛しているとも思う。でもあたしはいつかキレて彼を嫌いになって殺すかもしれない。あたしはそんな日が来るのを恐れている。どうして? どうして? あたしは泣きそうになる。あたしはすでに彼を失いたくないと願ってしまっているから?

あたしは彼のことが好きで好きでたまらないのだ。そしてあたしはその気持ちに歯止めをかけることができないのだ。抗えないほど、強くどんどん好きになってしまう。どうして? どうすればいい? あたしに優しくしてくれた人を、あたしは優しくすることができないのだろうか。あたしは悔しいのか悲しいのかなんなのかわからなくて、気がついたら、鼻の奥が痛くなって、涙腺が緩くなって、涙があふれて出てきた。なんで泣いているんだろう、あたしは? なんでこんなにも心が痛むんだろうか。苦しくて、泣いてしまうことなんて、そんな人間っぽいところなんて、あたしには、あたしの心には、もう残っていないんだと思っていたのに。

 床に座ったまま涙を流しているあたしを見て、ユニルフは微笑んだ。そんなふうに優しくされると、あたしはまた好きになってしまうではないか。心が締めつけられるほど動揺して、あたしは子どものようにたじろいでしまった。あたしは冷酷で有能な獣人なのに。こんなに人間に心を揺り動かされるわけなんて、ないのに。

「あたし、やっぱりもうここから出て行くよ」あたしは泣きながらそう言った。でもあたしの眼はユニルフの顔をずっと見ている。

「嘘ばっかり」彼は笑った。真面目な眼をしてユニルフは言う。「あたしはぼくに会いたくて、ここに来たんだ」あたしはからだも心もすでにとろとろになってしまっている。

「あなたのことは知っていましたよ。前から」ユニルフの声がすぐそばで聞こえた。彼は椅子から降りて、ゆっくりあたしに近づいてきた。大きな音を立てないで、静かな声で、つづける。「ぼくはあなたのことをもっと怖くて厳つい人なのかと思っていました。〈無秩序〉を処分するあなたの姿を、ぼくこの眼で確かめたくて、尾行していたんです。気づいていましたか?」ユニルフは乾いた笑い声を出した。思い出し笑いのようだ。「いや、ストーキングとかじゃないんですよ。ええ、大丈夫です。あのときのあなたはすごく――なんというか、情熱的、でしたね。圧倒的に強くて、美しかった。いま、ぼくの眼の前で泣いている女性と同一人物だとはとても思えません。まるで迷子の少女のようです。あなたはとても魅力的ですよ、キファさん。あなたをはじめて見たときから、ぼくは、あなたのことが、好きでしたよ」

 ユニルフは白くて硬い指で、あたしの頬をとても優しく撫でた。暖かくて、とろけてしまいそうになる。心地よくて、好きだ。ああ、ユニルフはあたしを嫌っていないでくれたんだ。よかった、嬉しい。彼の言葉が心のなかに届いて、体中がじわっと熱くなって、大泣きしてしまいそうになった。体が震えるほど、心が彼に焦がれているんだ。嬉しい。嬉しいよ。幸せだよ、ユニルフ。でもあたしは。

「あなたはぼくのことが嫌いですか?」彼はあたしに顔を近づけて、優しく囁く。鼓膜の残るその声で、あたしの心は完全に囚われてしまったんだ。ユニルフに、捕まっちゃったよ、って、あたしのなかのあたしが参ったって降参する。あたしは、嫌いなわけないじゃん、と涙を拭かずに震える声で答える。笑って言う。「好きだよ、ユニルフ」

 あたしはユニルフの胸のなかに顔をすり寄せた。あたしの左耳に彼の吐息がかかって体のなかがぞくっとした。彼はあたしを優しく抱きしめた。ユニルフの体のにおいは安らぐ。ユニルフはあたしの唇にそっとキスをして、あたしの口腔に柔らかい熱い舌を入れてきた。彼の舌は出たり入ったり歯に触れたりする。呼吸が荒くなって、身体中に波打つような快感が走る。なんて幸福なキスなんだろう。ユニルフはあたしとディープキスをしたまま、シャツを捲りあげて二つのふくらみに指を這わせ指で優しく擦ったりする。ユニルフの手から伝わる微弱な電気のような波動があたしを虜にする。なんか手から出てるみたいにやたら気持ちのいいユニルフの手! このままではいくらでも快感で参ってしまってそのまま溺れてしまうだろう。あたしは呼吸を乱して、ときおり思わず声をあげてしまう。「かわいい声ですね。ぼくは好きですよ」ユニルフのカッターシャツのボタンを朦朧としながら全部はずしてスーツのズボンの足や足の間を撫でると、あたしは猛烈に恥ずかしくなりながらも、さらに体温が上がってしまう。あたしの革パンの太腿の間をユニルフの指はまっすぐ押したり曲げて押したりする。そんなにがんがん攻めないで。死んじゃう。あたしはたくさんイきすぎて気持ちよすぎてぐったりしてしまいそうになる。ユニルフはあたしを床にそうっと押し倒して、胸の愛撫をさらに続ける。あたしの革パンと下着を脱がして足を開かせる。ユニルフに見られるとさらに恥ずかしくなってあたしはさらに濡れてしまう。ユニルフは獣のように笑って、あたしの眼を見つめながら楽しむように、あたしのなかに硬い指を入れた。入った瞬間身体を貫かれるような大きな気持ちよさであたしは我を忘れて喘ぐ。長い指が湿った音を立ててなかを掻きまわしたり、ゆっくり奥まで突いたり、角度を変えて挿入したり、引っ掛けるように曲げ伸ばされると、身体がそれに答えて、その指がすごく心地よくて、暖かな幸福感で心が充たされて、あぁ、なんて愛しいんだろう、という気持ちが自然にあたしの身体のなかから溢れて、また泣きたくなる。囁きを交わして、硬くて舌よりも平穏で病みつきになる愛しい指は、あたしを始終大事に扱ってくれた。指が離れていくと、あたしはその指に自分の指を絡ませた。ユニルフはあたしを見る。彼とキスをしたい、と強く思った。キスなんて、そんなに好きじゃなかったのに、ユニルフの身体と接触したくてたまらなくなってきた。どうして自分がそういう気持ちになるのか、いったいどこからそういう衝動がでてくるのかがわからなかった。彼はあたしの髪を撫でた。あたしは彼のカッターシャツの裾を引っ張って彼の身体をもっと近くに引き寄せた。あたしはユニルフの指を音を立てて吸った。ユニルフに顔を近づけて、あたしは彼の唇にキスをした。唇も吸う。ユニルフの息が噛みしめられた歯の間から洩れる。硬くなってきてこらえられなくなって我慢してるときの顔が可愛い。「あたしのことがほしいって、言って」あたしはユニルフの耳にささやいてねだった。獣の眼が光って、彼はあたしのなかに入ってきた。そのときにあたしは彼に愛されるために生まれたんだとか馬鹿みたいに大げさに思ってしまって泣いてしまう。あたしは彼のくれるこの快楽にはこれからもきっと抗えないだろう。そういう事態に、あたしはいままで遭遇しなかった。彼が何度もストイックに突き上げてきて、そのたびに身体が温かくなってきて、あたしは息切れしてしまう。あたしが彼に沿って締めつけると、彼はいきそうな顔をしてこらえられなくて、切なげな声を漏らした。乱れた黒髪が色っぽい。彼の声はやっぱり雄々しかった。あの声を思い出すだけで、あたしはきっと何度も感動するのだろう。避妊のためにあたしの口のなかに出してもらった。なかで出してもらったら、もっと気持ちよかったんだろうなぁ、ってあたしは彼のを丁寧に飲みながら泣きそうになって眼を閉じる。って妊娠しちゃうじゃないか。ばか。ユニルフのってすごく甘いし美味しいよ。お菓子みたい。お腹が空いたら飲ませてって頼みたいくらい。って、どんだけ好きになっちゃてるんだ、あたし。この肉食ばか猫女。あたしのために甘くしてくれたんだろうなあ。待っててくれたのかなあ。ってどれだけあたしを熱中させたら気が済むの?



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