第4話
第2章: 地下道766〈ラビリンス・アンダーグラウンド・サウスサイドルート〉
1、
昼になって外は明るいからあたしは暗い地下道路を歩いて行くことにした。洞窟のなかのような曇った灰色のうすら寒い空気を吸いながら、あたしは地下道の階段を下りた。地上の道路には歩行者もほとんどおらず車はあまり見かけない。あたしたちは暗いところが好きなのだ。好き好んで地下道を歩きたがるのは、あたしたちの本能だ。〈ゲヘナ〉の多くの住人もおそらくそうだろう。だから〈ゲヘナ〉には地下道が発達している。地上と同じかそれ以上、地下道がクモの巣のように網目のように地底で細かく広がっている。
地下へ向かいながらゆっくり降りていくと、地底の冥府の世界の気配を感じることができるような気がする。あたしたちの憧れの場所。あたしたちは死んだらきっとそこで永遠に棲めるのだと思うと、あたしは嬉しくなってしまう。死んだあたしたちにふさわしい場所。あたしたちの、心が安らぐベッドのように居心地のよい場所。
自分の靴の足音がいつしか洞窟から滴り落ちる高く冷たい水滴の音に聞こえてきた。こぉん、こぉおん。暗がりのなかでまっすぐ歩いていると、あたしの頭が醒めてくるのがわかる。あたしの呼吸は温かく、吐息のなかに生ぐさい生き物の気配が潜んでいるのがわかった。あたしのなかの獣がときおりあたしのなかで存在を主張する。紫の眼の獣。原始の時代、あたしたちは最も動物的だった時代、最も単純で美しかった時代、あたしたちはきっと暗がりで爛々と紫色に光る雄と雌の眼をしていたのだろう。
あたしは暗がりのなかで、ユニルフのことを考えた。あたしはユニルフに触りたい。どうしてもその身体に触れたい。紺や黒や青っぽいスーツを着たユニルフしか見たことないけど、外から見ても身体は鍛えられ、無駄な肉はついていなくて、がっちりしているのがわかる。背は長身のあたしよりさらに高かった。べったり密着して彼の体のほどほどに浮き出た鎖骨や薄くない胸のどの位置にあたしの頭のてっぺんや鼻や顎があたるのかを手探りで調べて背比べをして記憶に刻みつけたい。暗がりのなかであたしの身体は柔らかく溶けだしはじめるだろう。体が離れても、彼があたしの体の形や熱を覚えられるまで、じっくりと抱きついていたい。なんといったら彼はあたしが抱きつくのを赦してくれるだろうか。あたしが甘えた声を出しても、彼は普段どおりの声のまま、やめてくださいといって、拒むことができるだろうか、顔から熱を発しながら? 彼の色素の薄い白い肌の黒い眼が暗がりで光っていないだろうか、とろりと熱を帯びた本気の眼になっていないだろうか、彼の体のなかに潜んでいるあたしと違う仕組みの獣の熱い眼になるんじゃないだろうか。あたしは彼の眼鏡をそっと奪って、あたしの胸のふくらみごとそのまま身体が痛くなるほどぐっと押しつけると、彼の身体はきっと硬くなるだろう。あたしは彼の体がかすかに汗ばむのを感じる。それからきっとあたしは彼の汗のにおいが好きになる。こわくないんだよ、と言ってやり、あたしは彼のスーツのボタンをはずしてカッターシャツの上から彼の素肌を優しく吸うようにキスをする。彼に触れた唇からかすかに入ってきた彼のフェロモンによって、あたしはくらくらするほど陶酔しながら同時に覚醒する。あたしは彼の背中に手をまわして、骨が折れない程度に抱きしめる。あたしのお腹に当たる彼のからだの一部分だけはだんだん感触が硬く変化していくだろう。あたしはそれによって体の奥が痺れて思わず首を反らして吐息をちいさく漏らす。愛おしそうに彼の獣に呼びかけながら掌で背骨をなぞって優しく誘いだす。彼の息も乱れはじめる。そのときあたしが彼のいろいろな場所に押し当てた掌でユニルフの体温がどのくらい上がったかを正確に感知したい。いつでもそれを思い出して、あたしもまた熱くなれるように。彼の腕はようやくゆっくり持ち上がる。そのときはすでに一人の雄の獣としてその手はあたしに触れようとするだろう。あたしは顔を上げ、彼の獣を喜ばせることを考えながら微笑む。彼はあたしの眼を見る。どんな眼なのかはあたしはまだうまく想像することができない。彼は彼のなかにいるものたちの姿を隠すのが上手だったから、彼のなかにいる獣の眼はまだわからない。あたしの唇がかすかに動く前に、彼はあたしに彼の本当の獣の姿を明らかにしてくれるだろう。
あたしはがっかりして妄想を終わる。それからの妄想はうまくまともなものができない。妄想じゃなくて本物を見ないことには続きがわからないのだ。彼はどんな眼をするんだろう。彼はどんな声であたしを求めるのだろう。あたしはユニルフが好きなんだ。でも他の人間たちと同じように、道具や玩具や記号として、彼のことを見ていないだろうか。だれかの個性や性格を、認めることはかつてあたしにはできなかった。彼らを人間だと認めてしまえば、あたしは必然的に殺意を抱いてしまう。男だという獣だと理解していても、欠点や嫌いな性格まで一緒に受け入れて、愛情という気持ちになったことはない。好意的な気持ちになることはあっても、すぐに男のことを嫌いだと思ってしまって、そこで恋愛が終了してしまう。ユニルフのことも、また嫌いになってしまうのかもしれない。そうしたらもう彼と仕事はできなくなる。あたしは彼と仕事をするのはちっとも嫌じゃない。彼は頭が切れるし、うざったくかんじることもない。一緒にいたほうがあたしにとっていいことはあっても、悪いことはない。ということは、あたしが彼をこれ以上好きにならなければ、彼と一緒にいることができる。恋愛にならなければ大丈夫だろう。それならば彼とはすこし距離をとったほうがいいのだろうか。
ユニルフの眼。ユニルフの指。ユニルフの声。ユニルフの匂い。ユニルフのすべてが欲しい。ユニルフのすべてが好きだ。ユニルフのすべてを愛したい。ユニルフのすべてをあたしは受け入れたい。あたしはこんなに彼のことを好きなのに、どうして彼はあたしを求めてくれないのだろう。あたしを切実に望んでほしいのに。そんなのって辛い。あたしはあたしの気持ちを抑えるのが難しくなってきた。あたしは彼のものになりたい。彼の世界にとりこまれて、彼の世界の一部になって、あたしも彼と一緒になりたい。彼の好きなようにされたい。そうしてほしい、とあたしは望む。彼のことが愛しいから、そういうふうにして、あたしは彼に愛されたい。
あたしは地下道から出てきて近所の小路を歩きながら妄想するのをやめた。人の気配がしたから、にやついた顔を晒すわけにはいかなかったからだ。地下道のそばの駐輪所に並んだ放置自転車から臭いにおいがした。ある一台の自転車のかごのなか腐った生ゴミと汚物が詰めこまれていた。放置自転車のそばに立っていた少年が持っていたライターで自転車のゴミに火をつけようとしていた。フックのような鉤角のような呪いのかかった突起物のついた首輪をしているのは、ある組織構成員の証。首輪をするのは装飾的な意味と防具的な意味がある。首を守る必要があるのは、そうしないと首と胴体が離れてしまうからで、再び死体になってしまうからだ。死んだ人間を蘇らせて組織に所属させているのだ。〈フォモール族の末裔〉と名乗る組織だ。死んだ人間だが生きているように動くことはできるが、思考能力や感情はほとんど残っておらず、命令には逆らおうとはしないが、たいして役にも立たない下っ端の仕事くらいしかできない。ある種のゾンビで、人体の腐敗はできる限り少ない。死んだ人間をよりクオリティを高く生きた人間らしく見せるのは、とても難しい。〈フォモール族の末裔〉の生きる死体は、共通して眼が片方しかない。両眼を与えられるほどの価値もないからだ、と聞いたが、たぶん両眼を与えて使えるようにできるほどの術者に技術がないのだろう。この少年の左目には青色のプラスチックの義眼がはめ込んであった〈フォモール族の末裔〉の組織の少年たちは、課された非行を無言のままやり遂げるために死んでも生かされ続けている。〈フォモール族の末裔〉の少年たちを管理しているのは、〈非情の王(モロク)〉という犯罪組織の不良少年たちだ。とんでもない悪童どもたちで有名で、あたしは彼らに敵対していたある新興宗教の信者の〈モロク〉の悪行の証言を聞いたことがあった。
「【犯罪組織】〈非情の王(モロク)〉たちは我々の活動をとことん邪魔するのです。我々の信仰のための教えを広げるために街に布教の冊子【真実の太陽(サン・オヴ・ザ・トゥルース)】を入れて設置してある箱に、連中は三日に一度は必ず、何度新しくしてもことごとく放火したり、汚物や生ゴミや動物の死骸を箱に詰めこんだり。手袋を二重につけていちいち片づける我々を、連中は物陰で双眼鏡で見ているんですよ。そのあと新しく直した我々が立ち去った三分以内に再びまた放火したりするんですよ。もう執念としか言えないです。我々に対するなんの根拠もない嘘や悪質な罵詈雑言を吹きこんだテープレコーダーをスピーカーつきで設置して放送したり、我々に対する中傷ビラを配ったり、我々の名前を卑猥な広告に載せてそのまま宣伝したり、携帯児童売春勧誘サイトのメールアドレスと一緒に我々のシンボルマークを使った紙の入ったポケットティッシュを笑いながら大量に路上にばら撒いたりするんです。それだけじゃありません、【真実の太陽】の偽物の冊子をつくって本物と替えておいていたりするんです! 表紙も精巧に本物そっくりに真似て、でも中身はまるで悪意の嘘や出鱈目(でたらめ)やインチキだったり我々をからかったりした神への冒涜(ぼうとく)としか思えない酷い内容の偽物に書き換えたりして! 我々の会のことを未来の信者たちに、頭がおかしい集団なのかと誤解させたり、馬鹿なことばかり言っているなと失望させたり、なんだこれはと気味悪がらせたり、嘘ばっかり書いてあって意味がわからないと不審に思わせたり、我々の会は悪の存在なのかと混乱させるなどのような効果を、狙っているのがわかるんですよ! なにも知らぬ未来の信者たちがその冊子を手にして読んだかもしれないと思うと、もうもう赦せなくなるのですよ、我々は! ええ、本当に! そんなことをされたら、我々は、真実をお話ししている我々は、未来の正しい心の信者たちにどう説明し理解してもらえばいいのかわからなくなってしまうのですよ。連中は偽者で我々は本物だと、どう証明すればよいのでしょう? ねえ、みなさん? いや、これだけではないんですよ! 我々のシンボルマークをどこかで入手した連中は我々の会の旗をつけた宣伝カーに乗って嘘の情報を流したり。例えば、過激派の政府団体の嘘の情報ですとか、新しい裸体主義者(ヌーディスト)のためのキャンプや学校の偽情報ですとか。完璧に我々信者のシンボルマークの入ったTシャツを着て我々になりきった暇な連中は街頭や駅に立って我々の名を騙って、演説のつもりのパフォーマンスと称して電車や地下鉄に大量に集合して構内をバイクで歩いている人を轢く技術を競って乗りまわし人を笑いながら逃げ惑う人たちを嬲(なぶ)り殺し、通行人を撲殺する喧嘩の強者トーナメント大会を酔って歌って催したり、朝七時きっかりに駅のホームで連中の数十人~数百人が集まって停まった電車に一斉に放尿して電車のダイヤグラムを混乱させたり、ベビーカーや老人や幼児をサッカーボールの如く蹴りまわし、盲人にはその杖を奪って折り胴上げをして線路に〈ゴール!〉〈ナイス・シュート!〉と叫びながら突き落として手を叩いて喜びあったり、鞄や財布や貴重品や自動販売機やベンチを奪って大声でわめきながら線路に投げこんだり。あるいは、我々の教会に硫酸をかけつづけて建物を崩壊させたり、教会の郵便受けに小型爆弾を仕掛けたり、信者の家の扉や壁にナイフを数十本突き刺してまわったり、我々の講演会の会場に突然乱入してきて儀式をぶち壊しにして信者を次々と殺したり。まったく。狂っているとしか言えないですよ。我々を憎み、悪意に満ちた暴力で脅しをかけて、精神的ストレスで徹底的に苦しめるんです。性質が悪すぎるというか頭がおかしすぎるのです。連中は我々が困るのを見て楽しんでいるのです。もうゲームになっているのです。連中は目的のためなら、どんな非道な最低な極悪なことでもする輩です。われわれの信者のなかにはノイローゼになったり鬱になったり自殺したりするものまで出てきました。彼らからの迫害と戦う気力をなくすまで彼らはわれわれをからかい続けるでしょう。もう我々にはどうすることもできません」新興宗教と〈モロク〉の戦いは、今も続いているのだろうか。
小路の角を曲がって四辻に出ると、人間の指が1本転がっていた。切りとられた男性器が落ちているのかと思ってあたしは一瞬、動揺してしまったが、よく見たら人間の指だった。なんで落ちてるのかな、とあたしは思ったが〈ゲヘナ〉では死体が道に転がっていることは別に珍しいことではないけど、死体が落ちていてもおかしくない場所と、そうでない場所があることは確かだ。決して人気がいないところではなく、ここは住宅地だから、殺人が行われたら、悲鳴や争う声などに、近所の住民が気づくはずなのだ。
指は、手から無理やり力づくで引きちぎったかのような切れ方だった。発狂した不審者が錯乱して自分の指でもちぎって捨てたのか。そんな馬鹿なことがあるだろうか。麻薬中毒者が叫びながら住宅地を走りまわらないとはいえない。昨夜切られたばかりのようなみずみずしい指だった。だれも発見しなかったのだろうか、それともあたしと同じようにとくにどうしようともせずに通り過ぎてしまったのだろうか。変死体、猟奇死体の類も、〈ランタン男〉の得意分野だが、当たり前すぎて、だれも〈ランタン男〉だと騒ぐのをやめる。もういい加減、馬鹿らしい。
四辻の真ん中でだれかの指を切断したのか。その指は他人か本人かはわからないが、その場におびただしい血液がその指からほとばしって地面に散らばるだろうし、出血はすぐには止まらないだろう。流れる血を落としながらどこかに逃げていったのなら血のあとが転々と残るはずだが、血液痕は指のまわりに涙のような水滴がわずかに残っているだけだった。これはいったいどういうシチュエーションでこんな有様になったのだろうか。近づいて本物か偽物かどうか調べたら、どう見てもレプリカではなく、たしかにかつて生きていた指だった。
まるで指とわずかな血痕だけを残して、残った指の持ち主はそのまままるごとここから消えてなくなったみたいだ。おそらくどこかの化け物が運の悪い奴を丸ごと飲み込み指一本だけを食べ残したのだろう。〈ゲヘナ〉には化け物はたくさんいるから、そういうことはありえなくもない。水滴はおそらく化け物の消化液かよだれかなにかだろう。足の生えた食肉植物かなにかが人間をのみこみながら、すばやく走り去ったのだろう。人間一人を重たげに口に入れて左右に揺れながら、すごい速さで逞しい二本の足で走って逃げる食肉植物。絶対に出会いたくない相手だ。おおかた空腹に耐え切れなかった食肉植物人種が、通りかかった人を飲みこんでしまったのだろう。指の持ち主は運が悪かった、というほかない。食肉植物人種の通り魔の発生の噂は、たまに耳にする。
あたしは指をまたいで四つ辻を通り過ぎた。どうも指は男性のものらしく、太くて指に毛が濃く生えていて、わずかに風にそよいでいた。その指はユニルフのものではなさそうで彼が指を失ったのではないとわかって、あたしは安心した。ユニルフの指が一本でも失われたら、と考えると背筋が寒くなって卒倒しそうになった。あたしは自分の指がなくなること以外にはだれかが指を失うことに関してなんとも思わないのに。
ユニルフの指は美しいのだ。男である彼はあたしよりも逞しい手をしている。だから惹かれるのだろう。そんじょそこらの女よりよっぽど強いあたしよりも、さらに力強さを感じさせる男の手に、あたしは惹かれるのだ。ユニルフの白い指は太く長く奇麗ですっきりと無駄な肉が削がれていて、彼のにおいがする。そしてあたしよりも力が強いのだろう。あたしは普段の猛々しい自分を忘れて、か弱い女、気分にしてくれる男性に惹かれる。ユニルフの指が、か弱いあたしを、いったいどういうふうに愛してくれるかを考えた。息を切らして切ながっているあたしのあちこちに、ユニルフの冷静な指に触れてもらって、あたしをうまく愛して凌駕してもらいたいんだ。あたしよりも圧倒的に猛々しく、また優れているところを見せつけてもらいたいんだ。あたしはたぶんそれをよろこんで受け入れるだろう。彼が叫ぶ声のことを考えるだけであたしは頭がどうにかなってしまいそうになる。頭がおかしくなくくらいあたしは彼のことを愛している。
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