15
頭を抱える俺の横で、泣きじゃくる陽夏が左足のローファとハイソックスを脱いだ。シオンはテーブルの横を回って、陽夏の足の脇にしゃがみ込んでいた。
陽夏は脱いだソックスを左手で握りしめて、右手で溢れる涙を拭う。シオンはジャケットからポケットティッシュを取り出して、陽夏に渡した。
陽夏の左足首には、紫色の痣が付いていた。細い足首を一周している。
「これだけかい?」
シオンはそう言って、俯く陽夏の顔を見上げる。陽夏はしゃくりあげながら頷いた。俺は立ち続ける妻を無視しながら、何とか声を出す。
「家で、繋がれているのか?」
「うん」
「お母さんか」
「うん」
俺とシオンは顔を合わせる。事は重大と言える。しかし、家庭の問題でもある。あるいは、刑事事件だろうか。
シオンは立ち上がって、陽夏の肩に軽く触れる。
「ソックス、履いて良いよ。うちの事務所でどうにかしますか?」
後半は俺に向けた言葉だ。
「秋朝さんは探偵であって、警察官や弁護士じゃないだろう」
「でも、そういう知り合いもいますし、案件にすれば動き易い」
「誰にも、言わないで下さい」
陽夏は苦しそうに、そう声を上げた。シオンは元いたソファに戻りながら、俺の顔を見る。俺は、陽夏を見ていた。
「しかし、それで家出してきたんだろう?」
「そう、だけど」
陽夏は恐らく、家にいるときに繋がれているだけで、監禁されている訳ではない。軟禁だ。しかし、陽夏は母親が捕まることを気に留めている。俺は、それが嫌だった。陽夏の母親は、陽夏の気持ちを理解した上で軟禁しているのではないか。
俺は陽夏の肩に手を置き、何を言うべきか考えながら話し始める。
「取り敢えず、今晩はこの事務所にいると良い。お母さんには、一応連絡はする。だが、警察かどこかにも報告する。君をあの家に帰す訳にはいかない」
俺がそう言うと、陽夏は顔を上げて俺の目を見た。俺はその赤くなった目を見つめながら、陽夏に頷いて見せる。
友達を助け出してくれと言ったときの意思の強そうな目と、いまの赤い目は、同じ物には見えなかった。
気が付くと死んだ妻は消えている。
陽夏の母親は半日使って何度か電話を掛けてきたが、俺は適当に話を躱したり、居留守を使ったりした。秋朝探偵事務所も動くと言うが、その前に警察が陽夏を引き取りに来るだろう。
「それで、何を調査するの?」
俺は事務所のソファで朝のコーヒーを飲んでいて、陽夏は目を腫らした顔でトーストを食べていた。窓からは朝日が差し込んでいる。シオンは夜の内に帰った。
「笹崎信彦についてだろうな」
「誰?」
「垣内星那の伯父さん。関係者は当たっておきたいんだ」
「怪しいの?」
「うーん、五分だろうな」
具体的に言えば、垣内優太郎と笹崎信彦が入れ替われるか、ということを調べる必要がある。シオンの言う通り、俺はその可能性を捨てきれずにいた。しかし入れ替わっていたとしたら、優太郎は監禁していた二人を残して、どこへ行ったのか。
陽夏がキッチンで洗い物をし始めた頃、事務所の電話が鳴った。出ると、荻窪署の見沼刑事だった。
「矢岸さん、おはようございます」
「どうかしましたか」
「いえね、捜査本部にも、生活安全課から情報が上がって来ました。例の、監禁事件の第一発見者の滝陽夏が、矢岸さんの所へ行ったとか」
「まぁ、そうですね」
「それで、今日の昼過ぎにも、生活安全課の人間がそちらへ伺うようです。陽夏の母親は、かなり頭に来ているらしい」
荻窪署で陽夏を怒鳴っていた声と、滝家で感じた生命力の弱さが、同時に頭に浮かんだ。陽夏の母親は、陽夏にどんな感情を持っているのか。
「でも、見沼さんのことだから、それだけの用ではないでしょう」
「鋭いですね。防犯カメラを一通り調べました。と言っても、死亡推定時刻の二日間、垣内邸の周りの物を調べただけですが」
この見沼という刑事は、俺のことを探偵だとでも思っているのではないか。俺はキッチンの方をちらと見て、空いていた手で口元を隠す。
「笹崎信彦は映っていましたか」
「怪しい人間はいません。これから、映像を解析するそうですがね。ところが、矢岸さん。とある人物が映っていました。同じカメラに二度です。死体発見の前日、五月十四日の十六時過ぎと十八時前に」
「へぇ。誰ですか?」
「滝陽夏ですよ、矢岸さん。滝陽夏は、十四日の十六時十分に滝家方向から垣内邸方向へ向かい、十七時五十分に戻っているんです。人相ははっきりとは分からないが、時間、格好、場所などから絞って、滝陽夏らしいと結論付けられました」
思わず、キッチンの方を振り返った。直接見ることの出来ない所から、食器の触れ合う音がしている。
「……矢岸さん、聞いていますか」
「ええ、失礼。それで、ええと、映っていたのは、その二度だけ?」
「そうです。他の場所には一切映っていませんでした。学校の制服を着ているようで、持っているバッグの学章は、滝陽夏の学校のものと一致しています。行きは傘を差し、帰りは傘を手に持って雨に打たれていました」
陽夏は、そのことを俺に言っていない。つまり、何か隠していることがある。
「あの辺りは、カメラは多かったですか」
「駅前程じゃありませんが、それなりには」
俺は見えていた事件の全体像が、徐々に変わっていくのを感じていた。他に何を聞けば、それをはっきりと見ることが出来るのか。俺はとっさに浮かんだことを聞くことにする。
「笹崎家に、何かあったのではないですか? それは、町屋署と合同捜査することになったことと、関係がありますか?」
「うーん、まぁ、言ってしまうと、笹崎信彦が、別の殺人の犯人である可能性が出てきました。殆ど、証拠が揃っているような状況です」
「つまり、荻窪の事件は、連続殺人の一つだった?」
「それは、申し上げられません」
俺は口の中で舌打ちをして、他に聞くことが無いか考える。
「そうだ、裏庭から出てきた頭に、何かありませんでしたか。打撲痕とか」
「後頭部を一撃やられていました。出血は無し。やや上方から振り下ろされたようです」
「つまり、座っていたときに?」
「その可能性が高いでしょうね。使われたのは、恐らく現場にあった灰皿ではないかと。底の面で殴ると、ぴったりだそうです。床から灰が少し見つかりました」
「灰、か」
犯人の動きは少しずつ掘り出されていっている。しかし、その犯人が誰なのか、まだ明らかになっていない。
「そうそう、監禁されていた少年が目を覚ましましたよ。自分は笹崎大海だと言っているそうです。まだ詳しく話を聞ける程には回復していませんがね。少女、垣内星那からは、もうすぐ話を聞けそうです。あとは……、そうだ、垣内邸に子供が監禁されているという投書があったそうです。届いたのは、死体発見の次の日だと」
「筆跡は?」
「定規で書いたような直線的な字だそうですよ。何かで見て知った手口でしょうが……」
「監禁の事実は、報道されていませんよね」
「そこが問題なのです」
シオンが、投書か通報があるかも知れないとか言っていたのを思い出す。犯人はやはり、星那と大海を救う為に殺人までしたのか。
他に話すことはないと見沼が言って、俺は電話を切った。まったく、あの刑事は情報を漏らし過ぎだが、まさか俺に事件を解決させたいのだろうか。俺は拝み屋であって、探偵ではないのに。
予告通り昼過ぎになって、荻窪署の生活安全課から警察官が来た。とりあえず荻窪署で保護して、母親との関係を取り計らうと言う。陽夏は一人で、荻窪署まで運ばれるらしい。
俺は陽夏を見送る為に、ビルの前に出た。陽夏は肩を落としていたが、警察署へ行くことを嫌がる素振りは見せなかった。それが俺には、悲しいことのように思えた。
「君はもっと、自分の意見を言って良い」
「言ったじゃん。星那を助けて、って」
「それは、友達の為だろう。自分の為に、自分の意見や感じたことを言っても良い、という意味だ」
「へんなの。学校の先生は、皆にわがまま言うなって言うのに」
「多少わがままな方が、人生は生き易い」
「ふぅん」
「人を信じるなとは言わないが、信じるべき人かどうか見定めることは必要だ」
「分かんないよ、そんなの」
「直に分かるようになる。それまでは、周りの人に頼って良い」
「矢岸さんとか?」
「シオンとか」
「あの人何考えてるか分かんないし」
「俺もだ」
陽夏は声を上げて笑い、俺は少し安心する。まだ、取り返しのつかないことにはなっていない。昨日見た涙は脳裏を掠めるが、それでもいま、陽夏は笑っている。
「矢岸さん、握手しよ」
「うん? ああ、良いよ」
陽夏の出す小さな手を、俺は握った。その手は、ひんやりと冷たかった。陽夏の握力が微かに伝わってくる。
「またね」
陽夏はそれだけ言って、手を解いて身を翻した。背後に停まっていた警察の車の後部座席に乗り込んで、ドアを閉める。
警官は何故か俺に敬礼をしてから、車を出した。俺はその車が道を折れて見えなくなるまで、その場で見送り続けた。
少し感傷的になっていることには、気付いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます