二人の家

 刑事が車をビルの前に着けたとき、俺は重い頭をどう醒まそうか考えていた。

 事務所でコーヒーが沸くのを待ちながら表の狭い道路を見学していたら、見たことのないセダンがビルの前に停まったのだ。そしてそこから、スーツを着込んだ見沼が出てきた。パトカーでなくて良かったと心底思った。

 キッチンで沸いたコーヒーをカップに注いでいると、事務所の出入り口の方から見沼の声が聞こえてきた。何を言ったかは不明だったが、多分、ドアが役目を果たしていないことに意見があるのだろう。

 俺がカップに氷を入れてキッチンから出ていくと、見沼は事務所の中を見回していた。


「ああ、矢岸さん。おはようございます。お迎えに上がりましたよ」


 俺は既に外出出来る格好になっていたが、これからコーヒーを飲むぞ、ということをアピールしなくてはならなかった。ゆっくりとソファに座り、持っていたカップをテーブルに置く。


「どうも。それにしても、随分早いですね」

「これから朝食ですかな」

「と言っても、コーヒーを飲むだけですから」

「今日はお願いしますね。早期に決着させたい」


 俺は勧めていないが、見沼は向かいのソファに座った。俺はコーヒーを啜りつつ会話を続ける。


「次の被害者が出るとでも?」


 俺はそう言ったが、シオンの言うところでは、連続殺人の可能性はメディアには出ていない。ましてや荻窪の事件がそれに絡んでいるなんてことは、警察の中のごく一部の人間と、シオンしか考えていないだろう。


「いえ、凶悪犯ですからね」

「それにしても、まだ九時ですよ」

「午前中には済ませていただきたいのです。ここだけの話、監禁されていた少年の家を捜査することになっています」

「家宅捜索というやつですか」

「いえ、単に伺うだけです。令状がある訳ではありませんので」

「ふぅん……」


 俺は生返事をしながら、コーヒーを一気に飲み干した。わざわざ仕事の邪魔をするのも気が引けるし、俺だってさっさと済むならそうしたい。


「では、行きましょうか」


 俺がそう言うと、待っていたと言うように見沼が腰を上げた。

 階段を下りてビルの前に停められた車の後部座席に乗ると、運転席には昨日会った加賀美という警視庁の刑事がいた。助手席に見沼が座り、俺が一応シートベルトを締めると、加賀美は車を出した。

 シオンが荻窪署から俺の事務所に向かった道を反対に走って、車は杉並区に入った。それから細い道を何度か折れて、垣内邸の近くで車は止まった。垣内邸の前の道には立ち入り禁止の黄色いテープが張られていて、その前には制服警官が立っている。辺りには、他にも数台警察の物らしい車が停まっていた。

 車を降りて、見沼と加賀美の後からテープを潜る。二人の刑事と一緒にいたからだろうが、制服警官には何も言われなかった。

 テープの中にいた警察官から、手袋と靴の上に履くビニールを渡された。それを着けるのは初めてではなかったが、慣れている訳ではない。緊張感の増していくのを感じながら、シャッターゲートの脇にある重い鉄扉を加賀美に開けて貰って中に入った。開け放ったままにしたいが滑って何もつっかえられないと、見沼が言った。

 舗装路を通って表玄関から母屋に入った。タイルの床に傘の数本刺さった傘立てが置かれ、奥には廊下が伸び、すべてが白い照明に照らされている。

「どうですか、矢岸さん。何か感じますか」

 先に廊下を歩いていた見沼が、振り返って俺にそう聞いた。


「いえ、感じませんね。むしろ、感じなさすぎる」

「と言うと?」

「何者かが除霊をし尽していた可能性があります」

「除霊ね……」


 そう言ったのは加賀美で、見ると目を細めている。俺の話は冗談程度にしか聞いていないようだった。

 見沼が再び歩き始め、加賀美と俺は後を着いていく。廊下は少し先で右に折れ、そこを曲がると一昨日入ったリビングの出入り口が正面に見える。俺は見沼に続いて、その血塗れのリビングルームに入った。


「酷いですね」


 俺は正直にそう言った。一昨日も見ているとは言え、やはりこんな大量の血痕を見ることはそうそうない。

 ラグマットの上の死体があった所には、白いテープが人間の形に貼られていた。と言っても首から上は無い。実際に無かったからだろう。

 首のあたりを中心に、赤黒い血痕が辺り一面に広がっている。冷静に見ると、首の断面が向いていた向かって左手のソファ側が酷いようだ。反対側には壁際に大型のテレビが置かれているが、そちらの方が飛散した血液は少ないように見えた。


「被疑者は生きたまま、首を切られています」


 見沼が背後でそう言った。確かに、生きたま切られなけられば、こんなに出血しないだろう。

 ソファの奥にはダイニングスペースがあり、右側にはテレビが壁際に置かれているだけだった。リビング出入り口真正面には吐き出し窓があるが、その先には鬱蒼とした草と高い塀しか見えなかった。窓側には、あまり血は飛んでいない。


「何か感じますか」


 見沼は俺の隣に並んで、再度そう聞いてくる。


「煙草臭いですね」

「優太郎氏はヘビースモーカーだったという話があります。幽霊はどうです?」


 そう聞かれても、霊や呪いの類は何も感じなかった。昨日見た首の無い霊もいまは視えない。


「何もいなさそうです」


 俺が一昨日ここに入ったことは警察には言っていないから、当然首の無い霊の話も出来ない。しかし俺は、除霊したなら除霊したで、何か物が残っているのではと思っていた。

 再度辺りを見回していく。何か置かれている物は無いか、何か書かれているものは無いか、小さな物まで見ていった。


「……これは何です?」


 気が付いた物と言えば、ソファのサイドテーブルに置かれた小型の時計だけだった。テレビの方を向けられていて、片手に乗るくらいの大きさだ。そして、血飛沫で汚れている。


「時計ですな」

「元々ここに、この状態で?」

「ええ。それに、何かありましたか」


 見沼は目を見張って俺にそう言うが、何か感じた訳ではない。時計の血の飛び方に周囲と違和感がある訳でもなく、殺人があったときにそこに置いてあったらしいことは素人目にも分かる。ただ、近づいて見ると、何かからくりでも飛び出すのか、文字盤の下が両開きになる構造らしいと分かった。


「これ、鳩時計ですか?」


 俺が見沼にそう問うと、それに呼応したかのように、時計の扉が開いた。ゆっくりと、中から小さな人形が出て来る。

 そして、どうやら少女らしいその人形は、血飛沫で汚れていた。

 動いているその時計の針を見ると、十時丁度を指している。俺は自分の腕時計を見て、その時間が正しいことを確認した。隣の見沼は懐から出した手帳を開く。


「二時間に一度の偶数時、中から人形が出てきます。血痕はずっとそのままです。ちゃんと確認すると、扉の外側には血が付いていませんよ」


 俺は時計に呪いを感じた訳ではないが、見沼はそれを期待しているらしい。俺はそれに気が付いていない振りをすることにした。


「被害者はここに住んでいた人物で間違いないのですか」

「家の中の毛髪や皮膚片とDNA照合をしていますが、現段階ではそう見られています」

「と言うと、あの少女の父親ですか」

「ええ。垣内優太郎、四十歳。職業は医師。近くの大学病院の内科医です。現段階で行方不明」


 見沼は俺に易々と情報を渡すが、加賀美の方はそれを良く思っていないようで、明らかに不機嫌な表情をしていた。


「その、垣内優太郎の部屋も見れますか。もしかしたら、何か除霊グッズを持っているかもしれない」


 俺の提案は、やはり見沼に受け入れられた。廊下に出て昨日見た階段を上り、二階裏口側の部屋に入る。中には本棚とデスクしか無かった。


「書斎です。殺風景な部屋でしょう」


 見沼は腰に手を遣ってそう言うが、書斎の窓からは二人が監禁されていた小屋を見下ろすことが出来た。これさえ見られれば、優太郎は満足だったのではないか。

 俺は黙って本棚を見ていった。医学書が大半だったが、小説や医学に関係の無い専門書もあったし、その中には幽霊関係の本も数冊あった。世界各地のまじないや民俗の本も並んでいる。


「結構、熱心に研究していたようですね」


 並ぶ民俗学の本を眺めながらそう言うと、見沼が隣に来て、俺と同じように本を眺め始めた。


「こういう本を読んで、実際に除霊が出来ますか」

「結構出来ますよ。ある程度、ですけどね」

「ある程度?」

「弱い存在であれば、消したり、近付けないようにしたり出来る可能性がある、という程度です」


 見沼は顎に手を遣って渋面を作ってしまった。加賀美などは完全に俺の話を聞いていない。次の仕事のことでも考えているのだろう。

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