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およそ装飾と呼べるような物の無い、無機質な一階建ての建物だった。大きさは幅が五メートル程で、高さは三メートルも無い。木製でここまで温かみの無い造作というのも珍しいだろう。
陽夏が正面の扉の前に辿り着き、それを両手で叩き始めた。鈍く重い、反響のしない音が鳴った。俺も駆け足でそこに向かう。亡者や呪いの気配は無いが、しかし、背後の母屋らしき建物から何か、異様な気配が感じられる。
錆の浮かんでいるその扉は、右側に蝶番があり、右開きになるようだった。向かって左側に閂が掛けられている。よく見ると扉の中心部にも閂を置くための金属部品があり、閂を右にスライドして開けられるらしいと分かった。
辺りを見回すと、母屋らしい建物の青い裏口から小屋の金属製の扉まで、足跡が残っていた。俺が何となくそれに気を取られながら小屋の前に辿り着くと、陽夏は閂の下にしゃがみ込んで、扉と壁の隙間に目を当てていた。僅かに中が見えるらしい。
「星那! 星那分かる? 私、陽夏だよ! 助けに来たからね!」
俺は陽夏に一瞥を投げてから、三十センチ程の閂に手を掛け、それを右側へスライドさせた。僅かな重みを感じたが抵抗は無く、殆ど感触も無いまま閂は右へと滑っていった。
閂を完全に外すと、陽夏が扉の取っ手を掴んで、体全体を使ってそれを引き開けた。俺は一瞬それを手伝おうとしたが、俺が手を伸ばす前に、扉は完全に開け放たれていた。
「星那!」
飛び込もうとする陽夏を手で牽制し、中の様子を伺う。
薄暗い室内には、天井近くの窓から日の光が差しこみ、舞う埃や塵を浮かび上がらせていた。その中に、ワンピースのような服を着た少年が仰向けで倒れている。目を動かすと、同じくらいの歳の少女が同じような服を着て、壁に上半身を凭れさせて床に座っているのが見えた。顔は真下を向き、肌は土気色になっている。腐臭と饐えた臭いが鼻を突き、羽虫の飛ぶ音が聞こえる。
中にその二人しかいないことを確認して腕を下ろすと、陽夏が座り込んでいる少女に向かって走り出した。俺は出入り口から室内を感じ取っていく。酷く蒸し暑い空気が漏れ出してきていた。壁と床を見ると、塗り固められているのが分かる。
「星那! 大丈夫!?」
陽夏が少女の脇に座って、肩をゆすっている。俺は開け放たれた扉の外から陽夏に声を投げた。
「呼吸を確認してくれ。口元に耳を」
「矢岸さん、こっち来て」
「誰かがどこかに隠れていたら。俺達まで監禁されることになる。それより、呼吸だ」
陽夏は頷いて、俯いた少女の口に耳を寄せる。
「息してるよ、助かる?」
「多分な。男の子の方も頼む」
陽夏は俺の言葉が終わるのも待たず、少年の元に駆け寄った。しゃがんで仰向けに倒れている彼の口元に耳を寄せると、険しい顔で俺の方を見た。
「大丈夫、息はしてる」
「携帯を持っているか」
「持ってない」
「じゃあ、俺のを貸すから、いますぐ救急車を呼んでくれ。二台だ」
俺はジャケットの内ポケットから携帯を取り出し、出入り口付近まで近づいてきた陽夏に手渡した。陽夏はすぐに一一九に電話を掛け、俺の背後で救急を呼び始める。
頭だけを室内に入れて中を見渡すと、奥行は幅と同じ五メートル程で、室内はおよそ七・五畳程度と分かった。左右の壁上部に嵌め殺しの窓がある以外は、内装も家具の類も無い。ただ、出入り口のすぐ傍、入って右側の壁際に、クーラーボックスが一つ置かれていた。釣り人が肩から下げているような物だ。手を伸ばせば届く距離だったので、それを持ち上げて足元に置く。蓋を開けると、保冷材がいくつか入っていた。触るとそれは温かく、中身も溶けてしまっている。
目を細めて室内を注意深く見ていくと、奥の隅に空のペットボトルやプラスチック製のごみが落ちていた。プラスチックのバケツも置かれている。
嫌な予感が胸の内をざわつかせ、俺は振り返って陽夏の存在を確かめた。陽夏は電話を終えたところで、携帯を胸の前で握りしめたまま、泣きそうな目で俺を見る。
「救急車は二台来るって。警察にも連絡するみたい」
「うん。それでな、ちょっと、あっちの建物も見ておきたい。そうだな……」
俺は携帯を陽夏から返して貰って、メールを作成して送信した。宛先は中峰紫遠。
「さっき俺の事務所にいた男をここに呼んだ。確かに訳の分からん男だが、信頼出来る探偵なんだ。携帯は渡しておく」
俺は電話帳のシオンのページを開くと、そのまま携帯を陽夏に渡した。
「何かあれば、この番号に電話をしてくれ。それか、室内に入ったまま、絶対に扉を開けるな」
俺の表情から差し迫ったものを感じたのか、陽夏は息を飲むように顔を動かす。
「それと、念のため」
そう言って俺はジャケットからハーブオイルの入ったスプレーボトルを取り出し、陽夏の目の前にかざす。
「霊とか呪いの類を感じたら、これをその辺に振り撒いてくれ」
「私、そんなの分かんない」
「大丈夫。分かるようになってからでも良い」
さすがに目に見えるくらいの何かであればこんな物気休めにもならないが、その場合いまの時点で俺が気が付いているだろう。
ともかく、警察が来る前に調べておく必要がある。もしかしたらこの一件、思っていたより長引くかもしれない。
ボトルを手渡すと、陽夏は険しい顔で俺の目を見ていた。
「早く帰ってきてください」
「出来るだけ急いでみる」
陽夏とお互いに頷き合い、俺は踵を返した。肉体は何か異変を感じ取り、肚の中が鉛のように重くなっている。本能は行くなと言っているが、それでもやはり、見ておかなければならないと理性が告げている。
足跡を避けて、裏口まで土の上を歩く。自分が通った地面を見ても、足跡は残っていなかった。土が固くなっているらしい。
考え事をしながらやや遠回りをしても、小屋から母屋らしき建物には十五歩程で辿り着いた。小さな青いドアのステンレスらしいノブを捻ると、すんなりとドアは開いた。
やはり何かおかしい。
ドアの内側には明らかに死んだ人間の気配があった。しかし前にまっすぐ伸びる廊下に、霊体の姿は無い。どこか別の所にいるのだろうか。
革靴を脱いで、室内に入っていく。ジャケットのポケットから麻の手袋を出して両手にはめた。
廊下をゆっくりと歩き、一番近かった左手のドアを開けると、そこは物置だった。手探りで明かりのスイッチを探し、それを押してみる。
中には誰もいない。
明かりを消して、再度廊下を進む。すると右側に階上へ続く階段が現れた。俺はそれを一旦無視することにする。
突き当りまで進むと左手にドアがあって、廊下は右に折れていた。廊下の先を覗くと、少し先でまた左に折れている。俺は廊下を進まずに、突き当り左手のドアを開けることにした。
木製のドアの金属製のノブ。それを右手で握ると、手袋越しに、ひんやりとした質感が伝わって来た。
ドアを内側へ開けていく。
その先はリビングルームだった。
煌々と天井の明かりが点いている。
一目で分かる異様な空間。
何がおかしい?
高い天井。
革張りのソファ。
床に敷かれたラグマット。
どれもが赤く塗られていた。
部屋中に広がっている生臭い飛沫。
床の上には、人間が倒れていた。
人間が?
人間であった物じゃないのか……。
あれは人間なのか?
頭の中に混乱と混沌が広がっていくのが分かる。
倒れている人間がいる。生気は感じない。生きた人間の気配はしなかった。
当たり前だ。
生きている訳がないだろう?
倒れている人間には、頭が無かった。
部屋中に飛び散った赤い鮮血が、俺の精神を蝕んでいく。
眩暈がした。
誰だってこんな死体を目の前にしたら……。
知らず、俺は死体に近づいていっていた。
足が勝手に動く。
近づくな、近づくなと、頭の中でアラートが鳴る。
ふわ、と何かが現れるのが視えた。
死体の真上だ。
そいつは、死体と同じ全裸の男で、
死体と同じように頭が無かった。
頭の無い死体の上に、頭の無い霊が立っている。
「お前は誰だ?」
何とか、そう声を発した。額にかいた汗が目に入り、俺は自分の足が止まっていることに気が付く。足元をちらと見ると、乾いた血の飛沫を踏む一歩手前だった。
血の海の中央には、死体の首の断面がある。
「お前は、垣内星那の父親か?」
俺がそう言うと、立ち尽くす死人の体は霞み始めた。
「待ってくれ、お前は誰だ。誰かに殺されたのか?」
俺が空を切るように手を伸ばして動かしてみても、男は何の反応も示さず、ただ消えていく。俺は手を下ろし、小さく舌打ちをした。
男が完全に消え失せ、俺が血腥さを思い出した頃、どこからかパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
「まったく……」
凄惨と言えばこれ以上ないだろうという光景を脳裏に焼き付け、ポケットの中のライターを触りながら、これから何をすれば良いか考えていく。取り敢えず、いまは外に出ることが一番だろう。
俺は白い壁に飛んだ血が黒く変色して固まっているのを確認して、家の中を全て元の状態に戻していった。
靴を履いて裏口から外に出ると、小屋の前に立っていた陽夏が俺を見て肩を撫で下ろすのが見えた。
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