二人の刑事

 荻窪署から事務所に帰った頃には、二十二時を回っていた。着ていたジャケットを脱いでデスクチェアに掛け、ライターをチノパンのポケットに移す。

 事務所の最寄り駅からの帰宅途中、俺の携帯に陽夏の母親から電話があって、謝罪をされた。陽夏もこっぴどく叱られたことだろうと思うが、俺は電話口で、今回の監督責任は自分にあるので陽夏をあまり責めないでくれ、ということを何度か陽夏の母親に伝えた。しかしその訴えがどの程度届いたかは分からない。俺は陽夏の母親が激高する度に、携帯を耳から離す必要があった。

 あの男は殺されたのか。なぜ首を切り落とされていたのか。

 俺は考えるのを止めた。事務所の中には静謐が満ちていて、さっきまで話をし続けていた警察官の喋り方を思い出しそうになる。



 母屋を後にした俺が陽夏の元に戻ってすぐ、シオンが垣内邸に侵入して、俺と陽夏の元へやって来た。

 シオンは丁度、勤めている探偵事務所から俺の事務所に車で向かう途中だったらしい。俺がメールをするなんて緊急事態に違いないと思ったそうだ。

 俺は手早くシオンに状況の説明をした。陽夏がいる手前死体のことは黙っていたが、俺の視線から何かをくみ取ったらしいシオンは、何度も相槌を打ちながらも表情を変えなかった。そういうときシオンという男は、空気を読まないでにやつくような人間なのに。

 シオンが小屋の中と足跡を確認し終えた頃、制服警官が二人、俺達の元にやって来た。

 近くの交番から来たらしい彼らは、俺の話を聞くなり監禁されていた二人を確認し、一人は現場保全、もう一人は応援を呼ぶなどの対応を取った。陽夏はその頃になって自分の心配をし始めたようで、幾度となく俺の顔を見上げた。信頼されるようなことをした覚えはないが、いま頼れるのは俺だけだと踏んだのだろう。

 そしてその少し後救急車がやって来て、救急隊員たちによって監禁されていた二人は病院に運ばれていった。そのとき俺は、取り調べ室で事情聴取を受ける自分を想像しかけていた。

 さらにそれから数分あって、警察の応援の車が到着し、俺と陽夏とシオンは荻窪署へ連れていかれた。

 署に入って車を運転していた警官に着いて行くと、取調室ではなく、会議室で事情を聞かれることになった。俺と陽夏とシオンはそれぞれ別々の部屋に案内された。その直前、陽夏があまりに心配そうな表情をしていたので、俺はまた頷いて見せた。ジェスチャーがワンパターンだが、それが功を奏したのか、陽夏は少しだけ緊張を解いたようだった。

 俺が警官に何度目かの休憩をお願いした頃、陽夏の母親が職場から飛んできた。謝る声が廊下を伝って俺のいた部屋まで聞こえてきて、その母親の声は数分もの間止むことはなかった。それがいまから二時間ほど前の出来事だ。


 事務所のキッチンで適当な野菜をオリーブオイルと醤油で炒めながらウイスキーの水割りを飲んでいると、事務所の出入口から声が聞こえて来た。それは俺の予想した通りの展開で、この為にさっさとベッドに入らなかったと言ってもいい。


「あれ、いないのかな……」


 声はやはりシオンのものだった。事件のことを聞きに来たのだろう。俺にだってサービス精神はあり、野菜炒めも二人前作っている。

 皿によそった野菜炒めの横に乾煎りしたミックスナッツを乗せ、それを二つ持って事務所に出ると、シオンはソファの中央に座って足を組んでいた。


「いるんじゃないですか。ほら、今日は大変でしたからね。差し入れにワインを買って来ましたよ」

「キッチンから音がしたろう。それに、いないと思ったら事務所に入るな」


 俺は皿をテーブルに置いた後キッチンと事務所を何往復かして、グラスを二つと瓶のウイスキー、ペットボトルのミネラルウォーターを事務所に運び出した。そうこうしているうちにシオンは野菜炒めを食べ初めて、俺がソファに座った頃にはザラメ煎餅の袋を開けていた。これはシオンが持って来た物だ。


「なんでワインにザラメ煎餅なんだ」

「これは、白石さんがウイスキーを出してくれることを読んでのことですよ」

「ウイスキーにザラメ煎餅でも合わないだろう」

「まあ、それはいいじゃないですか。それで、あの事務所に来た女の子、何者だったんです」

「何者、ねぇ……」


 俺はシオンの反対側に座り、自分のグラスにウイスキーを注いでいく。


「まだ分からないことが多すぎる」

「俺よりは知ってるでしょう?」


 手酌したウイスキーをストレートで飲むシオンはそう言って足を組み、推理をし始めるときの恰好に入ろうとする。

 俺は水割りを飲みつつ、母屋で見たことをシオンに話し始めた。血塗れのリビングルームと首の無い死体、そして首の無い霊。

 シオンは俺の話が終わると足を組み換え、グラスを持った手で顎をノックしながら天井を仰ぎ見た。


「首の無い霊、ねぇ。首の無い死体……。監禁事件」

「監禁されていた二人は良く知らない。女の子の方は陽夏が星那って呼んでたから、多分垣内星那なんだろう。ただ、陽夏は垣内星那にきょうだいはいないと言っていた」

「首の無い霊って、いままで見たことあります?」

「なくはない。そいつは、大昔から祟っているような霊だったが」

「有名な人ですか?」

「名前も残っていない野武士だよ。首を刀で刎ねられて死んだらしい。最後には自分の体がくずおれるのを見たと言っていた」

「ふぅん。あ、そうそう。監禁されてた二人ですけど、病院で治療を受けていて、一応助かるらしいですよ。ただ、現時点で身元は不明とのことです。それと、垣内星那の父親、垣内優太郎は行方不明と」


 シオンは足を組み換え、着ていたジャケットのポケットから十得ナイフを出した。


「そんな物持ち歩いているのか」

「最近買ったんですよ」

「警官に怪しまれなかったか」

「それはもう、抜群に怪しまれましたね。でもまさか、十徳ナイフで人の首は落とせませんから」


 シオンはそう言ってへらへらと笑い、十得ナイフの栓抜きでワインのボトルを開けた。そう言えば俺は、出かける前にカッターナイフを置いて行ったのだった。あれは正解だった。必要以上に怪しまれて笑うような神経は、俺には無いからだ。


「星那の母親に会ったか」

「会いましたよ。すっごい怒ってましたね。四十歳くらいかな」

「父親はいないらしい」

「一人親で、中学生の娘が学校をさぼって知らない男と他人の家に入った上に刑事事件と遭遇してれば、誰だって怒るでしょうねえ」

「まあ、そうかな」


 俺は空になったグラスにワインを注ぎ、それを口の中に少しだけ含んで、時間を掛けて飲み下した。葡萄の渋みが舌の上に残って、甘い香りが口腔内に蟠る。俺はそれを吐き出すように、言葉を発する。


「警察はどう動くと思う」

「そうですね……、まず、垣内優太郎がどうなったか。始めに垣内邸からDNAを採取して、死体と照合するでしょうね。陽夏ちゃんが星那って呼んでた子のDNAも取られると思いますよ。親子関係が分かりますから。それと、監禁されてた男の子ですか。身元を洗う必要があるけど、二人が意識を取り戻せば、これは分かるでしょう。あるいは、日本中の身元不明者を洗うかもしれないし……」

「星那に近い人間かもしれない、か」

「それなら話は早いんですけどね」


 シオンはジャケットのポケットから煙草を取り出して、一本咥えた。ライターも取り出し、煙草に火を着ける。シオンは美味そうに吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出し、俺は立ち上がってキッチンに灰皿を取りに行った。事務所に戻ると、シオンは煙草を一センチほど灰にしていた。


「白石さん、また禁煙してるんですか」

「ああ。一週間くらいになるかな」

「何度目です?」

「四回目かな」

「なるほどねぇ」

「何が」

「白石さんが禁煙すると、ろくなことにならないんだ」


 俺が灰皿をテーブルに置くとシオンはそれに煙草を置いて、空いた手でワインを煽る。俺は酔いの回り始めた頭で返答を考えたが、疲れは思いのほか溜まっていたようで、絡まっていない言葉を思い付くことが出来なかった。

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