3
中央線に乗れば荻窪までは十分程で、俺は陽夏の案内で垣内星那の家に向かった。久々に降り立った荻窪は、多くの中央線沿いの町がそうであるように駅前だけが混濁としていて、十秒も歩けば細い道の両脇に民家が建つようになる。自動車が辛うじてすれ違えるような道を南に五分ほど歩いて歯科医院を右折した頃、俺は横を歩く陽夏に質問をしておこうという気になった。
「垣内星那って子とは、小学校まで一緒だったのか」
「そう。中学校はちょっと離れたところに行くって言ってた」
「それで、どうして閉じ込められていると?」
「星那の家、大きいんけど、私が中学に上がった頃、敷地内に小屋が建ったんだよね」
「小屋?」
「そう。木だけで作ったようなやつ。でも、業者の人が作業した感じじゃないんだよ。誰も何も見てないって言うんだもん。でも、星那のお父さんが木材を運び入れてるところを見たって人がいたんだ」
「聞き込みをしたのか」
「まぁね。それでさ、この前私、星那の家に入れて貰ったの。そのとき、その小屋に近づいたら、中から話し声が聞こえて……。それが星那の声だった」
「星那にきょうだいは?」
「いない。お母さんもいないんだ。だけど結局、そのときは星那のお父さんに抓み出されちゃった」
陽夏は固い表情でそう言うが、俺はまず他人の家に勝手に侵入したことを注意すべきなのかもしれない。
俺はかつて子供を育てていたときのことを思い出した。陽夏よりはまだ幼い、女の子だった。脳裏に浮かんだその笑顔は、しかし一瞬のうちに崩れ去る。俺はそのイメージを振り払うように、陽夏との会話に集中しようとする。
「星那の父親に会ったことは?」
「何回かあるよ。なんか、どこ見てるか分かんない人だった」
目のピントがどこにも合っていない人間というのはどこにも一定の割合でいて、それがたまたま垣内星那の父親らしい。俺は何となく、チノパンのポケットに突っ込んでいた両手を外に出すことにした。手の平にかいた汗が、風で少しずつ乾いていく。
さらに十分ほど左折と右折を繰り返した後、住宅街の真中で陽夏が一軒の家を指差した。いや、一軒の家というより、そこにあったのは白く塗られた背の高い塀とその向こう側に立つ木々、そして重量を感じられる銀色のシャッターゲートだった。俺は咄嗟に、刑務所を思い浮かべた。塀の上に忍び返しがあったからだ。
「あそこが星那の家」
陽夏がそう言ったその家に近づいて見ると、閉じられたシャッターゲートの脇に、歩いて出入りするための物であろう鉄扉があった。横にはインターホンもある。鉄扉の上にまで、忍び返しは付いていた。
俺は何と言おうかいまさらになって考え始めていた。斜め後ろの陽夏を見ると、胸の前で両手を握りしめ、俺のことを見上げていた。
ええいままよ、とインターホンのボタンを押す。様々な言葉が頭の中で渦を巻き、ある程度固まってきたところで、反応が無いことに気が付いた。
もう一度ボタンを押し、鉄扉の向こうを覗き込むと、木々の生えている中にコンクリート舗装された道がうねっているのが見えた。建物も微かに見える。やや大振りだが、二階建ての、普通の民家だった。
やはり二度目の呼びかけにも反応は無く、俺は体ごと振り返る。陽夏と目が合い、俺は咄嗟に苦笑いを堪えた。
「留守らしい」
「じゃあ、いまのうちに」
「止めておこう。仕方ないから、日を改めて」
「でも、間に合わないことになるかも!」
「うーん……」
俺は腕を組んで空を見上げた。確かに陽夏の言うことにも一理あるし、俺だって一般常識は持ち合わせていて、中学生が父親に監禁されているのだとしたら、どうにかした方が良いのではないかとは思う。陽夏は多分忍び込んで助け出そうと言いたいのだろうが、しかし俺の中の何かのセンサーが、それに対して赤い信号を出している。
「お願い矢岸さん。このままだと、星那が死んじゃう」
陽夏の言ったその言葉が契機となったのかは分からないが、左側頭部に突然、鈍い痛みが広がり始めた。霞みがかった視界の中で、陽夏の後ろにぼんやりとした人影が現れ、叫びに似た例の声が聞こえてくる。
「あなたっていつもそうね」
頭の痛みは側頭部まで広がり、目に見える世界は歪むように回っていく。
「何もしてくれないじゃない」
口の中に苦い物を感じ、俺は膝に手を突いた。
「あの子のこと、ちゃんと考えてる?」
「分かってる……」
俺はそれだけの言葉を絞り出し、その場にしゃがみこんだ。
「私と
「分かってるさ!」
顔を上げると人影は消え失せ、目の前には陽夏だけが立っていた。
「矢岸さん……」
小さく溜息を吐き、額に汗を感じながら立ち上がる。視界はクリアになっていて、眩暈は治まっていた。
「すまない、ちょっと、発作みたいなものだ」
「幽霊が視えたの?」
「いや、幽霊とは違う。過去と言うか、記憶と言うか……」
「そうなの?」
「うん、まあ、もう大丈夫。さあ、星那くんを助け出そう」
俺は意識的に息を飲み込んで、ポケットの中の装備を思い出す。しかしいまは覚悟を決める他なく、俺は陽夏に向かって頷いて見せた。
もう一度鉄扉の方を向き、その上から敷地内を覗き見る。そこに人やその他の気配は感じられず、俺は一応、鉄扉のドアレバーに手を掛けて押してみる。手応えは感じたが、扉は開いた。
真正面から忍び込むとは堂々とした侵入者だと思いながら、扉を開いていく。鉄らしいそれは、見た目に違わず重量の感じられるもので、陽夏あたりだと開けられるかも微妙だろう。俺は両手を使ってそれを限界まで開け放ち、陽夏を中に入れる。手を離すと、扉は自然と閉まった。
精神を集中させて一本道の舗装路を歩いていくと、やがて母屋と思しき建物の前に辿り着いた。さっき外から見えた建物だ。屋根は外側に少し張り出していて、外壁は白い。その中で、玄関ドアだけが青かった。
陽夏は俺の隣で左右に顔を動かしたり、奥を覗き込むようにしている。俺は青いドアの前まで行って、その横に設置されたインターホンのボタンを押した。五秒程待ったが、やはり反応は無かった。
「ねえ矢岸さん。私が見た小屋がどこにあるか、分からない?」
「うーん、人間の気配には鋭い方だが……」
確かに敷地は広く、周りは
陽夏は壁沿いに母屋の左側に向かって歩き出し、俺もその後を追う。地面の土の上には葉や枝が落ちていて、空気からは高い湿度を感じられた。
壁に沿って側面を歩いていって、建物の角から裏手に回る。裏面の壁を見てみると、通用口と言うのか勝手口と言うのか、小さなドアが設えられているのが分かった。やはり青い。
建物の裏には土が剥き出しの裏庭があった。十メートル程先には、表から見たものと同じ塀が威圧的に構えている。
そして、辺りを見回すでもなく、それは確かに異様なものとして、俺の視界に飛び込んで来ていた。そこへ向かって、俺の横から陽夏が飛び出して行く。
木材を組み合わせたログハウス風の小屋だ。その中央に取り付けられた金属製の扉が、猛烈な違和感を醸し出している。そしてそれは、木製の閂で閉められいた。小屋からは悲しみが溢れている。
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