六 君は
絶望とはこのことだ。
ようするに俺の欲する記憶を身につけさせてやるから、代償に俺の他全ての記憶を貰うぞってことだろう?
あまりに割りに合わない取引だ。
俺はこのまま何もかも忘れるのか?
ベクトルの計算方法や、あらゆる物質の化学式や、慣用句や英文法と引き換えにして?
家族旅行の思い出や、友達と遊びまわった日々や、大好きな歌のメロディを代償にして?
これから約二時間で失うにはあまりにも惜しい。とはいえ、すでにそれらもうまく思い出せない。
ノートを開いても、言葉が出てこない。何を書けばいい? 何を忘れたくない? 何を失いたくない?
わからない。思考が全部泡のように弾けて消える。
俺はこのノートのせいで何もかも忘れるのか?
これがあるせいで、これがあるせいで、これがあるせいで──ッ!!
「うあああぁぁぁぁっ!!」
アスファルトの地面にノートを打ち付けた。しかしノートは折れることも汚れることもなく、平然と純白さを保っていた。
怒号はビルの壁をはんしゃして、霧のように消滅した。
こんなにも虚しいきぶんは初めてあじわった。
声にならない呻き声がのどを震わせ、目頭からぽたりとなみだがこぼれでる。
「ちくしょう、ちくしょう……」
ただ時間をむだにするだけとはわかっていても、おれは泣きわめくために時間を使うことをえらんだ。
▲▼▲▼
「大丈夫、って聞くまでもないね」
しばらく時間がたち、ふいに目のまえから声音が届いた。
それは紛れもなく、うさぎが好きでぬいぐるみを集めており最近ペットショップでうさぎを見て回るのが趣味の一つで、艶やかな長髪をトップで一括りにしていてモデル並みに整った容姿を持ち、和食派だけど大好物はコンビニのチキンで、褒められ慣れてなくて照れる様子やバイバイするときに小ぶりに手を振ってくれるのがかわいい、俺の高校の女バス二年A組七番、小野原紫苑の声だった。
「そのノート、学校じゃ使ってないよね。もしかしてそれが今の相馬の元凶?」
「ま、待ってくれ、なんで紫苑はここにいるんだ」
「普通に午前授業じゃん。相馬が早退したっていうから、只事じゃないと思ったわけ。これでもわたし、人のことは人一倍観察してるつもりなの」
そういうと紫苑は俺のメモリーノートを拾い上げた。見られたくはなかったが、見られたところでどうでも良いという思いのほうが上回った。
「なるほど……これが相馬の博識の根源というわけだ」
一分ほどして、紫苑はいつにも増してきりっとした表情で話し始めた。
「ねぇ相馬。わたしが誰だかわかる?」
「小野原紫苑だ」
「じゃあ飯島は誰のこと?」
「わからない」
「関西弁っぽい話し方をする、相馬のクラスメイトだよ」
「かんさいべん、ってなんだ?」
「……日本の首都は?」
「いや……」
「じゃあ、日本最古の説話集は?」
「日本霊異記だ」
古典で少し耳にした。
「えーと、あ、ノートに書いてあるわね。なるほど。かなりわかりやすく記憶が分断されてるってわけか」
そこまでで分析がおわったらしい。紫苑は真剣に語り始めた。
「相馬。今の相馬に聞くのも野暮かもしれないけど、脳が記憶できる情報の容量ってどれぐらいかわかる?」
「情報……? わかんねぇ」
「いろんな研究結果があるけど、少なくともおおよそ一ペタバイトはあると思っていいかな。もちろん、こんな薄っぺらいノートに書き記すのは困難な量ね」
「ま、相馬が要領の良さの方を求める気持ちは分からなくない。すぐに覚えて忘れないって書いてあるけど、そんな能力、わたしだって欲しいもの」
その言いぶりは、まるでメモリーノートの効力を否定しているようだった。人智を超えたメモリーノートの効果。もし俺が紫苑みたいにちゃんと物をかんがえられていたら、こんなことにはならなかったのかもしれない。
「つまり、俺は馬鹿だったんだな」
「否定はしないわ」
「それでいい……。目先の餌に食いついたのは俺だった。間違っていたのは俺だったんだ……」
くちを衝く言葉を噛みしめる。おれはざんげするように話す。
「それがあれば、俺はテストでいい点がとれると思ってた。それがあれば、忘れることを恐れないで済む。――それがあれば、君と仲良くなれる。本当に、ただそれだけだったんだ」
「相馬、本当に馬鹿だよ。家でこのノートに書く気になれるなら、他のごく普通のノートに書けばいい。ノートは見直すためにあるんだもの」
紫苑の顔が涙でにじんでうまくみえない。しかし、紫苑のこえはくぐもりはじめていた。
「書いてることも無駄ばっか。なんでわたしのことでノートを半分も埋めようと思ったの!? ありえない、本当にありえない! 笑顔が動物みたいで、か、かわいいとか、もっと細かい仕草まで、髪型まで、『ももこ』を洗濯した日付まで書いてあるじゃない!」
「それは、全部必要なことだから……。俺にとって、君が一番の関心なんだ……」
「冗談じゃない。……なんで? 全然分かんない。わたし、相馬のために何かした!?
「一緒に帰り道を歩いた……。そうだろ? 俺はあの日々が人生で一番楽しかった。最初は、確かに興味本位だったけど……、話していると楽だったんだ。紫苑のすることすべてが好きだった。特別なことじゃない、普通に君が好きだった」
「どうして、いま、相馬がそんなことをいってるのか、本当に分かんないんだって」
「今しか言えないんだ、きっと……。もうすぐ俺の記憶は消える。でも、紫苑のことは何もかも覚えていられるはずだ。もしかしたらもう二度と会えない場所に連れていかれるかもしれないから、今しか言えないんだ」
俺がどんな記憶を失っても、紫苑との記憶は薄れることはない。メモリーノートのルールからすればそういうことだ。これだけが唯一の幸いか。
「……馬鹿よ。相馬がいなくなっていいはずがない」
そう紫苑が言ってくれるなんて、俺は思わなかった。だが、俺に消えないで欲しいという意味とはちょっとニュアンスが違うようだ。
「相馬には仲のいい友達も、仲間も、きっと家族もいるでしょう。忘れていいはずがない。――わたしがいなくなるほうがよっぽど合理的だよ」
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