二 憧れのあの子
運動靴の擦れる音とボールが床に叩きつけられる音が体育館いっぱいに響いている。誰かがゴールを決めると皆が「ナイス!」と叫ぶ。空気は常に波を打つように揺れていた。
「そういや灯哉さ、最近小テストめっちゃ良い点になったけどどうしたん? ついに本気出しよったか?」
女バスはシュート練習を続けているが、男子のほうはちょうど休憩時間であった。雑談を仕掛けてきたのは、同じクラスになった男バスの友人である飯島だ。
「そうそう。俺もようやく土から顔を出して日の光を浴びれるぜ」
「花なのか蝉なのか知らんけど、それすぐ土に還る奴の例えやで。しっかし俺、お前がこの前のテストでクラス三十位代出しよったって聞いて仲間やー思っとったのになぁ」
その呟きに周りの同輩たちが乗っかってきた。
「まじか! 灯哉そんなヤバかったのかよ」
部活の仲間は俺にとって気の置けない仲間たちなんだが、こうして誰かを弄るときにはいっそう団結力が上がる。特に何故か俺に対する弄りっぷりは群を抜いている。
「うっせーな。でももうそれも終わりだ。俺、ガチで上位狙ってっから」
同輩たちはニヤニヤと互いの顔を見合わせる。何だよ、何が可笑しい。「うぇーい」とか言ってせせら笑うんじゃねえよ。まあ俺もだけど。
とにかく、俺はメモリーノートのおかげで日々の授業についていくことに成功していた。学校ではたまにノート提出があるので普通のノートを使い、自室で例のノートに覚えたいことをひたすら書き留めていく。少々手間だが、この先に復習をせずとも記憶が定着するのだと考えれば、これくらいの努力は惜しめないなと思う。
「灯哉がガリ勉とか想像の域超えて幻想すぎるよな」
「な。抜け駆けはずるいで。こっち側で遊ぼうやー」
「そりゃお前、俺だって遊びに誘われなくなったら寂しいわ。またカラオケとか行こうぜ」
飯島は丸々とした身体を大きく揺らして笑う。
「おぉ、やっぱ灯哉はノリがええな! 小野原さんみたいになるんかとヒヤヒヤしたわー」
小野原。その子の名前が出て一瞬ハッとした。だがそれは肩をすくめる動作に自然に持っていくことでごまかせた。
「や、やめろよ、さすがにもうちょっと付き合い良いだろ俺」
同輩たちは「ま、そうだな」と、悪びれなく笑う。そして誰からともなく女バスの練習風景を眺めた。
ちょうど、一人の女子がゴールに向けてスリーポイントラインからシュートを放った。彼女が放ったボールの軌道はまさに縫い針の穴に糸を通すような精密さで、リングにぶつけることなくゴールを通過した。
やっぱり小野原紫苑は規格外の人間だと誰もが思ったことだろう。
普通より少し高めの結び目から垂れたポニーテールが駆け足に伴ってなびく。真っ白な上の歯を見せて爽やかに笑うのが一瞬だけ見えた。鼻筋の通った端正な顔立ちは確実に全人類を虜にするような魅力を持っていた。
「あれで高校からバスケ始めたとか、神様を疑うよな」
「それでいてテストはクラス一位キープらしいし。灯哉もあそこに並ぶんだと思うと感極まっちゃうわ」
「いや誰目線だよ、お前は親か」
そんな馬鹿話をしているうちに、俺はある考えに至った。
もしかしたらメモリーノートがあれば紫苑とお近づきになることもできるんじゃないか。
紫苑のプライベートの全ては謎に包まれていた。
人見知りをするわけではなく、特段会話が成り立たないということはない。しかし紫苑と話した人はどこか人と関わることを拒んでいる印象を受けるという。確かに、決まった友人を持つわけでもなければ打ち上げに参加することもなく、どこか遠い存在、みたいな共通認識があった。高嶺の花というのだろうか?
そんなわけで、俺は紫苑がかなり気になっていた。俺は交友関係は広い方だと思っているが、紫苑とは簡単な会話すらしたことがなかった。ならば、俺が紫苑が好きな話題について博識になることで、話をたくさんできるようになるのではないかと思ったのだ。
もちろんメモリーノート頼みだが。
「そこまで言うなら、俺あいつと並んじゃうからな」
「マジかよ、あんまり勉強しすぎると目悪くなるぞ」
「頭悪いよりマシだろ。言っただろ、俺もう本気出すから。バリバリあいつと釣り合っちゃうから!」
言葉にしてから、俺の先走りっぷりに気がついた。だが俺のそういう性質は同輩なら分かってくれてるだろう。
恋は若いうちにしろ、とは伯父(独身)の言葉だ。相手が高嶺の花でも構わない。何より、メモリーノートさえあれば何でもできるという根拠の無い自信が俺を鼓舞していた。
時間は有限なのだから、高校生のうちに出来ることをめいっぱいするのが良い。それが青春ってもんさ。
「おい二年! とっくに休憩時間終わってんぞ! さっさと行動せい!」
「うぇ、おっかねぇ」
強面の顧問に怒鳴られて、俺たちはぞろぞろとベンチから立った。
チラッと紫苑を見ると、休憩時間にもかかわらず一人でコートを利用していた。自陣から放たれたボールがこれまた吸い込まれるように敵陣ゴールに入っていく。
その姿はとても輝いて見えた。
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