緋色の瞳
藤野 咲
第1話 夢
覚えているのは、青い瞳。
今でもはっきりと思い出せる。カーテンから一筋だけ差し込んだ日を受けて、煌めいた宝玉のようだった。
あんなに綺麗な瞳には今までも、いや、きっとこれからも出会うことはないのだろう。
あの時、よく見えぬぼんやりとした視界の中でそれをじっと見つめた。目が開くようになって、初めて見る世界だった。
初夏の、澄み切った青空のような双眸と目が合う。あの人はこちらへ向かってやわらかく笑いかけた、はずだった。
暫し見つめあった後、彼女の瞳には悚然とした光が宿った。追いかけるように切り裂くような悲鳴が上がる。
俄かに空中に放り出され、背中を強かに打ち付けた赤子は火がついたように泣き始めた。だが、そんなことは彼女にとって瑣末なことだっただろう。
突然の出来事に驚く侍女たちに構わず、部屋の隅へ逃げ出したあの人は譫言のように呟いたのだ。
____こんなはずではなかった、と。
青い瞳に、怯えと深い憎悪の色を湛えて。
◇
耳を覆いたくなる凄絶な泣き声が脳裏を貫いた瞬間、びくりと体が大きく震えたのがわかった。
冷たい涙で鼻筋が、顔をつけた布団が濡れている。無茶苦茶に拭い、身を起こして辺りを見回すものの、先程まで見ていたはずの光景は見当たらなかった。
何事もなく、自室は静まり返っている。
鮮明すぎる記憶は十年も昔の出来事のはずなのに、たった今自分が体験したかのように嫌な経験を何度も追体験させる。
再び涙が溢れだしそうになるのを堪え、ばくばくと苦しいくらいに脈打っている心臓を恨めしく思った。
迫り上がってきた吐き気をどうにか飲み込んで、時間をかけて呼吸を繰り返しているうちに激しい鼓動と不快な汗はおさまっていく。そうしてやっと、周りに目が向けられるようになった。
窓の外は月明かりに照らされているとはいえ薄暗かった。真夜中を少し過ぎた頃だろうか。
もう一度体を寝台に横たえるべきか悩んだ。しかし、眠気がそう簡単に戻ってくるとは思えない。運良く寝付けたとしても、同じように良くない夢を見て震えながら起きるような気がしてならなかった。
「ヴェルナー?」
小さく護衛役の名前を呼んでみる。
耳を澄ませたが応答する声はなかった。
音を立てずに寝台を滑り降り、廊下とつながる扉を押し開けると、外にはやはり誰もいないようだった。
幼い頃は、大泣きをして乳母の元へ駆け込んだものだ。
闇の中に凶暴な化け物か残忍な妖精か何かが潜んでいて、たちまち襲い掛かってくるのではないかと不安に思いながら、それでも広大な屋敷の廊下をひたすら走った。
ひどく取り乱して訪いも告げずに部屋に入り込んでも、乳母は咎めたりしなかった。ただやさしく、そっと抱きしめ返してくれる。そうして頭を撫でられているうちに、こわばりが解けていって、何もなかったように眠れるのだ。
でもいつの頃だったか、乳母の目に深い悲しみが宿っていると気づいてからは、どんなに怖くても縋り付くのはやめた。
やさしい彼女を傷つけるのは本意ではなかったからだ。
扉を閉じて部屋に戻ると、隅に置かれている箪笥から服を引き出した。
手早く着替え、隣に立てかけておいた木剣を引っ掴めば準備は済む。
おれはそっと部屋を抜け出した。
緋色の瞳 藤野 咲 @chirune1012
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