第2話 エンゾという男①
(1)
その穴は落ちたら最後、縄梯子でも下ろさなければ出られないくらいに深かった。
鬱蒼とした暗い森において、夏の間だけは彼らが住む小屋と薬草畑がある中心地はそれらを囲むリンデンバウムの花がいくらか華やぎを添えてくれている――、筈なのに。
黄色の花弁や先の尖った葉が明るい陽射しを浴び、瑞々しく輝く樹々の真下に、その穴はいつの間にか掘られていた。
深淵を覗き込むような、ある種の恐怖心に駆られながら穴を覗くやいなや、声にならない叫びを上げる。
両手に握り締めていた小枝を放り出し、穴の縁にすがりつくように乾いた地面に膝をつける。
元々色のない顔が更に白さを増していき、地面にぐっと食い込ませた指先が汚れ、爪に土が入り込んでいく。
あちこち引き裂かれ、乱れに乱れた着衣に付着した血液と体液。
手首から先を切断された両の腕。
舌を切り取られ、開いた口許から垣間見える真っ赤な咥内。
『お母さん……!』
全身を震わせ、肩まで不揃いに伸びた白い髪を振り乱して叫ぶ。
(シッ……!静かになさい……!!)
頭に流れ込んできた思念にハッとなり、慌てて口元を抑え込むと母に倣い、声を出す代わりに思念を送り返す。
(お母さん、お母さん……。どうしてお母さんが、こんな……、こんな酷い目に……??一体、誰の仕業なの!?)
(……王妃様、よ……。私と、国王陛下の仲を邪推して……)
(そんな……!お母さんは、この国やこの国の人々の幸福のために、国王陛下に協力していただけなのに……!!)
(……魔女が、国王の腹心扱いされるのが気に入らない者達が、謀った、のでしょう……。今すぐ、逃げなさい……)
(逃げるって、どこへ?!)
(この森を北西に突き抜ければ……、隣国との……、隣国オルレーヌの国境沿いへ……、辿り着く、でしょ……??)
(でも……!オルレーヌは敵国……)
(生き抜くために利用しなさい、そして)
『この先何が起きたとしても、必ず生き抜きなさい』
(2)
回転扉から最も遠いテーブル席で酔っ払い数名の怒声と野次が激しく飛び交っていた。
テーブルを挟んで揉み合って口論するせいで机上に散乱した安物のトランプカードがばらばら、ばらばらと床に落ちていく。
騒ぎは収まるどころかどんどん収拾がつかなくなる一方で、遂には男達の中で一番若く声の大きい者が――、ダガーを抜き出すまでに至ってしまった。
栗色の髪の、やけに目つきが座った青年だった。
青年は手にしたダガーをテーブルのど真ん中に、散乱したカードの一枚の上に突き立てた。
狙ったかのように
しかし、黙ったからと言って青年の憤怒の勢いは留まることを知らない。
青年は刺さったカードごとナイフを引き抜くと床に投げ捨てる。
今度は一体何をする気だ、と恐れ戦きテーブルからさっと距離を置いた男達、彼らを囲んで囃し立てる他の客達、青年を止めるべく慌ててカウンターから駆け寄ってくる店主――、全てを嘲笑うかのように、青年は立ち上がった時に引き倒した木製の丸椅子の座面を掴んで持ち上げた。
「んがるごごおうがるご※▲〇■*※●!!!!」
人間のものでもなければ獣のものですらもない、謎の咆哮が店内に響き渡った直後、丸椅子がそう高くない天井擦れ擦れの高さを保って投げ飛ばされた。
丸椅子は男達の頭上を越え、カウンター席を越えて最奥の酒棚へと勢い良く突っ込み、棚に並ぶ酒瓶の大半が床へと落下、悲鳴のような音を立てて次々と砕け散っていく。
床に流出したボルドーワインは板張りの茶色い床に赤い染みを形作っていく。
バキバキに砕けた丸椅子の残骸、瓶の硝子の破片、壊れた棚の木片が血だまりのような赤に沈んだ。
「エンゾ!!」
一部始終を成す術もなく呆然と見守るしかなかった店主は、我に返るなり青年を怒鳴りつけた。
激高の余りに顔色が赤を通り越し赤黒く染まっている。
胸ぐらを掴むなり殴るなりしてやりたいところだろうが、殴り返されるのを恐れて何もしないのは頭の片隅に一抹の冷静さは残っているらしい。
「オレは悪くなんかない」
「なんだと?!」
「悪いのは、カードでイカサマ働いたこいつらだし」
全く悪びれる様子もなくエンゾは人差し指を突き出し、同じテーブルを囲んでいた男達を順に指差していく。
すっかり酔いが醒めた男達は全員が全員彼の指先から目を逸らし、俯いていた。
「こいつらがさ、ちゃんと勝負してりゃオレだって怒りゃしねぇよ」
「お、お前ってやつは……!!だからって、うちの店で暴れるんじゃない!!あれじゃ商売あがったりだ!!どうしてくれるんだよ?!」
「あー、ごめん。せめて外出て暴れりゃ良かったかも……」
「そういうことじゃない!!おい!誰か!!自警団呼んできてくれ!!」
怒りを通り越し涙目で頭を抱える店主に、エンゾはまいったな……と苦笑いを浮かべた。
口が裂けても言ってはならないことなのは重々承知しているが――、それでも。
日頃の退屈しのぎになって楽しかった、というのが、彼の嘘偽りなき本心だった。
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