episode14 RedCyclamenPerfume
右手が温かい……。
柔らかく包み込んでくれている誰かの手の感触。
遠い意識の中で感じるその感覚には覚えがある。
あれは熱を出して休んでいた日。
美優がずっと傍で看病してくれていた。
おでこに貼り付けた冷たいシートの継続時間は8時間だから、傍にいなくていいと言っても聞かなくて。
「駄目だよ。急に苦しくなったり何か欲しくなった時、上手く声が出なかったり私が気づかなかったらどうするの?」
「熱はあるけど歩けないわけじゃないんだけど」
「倒れたくせに何言ってるの。黙って今は私の言う事聞いて」
いつもより強い口調で美優は傍にいると譲らなかった。
その真剣な瞳の奥に揺れる切なさに、沙奈は美優の過去を思う。
幼い頃、風邪をひいた時に美優の傍にはきっと、誰もいなかった。
熱が出て、上手く身体を動かせないうす暗い部屋で独りきり。
呼んでも誰も来てくれない。
そんな日を美優は幾度重ねてきたのだろう。
雷が鳴る度に。風邪を引く度に。一人きりで……。ずっと……。
「美優……」
沙奈はそっと抱き寄せる。
美優の寂しさを沙奈は少しでも埋められているのだろうか。
24時間365日。傍にいてあげられないままで。
「駄目だよ。熱が下がったらね」
そう言って美優は優しく身体を離す。
「誰かにうつすと風邪は早く治るらしんだけど?」
そんな軽口に「いいよ。沙奈の風邪なら全部私がもらってあげる」そう言って唇を重ねた。
「でも、もう少し沙奈の体力が戻ってからね」
子供を寝かしつけるみたいにポンポンと布団を叩きながら、美優は沙奈を寝かしつける。
「大丈夫。傍にいるからね」
その微笑みはもしかしたら、幼いころに自分に向けて欲しかったものなのかもしれない。
「私も……」
不意に込み上げる涙を隠す様に寝返りを打つ。
「美優の傍にいるよ」
外に出ていた右手を美優が両手で包みこむ。
「ずっと一緒」
「うん」
きゅっと握り返した手の温もり。
美優と出会ってから何度も決意しただろう。
彼女を全ての事柄から守ろう、と。
悲しみから遠ざけようと。
そう誓ってやってきたはずだったのに。
不安定な美優をなんとか安定させたくて、頑張って、頑張って、なんとか少しだけ安定してきたと思っていたのに。
人はそんなに簡単に変わらない。変われない。
過去に怯えてバランスを崩す事も含めて美優なのだ。
ならば沙奈も変わらずに美優を見つめ続ければいい。
まだそれが許されるのなら。
もう一度やり直せるなら。
美優の傍で。もう一度。
でも……。
沙奈は問う。
自分自身に。
美優の笑顔をこれからも守れるのか、と。
仕事はやめてしまった。
身体もまだ思うように動かない。
それでも。
全部自分で選んだ道だから。
愛した人だから。
愛している人だから。
ただ全力で愛していたい。それだけだから。
そのままの美優を。
+++
「沙奈?」
美優の声が鼓膜を揺らす。
鼻孔が消毒液と洗い立ての無駄に清潔なシーツの香りを感知する。
「う……」
右手が何かに包まれている感触。蛍光灯が眩しくて左腕で顔を覆った。
「美……優……?」
ゆっくり開いた目に、心配そうに覗き込む美優が映る。
痩せた頬や唇の端にガーゼが当てられ、手首にも包帯が巻かれていた。
「美優……怪我……ぅっ!」
起き上がろうとすると全身が鈍く痛んだ。
記憶が徐々に鮮明になっていく。
そう、美優と二人で落ちたのだ。
マンションの屋上から。
視線を周囲に巡らせる。三か月程見続けていた白い壁と天井、無機質な蛍光灯を隠した半透明なカバー。
薄いピンク色のカーテンに仕切られたその風景は、間違いなく病院のものだった。
「急に動いたらダメだよ。今、お医者さん呼ぶね」
そう言いながら美優が沙奈の頭上にあるコールボタンを押す。
「美優、怪我……」
「これは……違うよ。大丈夫」
落ちた時の怪我ではない、という意味だろう。
怒りと同時に後悔が心に滲む。
どうしてもっと早く美優を探さなかったのだろう。
そんな苦い思いを責める様に栞の顔が脳裏を横切る。
沙奈の罪。大切な人を同時に二人も傷つけた。
「沙奈はどう?身体、どこか痛いとこない?」
首を傾げる美優の姿が不意に涙で滲んだ。
「ごめ……美優……ごめん……」
左腕で目を押さえても流れる涙がこめかみを伝っていく。
沙奈の右手を包みこんでいた美優の両手の力がきゅっと強くなる。
「あ、謝らないで。私が、沙奈を怪我、させて、今度は私のせいで沙奈……は……」
違う。全部、沙奈の選択の結果でしかない。
そのせいで美優は怪我を負った。
それがミスでなくなんだというのだ。
栞を傷つけて、美優に怪我を負わせて……。
手当てを受けなければならない程に傷ついて尚、沙奈の心配をする美優にどう詫びればいい?
「ごめ……ん」
「聞いて」
涙をとめようとする沙奈の左腕を美優がそっとどける。
揺らぐ視界に映る美優の瞳に、再会した時にはなかった光が宿っている事に気づく。
「美優?」
「あの……あのね」
言葉を切って少し俯く美優の言葉を待ちながら、沙奈はゆっくり身体を起こした。
幸いどこも折れたりはしていないらしい。全身に鈍い痛みがあるだけでどこも酷く痛んだりはしなかった。
屋上から落ちたのに、どうして助かったのだろう……。
そんな疑問を置き去りに顔を上げた美優の言葉を待つ。
「沙奈は……許して……くれる?私の事」
許す?
それはこの半年の失踪が美優自身の意思だったという事だろうか。
それとも、また命を断とうとしたことへの謝罪……だろうか。
「美優は……」
「お邪魔します!お二人ともお身体大丈夫ですか~?」
口を開きかけた沙奈を遮って一人の女性がピンクのカーテンを開いた。
「お医者様、少し来るの遅れるそうです。あ!気が付いたんですね。良かったです」
洒落たショートの黒髪が美しく煌めく。
紅い口紅に色素の薄い瞳。どこか見覚えのある綺麗な女性が花束を持って入ってきた。
「美優さん。これお見舞いとお詫びを兼ねたお花です。受け取って頂けます?」
そう言って美優に笑顔で花束を渡す。
美優の名を口にした女性に、しかし美優は戸惑いを見せている。
恐らく美優も知らない人なのだろう。
出来るだけはっきりとした口調で沙奈は女性に話しかけた。
「失礼ですが貴女は……?」
「初めまして。私はニューヨークで弁護士をやっています、柳香と申します」
「ニューヨーク?」
話しが見えない沙奈とは裏腹に、美優が何か思いついたように小さく「あっ」と声を上げた。
「私の事、菜々美、何か話してました?」
どこか嬉しそうな期待のこもった目で話しかけられ、美優が少し身体を引いて首を振る。
「引き出しにとても古い手紙があったのを思い出して……その手紙の縁の模様、そういえばエアメールだなって思ったので……」
「菜々美ってば……まだ持ってるのなら連絡くらいしてくれればのに……。まぁしないでしょうけど。あれを世間では救いようのない……」
「ニューヨークの弁護士さんが私たちにどういった御用でしょう」
ほっとくと話し続けそうな香に沙奈はあえて割り込んだ。
彼女が菜々美の関係者なのは分かった。
ならば問題は、なんの為にここに来たのか。
沙奈が警戒するべきはその1点だ。
「木崎沙奈さん、ですね」
「はい」
「佐々木美優さん」
「え?は、はい」
「この度は杉原菜々美が大変なご迷惑をおかけしてしまいまして誠に申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げる彼女に美優が戸惑った視線を沙奈に向ける。
「本来ならば本人が出向き、謝罪するべきところですが、なにぶん菜々美自身も少々混乱しておりまして……」
「ちょっと、ちょっと待ってください」
謝罪されても話しが見えない。
目覚めて間もない沙奈の脳が状況を整理しようとフル回転する。
謝罪。
弁護士……美優の……怪我。
「まさか美優さんが屋上から身を投げるなんてあの子も思ってなかったんです。馬鹿でしょう?一度、死なせかけた相……」
ビクリと美優の身体が震える。
不安気にシーツを握りしめた美優の手に上に、沙奈はそっと自身の手を重ねた。
「何が言いたいんです?」
とても鋭くなっているだろう視線をそのまま香に向ける。
美優へ暴言を吐くのなら、看過できないしするつもりもない。
「あぁ、ごめんなさい。菜々美が話したわけじゃないの。私が知っていただけ」
見当違いの返事に無言で返す。
「貴女がその綺麗な身体を傷つけてしまった時、菜々美は変われるはずだった。でも、あの子の無意識がその道を拒んだ」
「だからなんの話しですか」
「美優さん。あの子は貴女に殺されたかった。だから、貴女に酷い事をしてしまった」
本当に申し訳なさそうな顔で香が美優を見つめる。
「あの子の馬鹿に、二度も付き合わせてしまった。本当にごめんなさい」
「あ、あの……どういう事ですか?」
おずおずと美優が問いかける。
「無意識なの。本人も気づいていないところで、死にたがっている困ったちゃんなのよ」
そう言いながら、香が美優の頬に触れようと手を伸ばす。
「自分自身さえも見失って……。もしかして貴女ならそんな気持ちに心当たり、ある?」
「気安く美優に触らないで」
沙奈の言葉に、身体を竦める美優の手前で香の手が止まる。
「ごめんなさい。でもどうか許してあげてほしいの。あの子がそうなってしまったのは、あの子の責任でもあるけれど、私のせいでもあるから」
悲し気に目を伏せて香は手を下ろした。
「美優さん。貴女に対する杉原菜々美の精神的な圧迫を有した監禁、暴行について訴えるつもりはありますか?」
戸惑った表情のまま美優が沙奈を見つめる。
ゆっくり瞬きをして、好きに返事をしていいと伝えると、やがて美優が小さく口を開いた。
「訴えるつもりはありません」
「もし貴女が望むなら、菜々美に正式に謝罪させるわ」
美優は静かに首を振る。
「菜々美……さんには、この半年、住まわせてもらいました。それだけで……」
「本当にいいの?」
頷く美優をしばらく見つめていた香が、小さく溜息をついた。
「……そんなだから、菜々美みたいな人間に利用されちゃうんですよ、貴女。慰謝料だって請求できるし、今までの仕返しをしようと思えば存分に可能だし土下座だって要求出来るのに」
「要求してほしいんですか?」
沙奈の言葉に「まさか」と肩を竦める。
「日本では私の弁護士資格は役に立たないの。法律自体もアメリカとは違うし。だから、許してもらえるようにこうして出向いた次第です」
「あの……半年分のお家賃とか生活費とかは……」
美優の言葉に香の瞳が大きく開く。驚いたらしい。
「まさか!万が一あのバカがそんな戯言を言ったとしても私が阻止しますから、安心してください」
力強く、むしろ美優を心配そうに見つめて香が力説している。
杉原菜々美の代理人を名乗る割に、時々ひどく本人をディスっている辺り、二人の関係性がいまいちよく分からない。
なぜ今まで姿を現さなかったのか。どうして今になって菜々美の前に現われたのか。
美優の反応からも初対面だと分かる。
と言う事は昔、美優と菜々美が付き合っていた頃、この女性は傍にいなかった可能性が高い。
勿論、菜々美が完璧に隠していたのなら、話しは別だけど。
「私は……」
ふと、沙奈に視線を合わせて香が微笑む。
「菜々美の最初の、そして最後の恋人なんです。不幸な事に」
その笑顔に心臓がドキリとなった。
沙奈は心の中の疑問を口にしていない。
なのに、この人は沙奈の疑問に答えた。
「あー……しゃべりすぎました。斎藤栞さんにも改めてお礼と口止めをお願いしなくてはならないので、私はそろそろ失礼します」
「栞……ちゃん?」
突然出て来た栞の名前に美優を見つめる。
「落ちた私たちを助けてくれたの、斎藤さんなの」
「警察には誰も行かなくていいように言い訳済です。お二人ともお医者様の了承が出次第、普通に帰って大丈夫ですよ。医療費はこちらで清算してありますから」
「え?あの……」
「それからこれはせめてものお詫びの証しです。和解金、という事で納めて頂けると助かります」
そう言って香は美優に小切手を手渡した。
「もし足りなければご連絡ください。しばらく日本にいますので連絡はこちらまで」
名刺と小切手を受け取ったまま、美優が困惑している。
「お金で解決しようって事?」
沙奈の言葉に香が微笑む。
「こちらに謝罪の意思があり誠意を見せた、という事実が必要……という建前もありますが、このお金は美優さんが持っていたはずのものですから」
その言葉に、沙奈は自分の勘違いに気づいた。
この女性は菜々美と美優の間に起きた事を穏便に済ませようとしているのだと思っていた。
あの小切手には、恐らく美優が菜々美の為に使ったり貸したりした金額に類似する数字かそれ以上の金額が書かれている。
菜々美と美優の間にあった貸し借りをこれで無しにしましょう。
だから
これで二人の関係は完全にお終いだと。
そう告げている。
菜々美を近づけない代わりに、貴女も近寄らないでね。
彼女は暗にそう言っているのだ。
「なるほど。確かに恋人ってわけね」
沙奈の呟きを無視して「あ、そうそう」と香が再び美優を見つめた。
「美優さん。貴女がやりたがっている事、成功しますよ。だから頑張って」
「え?」
「それでは、お時間ありがとうございました~。失礼します~」
言いたい事を言い終えて満足したのか、明るく手を振って香はカーテンの向こうに消えていった。
しばらくの沈黙。
「ここって何人部屋?」
沙奈の声に我に返った美優が答える。
「い、一応4人部屋。でも、2つは誰もいなくて、もう一人の人は今検査に行ってる、みたい」
誰もいないと承知で中々ディープな話しをしていたという事か。
まるで嵐のような、でも得体の知れない人。善人なのか悪人なのかもよくわからない。
出来ればあまりお近づきにはなりたくない。
見透かすような、どこか探るような目が心の底を冷たくする。
ただ、今回は彼女のおかげでスムーズに進んだ事もあったのかもしれない。
何より、美優のお金が戻ってきた事は喜ぶべき事だろう。
もし美優が一人で生きていく選択をした場合でも、お金はあるに越したことはないのだから。
再びの沈黙が室内を埋める。
呼んだはずの医者はまだ来ない。
何か言いたげで、それでいて言い出せない、そんな美優に沙奈は微笑みかける。
「彼女の部屋に住むのは、半年だけで終わり?」
美優は言った。半年分の家賃と生活費、と。
「あ、あの……ね……」
重ねていた手を美優が優しく握る。
「沙奈が……もし許してくれるなら……」
許すもなにもない。
美優は何も悪くないのだから。
「私……ね」
「うん」
「沙奈の傍にいて……いい?」
少し潤んだ瞳で小さく首を傾げる姿に一瞬理性を放棄しそうになる。
「私、ダメダメだけど頑張る。沙奈の為に頑張る、から。だから……」
「頑張らなくていい」
一生懸命言い募る美優の手を引き寄せ、細くなったその身体を抱き寄せる。
まだ沙奈の知らない香りをまとった美優は、それでも沙奈の良く知る美優に戻りつつある。背中に回された美優の手にそう感じながら沙奈は目を閉じた。
「傍にいてくれるだけでいい」
それ以上、何一つ。望んでいない。今までもこれからも。
「あ、甘やかさない……で」
「美優は……」
「え?」
「美優は許してくれる?私の事」
栞とキスをした事実は消えない。この半年の事も。
「私、この半年、斎藤さんと……」
「斎藤さんに聞いた」
沙奈の胸元からくぐもった声がする。
「……それでも、美優は許してくれるの?」
そう聞く沙奈の声が少しだけ震えた。
美優がそっと沙奈の胸元に顔を埋めたまま、小さく頷いた。
「私ね」
「ん?」
「沙奈が世界で一番、幸せになれるように頑張りたいって、そう思ったの」
「私は……美優が生きていてくれるだけで幸せだよ」
「もう!またそうやってすぐ甘やかすんだから」
少し怒った顔で美優が身体を離す。
「あー、今すぐキスしてくれたら、世界で一番幸せになれるんだけどな~」
「な、なにそれ!病院でそんな事するわけないでしょ!?」
「病院以外ならいいの?」
「そ、そりゃ、家なら……」
ごにょごにょと口ごもる。
ああ……。
懐かしい感覚に涙が出そうだった。
どう言えば美優がどう反応するか、分かる。
手のうちにあって、思うままに出来るのに、でも決して思った通りにはならない。
簡単で、単純で、でも繊細で、大胆で、予想外で。
目が離せなくて、手が離せなくて、心が離れない。
沙奈の、大好きな、美優。
「じゃあ仕方ない。家まで幸せは我慢するか」
「幸せって、私が言ってるのはそういう事じゃないーーっっ」
拗ねたように顔を伏せてジタバタと足を揺らす美優をそのまま優しく抱きしめる。
まじかに聞ける明るいその声が、反応が、温もりが、その全てが愛おしい。
「……おかえり、美優……」
言葉にすると少しだけ涙が出そうになった。
「ただいま、沙奈」
背中に回された美優の両手が力強く沙奈を抱きしめる。
お互いの存在を確かめ合い、それから視線を交わす。
瞳に宿る伝えきれない想いを重ねるように、そっと唇で触れ合った。
「木崎さん、ご気分とかどうですか?」
不意にカーテンを開けた看護師さんと目が合う。
「あ」
慌てて閉まるカーテンの向こうで医者らしい男性が「どうした」と聞いている声がする。
「あ、いえ、ちょっと着替えをなさってらしたので」
「そうか」
慌てて唇を離す美優の耳に小声で囁きかける。
「見られちゃったね」
「もう!沙奈の馬鹿」
耳まで赤くしながら美優がベットから離れる。
「木崎さん、もう大丈夫ですか?」
「はーい、どうぞ」
カーテン越しに聞こえる声に応えて美優を見る。
口元を押さえて医者に背を向ける美優の目は少しだけ恥ずかしそうに、それでも楽しそうに笑っていた。
+++
「はい、不良品ということで返品しています。次回の展示会には以前使用していたものを……はい、はい。では、明日……」
『体調悪い中すまない。助かったよ、斎藤』
「いいえ……失礼します」
スマホの電源を切り、栞は沙奈のマンションのリビングで一人、大きな溜息をついた。
ここに来る途中、最新型のお地蔵さんマスコットバルーンは返品してきた。
空気入れの不具合という事で再調整してくれるらしい。スタッフの話しでは検査段階では問題なく、同じ技術が使用されている同類の商品に動作不良は確認されていない。
初の初期動作不良。
「二人を助ける為の偶然……なんて……」
そんな事あるわけない。
恐らく、既に判明している欠陥なのだろう。
黙ったまま商売を続けている事を問うつもりはないが、今後この企業との付き合い方は考えた方がいいような気はする。
「さてと……」
すっかり茜色に染まった空から夕陽が差し込む。
天気はあれから回復し、今は雲も少ない。
明日はいい天気になるかもしれない。
そんな事を考えながら、私物の詰まったエコバックを肩にかける。
ベットのシーツを交換し、家全体に軽く掃除機をかけた。
この半年、栞がここで暮らしていた痕跡を消して、部屋を出る。
施錠し、沙奈から預かっていた鍵を一瞬見つめた。
複雑な心持ちで過ごしたこの半年の思い出がまた、栞の中で溢れていく。
でも、沙奈を残してここを一人で出た朝に比べると、ずっと落ち着いている自分に気が付いた。
僅かな間だけ目を閉じて、そっと鍵を握りしめる。そして、ドアについたポストの中に鍵を落とした。
まだほんの少しだけ胸が痛い。
二人の幸せを祈る自分がいる一方で、悲しみに暮れる自分もまた存在する。
どちらかが嘘という事はない。
どちらも栞の中にある。確かな今の気持ち。
ただ、それだけ。
「あ、いたいた~」
聞き覚えのある声に顔を上げると、駅からの道を夕日に照らされながら歩いてくる一人の女性が見えた。
つい数時間前に別れたばかりの杉原菜々美の知り合い。
確か名前は……
「柳……さん?」
「良かった。なんとなくこの駅周辺で会える気がしたんです」
そう言いながら、栞の前でにっこりと微笑む。
「渡し忘れたものがありましたので」
そう言って、長方形の紙を差し出した。
これは?
と聞く前に栞の手に紙を握らせ、肩を並べて歩き始める。
「さっき、病院に行ってきたんです」
手に握らされた紙を確認する前に、栞の視線が香の横顔を捉える。
「木崎さんの意識、戻っていましたよ」
栞と目を合わせると、少し香が微笑む。
「念のために精密検査を受ける必要はあるかもしれませんけど、すぐ退院できるみたいです」
「……そうですか」
元々、命に別状はないという話しではあったけれど、改めてホッと胸を撫でおろす。
香と共に駅へと向かいながら、何気に手元の紙を確認し栞は足を止めた。
「これ、なんですか?」
「小切手ですけど?」
「そうじゃなくて」
「迷惑料と口止め料、と捉えて頂けると助かります」
小切手には、栞の2カ月分の給料と同等の金額が記載されていた。
「もらう理由がありません」
「美優さんのしていた怪我の理由を追求するつもりはない、と?」
美優の顔には明らかに殴られたであろう傷があった事は栞も気づいていた。
見えない部分にも暴行の後があるかもしれないし、どんな扱いを受けていたのか、栞には今、それを受け止めるだけの余裕はない。
でも……。
「……美優さんはどれくらいの怪我を負ったんですか」
聞かなくてはならない。
自分がしでかした事の結末を。
「どうしても知りたい?」
香の言葉に一瞬、決意が揺らぐ。
「私のせい……なので……」
小切手を握ったまま微かに震える栞の手を、香がそっと包んだ。
「怪我をさせたのは菜々美であって、貴女じゃないでしょ」
栞は小さく首を振る。
「原因を作ったのは、私ですから」
顔を上げると香と目が合った。
色素の薄い瞳が栞をじっと見つめ、そのまま、ふわりと優しい腕が栞を抱きしめた。
「え……」
驚く栞を胸に抱いたまま、香はポンポンと子供をあやすように栞の背中を優しく叩く。
「貴女も苦労症なのね~」
しみじみと言われて、栞は返す言葉を探す。
それよりも、なぜ抱きしめられているのか理解できない。
確か今ニューヨークに住んでいると言っていた気がする。
このコミュニケーションは……アメリカンスタイル……??
「あ、あの……」
彼女の腕の中でもぞもぞと身体を動かすと、身体が離れ、綺麗な顔が間近に迫った。
「私は菜々美の味方をしなくちゃいけないの。だから、美優さんの怪我の詳細は教えられない」
少し悪戯めいた笑みが口元に浮かぶ。
「貴女がご本人に確認するなら、それを止める権利はないけど」
一瞬鋭くなった視線に栞が身体を離す。
この人は私たちの事情をどこまで知っているのだろうか。
栞が状況的に美優や沙奈に、もう簡単には質問出来ない事を知っての発言なのか?
いや、そもそもかなりデリケートな内容になる可能性が高い質問を出来るはずもない。
それを分かっていて、彼女はあえて言葉にしている。
「思ったより意地悪なんですね」
「私、びっくりするほど優しい人間だと思うけど?」
「そう……かもしれませんね」
彼女が口をつぐんでくれたおかげで、栞は美優の怪我についての詳細を聞かずに済んだ。
精神へのダメージの回避と言い訳を、彼女が与えてくれたのは間違いない。
「これは受け取れません」
小切手を香に返す。
「菜々美の暴行について黙るつもりはない、と?」
「沙奈さんや美優さんが私の証言を必要とした時、私は二人に協力するつもりです」
「美優さんは菜々美を訴えるつもりはないそうよ?」
「ならば、尚の事、これは必要ありません」
差し出した小切手を香は受け取ろうとしない。
真っ直ぐに栞を見つめるその綺麗な顔を見つめながら、栞はふと聞いて見たくなった。
「どうして杉原さんの為にここまでするんですか」
彼女の話しを8割方聞き流していた栞でも、香が杉原菜々美の同級生である事くらいは理解している。
付き合っていた事も。
でも、だからこそ、小切手のサインは杉原菜々美ではなく、柳香になっている事に疑問を感じざるを得ない。
菜々美本人が用意した小切手でも受け取る気はない。なら、今現在菜々美と付き合ってもいない柳香名義の小切手を受け取る理由はもっとない。
柳香という人間は、今回の騒動の完全に外側にいる。
それなのに、大金を払う理由が栞には分からない。
「どうして……」
栞の言葉に、一瞬だけ香の目が翳った。
「放っておけないから」
瞬きの間に元に戻った瞳で香は柔らかく微笑む。
「菜々美は恋愛ごっこのつもりかもしれないけど、それに付き合わされてお金や時間を使わされた相手にとってはいい迷惑でしかない。人の恨みって怖いのよ~」
両手を胸の前でプラプラと振っておどろおどろしく、それでも軽快に語る。
「こいつだけは絶対幸せになってほしくない、なんて小さな思いでも、積もり積もれば、それは確実に相手を蝕む呪いになる。おまけに菜々美の場合はその人数が果てしないから余計に。一人一人がちょっと深爪しちゃった程度のリスクで、ガッツリ将来真っ暗になっちゃう」
幸せになれない、呪い。
それを少しでも軽減したいのだと、彼女は笑う。
「お金もらって、あんな女のことはスッパリ忘れてもらえたなら、ウィンウィンなのよ。実際、今回私が日本に帰ってきたのも、あの子が過去の恋人に訴えられかけてたからだしね」
「訴訟……ですか?」
「そう。しかも連名での詐欺訴訟。日本で弁護士やってる友人が情報を掴んでね、教えてくれたの。私としては菜々美が自分で目を醒ますまで待つつもりだったんだけど、目に見える部分も、そうでない部分も、のんきな事言ってられなくなってきたってわけ」
「その人たちにもお金を渡したんですか?」
「ええ。慰謝料上乗せで。訴訟の話しはなくなったけど、大赤字よ」
それでも、菜々美にかかっている黒い想念を拭いさるには全然足りない。
「どれだけの人間に恨まれてるのか、本人に自覚はなくても、その影はしっかり影響するから。人の思念って本当に怖いのよ。貴女も充分気をつけてね。他人の感情を弄んじゃダメよ。愛情の類は特に!」
「え、あ、はい」
顔の前で人差し指を立て、大真面目な顔で迫る香りの勢いに押され、栞は頷いた。
「菜々美は……ニューヨークに連れて行くわ」
くるりと向きを変え、香が再び駅へと歩き出しながら、空を見上げてそう言った。
「もう放牧はやめる」
黙ってその横顔を見つめる栞にチラリと悪戯めいた視線を投げる。
「これ以上の散財したら私も破産しちゃうもの」
栞の手元に握られたままの小切手が風に僅かに揺れている。
「杉原さんが好きなんですね……」
栞の呟きに香が黙り込む。
「大嫌いにさせてくれなかった運命を、呪うしかないわね」
苦々しさを押し殺したような笑顔。
栞では届かない香の本心が僅かに顔をのぞかせる。
「いいお天気になりそうね~」
ん~と伸びをしながら歩く香に、そうですね、と答える。
真面目なのか、不真面目なのか、よくわからない不思議な人。
でも、栞は香とこうして話しながら歩く事がどうやら嫌いじゃないらしい。
「また会えたりしますか?」
「もう会わない方がいいと思うの。私たち」
まるで恋人同士の別れ話みたいな返事に吹きだす栞に、香は極上の笑顔で答える。
「貴女の幸せはちゃんと別のところにあるから。心配しないで」
ふわりともう一度、香が栞を抱きしめた。
「私を信じてくれた貴女の幸せを祈ってるわ」
囁く声に栞の体温が少し上がる。
「貴女もどうか……お幸せに」
背中に両手を回して、栞もハグを返す。
「私の幸せは遠いわよ~。どこかの誰かさんのせいでね」
身体を離し、軽いウィンクを残して香は一人、駅へと消えていく。
その後ろ姿を見ながら、栞はふと思う。
「私って、誰かに一途に恋してる人が好みのタイプ……だったりして……」
まぁ、それならそれでも構わない。
今度は栞に一途に恋してくれる誰かを好きになればいい。
2年後に訪れるらしい良い事。
早くその日が来るといい。
眉唾物の予言だけど、彼女がそう言うならきっとそうなる。
そんな気がするから。
+++
病院を出ると辺りはすっかり暗く、空には綺麗な月が浮かんでいた。
少し欠けたその月に、美優の記憶が重なる。
かつて、菜々美の裏切りを目の当たりにして引き裂いた首の傷。
今も消えずに残るその傷を負った後、一人で退院したあの夜もこんな風に月を見上げていた。
少し冷たい空気の中、たった一人。
傷ついた身体と心を抱えて、途方にくれたまま見つめた寂しい月。
でも今は……。
「すっかり晴れたみたいね」
振り向く先に、空を見上げながら大きく伸びをする沙奈がいた。
「そだね」
頷く美優の隣りに立ち、並んで歩き始める。
「お腹空いたぁ。美優は何が食べたい?」
今日中に脳の検査が出来るという事で、二人で順番にスキャンされたり、その他諸々の検査もあって、完全に食事をするタイミングを逃してしまっていた。
美優に関して言えば朝食を作ったにも関わらず、結局朝から何も食べていない。
沙奈の言葉に空腹を思い出したのか、お腹が小さく鳴った。
「あ……」
お腹に手を当てて、頬を赤らめる美優の手をそっと沙奈が握る。
時間が遅いせいか、広い病院の駐車場には幸い、人気はない。
「ふふ、早く行こう。美優のお腹と背中がくっついちゃう前に!」
そう言って手を繋いだまま走り出す沙奈に引かれて、美優も少し走る。が……。
「あ、ごめん。身体、どこか痛かったり……」
そう言って、沙奈はすぐに足を止めた。
「ううん。大丈夫」
「そう。なら、よかった」
繋いだままの手を大きく振りながら、沙奈はゆっくり、軽やかに足を進める。
「昔、二人で手を繋いで走ったね」
クスクスと楽しそうに沙奈が笑う。
「ねぇ、沙奈」
その横顔を見ながら、美優は不意に立ちどまる。
「どうして、あの時、手を離したの?」
病室で沙奈が目を醒ましたら聞こうと思っていた疑問。
柳香の訪問や検査で結局聞けずにいた事。
もし斎藤栞が来ていなければ、二人ともきっとあのまま……。
「ん?離してないよ?」
「屋上で、自分を支えていた手。離したでしょ?」
「あぁ……」
繋いだままの手を、もう一度きゅっと握って、沙奈が空を仰ぐ。
「もしかしたら、沙奈も一緒に死んじゃってた……かもしれないのに……」
灰色の空を背景に、美優へと落ちてくる沙奈の姿。
浮遊する身体を抱きしめられる温もり。と。絶望。
その刹那の瞬間を思い出すと美優の心の奥にスッと冷たい怖気が走る。
沙奈が死ぬ事を美優は望んでいない。
そんな事はずっと。今までに一度だって望んでいない。
「それでもいいって思ったの」
思ったよりもずっと明るい声で沙奈が応えた。
「美優がいなくなるくらいなら、それでもいいって思ったの」
「沙奈……」
月を見上げた角度のまま、美優に振り向いて沙奈が笑う。
「私ね」
数歩だけ進む沙奈に引かれて、美優もまた足を進める。
「私はもっと強い奴だって思ってたの」
少し俯いて、沙奈が続ける。
「でも、全然ダメだった」
立ち止まって、美優を見つめる。
「美優がいないと、全然ダメだった」
困ったように笑うその顔に、美優の心臓がドキリと鳴る。
「もっとかっこよく生きてるつもりだった。でも、びっくりするほどかっこ悪くて、そんな自分に自分でもガッカリでさ。ほんとダメダメだった。いっぱい傷つけて。最低だよね、本当」
「そんな事……」
「仕事もやめちゃってさ。美優に帰って来てなんて言っといて、実は今無職なんだよね。あ、でもすぐ次の仕事探すから美優はこれからも家にいて……」
「沙奈!」
言い募る沙奈に美優は抱き付いて、強くその身体を抱きしめた。
「ごめん……ごめんなさい」
「美優は何も悪くないでしょ」
沙奈の言葉に美優は首を振る。
このタイミングで職を失ったのは、絶対美優のせいなのに。美優のせいで何度も怪我をして、さっきも死にかけたのに。それでもこの人は美優の望みを叶えてくれようとしている。
外に出たくない美優の願いを。
こうして今、外を二人で歩いているのに。
「私、頑張る。頑張るから」
「さっきもそんな事、言ってたね」
「うん」
抱き付いたまま離れない美優の髪を沙奈が優しく撫でる。
「私、沙奈の為に頑張りたい。頑張りたいの」
「美優」
「今度は私に頑張らせて。ちゃんと沙奈を24時間365日閉じ込めてみせるから」
クスクスと沙奈が笑いながら美優の顎を軽く持ち上げる。
「目的は私の監禁なの?」
「ダメ?」
「いいよ」
そう言って、沙奈の唇が近づく。
「美優になら私の全部、あげる」
重なる懐かしい柔らかさに美優の意識が眩む。
「その代わり、ちゃんと私にも手伝わせてね」
再び手を握り、沙奈が手を引いて歩き出す。
「退職金だってあるし、お金は心配しなくて大丈夫だからね」
「わ、私だって今、お金持ちだもん!」
「それから、美優は私のものだから。そこ、間違わないで」
「な!私が沙奈を私のものにするんだよ!?絶対!一生!幸せにしてやるんだから!」
「あらあら、お手並み拝見ね。楽しみだわ~」
「沙奈!?ちょっと!信じてないでしょ!馬鹿にしてるでしょー!!!」
「してないしてない。全然してない。期待しかしてない」
「期待?」
軽口を口をしながら、振り返る沙奈の真剣な眼差しに美優は一瞬黙り込む。
ゆっくりと二人の足が止まる。
「美優は私を幸せにしてくれるんでしょ?」
「え?う、うん!」
「なら、私も美優を幸せにしてみせるよ」
「え……?」
「病める時も健やかなる時も。美優を幸せにするために、私はこれからも傍で生きていい?私を幸せにするために、美優は傍にいてくれる?」
沙奈の瞳がまっすぐに美優を見つめていた。
返事をしようと思うのに、上手言葉が出て来ない。
代わりに必死に頷く美優の頬を涙が零れ落ちていく。
「私は美優がいないとダメなの。一人で逝こうなんて二度としないで」
「ぅ……ん……」
それだけ絞り出すのが精いっぱいで。
「私ももう一人で逝かせたりしないけどね」
「なに、それ」
苦笑する美優に沙奈が悪戯っぽく凄む。
「貴女が死んだら、私も死んでやるから。覚悟しなさい」
「ええ!洒落にならない!ヤンデレなの!?」
現にさっき、実践してみせたばかりの脅しは、美優の心を縛り付ける。
沙奈はいつだって、言葉巧みに美優に首輪をつける。
そんな事を言われたらもう、美優は生きるしかない。
そう。
生きるしかない。
沙奈の為に。
「私が寿命で死んだらどうするつもりなの!?」
「せいぜい長生きしてね。私より1秒だけ長く」
「沙奈!」
美優を置いて歩き出す沙奈を追いかけて、その腕に絡みつく。
「卑怯だよ!そういうの!良くないと思う!」
「しょうがないでしょ。美優の事が死ぬほど好きなんだもん」
「な……っ!」
「あー、お腹すいたなぁ」
「沙奈!」
指を絡めて繋ぎ合い、月の照らす駐車場を後にする。
誰かに見られたかもしれない。
誰に見られていても構わない。
あの日の寂しい月の思い出がゆっくりと溶けて消えていく。
「沙奈」
「ん?」
何も答えず、美優はそっと沙奈に身体を寄せて小さく微笑んだ。
きっとこれから先、月を見上げて思い出すのは、この夜だと確信しながら。
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