episode13 To each tomorrow

菜々美の過去の恋愛において、恋人にしていた相手に決まったパートナーがいた事はあまりない。

たとえいたとしても、最終的には皆、菜々美だけのものになってくれたから。

菜々美の知らないところでもめ事はあったかもしれない。けれど、その影響は菜々美に嫌われる事を恐れた恋人たちによって菜々美自身の目の前に現れる事はなかった。

だから、こうして元恋人や現恋人にあたる人物が菜々美の前に現われる事はかなり珍しいことであり、菜々美にとっては興味深い現象といえる。

菜々美の中で膨らんでくる感情。それは嗜虐心?親切心?

だってもう美優は菜々美のものなのだから。

それを奪い返そうだなんて身の程知らずは、徹底的に分からせてあげなくてはいけない。

それが、優しさというものでしょ?



『episode13 To each tomorrow』



「すぐに片づけるね」

部屋に戻ると美優が机の上に用意されかけていた食器類を片付け始めた。

彼女の横を通り過ぎ、菜々美は机の奥へと腰掛ける。

「どうぞ」

自分の向かい側に手を差し出し、木崎沙奈に座るように促した。

「失礼します」

妙に丁寧な返答を返し、美優の元恋人は腰を降ろす。

シンプルでスッキリとした服装と薄めのメイク。

整った顔立ちはいかにも仕事の出来る女、という雰囲気を内包していた。

70点。

それが菜々美が木崎沙奈に付けた点数。

悪くないはない。仕事モードの美優と同レベルの高い水準ではあるけれど、菜々美と並べば誰も彼女の事など覚えていないだろう。

それほど菜々美は美しく、また自身もそれを自覚している。

起き抜けのすっぴんで彼女の前にいる事になんの躊躇いもない。

そもそも突然訪ねて来たのは向こうであり、こちらが気を使う要素は1ミリだってないけど。

「それで?今日はなんの御用でこちらに?」

優しい微笑みを浮かべて菜々美は一度言葉を切り

「美優はもう元恋人に興味ないと思いますけど……」

元、の部分を僅かに強調して言葉を続けた。

カシャリと美優がお盆に載せていた食器が僅かに鳴る。

顔を伏せたまま、美優が逃げるようにキッチンへと姿を消した。

ここに来たばかりの頃の錯乱状態の時、あんなに求めていた相手を前に、美優は木崎沙奈と目を合わす事さえ出来ないでいる。

そう、それだけ菜々美は美優に刻み込んだ。

自分という存在を。

二度と美優が彼女の元へと戻ることはない。

それなのにわざわざ迎えに来るなんて。

口元が緩むのを隠す為に菜々美はそっと右手で口元を隠した。

沈黙の中、美優が扉の向こうのキッチンで飲み物を用意している音が微かに聞こえる。

木崎沙奈は視線を机の上に落としたまま、何か思案しているような表情で沈黙している。

何度か深く目を閉じた後

「半年もの長い間、美優をお世話して頂きましてありがとうございます。もし、本人に戻る意思があるのなら、今日このまま自宅へと連れ帰りたいと思います」

そう切り出した。

「は?」

思わず出た声。嘲笑う響きが混じっているのが自分でも分かった。

「えっと……木崎さん?貴女なに言っているのか分かってる?」

「はい」

菜々美の言葉に強い瞳が応える。

本気なの?というより正気なの?

内心の嘲りが口元に滲む。

「ねぇ美優、聞いた?」

お盆に二人分のお茶を用意して戻って来た美優に話しかける。

「この人、貴女を連れて帰りたいみたいなんだけど、どうする?」

無言のまま、美優は机にお茶のグラスを置く。

「言っておきますけど、私は監禁なんてしてませんし、出入り自由なのは貴女も分かってますよね?」

「はい」

「だったら、美優がここにいるのは彼女の意思なんだって分かりませんか?彼女は貴女より私を愛しているんです」

グラスを置き、再びキッチンへ戻ろうとする美優の手を摑まえそのまま引き寄せた。

驚いた表情を浮かべる美優にそのまま口づける。

「んっ」

美優の小さな声が部屋に響く。

舌を差し入れ深く深く口づけを交わす。美優の唇は抵抗することなく菜々美を受け入れ湿った音が室内を満たしていく。

やがて菜々美が唇を離すと美優はそのままキッチンへと戻り、扉を閉めた。

「今ので身体が疼いてなきゃいいけど」

唇を舌で軽く舐めて菜々美は木崎沙奈を見据える。

「ご覧の通り、美優は私の恋人なんです。未練がましいにも程があるんじゃないですか?元、恋人さん?」

木崎沙奈は菜々美から目を反らさず、表情一つ変えない。

「美優と二人で話しをさせてもらえませんか?」

「説得なんて時間の無駄ですよ。ここから出ていかなかった事がそれを証明しているじゃありませんか」

「そうかもしれません」

「だったら」

「それでも」

木崎沙奈の瞳の中に宿る光は消えない。

濃厚なキスシーンを見せられて、目も合わせてもらえず、一緒に帰るとも言ってもらえない。

それなのに、折れないこの女の原動力はなんだ?図々しさはなんだ?

「貴女も分からない人ですね。今この瞬間さえ時間の無駄なんですよ。私は早く美優の作ったサンドイッチが食べたいんです」

美優はここに残る。

残るしかない。

この半年、いや美優が正気を取り戻してからの3か月、菜々美とどういう営みを紡いできたか、木崎沙奈に知られたくない美優が帰れるはずがない。

面識が出来た今、木崎沙奈に菜々美が接触するのは、会う前よりずっと容易くなった。

それは美優も分かっているはず。

美優が木崎沙奈を愛している限り、菜々美の元から離れる事はない。

他人を愛している女なんかに執着するなんて自分でもどうかしていると思う。

でも菜々美にとって重要なのは相手の気持ちではなく、自身の気持ち。

菜々美は多分、佐々木美優を愛しているから。

少なくとも手放したくないとは思っているから。

だから、誰にも渡すつもりはない。

それにどうせ美優もまた、菜々美だけを愛するようになるのだから。

「突然押しかけた事は申し訳ないと思っています。ですが……」

「お気持ちは分かりますが美優も混乱している様ですし、今日のところは帰って頂けませんか?後日改めて美優に連絡させますので」

そこで初めて木崎沙奈の視線が揺れた。

悔しそうな、苦しそうな、苦悩を感じさせるその瞳に菜々美の心が弾む。

「現実を受け入れるのはお辛いでしょうけど、私でよければいつでも力になりますので」

そう言って、美しく微笑んでみせた。

弱っていそうな女を堕とす時に使う極上の囁きと笑顔。

これで一体何人の人間を虜にしてきただろう。

木崎沙奈。もし貴女が私の恋人になったとしたら私に何を望む?どんな人間を演じてほしいと願う?

それを知るのも悪くないかもしれない。

僅かな興味が菜々美を刺激する。

「これ、私の連絡先です。何かあれば連絡してください。ちゃんと美優には伝えますので」

差し出した名刺をしばらく見つめ

「わかりました」

木崎沙奈はそう言った。

「美優、木崎さんが帰られるそうよ」

キッチンへと声を掛ける。が、扉の向こうから反応はない。

「美優?」

「美優!」

ぽかんとキッチンと部屋の間にある扉を見つめる菜々美を他所に木崎沙奈は素早く立ち上がると急いで扉を開けた。

そこに美優の姿はない。

「え?」

状況を理解できないでいる菜々美を置いて木崎沙奈は靴を履き、玄関から飛び出した。

「ちょっと」

彼女の後を追うように、菜々美も慌てて靴を履く。

一体、何をそんなに慌てているのか理解出来ない。

さっき買い損なったハムを買いに行っただけかもしれないのに。

玄関を出るとエレベーター横の階段を屋上へと駆け上っていく木崎沙奈が見えた。

その数階上、屋上に辿り着く寸前の場所に、美優の姿があった。

「は?」

状況を把握できないまま、菜々美も屋上に向かって歩き出した。


+++


「いやほんと急に声を掛けてしまってすみません」

綺麗な顔のその人はペラペラとよく喋った。

降りかけた雨はすぐに止んで、今は傘も必要ない。

栞は突然出会った謎の女性と肩を並べて、杉原菜々美のマンションに向かっていた。

途中で受け取った通称地蔵と呼ばれるマスコットはしわくちゃに圧縮された状態で袋に入れられ、コンパクトに栞の胸元に抱きしめられている。

最新技術を駆使して作られたわりに、雑な扱いを受けている地蔵が少し哀れだった。

「早退してからもお仕事なんて、日本の会社員は大変ですね。というより働きすぎでは?」

「はぁ」

彼女の言葉に曖昧に返事を返す。

栞の元に彼女を連れて来た冴えない探偵はとうにいない。

『案内ありがとう。彼女に会えたから盗撮の件は訴えないでいてあげる』

そう言って、彼女がさっさと追い払ってしまった。

それからずっと二人きり。

喋り続ける彼女に名前を聞くタイミングを逃した栞は、積極的に会話する気分にもなれず、ただぼんやりと彼女の話しに耳を傾け、足を前へと進めている。

「本当は一人で会いに行くつもりだったんですけど、同棲している人がいるところに乗り込むにはちょっと勇気がいるでしょ?向こうが二人ならこちらも二人の方が心強いですし」

話しの内容から察するにどうやら彼女は探偵ではないらしい。

杉原菜々美と関係がある人物なのは間違いなさそうだが、美優と同棲しているはずの彼女になぜ今会いに行くのか、なぜマンションを見張っていたのか、どれだけ彼女の話しを聞いていても核心部分が分からなかった。

というより、今の栞は見ず知らずの人間に起きている事象に構っていられる程、余裕のある心理状態ではない。彼女の正体も菜々美との関係も正直どうでもいい。

『一人になりたい』と訴える栞を引き留めたのは、彼女の一言だった。

『多分、一緒に来たほうがいいですよ。大切な人を失いたくないなら』

不穏な誘い文句を無視できるほどの気力が今の栞にあるはずもなく、無視したとして今日一日ずっともやもやしてしまうし、もし万が一、沙奈に何かあったらきっと一生後悔してしまうかもしれない。

そんな不安に押し切られ、栞は不本意ながら彼女の声に耳を傾けつつ、沙奈がいるであろう場所に向かっている。

「でね、彼女にズバっと言ってやったんです……って、私、少しうるさいですか?」

ハッとした様子で見つめる彼女に対して、栞は小さく首を振る。

「大丈夫です」

静かにされると、つい沙奈の事ばかり考えてしまう栞にとって、聞き流せる興味のない些末なお喋りは逆にありがたい。

「私、昔からとても勘が良くて。今日がすごく大切な日だとなんとなく分かっているだけに落ち着かなくて。すみません」

「いえいえ」

彼女の話しはおおかた、彼女自身と杉原菜々美についての事だった。

駅に辿り着き、空いた電車の座席に二人で腰を降ろすと、少し声のトーンを落として彼女は話し続けた。

「菜々美が美人で自信家なのは元々ですけど、複数の恋人を傍に置きたがるのは、一人になるのが怖いからなんです」

「はぁ」

ベランダにいる美優を見上げていた女性を思い出してみる。

一人を寂しがるような人物には見えなかったな、と思っていると、そんな栞を見透かしたように彼女が笑う。

「そんな風に見えないでしょ?強がってる事に気づいてないの」

「強がってる?」

「ええ。菜々美はずっと自分に嘘をついて、つき続けて、他人まで欺くようになってしまった。だから次から次へと恋人を捨てては作って、ずっと探してるの」

遠くを見つめる彼女の横顔に切なそうな表情が浮かぶ。

「自分でさえ気づいてないのよ」

僅かな沈黙の後、彼女は栞を見つめ哀しそうに笑った。

「愛されすぎた記憶は時に毒にもなるのね」

その言葉の意味が分からずに栞は黙ったまま、彼女を見つめ返していた。


+++


一歩、一歩、階段を上る。

以前ここを上った時にあった悲しみに似た虚しさは今はもうない。

沙奈は来てくれた。やぱっり探しに来てくれた。

ありがとう、沙奈。言えないままになりそうな言葉だけが胸から溢れてくる。

一緒に帰ろう。

優しい声。眼差し。

うん。

本当に。

一緒に帰れたら良かったのにね。

足を進める美優の前には、屋上への侵入を阻む白い鉄の扉。

掛けられた南京錠に触れると、それはあっさりと扉から外れ、地面に落ちた。

この鍵が機能していない事を美優は知っていた。

恐らく、点検の度に外すのが面倒になった管理担当者の怠慢。

美優が今日までこの鍵を外さずにいたのは、いられたのは、沙奈を待っていたから。

最後に、沙奈に会いたかったから。

その願いが果たされた今、美優がこの扉の向こう側へと行く事を阻むものはもうない。

扉を抜けて、最後の階段を上りきったその先は、貯水槽を備えた、よくテレビでみかける普通の屋上があった。

湿気を含んだぬるい風が美優の髪を淡く舞い上げる。

曇天の空は今にも雨が降りそうな程、厚い雲に覆われて灰色だった。

「私にぴったりなお天気」

少し微笑んで、美優はそのまま屋上の端まで進む。

エントランス側はさすがに大勢の人に迷惑がかかってしまいそうだったから、裏側の小庭になっている場所に面した側面を選ぶ。

人もあまり通らず隣のマンションからもコンクリートブロックの塀がある為、見えることはないだろう。

屋上の端にある15㎝程の段差の縁に立つと、いつもより遠くまで街を見渡す事が出来た。

ここは本当に綺麗じゃないなぁ。

緑の少ない都会の景色を綺麗だと感じた事はない。

かといって、緑豊かな土地に住んだ事も遊びに行った事すらない美優はこんな景色しか知らない。

でも、沙奈と暮らした家のベランダから見える景色だけは好きだった。

遠くに見える山の稜線。

朝日と夕日が、季節で色合いを変える並木道を照らすそれぞれの美しさ。

色が、匂いが折り重なって、その中に自分までも溶け込んでしまいそうな、そんな感じが好きだった。

そして何より

『美優』

部屋を振り返れば優しく呼んでくれる沙奈が好きだった。

「ごめんね、沙奈」

そう言って、美優は屋上を振り返る。

そこには息を切らして、今にも膝をつきそうになった沙奈の姿があった。

「美優、帰ろう。まだ間に合う。全部間に合うから」

沙奈の強い瞳。その横を汗が一筋伝うのが見えた。

……沙奈……。

最後に会えて良かった。

それだけでもう十分だから。

だって私は貴女を不幸にしてしまう。

傷つけてしまう。

『お前などいないほうがいいんだ』

心の声に、そうだね、と小さく返事をする。

もし私がいなかったら、沙奈は幸せになれた?

お父さんとお母さんはもっと幸せだった?

私がいなかったら……私は、幸せだったのかな?

「ごめんね、沙奈。ごめんなさい」

そっと唇に触れる指先に濡れた感触がして、美優は泣いている自分に気が付いた。

「最後のキスは沙奈が良かったな」

震える声でそう言って、美優は懸命に微笑んだ。

「美優!」

沙奈の悲鳴が聞こえる。

菜々美とキスしてるとこなんて、見られたくなかったよ……。

最後の後悔を胸に、ふわりと一歩、後ろへと、跳んだ。


何もない空間に一瞬だけ感じる無重力。


重力に引かれて落下を開始する直前。

空に舞い上がった自分の涙だけがキラキラと綺麗だった。


+++


息があがる。

まだ戻りきっていない体力と元々の運動不足と、療養による筋力の低下がまとめて襲い掛かってくる。

でも、心臓がドクドクと耳の奥に響く程にうるさいのは、それだけの理由じゃない。

上に向かって階段を上っていく美優の姿を見た時に、分かってしまったから。

乱れた呼吸のまま沙奈は美優を追う。

壁に手をつき、手すりに縋りながら辿り着いた最後の砦である鉄の扉は無残にも開け放たれていた。

先に進もうとする足が微かに震え、沙奈を引き留める。

美優に刺された時から、沙奈の中に一つの核心があった。

沙奈に謝るまで絶対に美優は死んだりしない、と。

でも、もしこの先で……。

急に沸き上がった恐怖が胸を締め付ける。

私はここに来てはいけなかったのかもしれない。

遅すぎる後悔を噛み締めて、沙奈は階段の上を見つめる。

コンクリートの壁。

その横から外の光が見える。

そこに、美優がいる。

美優が待っている。

まだだ。

そう、まだ終わってない。

自分を励まして、沙奈は最後の階段を上った。


+++


屋上は思ったよりも広々としていて霞んではいるもののビルやマンションの群れが遠くまで見えた。

周囲の景色も空も床のコンクリートも全てが灰色。

そんな中で一際目立つ白。

柵のない屋上の縁に立つ人影。

乱れた息を整えながら、よろける足で沙奈は美優へと近づく。

「ごめんね、沙奈」

沙奈の気配に気づいたらしい美優が、そう言って振り返った。

泣いている美優の顔が、そしてごめんねの言葉が、沙奈の心を締め付ける。

「美優、帰ろう。まだ間に合う。全部間に合うから」

あの日、栞にキスしてしまった自分の招いた結果。

それでも沙奈は僅かに手を伸ばす。

痩せた美優の頬、生気を失った瞳。

まだ諦めないでと願う思いが届かないと知りながら、諦められないただ一人に向かって一歩、足を進める。

「ごめんね、沙奈」

涙を流しながら、少し乾いた自身の唇を美優の骨ばった指先がなぞった。

嫌な予感が沙奈の全身を走り抜けていく。

「最後のキスは沙奈が良かったな」

「美優!」

声と同時に沙奈は走り出していた。

よれよれの足を必死に動かして、息を止め、歯を食いしばり、ギリギリのところで落下する美優の片手を掴み取る。

「うっ!」

急な重みに右肩がぎりりと悲鳴をあげた。

両膝と左手で重力に引きずられる美優と自分の身体を支える。

沙奈の右手と15cmのコンクリートの段差が美優の命綱だった。

美優の下に緑色の芝生と隣のビルとの境界線であろうコンクリートブロックの壁が見える。

超高層ビルではないにせよ10階建て以上のマンションの屋上からの落下。

助かる見込みは薄い。助かったとしても大けがを負うだろう。

「沙……奈……?」

どうして?と不思議そうに美優が沙奈を見つめる。

噴き出す汗に片目を閉じながら沙奈は声を絞り出す。

「一緒に帰ろう、美優」

「だめだよ、沙奈、離して」

僅かに首を振る美優に沙奈は逆に大きく首を振り返す。

「離さない!」

引き上げようと左手を突っ張り体重を後ろへと移動させようとする。

が、そうすると膝が滑って段差を乗り越えてしまいそうになる。

結局、どうする事も出来ずに、抜けそうな右肩の痛みに、沙奈は歯を食いしばり、耐えるしかない。

「お願い、離して、沙奈」

「嫌っ!」

言葉とは裏腹に汗で濡れた右手から美優の左手が少しずつ落ち始める。

そっと沙奈の右手に美優の右手が触れた。

「ありがとう、沙奈。大好きだよ」

上がってきてくれるのかと期待した沙奈の期待を裏切り、美優の右手はそっと沙奈の指にかかる。

その意味を理解した瞬間に沙奈の瞳から涙が溢れた。

「そんなに私と生きたくないの!?私の事、そんなに嫌いになったの!?」

叫ぶ沙奈の声に美優の手が止まる。

「傷つけた事なら謝る。反省もしてる。後一回のチャンスさえ私には許してくれないの?」

降り注ぐ沙奈の涙を受けながら、美優も泣きながら首を振った。

「違う、そうじゃない、私が……私は……」

「何が違うって言うのよ!」

滑り落ちて行く。美優の温もりが。また、沙奈の手から零れ落ちていく。

「美優!」

「沙奈……愛してる……」

美優の微笑み。

沙奈の中で美優と過ごした3年間と、そして、美優のいなかったこの半年の日々がフラッシュバックする。

『もし美優さんに振られたら、連絡してくださいね』

不意に栞の声が沙奈の中に響いた。最後に見た栞の泣き顔が頭をよぎる。

お互いの指が離れる寸前、沙奈は美優と自身を支えていた左手を離した。

ごめんね、栞。

支えを失った沙奈の身体は、段差を越えて美優と共にマンションの外側へと落ちて行く。

「沙奈!?」

驚愕に両目を見開く美優の温もりを味わうように強く抱きしめ、その耳元に唇を寄せる。

沢山言いたい言葉が頭の中を巡る。でも結局言葉に出来たのは

「愛してる」

ただ、それだけだった。

「……沙……奈」

美優の両手が沙奈の背中を抱きしめる。

目を閉じて何も見えない。

分かるのは落ちて行く感覚と、互いの温もり。

息遣い。

ぶつかる衝撃と共に僅かに開いた目に映ったのは、やっぱり灰色一色で。

僅かに香った、美優の大好きだったあの香水の香りを最後に、真っ暗な闇へと沙奈の意識は落ちていった。


+++


「あの、さっき愛されすぎたって言っていたのはどういう意味ですか?」

電車を降りてからも話し続ける女性に、栞は問いかけてみた。

大半は気に止めるほどもない内容の中で、そこだけがどうしてもひっかかっていた。

「うーん、なんて言ったらいいかな?」

話しを中断された事を気にする様子もなく、女性が僅かに首を傾ける。

綺麗な黒髪がさらりと揺れた。

「すっごく美味しいケーキがあったとして、それを横取りされたら許せなくない?」

「え?まぁ、横取りした相手にもよりますけど……」

「それが運命って奴だったら?」

「は?」

「理不尽だって思わない?」

「はぁ……それはまぁ……」

思ったよりぼんやりとした返答に栞は曖昧な返事を返す。

「菜々美の両親、二人とも事故で死んだの」

「え?」

突然、具体的な内容に栞は思わず足を止めた。

「駄目よ。多分時間がない。歩いて歩いて」

「あ、はい」

促されるままに再び歩き出す。

「菜々美のお父さんが運転していたセスナが墜落したの。同乗者は菜々美のお母さん」

「原因は……」

「分からず終いだって。機体の故障かもしれないし、運転者の操縦ミス、突風やその他トラブルの可能性もあるけど」

彼女は歩きながら、両手を上に向けて首を振った。

「一応、色々調査はされたみたいだけど、ブラックボックスにも何もなかったらしくてね」

遠くを見つめていた瞳が栞を見つめる。

「自殺だった可能性も否定出来ないんだってさ」

その瞳に奥に僅かに怒りが揺れていた。

「まったくさ、もしそうだったとしても娘にそんな事言う必要ある?お金払いたくない奴らの詭弁だわ」

歩く速度はそのままに彼女は再び前を見据えた。

「菜々美には両親の莫大な遺産が手に入ったけど、そんな物、彼女にとってはなんの価値もなかった。元々、菜々美は物に執着する、というか愛情を物で測ろうとする癖があったけど、わざわざ恋人関係になって振られる前に捨てる、なんて行動をとり始めたのは両親が亡くなった影響が大きいと私は踏んでる」

写真で見た菜々美のマンションが見えた。

「菜々美は両親と同等の愛情を探してる。無意識に失くしたものを取り戻そうと求めてる。でも、また失うのが怖いから自分から逃げるのよ。だから貴女のお友達が一度死にかけた時はさぞかし怖かったでしょうね」

「お友達?」

「佐々木美優さん。今、菜々美と一緒にいる女性よ。貴女、探していたんでしょ?」

「あの……貴女は一体……」

足を止めかける栞に、女性はその綺麗な指を斜め前方に向かって伸ばした。

「急いだほうがいいわ。大切な人を失いたくないなら」

彼女の指の先、菜々美のマンションの屋上の側面に人がぶら下がっているのが見えた。

「穴の空いたコンクリートブロック手前から三番目と四番目の間。さぁ、走って!」

彼女の言葉を聞き終わらない内に、栞は走り出していた。

屋上にいる人物が誰なのか分かったから。

「沙奈さん!!!!」

声を張り上げる。

反射的に胸元に抱えていたお地蔵さんの封を切っていた。

最新技術で最速で膨らむという自動高速吸入を売りにした最新モデル。

栞がマンションの真下に着いたのと、二人が落下したのはほぼ同時だった。

「お願い!」

祈りをこめて、圧縮されたお地蔵さんから延びている紐を引く。

みるみる膨らんでいくお地蔵さんバルーンを謎の女性に言われた場所に配置する。

膨らみ切ってしまったら、バルーンが二人を弾いてしまう。穴を空ける為の小枝を探す。

が、完全に膨らみ切る前にお地蔵さんは僅かに萎みだし、鈍い音と共に二人を受け止めてくれた。

「沙奈さん!」

全長10mを越える巨大マスコットはマンションの2階部分まで膨らみ、二人を包んだまましぼんでいく。

灰色のビニールをかき分けて栞は倒れた二人の元へと駆け寄った。


+++


一体……何が起きたの?

目の前で起こった出来事を上手く把握出来ずに、菜々美は一人、屋上に立ち尽くしていた。

さっきまで木崎沙奈がそこにいた。

身体を乗り出し何かを叫んでいたはずの彼女。

その先には恐らく美優がいた事は簡単に想像できる。

なのに、木崎沙奈の身体は滑り落ちるように、菜々美の視界から消えた。

木崎沙奈が落ちた。

それは美優もまた落下した事を意味していた。

「どう……して……」

そもそもどうして美優はここに来た?

菜々美から逃げればどうなるか、説明したのに?

まさか最初から木崎沙奈を道連れにするつもりで?

膝から力が抜け、菜々美はその場にへたり込んだ。

美優を自分のものにしたはずだった。

誰にも奪われないように。どこにも行かないように。

それなのに、どうして……。

誰もいなくなった屋上の端をぼんやりと見つめる。

『じゃあ行ってくるよ』

何も考えられなくなった脳がご丁寧にあの日の父の、そして母の姿をフラッシュバックさせる。

『本当に今回の旅行一緒に行かないの?絶対楽しいわよ~』

大きなスーツケースを手に笑顔で振り返る二人の姿。

『うん、たまには新婚気分で二人だけで行っておいでよ』

次の日に彼女とホテルで会う約束をしていた菜々美は、笑顔でそう応えた。

『さては、デート?』

『デート?菜々美、本当なのか!?』

『そんなんじゃないってば』

その頃、すでに複数人の恋人を持っていた菜々美は、慌てる父に思わず苦笑したのを覚えている。

昔、両親が生きていた頃。

沢山の恋人がいたけれど、みんな平等に愛せると思っていた。愛してくれると思っていた。菜々美さえ相手が望む姿を演じていれば。

必要に感じない相手の要求が煩わしくて別れることもあったけれど、それでも今よりもっと彼女たちの存在を大切にしていた気がする。

いつからだろう。

服を取り換えるように、飽きたアクセサリーを捨てるように、彼女たちを扱うようになったのは。

一時の快楽。一時の愉悦。部屋に溢れた対価の山。

輝く瞬間しかいらなかった。

捨てても次はすぐに手に入るもの。

大事にしたって意味ない。

どれだけ大切にしていたって……。

『いってらっしゃい』

そう言って何気に送り出した両親は二度と戻ってこなかった。

どれだけ愛したところで人はいなくなる。

なら、楽しい部分だけで手に入れて、煩わしい部分は切り捨てて。そんな生き方が悪いと誰が咎められるの?

変わりなんていくらでもいる。

誰かにこだわるなんて愚かな事だと知っていたのに。

「結局、こうなるんだね」

風が吹き抜けて、遠くの雑踏が菜々美の耳を打つ。

見上げた空は灰色で、本当に鬱陶しい。

「何ぼんやりしてるの?」

不意に聞こえた声に背後を振り返った菜々美は、そこに立っていた意外な人物に目を見開いた。

「どうして……」

「待っててもなかなか来ないんだもん。迎えにきちゃった」

そう言って笑う女性の知的な瞳。

艶やかな髪の色。

風が運ぶ香水の香りさえあの頃と同じで。

やなぎ……かおる

菜々美の瞳の奥に夕焼けに染まった教室が蘇る。

熱く交わされる視線。

僅かに触れ合った指先。

互いの指はやがて絡み合い。

重なる唇。

そして、最後に会ったホテルでの彼女の後ろ姿。

スカートのファスナーを上げながら、振り返った彼女の言葉。

ああ、そうだ、彼女はあの時……。

「言ったでしょ。私は待ってるって。だって貴女は私を愛してるもの」

現在と過去の彼女の台詞が重なる。

どうしても思い出せなかった言葉。

そう、菜々美は彼女に尋ねた。

もし私が突然いなくなったらどうする?と。

そして彼女は答えた。

待ってるわ、と。

だって、貴女は私を愛しているもの。

何を言っているんだろうと思った。

他にも恋人がいることを知っているであろう彼女の自信がどこから来るのか分からなくて、少しだけ不快だった気がする。

結婚の話しも面倒くさかった。

8年という最長記録もここで終わりだなと思ったし、実際あの直後、両親が亡くなり菜々美は香と会う事をやめた。

彼女だけじゃない、両親がいた頃に付き合っていた相手とは全て別れた。

だっておかしい。両親はもういないのに、どうして周りの景色はそのままなのか、菜々美には理解できなかった。

そのままなのはおかしい。

もう、二人はいないのに。

「欲しいものは手に入った?」

屋上にへたり込む菜々美に歩み寄り、香は菜々美に視線の高さを合わせた。

「落ちた二人は生きてるわよ」

「あ……」

そう言われて、初めて菜々美は落ちた二人について心配していなかった自分に気づいた。

「いつも貴女は自分の事で精一杯ね。こういう時は急いで救急車を呼ぶとかした方がいいと思うけど?」

こつん、とおでこをつつかれて、菜々美は慌てて記憶を辿る。

こんな時、彼女はどうすれば喜ぶんだったっけ?

どんな顔をすれば?怒ればいい?拗ねればいい?哀しそうに笑えばいい?

どの表情を浮かべる事の出来ない菜々美を、香はそっと抱きしめた。

「貴女の探しているものはこの世界にはもうない。貴女を包んでいた無償の愛はもう思い出の中にしか存在しない。でも、私がいる。だからそれで我慢して」

突然抱きしめられて混乱する菜々美の思考を無視して、何故か涙が零れた。

「私は、そのままの貴女が好き。嘘つきで空っぽで、めんどくさがりで、何が悲しいかもわからないまま、それでも懸命に自分の代わりに誰かを傷つけて生きてる、貴女が」

「その言い方、私がまるで最低な人間みたいじゃない」

「だって貴女、最低だもの」

罵られながら、菜々美は少しだけ笑っていた。

「相変わらず容赦ないね」

涙で濡れる頬を彼女の胸元に押し付ける。

「罰を求めるのは無意味だから」

「何を言ってるのか分からない」

「貴女が最低であろうとする理由」

彼女の言う事は昔から抽象的な事が多くて、よくわからない。

菜々美が何も答えずにいると彼女の手が菜々美の髪を香が優しく撫でた。

「分からないならそれでいい。でももう私の傍を離れないで」

顔を上げると、香の真剣な眼差しが菜々美を見つめていた。

深い瞳の奥にある優しさと厳しさ。

目を逸らして俯く。

「ニューヨークは住みやすいから心配しなくて大丈夫」

「私、別に貴女の事、愛してない」

「貴女がそう思ってるなら、今はまだそれでいいわ」

ああ……そうか……。

誰かと別れる時、深く傷つけた時、心の奥に僅かにあったその感覚の正体。

自分が他人に興味を持てない理由。

美優にこだわったのは彼女ならと、心のどこかで期待したからなのかもしれない。

彼女ならいつか、私を両親の元へと送り届けてくれるかもしれない、と。

楽しい時間だけが欲しかった。

罪の意識から逃れる為に。

愛してるふりをしていたかった。

自分が愛されていると理解する為に。

誰も大事にしたくなかった。

それでも愛される自分を自覚する為に。

一人になりたくなかった。

だから、捨てられる前に捨てて来た。

想いを残したまま取り残されるのは、もう二度とごめんだったから。

沢山の恋人。入れ替え可能なアクセサリー。

本当に欲しかったものは、お金でもブランド物のバックや財布なんかじゃなかったのかもしれない。

あの時。

両親を見送った最後の瞬間。

なぜ止めなかったのだろう。

菜々美を振り返り手を振る二人の姿が瞳の奥に焼き付いて離れない。

どうして。

どうして。

繰り返した疑問に答えはない。

ただ分かるのは自分が間違ったという事だけ。

「もう誰も傷つけないで。見知らぬ誰かも、貴女自身も」

頬を撫でるほんのり冷たい香の指先の感触。

彼女は昔からそうだった。

菜々美の全てを見透かして、賢者のような顔をして微笑む。

全てを教えてはくれないのに、そっと見守ってくれている。

それでも、逃げる事を許してはくれない。

「貴女の我儘に振り回される彼女たちが本当に気の毒で仕方ないわ」

「誰の味方なのよ」

「勿論、貴女」

重なる唇を菜々美は拒まなかった。

夕日に染まる教室で初めて交わした口づけ。

それは、孤立し人生で初めての挫折を味わった菜々美に安心をくれた。

そして今。

再び交わした数年ぶりの口づけもまた、空っぽだった菜々美の心に僅かな温もりを与えてくれているような。

そんな気がした。


+++


「沙奈さん!しっかりしてください!」

遠くで沙奈を呼ぶ悲痛な声がする。

「美優さん!」

ぼんやりした意識の中、自分の名前を呼ばれ美優はゆっくりと目を開けた。

覆いかぶさるような至近距離で心配そうに見下ろす女性。

半年ぶりに見るその人は以前に比べて随分と大人びた雰囲気を纏っている気がした。

そして

すぐ横に美優を庇うように抱きしめたまま、瞳を閉じ沙奈の姿。

「沙……奈……?」

声が上手く出ない。

軋む身体をなんとか動かしてゆっくりと伸ばした指先が沙奈の頬に触れる。

僅かにその瞼が痙攣した。

「沙奈……?」

沙奈は目を開けない。

ゆるゆると視線をマンションの屋上と沙奈、そして自分たちの周りに広がっている灰色の分厚いビニールへと移す。

まだ中に少し空気を内包したビニールが僅かに盛り上がっている。

これのおかげで助かった?

「……どうしてですか……」

状況をまだ上手く整理出来ない美優の耳に、怒りとも悲しみともつかない絞り出すような小さな声が聞こえた。

「どうして、沙奈さんは貴女の側にいるといつも傷ついてしまうんですかっっ!」

ゆっくりと身体を起こす美優を沙奈の後輩、斎藤栞が鋭く睨みつけていた。

「……」

何も言えずにただ美優は沙奈を見つめる。

言われなくても分かっている。

傍にいてはいけない事。

沙奈をいつも傷つけてしまう事。

僅かに開かれた沙奈の右手に残る掌の傷。

服に隠れて見えないけれど、腹部にも美優がつけてしまった傷があるはず。

美優が傍にいる限り沙奈は幸せになれない。

だからこそ、美優は逝こうとしたのに。

美優がいなくなれば全部丸く収まったのに。

どうして……。

浮かんでくる涙を押し戻して美優は栞に頭を下げた。

「沙奈の事、よろしくお願いします」

囁くように小さな声しか出なかったけど、きっと聞こえたはず。

そう。彼女がいれば沙奈はきっと大丈夫。

後輩は優秀だと沙奈は言ってた。

この人も沙奈の事が好きだと言っていた。

私が傍にいるよりも、この人の方が……。

「ふざけないで!!」

美優の思考を遮り、栞の両手が美優の胸倉を掴み引き寄せた。

間近に迫ったその瞳が僅かに潤んでいる。

「貴女じゃないとダメなんです!どうしてわからないんですか!!」

一喝されて反応出来ない美優から栞はゆっくり手を離す。

「私は……」

美優から視線を反らし、俯く栞は一度そこで言葉を切った。

「私は、貴女がいない間、沙奈さんの傍にいました」

少し苦し気なその告白に、美優の心が一瞬ズキリと痛む。

彼女がここにいる時点で分かっていた事なのに、何を傷つく事があるのだろう。

菜々美との日々を思えば、美優こそ沙奈に顔向けできないのに。

汚されきったこの身体を今更どう言い訳すればいいのか、美優には分からない。

「そう……ですか」

「だからこそ分かるんです」

俯いてそう応える美優に栞の強い言葉が被る。

視線を上げると、涙で潤んだ栞の瞳が美優を見つめていた。

「私じゃダメだって事」

一つ。雫が頬を伝う。

「私じゃ……ダメなんです……」

声が涙に詰まる。

悔しさを滲ませたその姿に美優はかける言葉を見つけられない。

しゃがんだ姿勢で膝に置かれた彼女の両手が、固く握りしめられたまま震える。

「沙奈さんはずっと貴女を想っていました。貴女に出会ってから……ずっと」

そっと瞳を閉じる栞の声が独り言のように響く。

「沙奈さんは優しい。だからこそ、あの時私にキスを……」

「もういいですよ」

今更美優に二人を責める権利などない。

「どうしてですか?どうして諦められるんですか!?貴女をこんなに想ってくれてる人を!あの時、沙奈さんが私に口づけしたのは、さよならの意味だった!私だってそのくらいの事分かってた!それでも……」

「諦められなかったんですね。沙奈の事」

涙に濡れながら栞は小さく頷いた。

それがあの日、栞が家に来た理由。

ならば、彼女こそ沙奈の傍にいるべき人ではないのだろうか。

「それでも、私じゃダメなんです」

涙を指先で拭い、栞は美優を真っ直ぐ見つめた。

「お願いです。沙奈さんを幸せにしてあげてください」

栞の言葉に美優の思考が停止する。

沙奈を幸せにする?

私……が?

今まで、沙奈が美優を幸せにしてくれていた。

そして、美優は沙奈を傷つけてばかりで。

それなのに、美優に沙奈を幸せにしろと目の前に人は言う。

沙奈を幸せに。

そんな事、私に出来るわけ……。

「貴女にしかきっと出来ないことだから」

驚きで目を開く美優に、栞が涙で濡れた瞳のまま微笑みかける。

「この世で貴女だけが出来る事だと思います。そして、私は誰より沙奈さんに幸せでいてほしいんです」

勝気な瞳が優しく揺れる。

美優は思う。

この人は今、どんな気持ちでこの言葉を口にしているのだろう。

初めて会った時の彼女の姿を思い出す。

きっと負ける事を良しとしない人。

その人が今、沙奈の為に恋敵である美優に頭を下げている。

それはどれほどの想いなのだろう。

美優はいつも自分の事ばかりで。自分が幸せになる事で精一杯で。

誰にも取られたくなくて。誰にも触らせたくなくて。

沙奈がいなくちゃ嫌なのに、裏切りにいつも怯えて。

「沙奈さんの事、もう、嫌いですか?」

その問いに頷けば、きっと沙奈は彼女と共に生きていく。

美優のいない世界で。

それなのに……。

不意に涙が美優の頬を伝う。

頷けばいい。

それだけの事が出来ない。

好きだと叫ぶ心の声が消えない。

もう諦めたと思っていたのに。

もう逝っていいと、全て終わらせていいと思ったのに。

『お前は弱いな』

そうだね。

心の声に頷く。

私は弱い。

自分さえ上手くコントロール出来なくて、あべこべで不安定で沢山迷惑をかけてきた。

沙奈の人生を狂わせて。

それでも

「私に……沙奈を幸せにする事が出来る?」

まだ間に合う?全部、全部謝るから。全部頑張って改善するから。

弱いここから、また頑張ってもいい?

まだ……生きてていい?

沙奈と一緒に……。

「貴女にしか出来ないと思ったからこそお願いしてるんです」

そっと美優の手に重ねられた栞の手を握り返して、美優は泣きながら頷く。

「頑張って……みます」

「はい。沙奈さんの事、よろしくお願いします。これ以上不幸にしたら今度こそ私が浚っていきますから」

彼女の言葉に顔をあげ、二人で泣きながら微笑み合う。

遠くから救急車のサイレンの音が近づいて来ていた。


+++



「行った?」

二人を乗せて去っていく救急車のテールランプを見つめたまま、ぼんやりとマンションの正面で佇む栞の背後から声がした。

振り返ると名も知らない例の彼女が栞の元に歩み寄ってくるところだった。

「二人とも命に別状はないそうです」

「そう。ちょっとはスッキリした?」

「え?まぁ……」

物知り顔で小首を傾げる彼女に曖昧な返事を返す。

「あの……警察は?」

マンションから人が落ちた、と栞が救急へと連絡した為、救急車の到着のすぐ後に警官を二人乗せたパトカーがやって来ていた。

「あぁ、それなら菜々美に任せておけば大丈夫。自分を守る為の嘘は息するより簡単につけるから」

「誉めてませんよね、それ」

「あら、褒めてるわよ?もう大絶賛」

ニッコリと極上の笑顔で笑う美人に栞は内心小さく溜息をついて歩き出す。

広がったままのお地蔵さんバルーンを回収、ついでに不良品として返品の手続きと上司への報告もしなくてはならない。

「信じてくれてありがとう」

お地蔵さんの空気を抜き、畳み始めた栞に彼女がそう言った。

「信じる?」

振り返り、彼女の視線を追うと隣のマンションと土地を分けるブロック塀へと辿り着いた。

穴の空いたコンクリートブロックの三番目と四番目の間。

彼女の指定した位置で膨らんだお地蔵さんは無事に二人を受け止めてくれた。

「信じるより何より、あの時はただ夢中で……こちらこそ、ありがとうございました」

ペコリと頭を下げると、名も知らないその人は嬉しそうに栞の隣りにしゃがみ込む。

「私ね、今までも結構色んな人に助言?忠告??みたいなのしてきたの。でも、信じてもらえない事の方が多くて」

彼女の言葉に、そうだろうな、と栞も思う。

もし栞が今の複雑な状況ではなく、平穏な日常の一コマで彼女に会っていたなら、その言葉をどこまで信じていただろう。

「あの……占い師とか霊能者とか、そういったご職業の方……なんですか?」

「うちの家系は代々こんな感じなの。私は違うけど母はアメリカで占い師をしてるわよ?」

こんな感じ……?

勘がいい、という事だろうか。

どんな力にせよ、妄言にせよ、そのおかげで栞は二人を助ける事が出来た。

「『運命』に二人を奪われなくて良かったです」

「うん。私ももう運命のせいで、誰かが壊れてしまうのを見たくなかったから」

そう言って少し目を伏せた彼女の憂いに、少しだけその素顔が見えた気がした。

「だから、信じてくれて本当にありがとう」

綺麗な顔に無邪気さを装ったこの人は、他の人間よりもずっと重い何かを背負っているのかもしれない。

彼女に出会っていなければどうなっていたのか。

そんな事を思うと少しだけ背筋が寒くなった。

「あ、そうそう!信じてくれお礼にいい事教えてあげる!」

お地蔵さんを畳み終え、胸に抱いたまま立ち上がる栞に突然彼女の顔が近づいた。

「2年後くらい……かな??多分それくらい。今の会社で頑張ってれば、いい事あるわよ」

「あるかも?ですか?」

「ううん。ある」

断定する彼女に自信に満ちた言葉に苦笑する。

それではまるで2年間はいい事が何もないみたいにも聞こえてしまう。

「貴女ならきっとその運命に辿り着けるはずだから」

「運命……ですか」

どうせなら、沙奈と二人で生きていく運命を用意しておいてほしかった。

美優さんなんて現れない、そんな未来。

けれど、もし美優さんがいなければ、果たして栞は沙奈に想いを伝えていただろうか。

ただ有能なだけの部下として……退職するまで、そのままだったかもしれない。

沙奈と過ごしたこの半年。

幸せで、苦しかった日々。

色々間違ってしまった結果だったけれど、それでもいつか良い思い出になってくれるだろうか。

良い経験として思い出せるだろうか。

間違ったけど幸せだったと、言える日が来るだろうか。

沙奈と分かち合った温もりを、美優と強く握り合った手の温もりを、心の中で抱きしめる。

もし運命がこの世にあるのだとしたら、運命に願おう。

どうかあの二人がいつまでも幸せでありますように、と。



episode13 fin


next episode14

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