episode12  Longs for you

「斎藤、今日早退するらしいな」

デスクでパソコンの画面を見つめ、緩やかに動かしていた手を栞は止めた。

「はい、すみません。なんだか体調がすぐれなくて……」

すぐれないのは正直体調ではない。

美優さんが見つかってホッとしている。

沙奈さんには迎えに行ってほしい。

二人が幸せにまた暮らしていけるなら、それで少しは栞のしでかした失態も許される気がする。

でも……。

その未来に、栞はいない。

二人の未来に栞の存在は必要ないのだ。

分かっていた事。

覚悟していた事。

それなのに。

いざその時になって、栞の心はどうしようもなく沈んでしまっていた。

美優の元へと向かう沙奈を見送りたくなくて、栞は先に家を出た。

最後に強く強く沙奈を抱きしめて。最後の口づけを交わした後、振り返らずにそのまま。

そうしなければ……縋りついてしまいそうだったから。

駅までの道で零れる涙をなんとか止めて、会社につくまでに気持ちは落ち着いたはずだった。

それなのに。

心が。

泣きだそうとするのをやめない。

この恋の終わりを悲しむ事を諦めてくれない。

この半年、充分幸せだった。

だから悲しみたくない。これ以上。だから。

なんとか踏ん張って仕事を進めてはみたけれど、結局何も手につかないし、何も考えられなかった。

ただ……胸が苦しくて。溢れそうになる涙を押し戻す事に必死で。

ミスをして皆に迷惑をかけるくらいなら早退してしまおうと栞は早々に決めて、チーフへと報告していた。

きっとまだ帰ってきていないであろう沙奈の家から栞の荷物を引き上げてしまおう。

歯ブラシやパジャマ等日常で使用するものを、あの家に置きっぱなしにしてしまっている。

沙奈は言った。「貴女がずっと一緒だった事を隠すつもりはないから」と。

それでも、あの写真の様子からこれ以上美優に精神的なダメージを与える事を栞はいい事だとは思えなかった。

それほどまでに写真の中の美優は怯え、疲弊し、やつれていた。

今にも……壊れてしまいそうな程に。

(そういえば美優さん以外の人が映っていた写真が一枚あったっけ?)

報告書には『別社探偵がいる模様』と注意書きがされ、菜々美のマンションを見つめる見知らぬ女性の写真も同封されていた。

正直、美優の写真の衝撃が大きすぎて完全にスルーしてしまったけれど、一体だれが雇った探偵なのか、目的はなんなのか全て謎のままだった。

沙奈はその女性の事を認識出来ているだろうか。危険はないだろうか。

突然降って湧いた疑問に胸騒ぎがする。

(そろそろ沙奈さん、マンションに着いてるかな?)

そう思って時計を見上げたその瞬間に部長に声を掛けられてしまった。

「具合が悪いなら昼からと言わず今から帰ってもいいぞ。ただ地蔵だけ受け取っておいてくれ」

野太い声が不機嫌に命令する。

『地蔵』は次の展示会で使うマスコット。

確か最新の技術が使われているとかなんとか。

「帰り道だったよな?」

「はい」

栞の家に帰るならば、業者は帰り道にある。だが残念な事に沙奈の家に帰るならば逆方向になってしまう。

「わかりました。受け取って明日倉庫に入れておきます」

「頼んだ」

「はい」

断って部長の機嫌を損ねてもいい事はない。

この早退の承認をもらう為に、体調管理についての責任や忙しい時期の連帯感、個人的な不快感にいたるまで、部長の長たらしい文句チーフが聞くことになってしまった。

「チーフ」

先ほどの会話を聞いていたであろう上司に声をかける。

「気をつけてな」

「ご迷惑をおかけしてすみません」

「いいよ。仕事で挽回でしてくれ」

「はい。失礼します」

元々、沙奈とは別チームで活動していた彼もまた優秀で優しい上司には違いない。

でもそこに座っていてほしい人は彼ではない。

そしてきっともうそこには座ってくれない、座らせてもらえないだろう人を栞は想った。


+++


時計の針の音だけが部屋の中に響いている。

外はとっくに明るくなっているのに、カーテンの閉め切られた部屋は今だ薄暗く、時間の感覚を失わせていく。

「ん……んん……」

「起きた?朝ごはん、あるよ」

目を醒ました菜々美に声を掛け、立ち上がろうとする美優を菜々美の腕が捕まえ、引き寄せた。

「ご飯なにー?」

「玉子焼きと焼き魚」

寝ぼけまなこな菜々美に抱きしめられながら、美優はぼんやり答える。

触れられても嬉しくない、なんてことがあるなんて菜々美は思ってもいないのかもしれない。

ずっと、子供の頃からずっと、多くの人に愛されてきた人だから。

欲しいものを手に入れて来た人だから。

「サンドイッチが食べたい。ハムと玉子のミックス」

「ハムがないよ」

「コンビニってハム売ってるよね」

菜々美の言葉に美優が身体を起こす。

「買ってくる」

「あんまり無駄遣いしないでね、明後日から仕事に戻るけど給料は無限じゃないんだからさ」

「もうスーパー開いてる時間だから、そっち行ってくる。スーパーの方が安いし」

「お腹空いてるから早くしてね」

「うん」

菜々美の我儘は何も今に始まった事じゃない。

昔も自分の都合で散々美優を振り回して、悪びれもせずに言うのだ。

『良かった!今日も美優に会えて』と。

そう言いながら自分からは欲しい物が手に入る時にしか近づかない。

菜々美が求める物がない状態で、美優が会いたい時。

どんなに頼んでも会ってくれた事は一度もなかった。

全部自分の都合。

自分の思うまま。

欲しい物を求めてひらひらと飛び回る蝶。

それが菜々美。

だから美優への執着もそう長くは続かないだろう。

時がくればあっさり捨ててくれる。

飽きた玩具を足蹴にする子供のように。

そうしたらもう沙奈に危険が及ぶ事もない。

この生活は永遠には続かない。

そう思いながら、菜々美の財布を取り出す為に乱雑に小物が詰め込まれた引き出しを開けた。

(あれ?)

ごちゃごちゃと小物が詰め込まれたその一番下に一通の手紙がある事に気が付いた。

随分と古い物らしい。

封筒は擦り切れて変色してしまっている。

「どうかした?」

動きを止めた美優に菜々美が声を掛けてきた。

「ううん、なんでもない。いってきます」

「んー」

シンプルな部屋。

何もないといえるくらいすっきりと過去の物を処分している感じのある部屋の中で、あの手紙だけが異質だった。

今まで何度かあの引き出しを開ける事はあったけれど、特に興味もなかったから気づかなかった。

かなり古い物のようだったから、両親からの手紙かもしれないし、もしかしたら恋人たちの誰かからの物かもしれない。

ただあの縁取りは確か……。

「美優」

思考を止めるに充分すぎる程、懐かしい声が美優を背後から呼び止めた。

ずっと聞きたかった声。

ずっと謝りたかった人。

ずっと守りたい人。

全てを引き換えに今も守っているのに。

どうして貴女は現れてしまうのだろう。

どうして心はこんなに乱れてしまうのだろう。

貴女が幸せになる為に私は傍にいてはいけないのに。

どうしてその声を聴くだけで涙が出てしまいそうになるのだろう。

どうして

心は

貴女を求めてしまうのだろう。


どうして


「……沙奈」


どうしようもなく


「美優……」


ただ貴女を愛していると心は叫ぶのだろう。


+++


曇った空と景色が電車の速度に合わせて一定のリズムで視界の中を流れていく。

通勤ラッシュから少しズレただけで車内の人影はまばらになる。

いつも何気なく見つめていた風景。

毎朝、毎夕、見つめ続けた風景もいざもうその必要もなくなるのかもしれないと思うと感慨深く感じてしまう。

そんな事を思いながら沙奈は一人、美優がいるはずのマンションを目指していた。

休職してから半年。

手当の終了が近づくにつれ、会社からは復職についての連絡が幾度も入っていた。

けれど、部長から送られてくるメールの内容は、決して快いものではなかった。

復職を完全に否定してはいないものの、どこか微妙な空気が文章の隙間から滲んでいる。

休職直前、チームから外された事も含め、会社にとって今や沙奈は将来有望な使える人材ではなくなり、厄介なお荷物として認識されてしまっているようだった。

長年に渡る献身も努力も、たった数年の、それも業務外でのつまらない飲み会や無駄な残業を拒絶した事で無に帰したらしい。

休日に開かれる展示会については、サブとして支えてくれていた栞を始めとするチームの仲間に当日の運営を任せても大丈夫だと思っていたし、実際問題なかった。

だが、沙奈のそういった行動を会社側は良しとしなかった。

加えて、美優の情緒の乱れから早退が増え、心象はますます悪くなる。

社内での立場が悪くなっていく。それは分かっていたけれど、それ以上に沙奈にとって美優の存在の方が大事だった。

会社は沙奈がいなくても存在していく。

でも美優は?

沙奈が傍にいなければ壊れてしまいそうな美優から沙奈はどうしても目が離せなかった。

美優は言う。

貴女を閉じ込めて私だけのものにしたい、と。

24時間365日監禁していたいのだと。

その度に沙奈は微笑んでその願望を遮ってきた。

生活する為の金銭は現実的にどうしても必要だったから。

身体は毎日、美優から離れ労働に勤しむ。

けれど、心は?

流れていく風景を見つめながら、沙奈は自嘲気味に誰にも気づかれない程度に僅かに笑った。

そう、沙奈の心は、初めて出会ったあの日。

美優に手を引かれ、二人で街を駆け抜けたあの日にとっくに囚われていたのだ。

身体はあの緑色に染められた部屋から自由になった。

でも心は今でも美優という存在に監禁されたまま。

24時間365日。

美優を想わない日はない。

頭の片隅に、心の片隅にずっと美優がいた。

『ねぇ、沙奈~、この香りどう思う?』

沙奈の太腿に頭を乗せ寝転んだまま、美優が手首を差し出す。

今はもう懐かしい日常。

『ん?』

仕事をしている手を止めずに、鼻先だけを美優の手首に近づけると、そのまま鼻に手首が激突した。

『イタ!』

『もう!仕事ばっかりで今日は私に構ってくれない~!』

癇癪を起しかけている恋人に視線を落とし、その髪を優しく撫でる。

『もう少しいい子にしててくれたら、いっぱい可愛がってあげる』

『んー、私が可愛がるの!』

そう言って、美優が沙奈の腹部へ唇を押し付ける。

『あ、こら!くすぐったい!ちょっ!』

手でお腹をガードすると、嬉しそうに美優が顔を上げた。

『ここ弱いんだ?』

『弱くない。くすぐったいだけ』

『弱くないならちょっとぺろぺろさせて?』

『ダーメ。仕事が終わるまで待って』

『やだ』

沙奈の腰を寝ころんだまま抱きしめて、美優がおへその辺りをこちょこちょと舌でくすぐる。

『ちょっ!うふふ』

くすぐったさの奥に潜む官能に身体が反応しそうになるのを感じて、沙奈が身体をねじると、美優の頭が太腿からラグの上に落ちた。

『うー、酷いよ沙奈~』

『酷い、じゃない!この悪戯っ子めっ』

ラグの上に横たわる美優に覆いかぶさり、手首を押さえる。

そのまま首筋に口づけると美優の身体がビクリと揺れた。

『悪戯っ子にはお仕置きしないとね』

耳元に囁く声に、美優が弱々しく声を出す。

『ダメだよ、私が沙奈を可愛がるんだから』

そう言いながら、その瞳は早くとその先の愛撫をねだる。

『ふーん、やってみれば?』

高く、断続的に美優から放たれる甘い声。

沙奈の唇に、手に、指に、美優はただ溶けていく。

支配するといいながら本質的には支配されたがっている美優が沙奈に敵うはずもない。

他愛ない日々。愛すべき日常。

いつもいつも。

この3年の間。

生活の、そして仕事のスタンスを変えてしまう程、沙奈の中心には美優がいた。

「次の停車駅は……」

電車のアナウンスが沙奈の降りるべき駅名を告げる。

これから先、どんな未来が待ち受けているのかは分からない。

たとえどんな結果になったとしても、一から出直そう。

そう決めて、沙奈は家を出る前、部長へとメールを返信し、会社宛てに用意した一通の書類をポストに投函してきた。

栞が知ったら悲しむだろうか。

いや、感のいい栞の事だから、きっとこの事態は予測しているだろう。

ずっと沙奈を支えてくれた優秀な部下。

彼女の好意に甘えて、最後まで傷つける事しか出来なかった事実が、心に痛い。

泣きながら、でも振り返らずに自分の腕の中からすり抜けて行った後ろ姿を思い出す。

離れていく腕の温もりの残像が、ごめんでは足りないほどの罪悪感を伴って胸を締め付ける。

どうすれば良かった?

どうすれば誰も傷つけず、傷つかずに済んだ?

私は……私たちはどうすれば良かったの?

この半年、問いかけ続けた疑問の答えは今も見つからない。

流れる街の風景。

その移り変わりが緩慢になっていく。

電車はゆっくりと速度を落とし、やがて止まった。

沙奈以外、席を立つ人はいなかった。

扉が開くと同時に沙奈は駅のホームへと踏み出す。

空は曇ったまま、晴れる事もなければ雨になる様子もない。

沙奈の未来もまた、この曇天のように行く末がわからないまま地図に示された場所へと進んで行く。

スマホの矢印が示すビルへと差し掛かった時、沙奈は足を止めた。

心臓がドキリと大きく一つ脈打つと、その速度を早めていく。

服の上からも痩せたと分かる身体、疲れた表情とやつれていた雰囲気を隠しきれていないその顔に化粧の気配はない。

ただ下ろされ、手入れがろくにされていないと一目で分かる髪からはウェーブが消えていた。

かつてクールビューティと沙奈に言わしめたオーラも、家にいた頃の明るさも消え失せて、もはや別人となり果てた美優が、そこにはいた。

「美優……」

財布を片手に、美優が好みそうにない簡易な服装で街を歩くその人は、けれども間違いなく沙奈が愛した佐々木美優に間違いなかった。

「沙奈」

半年ぶりに聞く声が僅かに震えていた。

沙奈を見つめる瞳が驚きで動きを止めている。

最初に会ったらなんて声をかけよう。何から謝ろう。何を聞こう。何を話そう。

そんな事を色々と考えていたはずなのに

「美優」

沙奈の身体は反射的にただ美優を抱きしめていた。

「沙……奈……」

抱きしめた美優の身体は一回り縮んでいた。痩せて少し骨ばった美優は今すぐにも砕けてしまいそうなくらい儚げだった。

身体を離してよく見れば、唇の端に僅かに切れた後。

そして、その首筋には……赤紫に変色した残花。

誰が付けたのか疑問に思う必要はなかった。

元気だった?とか、今時間ある?とか穏便に次に繋げるべき言葉は沢山あった。

でも沙奈の口から出たのは

「一緒に帰ろう」

それだけだった。


+++


シクラメンの香りがする。

抱きしめられた美優の鼻先にある沙奈の首筋から、微かに香る芳香。

沙奈の傍にいた時、身に纏っていた香り。

懐かしい、大好きな香り。

「沙……奈……」

瞳を閉じて、その香りに身を委ねてしまいたくなる。

そう出来たならどんなに良かっただろう。

そっと身体を離す沙奈の瞳には僅かに涙が滲んでいた。

「一緒に帰ろう」

優しい声が耳に響く。

無事で良かったという思いと、会いに来てくれた喜びと、今は一緒に行けない悲しさが胸の中でごちゃまぜになって、言葉が喉の奥から出てこない。

「あ……」

溢れてくる涙を止められない。頷く事すら難しくて。

そっと沙奈の指先が美優の唇の端を哀しそうに撫でた。

「私の事、嫌いになった?」

必死に首を横に振ったつもりの動きはとても小さくて。

「傷つけてごめん」

美優が口にするはずの言葉を沙奈が綴る。

「ごめんなさい」

声が出ない。

涙だけが零れて。

「すぐに許さなくていい。これからの事もゆっくり決めていい。でも」

一度言葉を切り、沙奈の瞳が再度まっすぐ美優を見つめる。

「今はとりあず一緒に帰ろう」

強い瞳。

何かを決意した時、沙奈はいつもこんな目をしていた。

外に出なくてもいいと言ってくれた時も、一緒に暮らすと決まった時も。

美優の過去を知り、優しく抱きしめてくれた時も。

「わ、わた……し……」

喉の奥からなんとか絞り出した声は、みっともないくらい震えていた。

沙奈と帰る事が出来たなら、どんなに良かっただろう。

どうしてあの日、菜々美と再度出会ってしまったのか。

もし菜々美が現れなければ、もう少し冷静でいられただろうか。

沙奈を傷つけずに済んだだろうか。

もっとちゃんと話し合えただろうか。

どうしてあの時、菜々美の車に乗ってしまったのだろう。

菜々美がどんな人間か知っていたはずなのに。

数か月程、記憶がないなんて沙奈にどう説明すればいい?

そっと無事を確かめて、それで全てを終わりにするはずだったのに、今ここに来て沙奈とまだ一緒にいたいと思っているなんて。

なんて……。

『図々しい』

突然脳内に低く暗い声が響いた。

『裏切った女に縋って生き延びて、裏切った女に飼われて、利用した挙句にまた傷つけるのか?』

重苦しいその声に美優は強く目を閉じる。

『なんの価値もないお前という存在を背負わせて彼女の人生をまた狂わせるのか?』

そうだ……。

平日なのに、沙奈はどうしてここにいるんだろう?

素朴な疑問が頭をもたげた。

傷病手当や休暇は半年も出るものなのだろうか。

それとも休暇を取って来てくれたのだろうか。

今も、あの後輩の女性は傍にいるんだろうか。

「私……」

許せない?許されない?

美優の思考があちこちに四散して考えがまとまらない。

生きたい?逝きたい?

『全てを終わらせる時が来たんだ』

声がする。

『もう全て終わっていたんだよ。ずっと前に。知っていただろう?』

沙奈を裏切り者だというのなら、この半年、菜々美に抱かれ続けてきた自分をどう説明すればいいのだろう。

菜々美を愛していない、生きる為に仕方なかったのだとでも言えばいいのか。

本気で逃げ出そうと思えばきっと出来たはず。

菜々美が美優に執着してしまう前にそうするべきだった。

もっと早くに全てを終わらせていたなら。

「沙奈……私……」

ほんの少しだけ期待していたのかもしれない。

こうして沙奈が迎えに来てくれる日を。

どこかで待っていたのかもしれない。

今もそっと美優の手を優しく包むこの暖かい手が救い出してくれるのを。

裏切られたのに。

みんなみんな、結局裏切るのに。

父も母も憧れた隣人も菜々美も、そして、沙奈も。

愛してるって言ったのに。

「……私……ね」

「もしかして、その人が沙奈さん?」

沙奈の瞳から逃げるように視線を反らす美優の背後で声がした。

振り向くとマンションのエントランスを出てすぐの場所に菜々美の姿があった。

「割引クーポンあったから届けに来たんだけど、お邪魔だった?」

手にしたスマホを揺らしながら、ニヤリと菜々美の口元が歪む。

「ち、違うの、この人は」

「初めまして。木崎沙奈です」

慌てて否定しようとする美優の言葉を遮って、沙奈の凛とした声が路上に響く。

「初めまして。杉原菜々美です」

少し嘲笑を含んだ声。菜々美が楽しげに美優に視線を向ける。

「立ち話しもなんですから、良かったら家へどうぞ」

慇懃におじぎしながら菜々美が奥へと沙奈を誘う。

「では、お言葉に甘えて」

「どうぞどうぞ」

躊躇なく菜々美の後を追う沙奈を美優は引き留めた。

「沙奈」

「大丈夫だよ、美優」

微笑むその瞳にもう涙はなかった。

「行こう」

しっかりと繋がれた手が美優をマンションへと引き戻していく。

どうすればいいのか、どうしたいのか、分からないままの美優を置き去りに、現実は重要な局面を迎えようとしていた。


+++


雨は降らないって天気予報は言っていたけど……。

重い雲に覆われた空を見上げる。

晴天の方が良かった、と思いながら駅へと歩き始めて、栞は、いや、そうでもないかと思い直す。

もし今日が雲一つない快晴だったならきっと、自分で自分がもっと悲しくなっていたかもしれない。

油断すると浮かんでくる涙もこの天気ならば許してくれる。そんな気がした。

沙奈さんはもう美優さんに会えただろうか。

少し俯きながら進む栞の足元に小さな染みがぽつぽつと現れ始めた。

雨。

泣きたいのはこっちだよ。そう思いながら栞は立ちどまりもう一度空を見上げた。

美優さんはどうするだろう。

顔に降りかかる雨を受けながら栞は考える。

もし、もしも。

美優が沙奈を拒絶した場合のその先を。

沙奈は栞に本当に連絡してくれるだろうか。

そして栞自身は手放しにこの恋を改めて手に入れられるだろうか。

答えは……NO……。

この半年の間、沙奈は栞に優しかった。

でもその瞳にはいつもいつも悲哀と罪悪感があった。

そして栞の心にも。

きっと、美優と沙奈が別れたとしても、その罪悪感は二人の間に残り続けるだろう。

普通の恋人たちのように純粋な愛を分け合うにはあまりに歪になってしまった関係性。

後悔と贖罪。

裁かれない罪を抱えて、お互いの傷を見つめ続けて生きる事をきっと沙奈は望まない。

栞が苦しむと分かっている決断を彼女はしない。

だから。

これで終わりなのだ。

何をどう考えても覆らない、それが事実。

二人がどうなろうと、栞の恋は終わった。

いや、もしかしたら、好きだと告白したあの瞬間にこの恋は終わっていたのかもしれない。

振り出した雨を免罪符に、堪えていた涙が溢れ出していく。

5年間の思い出が栞の中に押し寄せて、一瞬、息が詰まる。

「沙奈さん……」

もっと早く告白していたなら。

何度も何度も繰り返した後悔が再び胸の中に渦巻く。

「……っ」

思い出に押しつぶされてそのまま崩れそうになる自分を必死に奮い立たせ、栞は歯を食いしばり涙を拭った。

涙に暮れるのはもっと後でいい。

今は出来る事をやらなくては。

そう自分に言い聞かせて再び駅へと歩き出す。

私物の撤去と地蔵の回収。

まずは沙奈の家に戻ってから、自宅への帰り道で地蔵を……。

「あ、あの……」

栞の思考を遮って、後ろから少しだけ聞き覚えのある声がした。

振り返る栞に赤い傘が差しかけられる。

「こんにちは」

垢ぬけた雰囲気の女性がニコリと栞に微笑みかけていた。

その横で見た事ある男が「あの……」ともう一度繰り返した。

「申し訳ありません。守秘義務があると言ったんですが、その……」

落ち着かない様子のその男は、栞が美優の捜索を依頼した探偵だった。

そして

「初めまして」

そう言って片手を差し出す女性。

黒髪をモダンなショートに纏めた痩身。綺麗な唇の形を紅い口紅が彩っていた。

「彼に盗撮されてしまったんです、私」

そう言われてハッと思い出す。

雰囲気が少し違っていたから分からなかった。

菜々美のマンションを見つめていた女性。

写真に写されていた謎の人物。

彼女こそもう一人の探偵、その人だった。


<episode12 fin>


<next episode13>

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