episode11 Red flower

夜明け前。

沙奈はベットの背もたれに身体を預けながら、膝の上に栞から渡された探偵からの資料を広げていた。

資料に書かれていた杉原菜々美の自宅の住所は、昨日沙奈が訪ねた彼女の職場で聞いたものと同じだった。

知り合いの振りをして訪ねた沙奈に、店舗にいた女性は上から下まで一瞬ではあったものの、値踏みするような視線を向けて来た。

『あの子の友達?』

『同窓会の連絡をしようとしたら連絡がつかなくて……。前の職場を尋ねたら、こちらに転勤になったと聞いたものですから』

『ふうん』

興味があるような無いような、曖昧な返事を返すその女性はあっさりと菜々美の現状と住所を教えてくれた。

『あの子、2週間ほど休んでるわよ。暇な店だから構わないけど。はい、これ住所』

『え?あの……』

『私は平和が一番好きなの。トラブルは本人同士、彼女の家ででも解決してもらえる?』

渡されたメモを受け取りながら『あ、ありがとうございます』とりあえずそう答える沙奈の耳元にその女性が僅かに顔を寄せる。

『あの子には本気にならない方がいいわよ』

『え?』

問い返そうとした沙奈の後ろで店の扉が開き新たなお客さんが入ってくると、女性は軽く沙奈にウィンクを残し、接客に向かった。

どうやら菜々美の恋人の一人と勘違いされたらしい。

彼女の様子から、彼女自身も菜々美と関係を持っている可能性が高い。

美優から聞いていた通り、ふわふわと幾人もの恋人の間を今も飛び回っているらしい。

すんなり住所を教えてくれたことを考えると、菜々美を巡る恋愛トラブルが過去にもあったのかもしれない。

住所の場所をスマホで確認すると、今から行けば夕方までには家に帰れる距離に菜々美の家はあった。

下見だけでもしておこうとタクシーを止める為に上げかけた手を、沙奈は止めた。

本当に下見だけで帰ってこられるだろうか。そんな疑問が頭をよぎる。

今行けばきっとそのまま玄関のチャイムを押してしまう。

もし菜々美がいたとして、話しを聞くだけでも30分くらいはかかるだろう。

そうすれば、栞が戻るまでのタイムリミットに間に合わなくなる。

そしてもし。

もし美優がそこにいたなら……。

沙奈はそっと手を下ろす。

万が一、美優がそこにいて沙奈と帰って来てくれたとして、栞になんと言えばいい?

彼女は知らない。

沙奈が独自に美優を探し回っている事を。

突然告げるのか?美優を見つけたから連れて帰って来たの、と?

「………」

栞の好意を利用して、罪悪感に苦しむ彼女の心と身体を縛り付けた。

罪は沙奈にあるというのに。

この半年、沙奈を支えてくれた栞を更に傷つけるのか?

ふと、スマホ画面のアイコンが目についた。

押してみると

『今日はSHIORIさんの誕生日です』

そう表示が出た。

美優が待っているかもしれない。

美優は待っていないかもしれない。

そこにいるのかもしれない。

いないのかもしれない。

迷いに心が揺れる。

でも。

今日は、

今日だけは。

このまま帰ろう。

年に一度の大切な日に栞を悲しませる事はしたくなかったから。


そんな思いで調査の続行を諦めた沙奈に栞が手渡してくれた茶色の封筒。

同封されている写真や資料の日付から、栞がすぐにこれを届けてくれた事が分かる。

誕生日にこれを目にした栞の心境を考えると、申し訳なさが先に立った。

沙奈の耳を打つ規則的に響く小さな寝息。

沙奈の太腿に頬を寄せ、丸くなって眠る栞の髪をそっと撫でた。

「ごめんね、栞ちゃん」

果たして同じ立場に立った時、沙奈は栞と同じ事が出来るだろうか。

栞は沙奈が独自に美優を探していた事を知らない。

この資料さえなければ、美優はずっと行方不明のままだったはずなのだ。

栞が沙奈と共にいる事を望んでいるのは明らかで、同時にその事に罪悪感を抱いているのも知っている。

苦しみながら、それでも誠実であろうとしてくれた人。

ありがとう。

そう今、言葉にすればきっと傷つけてしまう気がして。

膝の上に広げた資料をサイドボードに移し、沙奈はその頬に口づけた。

「ん……沙奈さん……?」

僅かに開いた栞の瞳が沙奈を捉える。

「……行くんですね」

明るくなり始めた外の光がカーテンの隙間から漏れる。

「うん」

栞の髪を撫でながら、沙奈は小さく答えた。

美優が菜々美の元にいる事が確定した今、沙奈が止まるわけもない事を栞も分かっているのだろう。

僅かな沈黙に、遠くで鳴き始めた鳥の声が小さく響く。

「沙奈さん」

先に口を開いたのは栞だった。

「ん?」

身体を起こし沙奈を見つめる栞の瞳が、優しく揺れる。

そっと、重ねられる唇。

「もし美優さんに振られたら、連絡してくださいね」

短いキスの後、微笑む栞の頬を一筋の涙が伝った。

「……うん」

そう言って沙奈はそっと涙を拭い、栞の身体を引き寄せる。

何か伝えたいと、伝えるべきだと、心の中に溢れ出す言葉の全て。

でもそのどれもが、今の二人の間には何の意味をなさない気がして。

沙奈は栞の肌へ強く唇を押し付けた。

今までつけて来なかった証を、その白い肌に紅く刻む。

言葉の代わりに。

幾つも。幾つも。

ありがとうを込めて。


+++


「貴女を最後まで愛しているのは私だけなの」

耳元で繰り返される呪文はまるで呪いのように美優の身体を侵食していく。

抗って抗って、結局抗いきれなかったあの日。

出ていこうと決めたのに。

もう死のうと決めたのに。

最後に沙奈に会いたいだなんて想いを抱いてしまったばっかりに、美優はこの部屋から出られなくなった。

「いいよ、私から離れても。そしたら、貴女の大事な沙奈さんに貴女がどんなに淫らでだらしない女なのか教えに行ってあげる。どんな風に私を求めて、足を開き腰を振ったか細かく教えてあげたら彼女、どんな顔をするかしら」

菜々美は有言実行する人間だ。

きっと美優がいなくなれば沙奈の元を本当に訪ねるだろう。

そして、沙奈に対してきっと良くない事をする。

菜々美の言葉を沙奈が鵜呑みにするとは限らない。

でも。美優は知っている。菜々美を拒絶しきれなかった自分を。

あの日。

菜々美の舌に執拗に舐め回され、反応しそうな身体を無理やり抑えつけて美優は必死に抵抗した。

最初はいつも通り意識を遠くへ飛ばしてやり過ごそうとした。

けれど、その度に菜々美に頬を打たれ痛みで現実へと引き戻される。

身体を撫でまわす手や舌の感触から逃げられない。

何度も殴られ、中をかき回されて、美優はとうとう菜々美に屈した。

彼女の言う事をなんでも聞くからもうやめてと懇願するほど、あの日の彼女の愛撫は執拗だった。

汗でぐっしょり濡れたベットのシーツの上で、息も絶え絶えの美優を見下ろして、菜々美は艶然と笑った。

まるで沙奈からやっと美優を取り返したと言わんばかりの勝者の笑みだった。

それから2週間。彼女は仕事を休み美優の身体を貪り続けている。

身体には数えきれないくらい無数の赤い刻印が、美優の全ては自分のものだと主張するように散りばめられていた。

「どうする?こんな淫らになっちゃって。もう私以外貴女を満たせる人間なんていないわよ」

嬉しそうに笑う菜々美に、けれど美優の心はどんどん無感情になっていく。

全てを諦めた空っぽの気持ち。

そう、両親の背中を見つめていた子供の頃の。

やっぱり菜々美といるとあの頃の事を思い出す。

忘れてしまいたい苦い苦い記憶。

沙奈が癒してくれた傷だった。

沙奈が埋めてくれていた深い深い孤独。

沙奈という存在を失ってまた暗い空洞が美優の前に広がっていく。

その黒い闇を菜々美が大きく育て、今や美優の心の全てを喰らい尽くそうとしているのを漠然と感じていた。

『あの女が裏切ったのはお前のせいだ』

菜々美に身体を揺らされながら、美優の頭の中で声がする。

『お前が傷つけ続けたせいで手に出来たはずの幸せは逃げていった』

そんな事、言われなくても分かっている。

これは罰だから。

沙奈を頼りながら、どこかでずっと疑ってた。

いつか二人の生活が壊れてしまうんじゃないかと怯えてた。

閉じ込めておきたくて、そうできなくて。

いつか沙奈が自分から離れてしまう気がして。

沙奈なしじゃ生きられないのに信じきれなくて、心も身体も傷つけた。

『手の傷も腹部の傷も一生消えはしない』

口から零れる声とは裏腹に罪の重さで涙が落ちる。

愛していた?

本当に愛せていた?

私の想いは愛だった?

答えはNOかもしれない。

どうすれば愛している事になるのだろう。

わからない。

だから美優はこの部屋に、菜々美の元にいる。

それが沙奈を護る事になるのなら。

沙奈を愛している事になるのなら、もうこの女の玩具で……構わない。

この魂が生きながらに死んだとしても。

それが沙奈の為になるのなら。

それで、いい。


+++


「ねぇ美優、喉かわいたんだけど」

「うん……」

菜々美の声に美優が立ち上がりキッチンに向かう。

今日も天気がいい。

美優の為に取った休暇もそろそろ終わる。

「はい、お茶」

麦茶の入ったコップがテーブルに置かれる。

「あったかい緑茶がいいんだけど」

「……わかった」

今置いたばかりのコップを手に再び美優がキッチンへと戻っていく。

美優は菜々美に逆らわない。

昔からそうだったけれど、あの日を境に特にその様子が顕著になった。

誰も本気で愛してこなかった自分がまさか美優を手放したくない程に想っていたなんて。

その想いを伝えたくてこの二週間、肌を重ねてきた。何度も、何度も。

もう美優が勝手にどこかに行かないように。

昔のように自殺まがいの事をしたりしないように。

心も身体もしっかり菜々美につなぎ留めておく。

そうすれば美優はここから、菜々美の元から離れる事はない。

永遠に一緒にいられる。

愛してあげられる。

それは一途に愛されたいと望んでいた美優の願いを叶える事にもなるのだから。

「熱いから気をつけて」

急須に入れたお茶と湯呑をテーブルへと置いた美優の手を引き寄せ、唇を重ねる。

「ねえ美優、私に愛されて幸せ?」

「うん」

「死にたくなるくらい好きだったんだもんね」

「うん」

押し倒されるまま、美優が身体を開く。

全て、菜々美にされるがまま。

美優の全てが菜々美のものだった。

「ねえ、沙奈ってどんな風に貴女を抱いてたの?そろそろ白状しなさいよ」

首筋をなぞりながら囁く声に美優の身体がピクリと揺れる。

「その名前はもう出さないで」

「どうして?」

「……忘れたいの」

「ふーん」

腹部に強く吸い付き跡を残す。

この二週間でつけた菜々美の印がいたるところで紅く、そして紫色に変色しながら美優の身体に咲いている。

「もう私は菜々美だけのものでしょ……。それじゃダメ?」

「駄目ではないけど……ね」

指を奥へと進めると美優が顎を上げ、甘い声を漏らした。

でも。

昔と違うその響きが菜々美は気に入らなかった。

どこか苦しそうな、何か哀しそうな、そんな響きが美優の声に混じっている気がして。

「ほら、どうしたの?私だけのものだっていうんなら、もっとしっかり足を開いて奥まで受け入れなさいよ」

奥の奥まで。

誰も触った事の無い深淵に菜々美の指紋を刻みつけてしまいたい。

過去の美優の声を完全に覚えているわけじゃない。

行為の全てを記憶してはいない。

でも。

ここに連れてきたばかりの、意識がまだ朦朧としていた頃の美優とは違う。

あの時の純粋に求めてくれた声とは。

「菜々……美……っ」

フローリングの床に爪を立てる美優の指先が白く変わる。

大きく開かれた足の間に身体を滑り込ませて、中をまさぐる手の甲に膝を添える。

そしてそのまま、身体を揺らして指で奥を突き上げた。

悲鳴にも似た美優の声が、部屋に響く。

リズム良く身体を揺らしながら、菜々美は美優を見つめる。

快楽の中でうねる身体を操りながら、それでも満たされない自分の中の何か。

本当に美優の全てを手に入れる事が出来たんだろうか。

美優は菜々美に逆らわない。

いいなりのお人形。

あの頃と同じ。

ただ都合がいいだけの。

そんな人形に愛する価値があるのだろうか。

あの頃、美優にはお金があった。

菜々美を満たしてくれるだけの財力が。

けれど今は菜々美が美優の生活の全てを支えている。

そんな価値が美優に、この女にあるのだろうか。

「菜々美……っっ」

甘美な声。

「もう、許し……」

涙の滲む瞳が菜々美に懇願する。

なんでもします、許してください、と。

その顔をみる度に菜々美の記憶に誰かの面影が浮かんで消える。

誰かはもう思い出せない、かつて恋人だった誰かの顔。

「いいわよ」

涙が流れるその瞬間を見る度にゾクゾクと背筋が震えて、口元がほころぶ。

「あと5回いけたら、許してあげる」

強く打ち付けた膝に美優の声が跳ねる。

手放したくない。そんな想いが胸に広がっていく。

誰にも渡したくない。

そう、菜々美は美優を愛している。

愛している、のだから。



episode11 fin

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