episode10 Missing Love

夜明け前。

栞は肩の寒さに目を醒ました。

薄暗い部屋の中で、少しずれていた布団を肩まで被る。

隣りで眠っている沙奈の体温が直接触れている肌に心地いい。

冷たかった肩も、布団の中に内包された二人分のぬくもりにじんわりと温まっていく。

耳に響く寝息を子守歌に再び目を閉じる。

「ん……」

栞の動きに反応して沙奈が僅かに身じろいだ。

本当にこの人は周りの動きに敏感なのだと改めて思う。

寝ぼけているであろうその腕が栞を引き寄せる。

「身体冷たい」

ごにょごにょとそう呟くと、そっと栞を抱きしめた。

今、沙奈さんは一体誰を抱きしめているのだろう?

本当に私だと分かっているのだろうか。

もしかしたら美優さんと勘違いしているかもしれない。

そんな考えが頭を過り、栞の胸を締め付けた。

だって。

沙奈が抱きしめたいのは栞では、ない。

自分はただの代替品でしかない。

この日々は、長年沙奈を思い続けた栞へのご褒美か、あるいはあの日の罰なのか。

栞には分からない。

不意に沙奈が栞を抱きしめたまま、優しく何度も髪を撫で始めた。

「大丈夫、大丈夫」

「栞ちゃん……」

大きなため息と共に吐き出された言葉の後、沙奈の寝息が部屋に響く。

覚醒していないくせに。

無意識に。

栞ちゃんなんて呼ばないで。

「ほんと、沙奈さんはズルい」

浮かんでくる涙を沙奈の胸元に押し付けて、栞は肩を震わせる。

寝ぼけたままでそんな風に呼ばれたら、勘違いしてしまう。

叶わないと分かりきっている夢の続きを夢想してしまう。

もしかしたら、と。

そう、もしかしたらこの日々がこのまま続くかもしれない。

もしかしたら、ほんの僅かでも。

愛されているかもしれない、と。


+++


薄暗い部屋で菜々美の背中を見つめながら、美優はそっとベットを抜け出し、小さなタンスの引き出しを開けた。

ここに来た時に着ていた服を取り出し、着替える。

部屋に響く菜々美の寝息が途切れない事を祈りながら、静かに静かにボタンを留めていく。

洗った後、しばらく来ていなかった服は、菜々美が好んで使う香水の香りがした。

香水……か。

美優の生み出した香水たちを求めて店を訪れる多くの人々の笑顔。

店舗には美優と、そして沙奈の姿。

二人で営む香水の専門店。

そんな日々を夢見た事もあったっけ。

(沙奈……)

カーテンの隙間から見える空がうっすらと明るくなり始めていた。

色の薄い都会の青空。

長方形に切り取られたその風景が、自分が見る最後の朝の景色。

どこか感慨深いものを感じながら美優はしばらく空を見つめ、やがて立ち上がった。

一緒にしまってあった財布から数枚、一万円札を取り出し、机に置こうとして手が止まる。

このお金が美優の稼いだものだったなら、きっとここに置いて出ていくことに抵抗はない。

けれど、このお金は、今ここに入っているお金は、沙奈が稼ぎ、美優の為にここに入れられているものだから。

半年分の生活費の一部として、せめて少しでもここに置いて行くべきだと思っているのに、どうしてもお札から手を離せない。

沙奈が美優の為にくれたものを、美優は手放せない。

しばらくの逡巡の後、美優はお札を財布に戻し、玄関に向かった。

まだ電車は動いていないけれど、駅前には開いている店も多い。

朝食でも取っていればその内、電車も動き出す。

玄関に置かれたシューズラックから自分の靴を玄関へ置いた瞬間、背後の気配に美優はビクリと身体を揺らして振り向いた。

「どこ行くの?」

そこには、いつの間にか目を醒ました菜々美が立っていた。

「な、菜々美……起こしちゃった?ごめんね、私……」

「どこ行くのって聞いてるの」

「どこって……」

出ていけって言ったのは菜々美の方なのに、そんな事などなかったかのような詰問めいた口調に、美優が口ごもる。

「な、菜々美が出て行って……欲しそうだったから」

「私がそうしろって言ったら、美優はなんでもその通りにするの?」

「え……だって……」

「別に好きな人がいるのに、私に黙って抱かれてるくらいだもんね」

「そ、それは菜々美が」

「私が何!?」

不意に大声を上げて、菜々美が美優の腕を掴んだ。

「痛っ、菜々美、やめて……っやめてっ」

美優の声も抵抗も無視されて、美優の身体は部屋へと連れ戻された。

「菜々……きゃっ」

ベットへと突き飛ばされて倒れ込む美優に、菜々美が馬乗りになる。

「私ね、もしかしたら貴女の事が好きなのかもしれないの」

「え?」

言葉の意味が一瞬理解できなくて、美優は怯えた目で菜々美を見上げた。

「それなのに、私を差し置いて他の女の事が好きとか、おかしくない?あんた何様よ」

「菜々……うっ!」

不意に、菜々美が美優の服のボタンを力づくで左右に開いた。

布の裂ける音がして、飛び散ったボタンが床に幾つも転がる。

「昔は私しか見てなかったくせに。死にたくなるくらい愛してたんでしょ?」

下着の上から乱暴に菜々美が美優の両胸を鷲掴かんだ。

「い……痛っ!」

「この半年、誰が助けてたと思ってるの?」

「そ、それは感謝して……うっ」

強く揉まれる胸の痛みに涙が滲む。

どうして菜々美はこんなにも怒っているのだろう?

その理由が美優には分からない。

「だ、黙って出ていこうとしたから怒ってるの?」

その言葉が更に菜々美を苛立たせてしまった事を、美優は肌で感じていた。

幼い頃、母がそうだったように。

父がそうだったように。

理由は誰も説明してくれない。

どうしていいのかも分からない。

ただ、黙って怒るのだ。

そして両親は、美優を無視した。

そして菜々美は……

乾いた音が部屋に響く。

ジン……と熱くなる頬に、美優は自身が頬を叩かれた事を知る。

「私の事だけを考えてた昔の貴女を思い出させてあげるから、しばらく黙っててくれる?」

菜々美に唇が美優の胸元に迫る。

あぁ……また……

美優は身体の力を抜いて、時が過ぎるのを待つ為に視線を天井へと向ける。

するとまた、頬をぶたれた。

「ちゃんと私を見て」

痛みで流れる涙で視界が滲む。

「今日は貴女がイクまでやめないから」

絶望的な宣言に言葉を失う美優の顔を楽しそうに眺めて、菜々美が笑う。

「同じ場所を何時間舐め続けたら人間って素直になるのかな?楽しみ。ね、美優」

とっさに抵抗しようとした両腕を掴まれ、ベットへと押し付けられる。

「私の事しか考えられないようにしてあげる」

真上から美優を見下ろす菜々美の瞳の奥に、昨日まではなかった暗い光が灯っているのを感じて、美優はただ涙を流し、震えるしかなかった。


+++


「さてと……」

鏡の前で軽く口紅を引き、沙奈は自身の顔を見つめた。

栞が出勤してから1時間。

朝はまだ少し顔色が悪い。

特に貧血が起きているわけでもないけれど、まだ療養中なのだから仕方ない。

それでも随分と長い時間、活動出来るようになってきた。

軽く身支度を整えて外へ出る。

カジュアルすぎないの服装。ナチュラル寄りのメイク。

外で活動出来ると確信してから沙奈がまずした事は仕事への復帰、ではなく、美優の捜索だった。

美優は自分から姿を消し、自らの意思で戻らないのかもしれない。

この半年の空白は、探さないで欲しいという彼女の意思表示かもしれない。

それでも。

沙奈は美優と話したかった。

心のどこかで確信している。

美優は沙奈にもう一度会うまでは死なない、と。

だからきっと彼女は生きている。

沙奈を待っている。

傲慢だと言う人もいるかもしれない。

本当に愛想をつかされたのかもしれない。

事故とはいえ刺してしまった事が怖いのかもしれない。

拒絶される可能性もある。

それでも、その全てを美優自身の言葉で聞きたかった。

それが沙奈の我儘だったとしても。

「美優……」

鏡台の端に置かれた美優の香水。

オリジナルのブレンドが施された香油の中に潜む様々の花たちの芳香。

柔らかな香りの中で微かに香るCyclamen。

紅いシクラメンの花言葉は『嫉妬』

けれど全色共通の花言葉も持っている。

それは

「遠慮がちな……期待」

俯き恥じらうように咲くその花が沙奈は好きだ。

控えめでありながら強烈な個性と意思を内に秘め、華やかに咲き誇り決して主張をやめないはっきりとしたその香り。

まるで美優のようなその花。

シュッ……っと一振り、芳香を纏う。

待ってくれてはいないかもしれない。

求められていないかもしれない。

それでも。

小さな鞄に携帯と財布を放り込み、沙奈は玄関へと向かう。

タイムリミットは午後4時。

栞が帰宅する2時間前。

化粧を落として外出の痕跡を消す為に必要な時間。

今日こそは何か手掛かりがあると信じて。


+++


この数日、心当たりのある場所は全て足を運んでみた。

栞に頼んで探偵に調べてもらった箇所も再度自分で足を運んだ。

今は父親しか住んでいない美優の実家にあたるマンションにも。

「ごめんなさい、ずっと会っていないの」

同級生のふりをしてチャイムを鳴らした沙奈に、か弱そうな女性の声がインターフォン越しに応える。

「美優ちゃんの事は私たちも心配しているの。もし会うことがあったら連絡するように伝えてくださる?」

そんな言葉に「はい」と上辺だけの返事をして、沙奈はマンションを後にした。

美優の父親の再婚相手は、隣の部屋に住んでいた住人らしい。

その事をポツリと話した美優の様子から、彼女の存在に対して美優があまり良くない印象を抱えている事は明白だった。

自分の両親に対して何の期待も干渉もせず絶縁状態の美優がなぜこの再婚相手を嫌うのか沙奈は知らない。

ただ、美優が会いたくないと思っている。

この伝言を伝えない理由はそれだけで十分だった。

美優については大方調べつくした沙奈は、次に元彼女の杉原菜々美の捜索を始めていた。

沙奈が刺されたあの日。栞が見知らぬ女性に怯える美優の姿を見ている。

美優を助ける為に家にあがる事になったと泣きながら説明してくれた時に教えてもらったその女性の特徴が、美優から聞いていた杉原菜々美の特徴と似ている気がしたから。

自分を傷つけた相手に美優が縋るとは思えなくて今まで調査から除外していたけれど、もし当日美優が怯えていたのが彼女だったとすれば、何か聞けるかもしれない。

栞に頼んで探偵にも情報を共有してもらっている。

元彼女になんて会いたくもないが、背に腹は代えられない。

「すみません」

百貨店にある菜々美が勤めていたメーカーブースで教えてもらった彼女の転勤先。

大通りに面した小さいながらも洒落た、メーカー直営店のガラスの扉を沙奈は押し開いた。


+++


夕焼けが通り過ぎ、暗くなった街を栞は一人俯きながら歩く。

家路を急ぐ人の波が栞を追い越し、すれ違い行き過ぎる。

手にしたA4サイズの茶封筒が指先に込められた力のせいで皺を刻んだ。

街のざわめきも雑踏も無視して栞はただ沙奈の待つ家へと進む足をふと止めた。

月に一度。

探偵からの報告書を取りに栞は自分の家に立ち寄る。

この半年、届く報告は同じものだった。

だが、沙奈から聞いた菜々美という人物の情報で、その内容が変わった。

報告書類と添付された数枚の写真。

報告書には菜々美の勤務先の住所と電話番号、そして菜々美の自宅住所が記されていた。

いつか来ると思っていた。

早く見つかって欲しいとも思っていた。

でも。

写真に収められていた美優の姿を見た瞬間に栞の中に過ったのは、絶望と怒りに似た形容しがたい感情だった。

ベランダで洗濯物を干す美優と部屋から顔を出しているもう一人の女性。

それは栞があの日見た、黒髪の女性に間違いなかった。

どうして彼女と一緒にいるのか、栞には分からない。

栞が美優に声を掛けたあの瞬間、確かに美優はこの女性に怯えていた。

そして写真に写る美優の顔は、あの時以上に怯えている。そう栞には見えた。

怯えながら一緒にいる理由があるのだとしたら、間違いなくその原因を作ったのは栞。

沙奈と過ごしたこの半年、栞の人生には恐らくなかったはずの時間。

その幸福は美優の、彼女の不幸の上に成り立っていた。

どこかで幸せに暮らしてくれていたなら良かった。

もう沙奈など必要ないと言える程、幸せでいてくれたなら。

栞は沙奈を諦めなくても良かったのに。

「私は……貴女が大嫌いです。美優さん」

誰にも聞こえない程に小さな声で、地面に向かって呟く。

ぼやけていく視界を閉じて、そっと指先で抑えた。

卑怯者。

沙奈も、美優も。

こんな姿を見せられたら、そんな怯えた顔をされたら、栞は沙奈に言わなくてはいけなくなる。

助けに行ってあげてください、と。

一緒にいてほしいのに。

美優さんの事なんて忘れて私を恋人にしてください、と本当は伝えたいのに。

傍にいたいのに。

そんな顔をされたら……。

本当は一瞬だけ、嘘をつこうかと思った。

新しい情報はない、今回もいつもと同じ報告でした、と。

でも、写真に映る美優がそれを許してくれない。

助けてと無言で訴えかけてくるその姿が、栞の裏切りを許してくれない。

そんな事をしたらきっと、栞が自分自身を許せなくなってしまうから。

再び歩き始める栞の横を無関係な人々が行き過ぎる。

誰が幸福で誰が不幸か。

そんな事を決める権利は栞にはない。

でも。

今、一人の人間の運命が栞の手に握られているのかもしれない。

栞はきゅっと唇を結んで足を速める。

過去は変えられない。

でも未来なら、まだ間に合う。

同じ過ちを繰り返さない為に、栞は一人家路を急いだ。


+++


「ただいま戻りました」

玄関を開けた栞の鼻先に、美味しそうな香りが漂う。

「おかえり、栞ちゃん」

キッチンで出迎えてくれたエプロン姿の沙奈と、テーブルに用意されたご馳走に驚く栞に沙奈がニコリと笑う。

「栞ちゃん今日誕生日でしょ?言ってくれないから私も昼過ぎに思い出して大慌てで準備しちゃった」

そう言われて初めて今日は自分の誕生日である事を思い出した。

「イチゴのスタンダードなものと迷ったんだけどね」

そう言いながら沙奈が冷蔵庫からケーキを取り出した。

小さな蠟燭が立てられたチョコレートケーキ。

家を出て以来、ホールケーキなんて見るのも久しぶりだった。

ましてや誕生日にそれを食べるなんて。

何年ぶりだろう。

誰かに誕生日をお祝いしてもらったのは。

「わざわざ買いに出てくださったんですか?」

「ケーキだけね。あとは通販っていうかスーパーの配達サービス」

ちゃんとしたケーキ屋さんのケーキ。

手作りの料理。

栞に対する思いやりすべてが沙奈からの贈り物。

「栞ちゃん!?」

突如泣き出した栞の背中を沙奈の優しい手が撫でる。

「ごめん、嫌いなものでもあった?」

沙奈の言葉に首を振る。

「沙奈さん、ありがとうございます」

きっとこれが最後。

沙奈の手作りの料理を食べるのは。

だって、彼女は王子様だから。

美優さんのたった一人の。

王子様だから。

でも、それでもいい。

それでいい。

こんなにも優しくしてもらって、想ってもらえたのなら。

「この料理を食べた後」

一瞬、言葉が詰まる。

「……抱いてください」

本当に言いたかった言葉とは別の言葉が心から溢れた。

涙で潤んだ瞳をあげて問いかける。

「……うん。いいよ」

優しい声が耳元に響く。

この一瞬一瞬を記憶に、身体に刻みつけたかった。

きっと、すべてが終わりになるだろうから。

苦しかった。

幸せだった。

愛して……いるからこそ。

「沙奈さん」

栞は彼女を手放さなければならない。

その背を押さなければならない。

それが罪滅ぼしだから。

「栞ちゃん、料理、冷めちゃうわよ」

「……はい」

ゆっくり顔を近づけると沙奈が僅かに顔を傾けて迎え入れてくれる。

ただそれだけの事で、涙が滲んだ。

沙奈との時間を惜しむように、しっかりと温もりを腕に抱きしめ、栞はそっと唇を重ねた。


episode10 END


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