episode9 NANAMI
杉原菜々美は自他ともに認める美人である。
生まれた時から遺伝子による選別に勝利した娘を、両親はこの上もなく甘やかし、愛してくれた。
人より見た目が良いことが人生においてどれほど重要であるかを、菜々美は小学校のうちに学んでいた。
多くの人間が菜々美と友人になりたがり、彼女の周りにはいつも人が絶えず、あらゆる困難から彼女を護り助けてくれた。
だから、菜々美にとって他人とは自分を助けてくれる存在であり、そうされる事が当たり前だった。
ところが、中学生になった辺りから取り巻きの中に男子生徒が混じり始め、彼らは菜々美に見返りを求め始めた。
これまで微笑みだけを対価にその恩恵を受けてきた菜々美がそれに応じる訳もなく、拒否した事で菜々美の人生は少しその色合いを変えた。
10数年生きて来た中で初めて味わった挫折は、菜々美の価値観を大きく変貌させてしまった。
これまで考えてもみなかった。
人間関係において相手の顔色を読んだり、様子を窺ったりする必要があるなんて。
だって皆、杉原菜々美という人間の傍にいられるだけであんなにも喜んでくれていたのに。
自由にふるまう菜々美とあんなにも楽しそうに一緒にいてくれたのに。
結局、本当は誰しもが何かを期待し、求め、それを与えてくれるかもしれない可能性を菜々美に押し付けていたに過ぎなかったのだろうか。
初めて、学校という狭いコミュニティで独りになった菜々美を救ってくれたのは、隣のクラスの女生徒だった。
彼女は成績も良く、将来に対する考え方も大人びていて、誰とでも仲良くなれるその性格から多くの生徒に好かれていたが、一定の距離から誰も近づけない神秘的な雰囲気を纏っていた。
休み時間、昼休み、放課後。
彼女と共に過ごす時間が長くなるうちに、彼女が菜々美に密かな想いを寄せている事に気づいた。
これまでは何一つ対価を払わずに恩恵を受け、それを享受し、そして失った。
ならば、相手が求めるものを与えてやればいいのだ。
そうすればきっと、昔の様に皆、菜々美の願いを叶えてくれる。傍にいてくれる。
誰もいない夕暮れの教室。
グラウンドから聞こえる部活終わりの生徒たちの声。
他愛ない会話が途切れ、そっと彼女が机に置かれた菜々美の指先に触れた時、菜々美に迷いはなかった。
求められるものを与え、願いを叶える。
かつての自分を取り戻す為に重ねた唇。
だから、大人になってからも誰かを愛するという事がいまいちよく分からないでいる。
求められれば誰とでも身体を重ねてきた。
菜々美に価値を見出してくれる存在に対して優しくすればするほど、その恩恵もまた大きかったから。
でも、個人には限界がある。
誰しもが菜々美の願いを叶え続ける事は不可能だったし、菜々美に肉体関係以上の関係性を求める人間も少なくなかった。
「アメリカへ行かない?」
大学の卒業を目前に控えたある日、すでに幾人もの恋人の一人でしかなくなっていた、夕暮れのファーストキス相手がそう言った。
「どうして?」
「向こうだと女性同士でも結婚出来るから」
少し恥ずかしそうな彼女の顔を見ながら、菜々美は自身の心が冷めていくのを感じていた。
「だってもう8年くらい付き合ってるんだよ?うちの親は偏見もないし理解も早いから、全然大丈夫だと思うの」
菜々美のとこはどう?とでも言いたげな視線に菜々美は微笑んだ。
この頃にはもう、相手が望む杉原菜々美像を演じる事に慣れてしまっていた。
恋愛に夢を持っている人間は意外と多い。
相手が望むままの姿を、理想の相手を演じる事は菜々美にとって当たり前の事になっていた。
そしてこの彼女が望むのは、中学生の頃のままの、純粋なふりをしたどこか寂し気で頼りない菜々美。
「どうかな……うちの親はそう簡単にはいかないかも」
「うーん、やっぱそうだよね。じゃ、私も手伝うから、二人で分かってもらえるまで頑張ろ」
「うん、ありがとう」
困ったふりをして微笑む菜々美に口づけして、彼女はベットの下に散乱している服を拾う。
「今度はいつ会えそう?」
「また分かったらメールする」
「今度も三か月後とかだったら怒るからね」
「分かってるって」
「ホテルもラブホじゃなくて、シティホテルにしよ」
「でも多分、壁薄いよ。声、我慢できんの?」
「もう、馬鹿っ」
少し恥ずかしそうに畳んだ菜々美の服を投げつけて、彼女は自身の服を身に着けていく。
きっと気づいていないはずはないのだ。
菜々美には他にも女がいる事を。
菜々美の演技を。
彼女はとても賢い人だから。
それでも自分の嘘にこうして付き合ってくれている理由が菜々美には分からなかった。
「もし……さ」
「ん?」
菜々美の呟きに、スカートを履く手を止めて、彼女が振り向いた。
「もし私が何かに巻き込まれたり、何かの事情で連絡も出来ずにいなくなっちゃったら、どうする?」
一瞬、彼女の顔が陰る。
しばらく考えて、止まったままだった手が、やがてスカートのファスナーを閉めた。
+++
菜々美が初めて佐々木美優を見た時、彼女とは似ても似つかない美人なのに、なぜか不意に昔のことを思い出したのは、思い出の恋人と美優の気質がどこか似ていたからなのかもしれないと後になって気が付いた。
美優は、菜々美にとってはちょろい相手だった。
自分を見つめて欲しい。認めて欲しい。愛してほしい。
自己肯定と承認欲求。
それさえ満たしてやれば、美優は菜々美の望みを叶えてくれる。
誰よりも愛してると囁けばそれで良かった。
当時、5人の人間と繋がりを持っていた菜々美にとって、聞き分けのいい美優は恋人として最適で最高の存在。
数多の菜々美の恋人たちは、そのほとんどが菜々美に他にも恋人がいる事を知っている。あるいは察していた。
それでも菜々美と一緒にいたいと思ってくれていたから、菜々美から別れを切り出すまで、もしくは姿を消すまでは皆、傍にいてくれた。
でも、美優だけは違っていた。
別の恋人とのキスを美優に見られた時も、少し喧嘩になるかな、くらいにしか思っていなかった。
「もう生きるのに疲れた。バイバイ」
突然かかってきた電話から、美優の泣き声が聞こえた時の、身体の中心が冷たくなる感触を今も覚えている。
自宅に駆け込み、血の海の中に倒れる美優を見た時の絶望感とショック。
自分がしでかした事で人が死ぬ可能性をまざまざと見せつけられた瞬間だった。
幸い、首の傷は思ったよりは深くなく、美優は一命を取り留めた。
菜々美には分からない。
誰かを好きになるという事が。命を懸ける価値が。
それでも、そこに全てを捧げて生きる人間もいるのだと、この時初めて実感した。
過去を振り返り、これまで付き合って来た多くの恋人たちを想った。
割り切って付き合っていたものもいただろう。
ひとときの戯れと。
けれど、そうではなかった人たちも確かにいたはずなのだ。
美優然り、ファーストキスの彼女然り。
ベットに横たわる美優を見つめ、初めて菜々美は自分が彼女たちに相応しくないと感じていた。
一生懸命、誰かを愛することの出来る人間に、菜々美という人間はあまりにも不釣り合いすぎる。
「彼女の入院費って幾らくらいになりそうですか?」
「何日入院するかにもよりますので、現状ではちょっと……」
「とりあえずこれ」
そう言って、10万円をフロントの女性へと差し出した。
「いえ、お会計は退院の時でないと受け取れませんので」
「前金として」
「申し訳ありませんが、うちは退院時に全額頂戴するシステムになっておりますので」
「そう、ですか」
外来の患者のいない寂し気なロビーに、菜々美の声が小さく響く。
菜々美が病院の外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。
夜空にかかる欠けた月。
菜々美は一人、病院の窓を見上げた。
美優の眠る病室の明かりが、カーテン越しに漏れている。
「さようなら、美優」
それがあの時、菜々美が美優に出来る唯一の事だと思ったから。
+++
美優の元を去り恋人達を一新した菜々美の恋愛は、この頃から少し様子を変えた。
これまで相手の望むままの自分を演じる事になんの疑問も抱いてこなかった菜々美の心に、僅かな疑問が生じ始めたせいだった。
本当の杉原菜々美として笑ったのは、一体いつだっただろう。
ふと、そんな事を思った。
見た目の美しさに期待する彼女達に偽りの微笑みを向ける度、どこか虚しさが胸を過る。
欲しい物は変わらず手に入れる事は出来た。
大好きなブランドの新作、服や時計にアクセサリー、カバンを含めた何もかもを彼女達が贈り物としてプレゼントしてくれたし、菜々美もまた、使用しなかった戦利品の数々を、彼女達にプレゼントした。
夢のような恋愛の中で微笑む彼女達。
どこか虚しさを感じながらも、彼女達と過ごす時間は変わらず楽しかったし、相手が誰であれ、長く続くならそれが一番いいとも思っていた。
けれど、演じ続ける中で菜々美は気づいてしまった。
以前から本当は知っていて、あえて無視してきた事。
誰も本当の杉原菜々美という人間を見てはいないという事を。
菜々美という名の美しいマネキンに、皆、自身の理想を映しているにすぎない。
誰も杉原菜々美という人間を知らない。
彼女達にとって菜々美は都合のいい、夢見る為の人形でしかない。
昔はそれでも良かった。
利用し、利用されて、お互いを満たし合ってきたのだから。
それなのに。
『生きる事に疲れた』
なんて言うから。
菜々美のせいで、命を落とす可能性を示されてしまったから。
菜々美との関係に命を懸ける価値などないと誰よりも知っている自分自身に気付かされてしまった。
誰かの理想を演じていく内に、どんどん空っぽになって、菜々美はいつしか何者でもなくなっていた。
恋人達の望む理想の全てであり、そして、無。
それが今の杉原菜々美。
本当に叶えたい願いは何だっただろう?
本当に求めたものは何だっただろう?
贈られた数々の指輪もブレスレットもピアスも、菜々美の身体を飾るのにはもうあまりに多すぎて。
箱に入ったままの、かつて求め続けたプレゼントの山に囲まれて、菜々美はただ途方に暮れていた。
+++
「先輩、さすがにここじゃ不味いんじゃないですか?」
菜々美の胸元のボタンを外す先輩社員の口づけに応えながら、菜々美は微笑む。
一人去り、二人去り、菜々美の元に最後に残った恋人は、同じ職場のこの人だけ。
「いいじゃない。どうせ誰も来ないんだし、お店も暇だし」
百貨店から専用店舗へと移った菜々美が最初に関係を持った相手。
嫉妬もせず、菜々美を困らせる事もない。
愛しているというよりは、ライトに関係を楽しめる人。
お互い干渉しないスタイルが菜々美ととても合っていると思う。
「先輩。先輩は誰をどこまで想えば、好きという事になるんだと思いますか?」
胸元に顔を埋め、下着の中へ進もうとしていた彼女が笑う。
「何それ、中学生みたいな質問」
「そうですよね」
「貴女らしくないわね、悩み事?」
「いえ、気にしないでください」
彼女の顎を持ち上げて、唇を重ねる。
そっと首筋に触れながら、菜々美は思う。
私らしい。という言葉の意味を。
「そういえば、貴女が百貨店からこっちに移ってくるきっかけになったストーカーいたでしょ?」
一時の楽しみを終えて、乱れた服を整えながら彼女が思い出したように話し始めた。
菜々美が転勤願いを出した時、その理由をストーカー行為による職務遂行不良という名目にした。
そのせいで、菜々美の周辺で美優はストーカーという位置づけになっている。
「ええ」
「彼女を南の店舗で見かけたって子がいるらしいの」
ドキリと心臓が鳴った。
その理由が後ろめたさなのか、罪悪感なのか、はたまた懐かしさなのか、菜々美にはよくわからない。
「なんでも、二階建てのマンションに誰かと住んでるらしいわ。結婚したのかしらね」
結婚……。
胸の中に小さなざわめきを感じながら、髪をまとめる彼女に手を貸す。
「幸せになってくれてるならそれでいいですよ」
「あら、散々貴女を困らせた女相手に、優しいのね。妬いちゃうわ」
口先だけの嫉妬を乗せて、彼女の唇が菜々美の口を塞ぐ。
数度軽く触れ合って離れる温もりを目で追いながら、菜々美は微笑む。
「愛してないくせに」
「お互い様でしょ」
笑いながら背を向ける彼女を呼び止める。
「先輩」
「何?」
振り返った彼女はもう、仕事の顔をしていた。
菜々美が美優を探してみたのは、本当になんとなく。ただの気まぐれだった。
教えてもらった店舗の近くの駐車場に車を停めて、ぶらぶらと歩くだけ。
まるで散歩の様に気楽に足を進める。
見つけても、見つからなくてもどっちでも良かった。
逢って、何がしたいわけでもない。
ただ一言、謝れたらいいかな。そんな気持ちで歩いていたから、夕日に照らされてシーツを取り込む彼女を見つけた時は、正直驚いた。
数年ぶりに見る美優は、少しふっくらしているようだった。
いや、菜々美と付き合っていた頃の美優がやつれていた、と言った方が正しいかもしれない。
シーツに顔を寄せて微笑む彼女は、幸せそうだった。
その光景に、少し寂しい思いと、良かったと思う気持ちが交差する。
「お幸せに」
そう呟いて帰ろうとした瞬間、美優がその場にしゃがみ込んだ。
心配になって思わず駆け寄ったものの、なんて声を掛けていいか分からずに、とりあえず
「こんにちは」
そう言ってみた。
数年ぶりの邂逅に美優が驚いた顔をしたのは、別に構わない。
ただ、ひどく怯えた顔で見つめ返された事がショックだった。
確かに、結果的に菜々美は美優に酷い事をしたけれど、でも、菜々美との関係の中で美優だって楽しんだはずなのだ。
つきあっていた頃の彼女の微笑み。
あんなに楽しそうに、満たされた様に笑っていたのに。
「そんなもんよね」
どれだけ好きだと言ったって、命を投げ出そうとした相手だったとしても、年月が経てば人は変わる。
好きという感情は結局、その程度のものなのだ。
刹那的なただの熱病。
そんなものを求めて一体なんになるのだろう。
そんなものに振り回されて、結局何を得るのだろう。
やはり、菜々美には分からない。
誰かを好きになる意味が。
美優のいた家から少し離れた場所にあるカフェで、通りを眺めながら夕飯を取る。
シンプルなパスタセットは、思いのほか美味しくて菜々美の心を落ち着かせてくれた。
湯気の立つコーヒーを片手に菜々美はぼんやりと自身の過去を振り返っていた。
人は変わる。
菜々美自身も変わったのだろうか。
いや、そもそも自分の本質を失ってから、変わるものさえ菜々美にはない、そんな気さえする。
対応する人の望みを映す鏡。
なら、誰も菜々美を求めなくなったら、自分はどうなってしまうのだろう。
残るのは、職場にいる時の親しみやすさで武装した自分だけ。
空っぽだ。そう改めて思う。
中学生の頃、孤独を埋めてくれた彼女は今頃どうしているのだろう。
すっかり暗くなった道路を行きかう車のライトを見つめながらふとそんな事を思った。
最後に会ったあのホテルで、彼女はなんて言ったんだっけ?
もし、菜々美が突然いなくなったら……。
その質問に対しての彼女の答えがどうしても、思い出せなかった。
「ラストオーダーですが、ご注文はございますか?」
もの思いに耽っていたせいで、気が付けば随分と長い時間が経っていた。
「いえ、大丈夫です。ありがとう」
そう言って、冷め切った2杯目のコーヒーを流し込み、清算を済ませてカフェを出た。
さっさと駐車場に戻り、車を出す。
久しぶりに長く歩いたせいで少し足が痛かった。
そのまま自宅へ帰るつもりだったのに、無意識に美優のいた家の方向へと車を向けていた。
街頭が照らす住宅街は、少し離れた通りに比べてとても静かだった。
残業を終えた疲れた顔の人々がぽつりぽつりと、光の中に浮かんでは消える。
その中に、菜々美は美優の姿を見つけた。
軽くコンビニに行くような軽装で、トボトボと力なく歩く姿に感じる違和感。
その雰囲気は、あの時の電話を思い出させた。
泣いている。
遠くからでもそれが分かった。
だから
「なんとなく戻って来て良かった。乗って」
そう言って、菜々美は自分の人生に、再び美優を引き込んだ。
+++
美優を家に迎え入れてから2か月程、彼女はほとんど口をきかなかった。
話しかければ応えるが、自分からは何もしない、というより出来ない、そんな感じだった。
食事も入浴も促さなければ、時間の経過さえ理解していないような、そんな危うさがあった。
何があったかを尋ねても
「ごめんね、凄くボーっとしてるよね私」
そう言って僅かに微笑むだけ。
改善の兆しのないその状態は、菜々美のせいで命を断とうとしていたあの時よりも酷いように見えた。
夕日が照らすベランダで見せた幸せそうな顔からは想像も出来ない美優の姿に、さすがの菜々美も不安になった。
何より毎夜「沙奈」と呼びながら、うなされ苦しむ美優をどうしていいのか分からない。
だからただ、口づけた。
荒い呼吸を落ち着ける為に。
医者でもない菜々美に出来る事といったらそれくらいだったから。
眠っている美優を抱いてやると、身体が感じるままに菜々美に縋りついて、彼女は眠るまで快楽を求めた。
ただ、意識が混濁しているのか、夢と現実の区別がついていないのか、次の日になると美優はその事を覚えていなかった。
「美優、そのキスマーク気に入った?」
ある時、わざと手の甲に残したキスマークを差してそう言ってみると、青ざめた顔で「ごめん、菜々美。もうこんな事しないで」と言われた。
毎夜、美優の為に行われる営みは、美優の中ではなかった事になっている。
そう確信した瞬間だった。
「分かった。ごめん」
そう答えながら、キスマーク以上の事が毎夜行われていると知ったら、美優はもっと壊れてしまうんだろうか。
そんな嗜虐心が少しだけ頭を掠めた。
医者に連れて行こうともした。
けれど、美優はそれを拒んだ。
拒む理由さえ分からない菜々美には、毎夜何かに怯え「沙奈」という女性の名を呼びうなされる美優を抱いてやる事しか出来ない。
意識が混濁している時の美優は、昔さながら、いやそれ以上に、菜々美を求めてくれる。
その姿をやはり可愛いと思うし、心が満たされる気がした。
3カ月が経つ頃、美優の意識も少し回復してきたのか、いつも通りうなされる美優に口づけながら下着を下ろしていると、不意に美優の瞳が菜々美を捉えた。
その瞳の中に、明らかな怯えが走る。
「菜々美、何……してるの?」
何と言われても、今更。そんな想いが菜々美の唇を歪ませる。
無意識の美優はもう十分に堪能していたから、今度は意識のある美優を抱きたい。
そんな興味が菜々美の中で目覚める。
明らかに別の人間に恋焦がれている相手を無理やり抱いた事はない。
皆、基本的に菜々美に夢中なのだから。
かつて、その全てを引き換えにして菜々美を愛してくれていた相手に拒絶されながら、無理やり手に入れるというのはどういう感覚なのだろう。
だから
「他に行くとこないんでしょ?」
そう言ってみた。
まるで悪人みたい。そう内心苦笑する。
嫌われたって構わない。
美優にとって菜々美はきっと、ずっと前から悪者なのだし、実際、菜々美も自分自身を善人だとも思っていない。
借りたお金もそういえば返してなかったけど、安眠の為に美優に尽くしたこの二カ月でチャラにしてよね。
そう思いながら、抵抗出来ずにいる美優に強引に口づけた。
結論として、誰かを無理やり抱くという行為は、菜々美には向いていなかったらしい。
楽しかったのは初日だけで、次に日から美優はなんの反応も示さなくなった。
ただ行為の間、ぼんやりと天井を見つめ、菜々美が満足するのを待っているだけ。
菜々美の指も唇も、美優を喜ばせる力を急に失い、ただ無力感だけが菜々美の中に残った。
それだけ美優の意識が回復したという事だろう。
喜ばしい事ではあったけれど、少し残念でもあった。
無意識に抱かれていた美優は本当に素直で可愛かったから。
気まぐれに美優を抱くにも飽きた頃、美優もすっかり普通の生活を送れるまでに快復していた。
「ご飯、作ったから」
伏し目がちに菜々美にそう告げる美優の姿は、どこか無気力で、その様子が菜々美を傷つけた。
そんなに私に抱かれるのが嫌だった?
助けたかっただけなのに。
二カ月間、どんなに私を求めていたか覚えてないくせに。
昔も、ほんの数か月前も、あんなに愛し合ったのに。
愛してあげたのに!
「やめて……っ」
抵抗する美優を無理やり捕まえて、ベットに押し倒す。
組み敷いてしまえば美優は抵抗しない。
そのまま、唇を重ねて服をめくる。
身体をなぞる指にも唇にも、美優の反応は、ない。
苛立ちが菜々美の中に募る。
「貴女、ほんとにつまらない人間になったね」
不意に美優を放り出し、背を向けて寝転がった。
そのまま顔を見ていたら何故か泣いてしまいそうだったから。
「昔はあんなに可愛かったのに」
数か月前だって、あんなに求めてくれたのに。
「ごめん……」
責める口調で言い募る菜々美に美優の小さな謝罪が聞こえた。
何がごめんなのかも分からずに発せられる謝罪ほど腹立たしいものはない。
「住まわせてもらってるんだから、少しは役に立とうって気はないわけ?」
更に口調を強めるとまた美優が謝った。
申し訳なさそうなその声に、菜々美の苛立ちが加速する。
菜々美には、何故美優が謝るのかが分からない。
住まわせてもらってるから?
面倒をみてもらってるから?
美優がそれに対して負い目を感じるであろうことは分かっていた。
でも、こんな事まで言われて謝る精神構造を菜々美は理解できない。
他人の意のままに弄ばれて。
自分が本当に愛している人が誰なのか、分かっているくせに。
「そろそろ出て行ってくれないかな?」
何があったかは知らない。
でもさっさとその人のところに帰ればいい。
抱かれるのも嫌な相手の傍にいるより、その方がよっぽどいいに決まっている。
「……分かった」
小さな美優の一言が何故か胸に突き刺さる。
傷つく権利さえ自分にはないと自覚しながら、菜々美は小さく目を閉じる。
「菜々美……泣いてるの?」
「泣いてない」
美優に背を向けたまま、応える。
泣く権利などない。
「今まで家に置いてくれてありがとう」
そっと背中を撫でる美優の手に、涙が一筋こめかみを伝ってシーツに落ちた。
助けたかった。
それだけだったのに。
また会えて嬉しかった。はずなのに。
結局、また傷つけた。
菜々美を求めてくれた美優に、昔の幻影を見てしまった。
また美優と恋人として過ごせる日常を一瞬、思い描いてしまった。
自分が何をしたのかも忘れて。
美優を悪者にして逃げた自分を見ないふりをして。
ごめんねさえままならずに、また。
やっぱり、私には誰かを愛するという行為は難しい。
先輩に会いたかった。
ただ気楽に身体を重ねる彼女との関係で、菜々美が傷つくことはない。
だって、愛されたいなんて思っていないから。
そこまで思考して、菜々美は目を開けた。
そうか。
そうだったのか。
美優に感じていた腹立たしさも、嗜虐心も、結局、嫉妬だったのか。
沙奈、とかいう、美優をあんなに幸せそうに微笑ませる事の出来る相手への。
こんなに美優を壊してしまえる程に愛されている女への。
そうか。
私は
美優に
愛されたかったのか。
≪episode9 FIN≫
≪next episode10≫
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