episode8 When two people each


沙奈は一度意識を取り戻したものの、その回復は緩やかだった。

退院するまでの3か月、栞が訪れると大抵、沙奈は眠っていた。

着替えをベット横の小さな棚に置いて、しばらく沙奈の寝顔を見つめては家に帰る。

それが栞の日常になっていった。

お見舞いに持って行ったカットフルーツを棚に置いておくと、次の日訪れた時『ありがとう』と小さなメモが置かれていた。

栞は『何か必要な物があれば書いておいてください』そうメモして、付箋の束を棚の上に残してみた。

それからというもの、二人の間で小さなメモでの文通が始まった。

『リンゴが食べたい』『今日はスズメが病室の窓辺に止まってたよ』『いつもありがとう、無理しないで』

沙奈の何気ない一言が、美優を見つけられずにいる栞の心を慰めてくれると同時に、申し訳ない想いを駆り立てる。

本来、ここに通うべき人間は、沙奈が訪ねて欲しい相手は自分ではない。

罪悪感に心が締め付けられる日々。

職場では新しいプロジェクトが開始され、忙しく立ち働いている。

沙奈は現在休職扱いとなっているが、1カ月は有給で、残り二カ月も何らかの手当が払われているらしい。

金銭的な心配をしなくていいのは、栞にとって唯一の救いだった。

病院に寄る前には必ず沙奈の家へと足を運んでいた。

美優が帰ってきているかもしれない。家にいなくても周辺に姿を現してくれるかもしれない。

そんな淡い期待を胸に、栞は一人、美優を探し続けていた。

探偵、というものも初めて雇ってみた。

今のところ、報告書には芳しくない報告と、捜索を続ける、という文面が並ぶだけ。

「どこに行ってしまったんですか……美優さん……」

報告書で顔を覆い、一人、部屋で泣く日々。

そんな栞の日常に突然変化が訪れた。

「美優を探すので手伝ってください」

退院の日時がそろそろ決まりそうになっていた頃、珍しく目を醒ましていた沙奈が病院を訪れた栞を見つけるなりそう言ったのだった。

「チーフ……」

起きている沙奈を見るのも久しぶりなのに、会って早々の急な申し出に固まってしまった栞を、沙奈は優しく微笑みながら手招きする。

扉を閉めて、ベット横にある椅子に腰かける。

「あの……もうお身体は大丈夫……ですか?」

「まだ痛いよ。でも、もうここは大丈夫」

そう言って、沙奈は片手を自分の胸元に置いた。

「チーフ……私……」

「沙奈さん」

「え?」

「私はもうチーフじゃないのよ。だから、沙奈さんって呼んでほしいなぁ」

ベットに座る沙奈が栞の瞳を覗き込む。

頬が熱くなるのを感じて、栞は視線を反らした。

「ほら、言ってみて?沙奈さん」

「……奈さん……」

他の人に沙奈のことを話す時、そう呼ぶことはこれまでもあった。が、本人の前でそう呼ぶのは妙に恥ずかしい。

「ダメ、もう一回」

「……沙奈……さん」

「はい、よくできました」

髪を何度も優しく撫でられているうちに、なぜか栞の瞳に涙が浮かんできた。

「ありがと。辛かったね、ごめんね。栞ちゃん」

真剣な声と共に栞の身体が沙奈へと引き寄せられて、その胸元に顔が埋まる。

「とんだ貧乏くじ、引かせちゃった」

喉が詰まって声が出ない。

首を横に振る栞を抱きしめたまま、沙奈は優しく髪を撫で続ける。

「ごめんね、本当にごめん」

「……っ、うっ……あぁぁっっっ」

沙奈に抱きしめられたまま、栞はその腕の中で泣き崩れた。


「栞ちゃんが話さなくても、美優は気づいたと思うの。そういう勘はすごく鋭い子だから」

しばらくして、栞が少し落ち着きを取り戻したころ、ポツリと沙奈がそう言った。

「でも……」

ぐずぐずと鳴る鼻をすすりながら、栞は顔を沙奈から離した。

「大丈夫。美優は絶対死んでないから。それだけは100%保証してあげる」

沙奈を見上げると、栞の知る強い瞳がそこにはあった。

この5年の間に幾度となく見て来た確固たる信念を秘めた光がその中に見える。

沙奈の強さは一体どこから来るんだろう。

その光に憧れ、惹かれ、今も魅了され続けている。

無意識に、栞は沙奈の頬に触れていた。

沙奈は、栞を見つめている。

「私は美優を愛してる。それでも貴女に力を貸してほしいって思ってる」

ぴくりと栞の指先が小さく揺れる。

「酷い女でごめんね」

動けずにいる栞の頬を沙奈が撫でる。

「卑怯な事をするから、先に謝っとく」

ゆっくりと沙奈の顔が栞に近づいて

「ごめんね。栞」

唇が優しく包むように、静かに重なった。


+++


美優がいない。

それだけで心の中が嵐のようにざわめいて落ち着かない。

病院にいる時も、扉の開く音がした気がして何度目を醒ましただろう。

そっと聞こえてくるかもしれない『ごめんね』が怖くて、ほとんど沙奈は眠れずにいた。

美優が沙奈に黙って逝ってしまうことは絶対にない。その確信はあった。

けれど、顔も合わせずに沙奈に会いに来た美優が、勝手に謝罪して、それで気が済んで……。

そんな可能性を否定しきれずに、沙奈は僅かな音で目を醒ました。

だから、入院中に栞が毎日訪ねて来てくれていた時も、沙奈の意識は覚醒していた。

小さく沙奈を呼ぶ栞の声を、声を殺して泣く栞を、沙奈は目を閉じたままずっと感じていた。

栞は悪くない。

そんな事は誰より沙奈自身が知っている。

けれど、最悪の事態を想像して乱れる沙奈の心が、その一部が、彼女を責めてしまう。

全ては自分のせいだと分かっているのに、苦しくて栞にその責任を押し付けようとしてしまう。

泣いている栞を慰めたいと思う自分と、身体と心の痛みに栞を非難する自分とがせめぎ合う。

そんな葛藤を抱えたまま、自分を責めている栞と向き合うことなんて出来るはずもなくて。

気持ちが落ち着くまで、栞には辛い思いをさせてしまった。

未熟だな、と。改めて思い知る。

「沙奈さん、昼食は冷蔵庫にいれてありますから、食べてくださいね」

寝室の扉が開き、身支度を整えた栞が顔を出した。

「ありがとう。今日も頑張ってね」

ベットに腰掛け、そう応える。

「はい!いってきます」

「いってらっしゃい」

退院してからも自宅療養を余儀なくされ、まだまともに動けない沙奈の為に、栞が身の回りの世話をしてくれている。

腹部の傷はもう塞がってはいるものの、まだ動くと痛みが走る。

家の中を歩くくらいには回復した体力も、外や長時間の活動にはまだ耐えられない。

美優……。

早く探しに行きたい。

自分の足で。自分の力で。

栞が探偵を雇って探してくれている事は知っている。

沙奈が頼んだ場所へ、美優が来ていないかも見に行ってくれている。

でも、早く自分で探しに行きたい。

美優を迎えに行くには自分の役目だと思うから。

けれど、退院してからもうすぐ二カ月。

誰もいない家で一人、沙奈はベットの中から窓の外を見つめる日々を余儀なくされている。

ここに引っ越してきてから、家で一人になるのは初めてだった。

どんな時も必ずこの家には、美優がいてくれたから。

誰もいない静かな空間は、少し冷たい。

ベットに残っていた栞の体温ももう冷めて、今は自分の温もりだけを布団の中に閉じ込めている。

美優は毎日、何を想いながらこの風景を眺めていたんだろう。

この家で、一人で。

「美優……」

込み上げる想いに顔を伏せる。

週末にしか洗われなくなったシーツに、沙奈と栞の香りがする。

たとえ隣にいなくても、美優がいるだけでこの家がどれほど温もりに包まれていたのか。

深々と積もる実感が、頬に触れる空気よりも冷たく、沙奈の心を凍てつかせる。

外が怖いと言っていたのに。こんなにも長くどこに行ってしまったのだろう。

ちゃんと食事はしているだろうか。

温かい布団で眠れているだろうか。

一人になるとそんな心配ばかりが頭の中をよぎった。

少し顔を上げ、右手を開く。

美優が沙奈に刻んだ掌の傷。

深く残るその跡より、まだ癒えきっていない腹部の傷より、ずっと、心の方が痛かった。

「美優……」

右手を握りしめて、小さく呟く。

帰ってきて。

声にならない願いが、涙と共にシーツへ染み込んでいく。

と同時に、美優を求めながら、今、栞を手放せないでいる自身を責める声が頭の中に響く。

この卑怯者、と。

栞を傷つけると分かっているのに。

傍にいてほしくて。

酷いことをしていると、わかっているのに。

『それでもいいんです』

そう小さく呟く栞の顔を思い出す。

『チーフ……沙奈さんが、美優さんを好きでもいいって最初から言ってるじゃありませんか』

あの時、病院の白いベットの上で沙奈に包まれながら、栞はそう言って微笑んだ。

『私が沙奈さんを好きなだけなんですから。だから、そんな風に泣かないでください』

頬に触れる栞の指先が濡れて、沙奈は自分が泣いている事に気が付いた。

『私のせいで……ごめんなさい』

抱きしめてくれる栞の温もりが優しくて、哀しくて、その胸元に顔を埋めてしばらく二人で泣いていた。

この二カ月、沙奈は栞のそんな優しさにただもたれ掛かって来た。

かっこつけて生きて来たはずの偶像は消え去り、今は地に這いつくばる甘えた自己中心的な自分の姿しか見えない。

情けなくて、かっこ悪くて、悔しくて。

誰も守れずに、傷つけて。

「こんなんじゃ、駄目だよね」

そう自分に言い聞かせて、ベットから起き上がる。

まずは食べよう。

栄養をとって身体を整えて、それから二人とどう向き合うかを考えよう。

弱さじゃなくて、優しさで栞に接したい。

会議室でした口づけのように。

ありがとうを込めて。

そして、美優を……。


+++



夜の20時を過ぎて、栞が沙奈の家へと帰宅すると、珍しく一階の電気が点灯していた。

いつも二階で眠っている沙奈が、起きているらしい。

「沙奈さん?」

廊下を抜けてダイニングに入ると、キッチンでお湯を沸かす沙奈の姿があった。

「おかえり」

柔らかなその微笑みに、栞の心がほんのり温かくなる。

仕事の疲れも苛立ちも不安も、沙奈の微笑みに溶けていく。

「ただいま戻りました」

本当なら手に入らなかったはずの瞬間。

家に大切な人が待つ未来をこれまで幾度、想像してきただろう。

けれども、それが本来ここにいるはずの、いるべき人の不在がもたらした幻にすぎない事を栞は知っている。

その事実が、幸せな気分に浸りかける栞を現実へと引き留める。

恋人ならば、恋人だったなら、このまま沙奈を抱きしめて『ただいま』の口づけをするかもしれない。

そんな場面で、栞はただリビングテーブルの横に立ち尽くすばかりだった。

「紅茶、飲む?」

湯気の昇るポットを掲げて、沙奈が小さく首を傾げる。

「はい、頂きます」

頷いてまた栞も手に下げた袋を掲げて見せる。

「じゃあ私は夕飯を温めますね」

会社近くの駅に併設された百貨店で買ってきた総菜。

最近はもっぱらそれが二人の夕飯だった。

袋からサラダを取り出して、残りを順番にレンジで温めていく。

手羽先、青椒肉絲、春巻き。後一品、餃子か焼売を買おうか悩んだけれど今日はやめた。

あまり買いすぎると、明日の沙奈の昼食メニューが同じものになってしまう。

ふと見ると紅茶の葉をティーポットで躍らせている沙奈の視線がサラダの上で止まっていた。

栞もサラダを見つめる。

嫌いな食材でも入っていただろうか。

「これ、お嫌いでしたか?」

栞の声に、沙奈が少しハッとした様子で栞を見つめ、誤魔化すように微笑んだ。

「ううん、大丈夫」

もしかして美優さんの……。

喉元まで出かけた言葉を栞は飲み込んだ。

沙奈の中には美優がいる。

分かりきっている事なのに、いちいち痛む胸の奥が腹立たしい。

そもそも、栞には傷つく権利すらない。

今、美優がここにいないのは、沙奈の横顔が寂しそうなのは、全て栞のせいなのだから。

揺れそうな感情を少し奥歯を噛み締めてやり過ごしながら、栞は温まった総菜を取り出す為にレンジの扉を開ける。

「栞」

不意に耳元で声がして、栞の心臓がドキリと鳴った。

沙奈の腕が、するりと栞の腰を優しく抱きしめる。

「また、その顔してる……」

顔が火照るのを感じながら、栞は沙奈の手に自身の手を重ねた。

「どんな顔ですか?」

「痛そうな顔」

出会った頃から、沙奈は栞の変化によく気づく人だった。

寂しい時や辛い時、さりげなくいつも声を掛け励ましてくれた。

その気遣いが、今は少し心に痛い。

優しくされればされる程、栞の心の傷は広がっていく。

頬を撫でる手に導かれ、肩越しに見つめる沙奈の瞳の奥に栞は優しさ以外の感情を探す。

美優さんを愛しているのに、どうして私に優しくするんですか。

そう言ってこの手を振りほどけたら、良かった。

美優に対する罪悪感に焼かれながら、重なる唇を拒絶できずにそのまま深く重なり合っていく。

美優さん……ごめんなさい。

言葉に出せない謝罪を心の中で繰りかえす。

この瞬間だけ、私に沙奈さんをください。

沙奈の唇が導く官能に溶かされながら、薄れていく理性はいつも同じ言い訳を重ねた。

今だけ。今だけだから。と。


+++


その頃、美優は一人、見慣れない天井を眺めていた。

身体にかかる重みと肌を撫でる指先を、ただぼんやりと受け止める。

かつて、その指先を狂いそうな程に求めていた自分が今は別の人間に思える程、今、美優にとって彼女の指先はなんの喜びももたらしてはくれなかった。

自分の空虚な心が、身体が、ただそこに横たわっている。

「貴女、ほんとにつまらない人間になったね」

不意に彼女の動きが止まり、身体から重みが消えた。

「昔はあんなに可愛かったのに」

そう言って、杉原菜々美は美優に背を向けてベットへと寝転んだ。

はだけた夜着のボタンを留めながら、美優は「ごめん……」と小さく謝った。

「家に置いてあげてるんだから、少しは役に立とうって気はないわけ?」

背中越しに発せられる言葉に、美優はもう一度ごめんと呟いた。

あの日。

沙奈が倒れ、栞という名の沙奈の後輩が二階へと沙奈の着替えを取りに向かったあの時、美優は一人残されたダイニングで、流れ落ちた沙奈の血の跡を見つめていた。

小さな血だまり。沙奈から失われたもの。美優が失わせたもの。

失くせば沙奈の人生までをも奪ってしまいかねない、命の源。

美優は自分の手を見つめた。

返り血は、ない。

ただ、刃が食い込んだ時の感触だけが、手に、記憶に、意識に、はっきりと残っている。

沙奈の右手を切り裂いた時と同じ。

一瞬の光景が、脳裏に焼き付いて。

「沙奈……」

涙が溢れて零れていく。

だって沙奈が浮気するからいけないのよ!

そんな声が頭の中に響く。

私だけを好きでいてくれたなら、それでいいのに。

どうして私だけを見てくれなかったの……?

ただ、愛されていたい。美優の願いはそれだけなのに。

「沙奈……」

裏切られた痛みが胸を刺す。

と同時に、また沙奈を傷つけてしまった事への後悔が美優の心を責め立てる。

楽しかった。

愛していた。

信じていた。

でも

ずっと、裏切られる日を恐れて、不安は消えなかった。

こんな日が来るかもしれないとずっと怯えていた。

誰も美優だけを愛してはくれないから。

いつだって。

キッチンからリビングを見渡す。

見慣れた光景の中に、様々な思い出が浮かんでは消えていく。

二人で揃えた家具や装飾品。

美優が暴れてつけてしまった傷。

何度、あのソファで二人で愛し合い眠っただろう。

沙奈が美優に飽きてしまったのかは、分からない。

それでも

「私……幸せだったんだね。沙奈」

初めて美優はそう自分で認める事が出来た。

沙奈は確かに栞と口づけをしたのかもしれない。

どこかで裏切られ続けていたのかもしれない。

それでも、美優が沙奈と過ごした日々は確かに、美優の人生において唯一といえるほどの幸福に包まれていた。

もし、不安など感じずに沙奈を心から信じる事が出来ていたなら、沙奈はよそ見しなかっただろうか。

もし、美優がもっと早く沙奈を閉じ込めておいたなら、こんな事にはならなかっただろうか。

倒れたまま美優を見上げる苦しげな沙奈の、青ざめた顔が浮かぶ。

僅かな記憶に、そんな状態でも美優を庇おうとする沙奈の言葉を聞いた気がする。

刺したかったのは、沙奈じゃない。

いっそあの時、もっと早く、自分を殺しておけばこんな事にはならなかったのに……。

「ごめん……ごめんね、沙奈……」

顔を覆って泣きながら、一つだけはっきりわかった事があった。

美優は沙奈の傍にいてはいけない。

本当はずっと前に分かっていた気がする。

初めて傷つけてしまった時から。

沙奈の右手から溢れる血を見たあの時に。

「大好きだったよ、沙奈」

小さく呟いて、美優はリビングに背を向けた。

神様……。

もう随分と昔に祈る事を止めたはずの相手へ美優は願いを託す。

どうか。どうか。

沙奈を助けてください。

私は離れるから。

沙奈の人生から消えるから。

欲しいなら私の命をあげるから。

だからどうか……。

そう祈りながら、玄関の扉を開く。

外には不幸しかない。

分かっている。知っている。

だからこそ、美優は外へ出る。

これから起こる痛みを全て受け止めるから。

だから神様……。

沙奈を、助けてください。

沙奈を、幸せにしてあげてください。

私のすべてを

あげるから。


+++


栞と歩いた道を一人で歩いていく。

どこに向かうあてもない。

ただ夜の道を、ひたすら歩いて歩いて。

人のいない道を無意識に進んで行く。

これからどうするかなんて分からない。

また一人で生きていけるかどうか。生きていたいのかさえ、分からない。

ただ、沙奈の無事を確認するまでは、死ぬわけにはいかない。

辛うじて握りしめた財布だけが、美優の生存の意思を示していた。

見上げた月が、頼りなく美優を照らす。

『月の裏側に秘密基地がある映画、見た事ある?』

あれはいつ頃だっただろう。

二人で寝室から月を見上げながら、沙奈がそう言った。

『なにそれ知らない』

『ほんとB級でね、笑えないブラックジョークばっかりでさ』

楽しそうに話す沙奈の横顔が浮かぶ。

美優。美優。美優。

優しい沙奈の声が聞こえる。

暖かな指が唇が、美優を見つめる瞳が……。

記憶には沙奈の姿が溢れて……。

「沙奈……」

立ち止まり、美優は顔を覆った。

指の隙間から流れ落ちる涙がポタリポタリと地面に染みを作っていく。

声を殺しながら肩を揺らす美優の横に、静かに一台の車が止まった。

「なんとなく戻って来て良かった。乗って」

顔を上げた美優の前にいたのは、杉原菜々美だった。


それから半年。美優は菜々美のマンションで暮らしている。

菜々美の部屋は思っていたよりシンプルで、黒と白を基調とした家具で揃えられていた。

「狭いけど、二人くらいは全然暮らせると思う」

そう言って招き入れられた部屋。

昔、付き合っていたころには招かれなかった菜々美の家。

美優と別れた時に一度引っ越していたから、ここもまだ越して来てからあまり時間が経っていないのかもしれない。

「何があったか知らないけど、ゆっくりしていいから」

そんな優しい言葉を掛けてくれた菜々美だったけれど、やはりそれはそう長く続かなかった。

「あの時はごめんね。私も動揺して」

そんな謝罪さえ、今の美優にとってはどうでも良かった。

だから

「気にしないで」

そう微笑んでみせた事を了承と受け取ったのか菜々美はすぐに美優の身体を求めてきた。

拒絶する美優に最初こそ無理強いはしなかったものの、やがて

「他に行くとこないんでしょ?」

そう言って菜々美は美優の意思を無視し始めた。

人はそうそう変わるものではない。

だって、昔もそうだったから。

菜々美が美優の要望を聞いてくれた事は一度もない。

自分の都合がいい時にだけ会い、抱きたいときに美優を抱いて帰っていく。

当時はそれで良かった。菜々美が構ってくれるだけで嬉しかった。

でも今は……。

「役に立つ気ないならさ、そろそろ出てってくんないかな?」

背中を向けたまま、菜々美が言う。

「……分かった」

美優はただ頷く。

沙奈の無事を確認できるまで、生きていられればそれで良かった。

それまでの間、住む場所があれば良かった。

この半年

もしも沙奈に何かあったなら……もしもうこの世にいなかったら……。

そんな不安に足止めされて、確かめに行けずにいたけれど。

それもここで終わりにしよう。

菜々美の背中を見つめて美優は静かに呟く。

「今まで家に置いてくれてありがとう」

菜々美は応えなかった。

昔から彼女の背中を見る度に、母を思い出していた。

拒絶する背中は母の象徴だったから。

愛されていないのだと突きつけられてきた美優の人生そのもの。

結局、最後までそれは変えられなかった。

沙奈が、沙奈だけが……。

『私、沙奈さんと口づけしました』

記憶の中で再生される栞の声に、美優は苦笑する。

沙奈、さえも……。

美優を愛し続けてはくれなかった。

最初からこの世に、美優の居場所などなかったのだ。

それでも一時、幸せな夢を見た。

永遠に続くかもしれない幸せな夢を。

愛されていると錯覚出来た。

それだけで充分。

そう、本当に……幸せだった。

「ありがとう」

沙奈……。

小さな呟きと共に閉じた美優の目から、一筋、涙が落ちた。

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