episode7 wound

人生において気まずい沈黙の時を過ごす機会というのは、それなりの回数存在している。

けれど、これほど気まずい沈黙にはそうそう出会えないだろうと、斎藤栞は味の分からないコーヒーを口に含みながら、目の前に座る女性をチラリと盗み見た。

美優は俯いたまま、押し黙っている。

『こんにちは美優さん、打ち合わせに遅れてすみません』

そう明るく声を掛けた栞に、謎の女性に怯えていた美優は驚いた表情をして更に固まってしまった。

数度、女性と栞を見比べ、やがて『いいえ、大丈夫です』と応えた。

見も知らない女性の視線を感じて栞が彼女に微笑むと、彼女は栞を無視して『また会いましょう、美優』そうベランダに言葉を投げて、栞の横を通り過ぎた。

流れでエントランスに入り、とりあえず玄関の前に来た栞を、美優は黙って中に入れてくれた。

「15分したら帰りますから」

家に入った時、狂ったみたいに鳴り響くヤカンの火を止める美優に栞は小さく告げた。

もしさっきの女性がまだ近くにいた場合、すぐに栞が家を出てしまっては戻ってきてしまうかもしれない。

そんな栞の懸念を知ってか知らずか、美優は黙ったままフィルターに入れたコーヒーに熱い湯を注いだ。


コチコチと鳴る時計さえもない、閑静な住宅街にある家の中は、どこまでも静かで、自分の心音さえ聞こえそうな沈黙に栞はたまらず口を開いた。

「さっきの方は……お知り合いですか?」

「貴女には関係ないと思います」

コーヒーカップに視線を落としたまま、美優が強めの口調で答えた。

そうですよね……。

自分の問いかけの馬鹿さ加減に栞は内心、一人で頷く。

あからさまに嫌われている事は、最初に対面した時に分かっていたのに何を聞いているんだろう。

気まずさを増しただけの空気に栞も再び沈黙する。

今のところ、沙奈が彼女にこだわる理由が何一つ見えて来ない。

確かにとても綺麗な人だけど。

それだけで沙奈が彼女をあれほど大切にしているとは思えない。

早退。怪我。社会との剥離。

それが意味するもの。

美優の様子からして、彼女はおそらく働いてはいない。

経済的な依存。

沙奈の背負っている役割。

この女の為。ではなく、この女のせい、なのだとしたら……。

彼女が沙奈を何らかの形で支配している可能性もあり得るのだと、初めて栞はそんな考えに至った。

沙奈が、あの沙奈が、他人にいいように使われるような人物でないことは栞も知っている。

けれど、沙奈は優しい。

振る相手に口づけてしまう程。

罪深いほどに、優しい。

その優しさを利用する人間が、少なからずこの世に存在することを栞だって知っている。

美優がそういう類の人間でないとどうして言い切れるだろう。

簡単に騙されないであろう沙奈でさえ、妄信してしまう程の何かを彼女が持っているのかもしれない。

沙奈だって、一人の人間なのだ。

間違う事だってあり得る。

目の前の一見大人しそうな、トゲトゲしいオーラを纏うこの女が、沙奈を傷つけて、その人生を台無しにしている。

少なくとも、沙奈の右手の傷は彼女と付き合ってから出来たものに間違いないのだ。

手に平に刻まれた痛々しい傷跡。

その傷をつけたのは、間違いなくこの女。

「チーフの……」

思考が栞の身体の温度を上げたせいか、少し鼓動が早い。

今まで重苦しかった空気が一切気にならなくなって、栞はまっすぐ美優を見据えた。

「……沙奈さんの右手の怪我の原因をご存じですよね?」

僅かに美優の身体がビクリと揺れる。

「ずっと気になっていたんです。縫うほどの大けがなのに、チーフ……沙奈さんは料理で手が滑ったって。右利きの人がどうして料理で右手の、それも掌を切ったのか」

美優は答えない。

「こないだ倒れたのも。5年一緒に働いていますが、あんなことは初めてでしたから。原因に心当たりはありますか?」

美優は俯いたまま、冷めていくコーヒーのカップを両手で包んだ。

その指先が震えている。

先ほどよりも少し悪くなった彼女の顔色から、栞は確信する。

全て、この女のせいなのだ、と。

「私……」

それは怒りだったのか、嫉妬だったのか、純粋に沙奈への想いからだったのか。

栞にこの先の言葉を発せさせたものの正体は分からない。

ただ宣言してしまったのだ。

本当は言わなくても良かったはずの事を。

言うべきではなかった事を。


+++


やっちゃったなぁ……

沙奈は帰りの電車の中でぼんやり窓の外を眺めながら、襲ってくる後悔と罪悪感を同時に噛み締めていた。

誠実に対応しよう。

そう思っていたのに。

沙奈を見上げる会議室での栞の顔が脳裏を横切る。

あんな一生懸命な目をして、とんでもないことを言うから。

出来得る限りの精一杯で答えてあげようだなんて、ちょっと恰好つけてしまった……。

恋人がいる身で抱いてくださいと言われて、はいわかりましたというわけにはいかないのは栞も分かっていたはずだから、きっとあの場ではあれが正解だったんじゃないかと思っている。

思ってはいるけれど、美優に対する罪悪感がやはり胸を刺す。

あれで栞とは終わり。

明日からはただの上司と部下。

もうすぐ、直属の上司ではなくなるわけだけれど。

栞の件といい、次回のプロジェクト以降の沙奈のポジションといい、急に色んな事が起きて少し疲れた……。

今日は美優に髪洗ってほしいな……。

過ぎ行く景色はいつもと変わらず、僅かに込み合った電車の中にはガタンゴトンと、車両が揺れる音だけが心地よく響いている。

毎日行っては帰る道。

いつか、美優を一人にする時間をなくす為に、沙奈に今できる事はなんだろう。

今の仕事は嫌いではない。でも、今の生活を続ける限り沙奈がやがて会社のお荷物になる事は目に見えている。

今回も降格こそされなかったものの、実質的な左遷なのだ。

在宅ビジネスやその他の働き方をそろそろ本気で検討した方がいいかもしれない。

いや、むしろこの左遷が、沙奈にこの道ではダメだという神様からのお告げであるかもしれない。

もっとちゃんと、二人で幸せになれる道を探しなさい、と。

いつまでも美優に我慢をさせたくない。

美優が寂しくない事。それは、沙奈の願いでもあるから。

「次の停車駅は……」

自動アナウンスが家の最寄駅の名を告げる。

今日の夕飯は何だろう。

そういえば、今から帰る電話をし忘れていた事に気づく。

どれだけ自分が栞の件で動揺していたのか、改めて思い知って苦笑する。

あんなに可愛い子に、あそこまで迫られたらそりゃ動揺だってするわよ、と心の中で言い訳しながら取り出したスマホに着信の履歴はない。

ザワリと嫌な感触が沙奈の心の中を撫でる。

沙奈が電話を忘れても美優が何の連絡もしてこないのはおかしい。

普通なら恐ろしい程のメールが届いているか、鬼電されていて然るべき状況に着信0。

何かあったのか。

ドアが開ききらない内に身体を滑らせ、ホームを走り抜けていく。

改札を出て、家までの道を走る。

あぁ、最近は本当によく走るなぁなんて、のんきな心の声を無視してスマホの通話ボタンを押す。

美優へのコール。

1回、2回、3回……

留守電に切り替わる直前に電話を切ってもう一度コールする。

出ない。

心臓が走っているのとは関係のないベクトルで、鼓動を早めていく。

走っているのに身体がどんどん冷えていく。

「電話に出て、美優」

どうして電話を忘れてしまったのだろう。

先ほどまでとは違う、泣きたくなるような後悔が胸を締め付ける。

スマホからは虚しくコール音だけが響く。

「美優、美優!」

繋がらない電話に声を掛けながら、自宅マンションのエントランスへと転がり込む。

開錠する作業すらもどかしい。

後何回、こんな思いをするのだろう。

不安で張り裂けそうな胸の痛みに、そんな事を思う。

どうすればこんな事がなくなるのだろう。

疲れた心が泣きごとをこぼすのを全力で無視する。

「美優!」

玄関を開いて大声で呼ぶ。

幸い、部屋の電気は点いていた。が、玄関に美優のものではない靴があった。

ドキリと沙奈の心臓が鳴る前に、奥から声が聞こえた。

「やめてください!どうしてそんな!」

聞きなれたその声は、間違いなく斎藤栞のものだった。

急いでダイニングへ向かうと、キッチンでもみ合う二人の姿があった。

「嫌!離して!離してよ!みんな嘘つきばっかり!もう嫌!!」

金切り声で泣きながら叫んで暴れる美優を、栞が必死で抑えている。

床に落ちた万能包丁が、何が起こったのかを告げていた。

美優が沙奈以外の人間を傷つけようとするとは考えにくい。

だからきっと、自分を傷つけようとしたのだろう。

でも、どうして。

そもそもなぜ斎藤栞はここにいるのだろう。

様々な疑問をとりあえず横において、沙奈は二人を引き離すように美優を抱きしめた。

「チーフ……!」

「嫌!嫌!沙奈なんて大っ嫌い!離してよ!この嘘つき!」

腕の中で暴れる美優を強く抱きしめて、沙奈が栞を見つめると、申し訳なさそうに、その瞳が逸れた。

話したのか……。

そんな絶望に似た落胆が心を重くする。

沙奈と栞の間にあった事を美優が聞いて、正常でいられるわけもない。

分かっていた。

分かっていたのに。

「ごめん、美優」

「離して!大っ嫌い!大っ嫌い!!」

激しく抵抗されて、沙奈の身体が壁に叩きつけられる。

強く打ち付けた背中に痛みが走り、一瞬呼吸が止まる。

わずかに緩んだ腕からすり抜けた美優が床に落ちた包丁を拾うのが見えた。

「駄目!美優!」

全てがスローモーションのようにゆっくりと展開していく。

ただ

ただ

夢中だった

煌めく刃も

涙に濡れた美優の顔も

今にも泣き出しそうな顔をした栞も

何もかもがゆっくりで

どうしてそうなったのか

何がいけなかったのか

いや、きっとやはりあそこでキスするべきではなかったのだ。

あの時、せめて出来る事をと思った。

その想いにどれだけの罪があったというのだろう。

今までもこれからも、沙奈が想い願うのは、美優との未来。

それだけだった。

それだけだったのに。

「美優!!!!」

運命は

沙奈を許してくれなかった。


+++


鼓動のリズムを電子音が繰り返し刻む。

蛍光灯に照らされた病院の個室は、消毒液の香りを僅かに纏い、白いシーツが無機質にその身体を包んでいた。

青白い顔につけられたマスク型の呼吸器が少しだけ曇るのを、栞はただ一人見つめていた。

あの出来事から三日。

木崎沙奈は瞳を閉じたまま静かに眠っている。

命に別状はない。そう聞かされているにも関わらず、沙奈が目覚める気配はまだ、ない。

あの時。

もしかしたら沙奈はこうなる事を知っていたのかもしれない。

だからきっと、目を醒まさない。

これから……ずっと……?

胸を刺す痛みに滲む視界を栞は両手で覆った。

「ごめんなさい……」

何度となく口にした言葉を繰り返す。

もう謝ってもどうにもならないと知りながら、それでもそうする事しかできなくて。

「ごめんなさい」

ただそう言いながら泣いた。


あの時。

全てが変わってしまったあの瞬間。

何もかもが一瞬で二人の動きが止まってしばらくの間、栞には何が起きたのかよくわからなかった。

壁に打ち付けられた沙奈が刃物を手にした美優の名を呼び、その胸元に向けられた刃を防ぐように覆い被さった。

動きを止めた二人を見て、始めは自分が引き起こしてしまったこの混乱が無事終息したのかもしれない。そんなことを思った。

なのに、栞の鼓動はその早さを緩めなかった。

それどころか一層、その早さを増して、床に倒れたままの二人を見つめていた。

茫然と倒れたまま天井を見上げていた美優が、ゆっくりと身体を起こす。

その瞳があまりにも虚ろで、栞の不安を掻き立てた。

手に

刃物はない。

美優に覆いかぶさっていた沙奈の頭がずれて、ちょうど膝枕をしているような形で美優の太腿の上に収まった。

「沙……奈……」

震える声が沙奈を呼び、指先がそっと髪を撫でる。

「沙奈……ねぇ、沙奈」

怯えの色を濃くしながら、美優の瞳から涙が溢れていく。

「沙奈……」

「う……」

小さな呻き声と共にぐらりと沙奈の身体が揺れて、横倒しになったその腹部を美優の手にあったはずの包丁が貫いていた。

服に血が滲み広がっていく。

「チー……フ……」

目の奥が収縮しているみたいに視界が白みを帯びて、映る光景に現実味がない。

ただ呼吸だけが早く、混乱しそうになる頭の中で必死で留めようとする自身の叫びを聞いていた。

「大丈夫……大丈夫……だから」

苦しそうに僅かに目を開くと、美優を見上げて、沙奈がそう言って少し微笑んだ。

「私が丈夫なの知ってるでしょ?」

「いや……沙奈……いや……」

「大丈夫。大丈夫よ」

繰り返しそう言いながら、沙奈が優しく美優の頬を撫でる。

一方で、反対の手が強く美優を捕まえている事に気づいて、栞は反射的に美優を抱きしめた。

次の瞬間。

「いや!沙奈!沙奈ぁ!!」

爆発した様に美優が取り乱し、暴れ始めた。

両腕で必死に抱き留めながら栞は沙奈を見た。

動かせないのか、動かないのか、首だけをこちらに向けた沙奈の瞳が、深く瞬く。

「いや……いやぁ……」

僅かな混乱の後、美優は栞の腕の中で泣き崩れた。

「チーフ、救急車すぐ呼びます!」

そんな彼女を支えながら、栞はポケットの中のスマホを引っ張り出す。

「いい。自分で呼ぶから。それよりも美優をどこか落ち着ける場所へ、お願い」

「ですが……」

「私は料理をしてる最中にかかってきた電話を取ろうとして転んだ。いい?」

今や血の気を失った蒼白な顔には脂汗が浮かんでいる。

それなのに、瞳だけがまだ栞を、いや、佐々木美優を優しく見つめていた。

「警察に美優を渡したくないの。お願い」

腕の中でただ弱々しく震えている細い肩を、栞は見下ろした。

「これ以上、精神的な負担を与えたく……な……い」

不意に沙奈の呼吸が乱れた。意識が混濁し始めているのかもしれない。

「お願い。美優を……死なせないで」

栞の頬に理由の分からない涙が溢れて零れた。

「はい」

そう応えて、栞は美優を支えて立ち上がる。

「その代わり、絶対死なないでください。約束です」

「……分かった」

溢れ出す涙を拭って、栞は力なく泣き続ける美優を連れ、自身のカバンを肩に掛けるとそのまま玄関へと向かう。

振り返ると、沙奈がスマホが取り出し救急へと電話をかけていた。

「すみません、料理の途中で……」

沙奈の声を聴きながら、栞はそっと玄関へと向かい、そのまま静かに外へと出た。

すっかり暗くなった住宅街を女二人が寄り添って、トボトボと歩いて行く。

あちこちに点いた部屋の明かりが妙に眩しい。

本当ならば、栞も美優も沙奈も、昨日と同じ今日を、あの明かりの中で過ごせたはずだった。

どうして……一体自分は何をしてしまったのだろう。

襲って来る後悔と罪の意識で崩れそうになる気持ちを、必死で奮い立たせる。

せめて、ちゃんと美優さんを護らないと。

それがチーフとの約束だから。

死なない、死なせない、約束。

駅に向かう栞の目に、ファッションホテルの看板が映った。

普段、気にかけたこともなかったから、こんな場所にあったなんて知らなかった。

チラリと美優を見る。

かろうじて歩いているものの、その瞳は焦点を定めていない。

栞の家に行くには距離があり、電車にも乗らなければならない。

沙奈はこの件を事故で済ませようとしている。ならば、あまり人目につくのは得策ではないだろう。

「とりあえず、あそこに入りますね」

そう言って、栞は美優を連れてホテルの一室へと避難した。


思ったよりシックな作りの部屋は上品なアロマの香りがした。

美優が大きなベットに腰掛けるのを確認して、とりあえず栞は窓を開いてみた。

少し乗り出すと、沙奈のマンションの玄関が見える。

そこに丁度、救急車が1台。サイレンを消した状態で到着した。

恐らく、サイレンを鳴らさないで欲しいと沙奈が頼んだのだろう。

ご近所対策というよりは、それもまた美優に対する気遣い、そんな気がした。

「どうかしたの?」

弱々しい美優の声に栞は身体を部屋に戻し、二重になっている窓を閉め、壁を模した扉を閉じた。

「いいえ。大丈夫です」

美優の前を横切って、簡易ポットを洗面台へと持っていき洗う。

「沙奈……死ぬの?」

「いいえ」

「私が……刺した?」

「……」

一瞬、言葉に詰まる。

事故、と言ってしまえばそうなのだ。

そして、その事態を引き起こしたのは、間違いなく栞。

「貴女は悪くありません」

涙が再びあふれ出す。

「私が……」

ポットが洗面台へと転がり、水しぶきを上げる。

床に伏して泣く栞の背中を美優がそっと撫でた。

「どうして?私が沙奈を刺したのに、どうして私は悪くないの?」

「美優……さん……」

「おかしい、そんなのおかしいよねぇ」

ぼんやりとした口調と今だ焦点が定まらない瞳が、彼女がまだ正常でないことを表していた。

「ごめんなさい……ごめんなさい、美優さん」

「どうして謝るの?悪いのは……私?ううん、沙奈だよ」

「え……?」

「沙奈が悪いの。だから貴女は悪くないのよ」

優しく髪を撫でる美優の微笑みが、栞の中の恐怖心を煽った。

「美優さん、お願い、しっかりしてください」

「悪くない?わからない……どうして?」

遠くを見つめる美優の瞳が、狂気の色を宿す。

「どうして?なんで?沙奈?沙奈ぁ!!!!いやぁ!!!」

突然暴れ出す美優を抱きしめて、栞はそのまま身体ごとベットへと抑え込む。

「離して!沙奈のところに行かなきゃ!外は嫌!沙奈の元に帰して!!!」

沙奈を呼び泣き喚く美優を栞はただ必死で両腕で抱きしめる。

美優の手が、腕が、足が、栞の身体を打ち付ける。

ああ、どうして気づかなかったのだろう。

この人の左の腕にある無数の傷に。

その首の横に深々と刻まれた深い跡に。

そして沙奈の怪我についてどうしてもっと深く考えなかったのだろう。

傷ついたその理由を。

毎日掛けていた電話も。来るとすぐ返信するメールも。

行かなくなった飲み会も、休日出勤も、残業も。

全部、この人の為。

この人がこうやって壊れてしまわないための。

「ごめんなさい……美優さん、本当にごめんなさい」

もがく美優を力づくで抑えながら、栞はただ謝るしかなかった。


いつの間に眠っていたのか、腕に美優を抱きしめたまま、栞は目を醒ました。

ポケットのスマホを取り出すと、2時間程経過していた。

思った以上に混乱していた栞の意識は、眠った事で少し回復していた。

今やらなければならない事を脳が冷静に判断する。

まず沙奈が搬送された病院を突き止めて、着替えを持って行かなくてはならない。

頭をよぎる嫌な想像を首を振って跳ねのける。

沙奈は言った。

分かった、と。

約束を破る人ではない。

だから、大丈夫。

不安に怯える心を叱咤して、自分に出来る事をする為に起き上がる。

美優も泣き疲れたのか、眠っていた。

少し離れたところにあるソファで、スマホを操作し近所の救急搬送の受け入れをやっていそうな病院を調べて電話を掛けていく。

「すみません、木崎沙奈の……」

プライバシー保護を掻い潜る為に僅かな嘘をついて、沙奈を探す。

そして4件目で、沙奈の入院している病院へとたどり着いた。

幸い、ここからそう遠くない場所にある病院だった。

タクシーで行ってもそう時間はかからない。

美優を一旦家に戻してからタクシーで向かっても問題なさそうだった。

「それで、容態は……」

まだ手術中との事で、詳細は聞けなかった。

ただ、まだ生きている。

それだけは確定事項だった。

電話を切ると、目を醒ましたのか美優が身体を起こした。

「起こしてしまってすみません」

「沙奈、無事?」

「はい」

「そう」

眠る前よりずいぶんと落ち着いた様子の美優に、少しホッとする。

「家に戻りましょう。着替えを病院に持って行った方がいいと思います」

「私……」

「まだここにいたいなら私が……」

「一緒に戻ります」

美優の返事に「はい」と答えて、栞は清算を済ませると、ホテルを出て、再び沙奈のマンションへと向かった。

家の玄関へとたどり着くと、ドアには鍵が掛かっていた。

「鍵が……」

すると、美優がポストへと手を伸ばし器用に内側から鍵を取り出した。

「私の腕くらいしか入らないから。このポストの隙間」

確かに、細い腕の人間限定、しかもどこに鍵があるかを知っていないと取り出せない、そんな感じがした。

扉を開けて中に入ると、部屋は何事もなかったかのように静かだった。

さっきまでの事は夢で、本当は何も起きていないのかもしれない。

そんな錯覚さえ起こしそうな程に。

けれど、ダイニングに落ちた血の跡が、あれは確かに現実だったと栞に告げていた。

「カバンはここに」

そう言って、リビングのテレビの後ろにある収納から、美優が大きめの旅行鞄を取り出した。

「服は二階です。タオル類を用意しておきます」

そう言って、栞に鞄を差し出した。

「分かりました」

鞄を受け取って、栞は二階へと上がる。

始めて入る二人の寝室は、とても整頓されていて、一目で清潔だと分かった。

ピンっと張られたベットカバー。ふんわり膨らんだ布団。洗い立ての洗濯物とおひさまの匂いがした。

クローゼットを開けると、沢山の洋服がかかった下のスペースにピンクと黒のタンスが仲良く並んでいた。

案の定、黒い方に沙奈の下着が入っていて、思わず顔が熱くなる。

なんとなく鞄を受け取ってしまったけれど、これは美優さんが準備した方が……。

開けたタンスを閉めて、栞は階下へと戻った。

タオルこそ栞が用意すればいい。

「あの、美優さん?」

ダイニングの机の上にバスタオル数本とタオル、洗面用具や携帯シャンプー等のシャワー用品が綺麗に並べて置かれていた。

けれど

「美優……さん?」

美優の姿は、どこにもなかった。


「ごめんなさい……私が目を離したばっかりに……」

白いベットで眠る沙奈に栞はただ謝罪するしかなかった。

美優を探して、栞は家の周辺を駆け回った。

警察沙汰にしたくない沙奈の意向もあって、大声で呼ぶわけにも、派出所に駆け込む事も出来ない。

ただひたすら、栞は一人で美優を探し続けた。

幸い、ニュースで美優らしき人物の話題は出ていない。

けれど、美優が消えてしまった事に変わりはなかった。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

全ては栞が引き起こした事。

どうして好きだなんて言ってしまったのだろう。

どうして秘めたままでいられなかったのだろう。

どうしてこの人に恋をしてしまったのだろう。

どうしてあの時……

『私……キスしました』

そんな事を言ってしまったのか。

『チーフも……沙奈さんの方からも、私にキスしてくれました』

驚愕に見開かれる美優の顔が頭から離れない。

『私、沙奈さんが貴女に出会う前からずっと好きだったんです』

そんな宣言に一体なんの意味があったのだろう。

『もう何度もキスしました』

後悔だけが胸を締め付ける。

何もかもを見落として、自分の気持ちだけしか見えなくて。

それが正しいと、どうして思ってしまったのだろう。

沙奈を彼女から救うだなんて、傲慢も甚だしい。

自分勝手な理由で二人の人間を傷つけた。

こんな事を望んだわけじゃなかったのに。

「ごめんなさい……」

ただ……

ただ私は

「……貴女が好きなんです。それだけ……だったんです……」

どうしてこんな事になってしまったのだろう。

ただ沙奈に恋をした。それだけだったはずなのに。

「……ごめんなさい……ごめんなさい……」

泣き続ける栞の前髪をふわりと何かが撫でた。

顔を上げると、沙奈の手が目の前にあった。

「チーフ!?」

手を握り沙奈の青白い顔を見つめると、ゆっくりと沙奈の瞳が開いた。

「貴女のせいじゃないわ」

苦しそうな、声。

「悪いのは私」

そう言って栞を見つめたまま、沙奈は弱々しく、それでも優しく微笑んだ。


episode7 fin


next episode8


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