episode6 Each feeling
「おはよう」
そう言いながら、沙奈はいつもと変わらない振る舞いを心がけながら、自分のデスクに向かう。
すでに出社してる部下たちの挨拶に、応えながら微笑むと、栞と目が合った。
「おはようございます、チーフ」
その表情の奥に、無意識にいつもと違う何かを探してしまう。
視線がその唇を捉える。
「おはよう、斎藤さん」
そう応えていつも通り微笑んだ……つもりの沙奈の心臓は、いつもよりも早い鼓動を刻みながら、顔の筋肉を緊張させようとしくる。
なるべく自然に目を反らして、そのままデスクに辿り着くと、仕事をするフリをして、顔を画面で隠した。
『今日お休みする?』そう言って可愛い顔を傾げながら、寝ぼけた沙奈を心配そうに覗き込む今朝の美優の顔が浮かんだ。
いっそあの誘惑に負けてしまいたかった。
そうすれば今頃は、美優の可愛い声と白い肌に包まれた至福の時の中にいただろうに。
自分の判断が心底悔やまれる。
だが、家にいたところで問題は解決しない。
逃げて苦悶の時間を増やすくらいなら、さっさと決着をつけてしまった方が時間にも精神にも優しい。
今日が、そしてこれからの数時間がどんなに気まずくとも。
頑張れ、私。
そう思いながら立ち上げたPC画面の中に、さっそく栞を呼ばなければならない案件を見つけて、沙奈は心の中で深いため息をつく。
もう早く、終わらせてしまいたい。
いっそ今から呼び出して、自分の気持ちを伝てしまおうか……。
「そうはいかないわよね」
誰にも聞こえない声で小さく呟いて、沙奈は画面から顔を上げる。
広いフロアに点在している部下たちのデスク。
その中の一つで、画面と向かい合う栞の横顔が見える。
真剣な眼差しは口づけした時よりもドライで、隙がない。
彼女は今、どんな心境で仕事をしているのだろう。
普通に見えるその振る舞いが、彼女の努力の賜物なのか、本当に気にしていないのか、沙奈には分からない。
それでも。
意を決しての告白だったのは間違いないだろうと、そう、思うから。
せめて仕事が終わってから、彼女が自由に泣ける時間になってから。
それが沙奈が今、彼女に示せる唯一の優しさだと、思う。
「斎藤さん、ちょっといい?」
昨日は栞につい、嘘をついてしまったから。
今日は何も偽りたくない。
「あ、はい」
「メールでくれてた資料なんだけど……」
真っ直ぐな栞の想いに、同じく嘘偽りなく真っ直ぐ答える事。
それがせめて沙奈に出来る精一杯。
そう
思っていたのに……。
+++
心臓がドキドキしすぎて、少し痛い。
唇に残る沙奈の温もりを指でなぞりながら、栞は自宅の鏡を一人覗き込んでいた。
出勤前の準備を整える為に洗った顔を、見つめる。
自分のどこのあんな勇気が眠っていたのだろう。
好きだと伝えるだけのつもりだったのに、勢いで口づけをしてまった。
しかも、なんとも大胆な申し出まで口走って……。
「あぁ……」
がっくりと肩を落とす。
あんな事まで言うつもりじゃなかったのに。
確かに、本心には違いない。
けれどいきなりそんな発言をしてしまう女をチーフはどう思っただろうか。
栞はそんなに軽率な女ではない。
ただ、抑えられない想いが一気に溢れ出して、止められなかった。
幻滅されていたらどうしよう。
唇を合わせた事よりも不安が先行して、結局昨日はよく眠れなった。
美優さんと別れて欲しいわけじゃない。
栞の気持ちを知ってほしっかっただけ。
そんな事を繰り返し思考して、結局、沙奈に誰よりも愛されたいと思っている自分に気づく。
知ってほしいだけ、なんて、嘘。
栞は望んでいる。
時間がかかっても、沙奈が自分を選んでくれる事を。
美優さんよりも栞を愛するようになってくれる事を。
身勝手だと思う。
でも、もう傍観者として蚊帳の外で、二人を見守るなんて出来ないから。
「しっかりしろ!斎藤栞!」
ぺちっと両手で頬を叩く。
既に賽は投げられた。
栞に出来ることは、沙奈の答えを待つ事だけなのだ。
結果は分かりきっているかもしれない。
それでも。
会社の部下としてではなく、木崎沙奈という一人の人間の人生に関わっていきたい。
そう、思うから。
+++
「ねぇ、チーフどこ行ったか知らない?」
朝のやり取りをなんとか乗り越えて、夕方に差し掛かり始めた時刻、栞は木崎沙奈を探していた。
沙奈が出勤して来た時、本当に破裂するんじゃないかと思うくらい、心臓が痛かった。
いつも通り挨拶出来た、と思う。
沙奈がいつも通りの振舞いを崩していなかった事に心のどこかでホッとしながら、同時に不安を掻き立てられもしていた。
嫌厭されたり、拒絶されたりするよりは、全然いい。
けれど、栞の一世一代の告白は彼女にとってなんでも無い事で、もしかして本気にされていないのかもしれない。
このまま何もなかった事にされて、今まで通りの関係に落ち着いてしまったら……そんな不安が心をよぎる。
それはそれで答えを聞いたも同然ではあるけれど、判別のつかない宙ぶらりんの状態というのは、正直落ち着かない。
焦ったところで仕方ない。そう思いつつ普段と同じ沙奈の振る舞いに心は乱れてしまう。
それでもなんとか仕事を進め、朝に指摘された箇所を訂正した資料がやっと完成し、今、確認の為に栞は沙奈を探している。
「チーフならまだ会議室じゃないかな?」
そういえばついさっきまで、チーフクラスの人間が集まる会議が開かれていたような気がする。
いつもなら忘れない情報。
「そっか、ありがと」
どれだけ自分が動揺している状態にあるかを思い知る。
一つ上にある会議室ばかりが集まったスペースへと向かう途中、沙奈が倒れた場所に差し掛かり、栞はふと足を止めた。
長く一緒に働いていて沙奈が倒れた事など一度もなかった。
無理をする傾向があるのは知っていたけれど、あそこまで自分を追い込む人ではなかったはずなのだ。
美優さんのせい、なんですか?
そんな疑問が頭をよぎる。
貴女が変わってしまったのは美優さんのせいなんですか?
そう尋ねてみたい衝動が栞の中で疼く。
実力も過去の業績も申し分ない状態でありながら、突然、自ら出世の道を閉ざすような行動を重ねるようになった。
家族の事情です、そう言って早退した翌日に怪我をしている事も多々あった。
それらの原因が全て美優さんのせいなのだとしたら。
『その人は貴女に必要な人ですか?』
頭に響く囁きに、栞は慌てて首を振った。
それでも声は栞の中で響き続ける。
『私の方が貴女にふさわしいのに』
パチンと、栞は両手で頬を叩いた。
そんな事、考えちゃいけない。
絶対に思うべきではない。
沙奈にとって、誰が必要であり、そうでないのか。
決めるのは栞ではない。
一度目を閉じて、息を吐く。
会議室の扉が立ち並ぶ廊下。
その一室だけが今も閉ざされていた。
恐らく、沙奈はそこだろう。
軽くノックをして扉を開けると、一人、ホワイトボードに向き合う沙奈の姿があった。
「チーフ」
そう声を掛けると、沙奈がホワイトボードに向けていた視線を栞にむけた。
「斎藤さん、どうしたの?」
「資料が完成したので見て頂こうと」
資料を差し出しながら、歩み寄ると後ろで勝手に扉が閉まる音がした。
手渡した資料に沙奈が目を通している間、栞は何気なくホワイトボードを見つめ、凍りついた。
「チーフ、これ……」
「来季のプロジェクトチーム編成。まだ決定じゃないけど部長はこれで進めたいみたい」
そこに、沙奈の名前がない。
更に栞の名前が別のチームの中に組み込まれていた。
「これ……どういう事ですか?」
「まぁ、倒れるような人間に重要な案件は任せられないって事でしょうね」
「そんな!」
声を荒げる栞に、沙奈は静かに微笑む。
「きっと私が部長でも同じ判断をしたと思うから、仕方ないわね」
仕方なくなんてない。
ただでさえ不安定な栞の心にバランスが一気に崩れていく。
「体調や家庭の事情を鑑みての配慮だから」
「そんなのただの建前じゃないですか!」
「落ち着いて斎藤さん。私が指揮したんじゃ、また貴女達に迷惑かけちゃうし、これはこれで……」
どこまでも冷静な沙奈の姿に、栞は思わずその両腕を掴んだ。
「どうしてですか!」
「斎藤さん……」
「どうしてそんな」
そこまで言いかけて、栞は唇を噛む。
感情を上手くコントロールできずに、吹き荒れる想いの波に飲み込まれていく。
上にとって、会社にとって、沙奈を外すことが妥当だなんて、そんな事あっていいはずがない。
沙奈を掴んだまま俯く栞を宥めるように、沙奈の優しい声が耳を打つ。
「私は今、残業しないし、休日出勤もしない。家庭の事情で早退することもあって、おまけに倒れた。当然の結果だと思うわよ」
「そんなの!」
個人の事情を鑑みず、社畜だけしかいらないと言うのなら、そんな会社、栞だってごめんだ。
けれど今はそれよりも、そんな状況にある自分自身を良しとしている沙奈が、栞は何よりも悲しかった。
「どうしてですか、チーフ」
少しだけ残業して、少しだけ飲み会に出て、短時間だけでも休日出勤に顔を出して……。
今の状況を改善させる手段はある。
古臭く馬鹿な上層部を黙らせる方法を沙奈が分かっていないはずないのに。
「美優さんの為、なんですか?」
掴んだ腕がわずかに強張るのを感じた。
「全部、美優さんの為なんですか?」
「何言ってるの、斎藤さん」
自分の声を震わせているのが、怒りなのか、悲しみなのか栞にはわからない。
「チーフが変わったのは、美優さんと付き合い始めてからですよね?」
見上げた顔が言葉を探して、栞を見つめていた。
「どうしてなんですか、どうしてそこまで」
自分のキャリアを、人生を棒に振ってまで。
そこまでして尽くすべき相手なんですか。
貴女が犠牲になってまで。
栞の視界が涙で滲んでいく。
「斎藤さん、私は……」
その先を聞きたくなくて、栞は言葉を被せる。
「どうして私じゃダメなんですか?」
「……」
「私なら、チーフの出世の邪魔をしたりしません。力にもなれますし、応援だって出来ます。私なら貴女の人生を窮屈になんて……」
「斎藤さん」
どこまでも優しく諭そうとする沙奈の腕を更に強く掴んで、栞はそのまま壁に沙奈を押し付ける。
「チーフ……」
涙が頬を伝っていく。
沙奈に身体を寄せる自分の肩が震えているのを感じていた。
どうして。
どうして。
そんな言葉が頭の中をただ回っていく。
もっと評価されるべき人なのに。
もっと高みへ登れる人なのに。
大好きな人を支える力が栞にはあるのに。
どうして。
壁に身体ごと沙奈を押し付けたまま、顔を上げた勢いで唇を重ねる。
沙奈は動かない。
しばらく唇を重ね、そしてゆっくり離す。
「私を恋人にしてください……」
口から零れた言葉。
混乱した心が栞の制御を離れて暴走していた。
栞ならば沙奈を窮地から救える。
そんな確信に似た思いが、栞を突き動かしていく。
「そしたら、私、なんでもしますから。チーフの為に出来る事、なんでもしますから」
悲しそうな瞳が栞を見下ろし、そして、沙奈は小さく左右に首を振った。
「そんな事、私は望んでない」
「チーフ」
「貴女の気持ちは嬉しいし、有り難いと思ってる……でも……」
「一度でいいですから!」
沙奈の言葉を遮って、最後の望みを託すように栞が声を絞り出して叫んだ。
今すぐに勝ち目のない事なんて分かっている。
でも将来がどうなるかなんて、わからないから。
だから今、部下以上の繋がりが欲しかった。
遊びでも構わないから。ただ一度でもいいから。
「抱いてください……お願いです……」
沙奈の胸元に顔を埋めて、絞り出した声はあまりに小さく弱々しかった。
もうこのまま、何もないまま、沙奈の傍にいるなんて出来ないから。
「そしたらもう、困らせませんから……」
これまで通り、部下として尽くしていく自分に戻る為に。
今は叶わないのだと思い知る為に。
たった一度だけでいい。
沙奈と栞だけの秘密が欲しかった。
「斎藤さん……」
呼びかける声に顔を上げると、沙奈の両手がそっと栞の顔を包んだ。
「女の子が軽々しくそんな事言っちゃダメ。もっと自分を大切にしなさい」
「チー……」
開きかけた唇をそっと沙奈の唇が塞いだ。
優しい、口づけ。
ゆっくりと瞬きをする間だけの。
「私にはこんな事くらいしかしてあげられない。ごめんね」
離れた唇の温もりが涙を誘う。
沙奈の口紅の味が、涙と交じりあって口の中に広がっていく。
「今日はこのまま早退しなさい。目を腫らしたまま仕事したくないでしょ?」
「……はい」
「気をつけて帰るのよ」
微笑を残して、会議室の扉を開ける沙奈が栞を振り返った。
「貴女の気持ち、本当に嬉しかった」
栞も振り返り沙奈を見つめる。
「ありがとう、栞」
そう言って沙奈は扉を閉めた。
一人、会議室に取り残された栞は、茫然としたまま、閉じた扉をしばらくの間ただ見つめていた。
+++
美優はその日もいつもと変わらない日常のルーティンワークをこなして過ごしていた。
リビングや寝室、お風呂の掃除を済ませ、夕飯の食材と補充分の日用品をネットで注文。
そして少しだけ、楽しそうな新商品がないかをショッピングサイトでチェックする。
毎日ネットの中には溢れかえるほどの情報。
『2年後、私は大手を振って会社を辞められるわけね』
沙奈の言葉をふと思い出し、美優はぼんやり画面を見つめながら想像してみた。
この画面の中に、自分の作った香水が並ぶ様子を。
いきなり店舗を持つことは難しい。
それならば、先にネットの限定販売で知名度を上げるのもいいかもしれない。
試供品をセットにして、手軽な値段で楽しめる商品を作る事が出来れば、気にとめてくれる人がいるかもしれない。
何を始めるにしても、最初はだれもが無名の新人。
今ブランドとして名高い人たちも、苦労なく今の繁栄を謳歌しているわけではない。
まず、始めなければ。
誰にも見向きもされないかもしれない。
誰にも評価されないかもしれない。
それでも、いいものを提供し続ければ……。
”本当に?”
前向きな気持ちの裏側で、またあの声が聞こえた。
”いいものを作っていても陽の目を見ずに終わるものは沢山ある”
”そもそもいいもの、とは誰にとっていいものだ”
”必要とされるだけの価値が”
”お前にあるのか”
バン!と音を立てて、美優はノートパソコンを閉じた。
鼓動が早くなっている事に気づいて大きく深呼吸する。
なんとなく落ち着きたくて、ヤカンに水を入れて、火にかけた。
ダイニングとリビングの敷居を解放している為に、キッチンに立つ美優の前にはとても広い空間が広がってる。
沙奈が美優の為に用意してくれたお城。
快適な場所。
安心できる、美優の家。
ここに居る限り、美優はただ守られて生きていくことが出来る。
本当は、沙奈も一緒にここにずっといて欲しい。
24時間365日。
でも、これが現実である以上、金銭的な問題はどうしても発生してしまう。
沙奈を閉じ込めておくには、美優がお金を稼ぐ必要がある。
美優はまだ諦めていない。
沙奈をずっと独り占めする未来を。
美優の元に閉じ込める計画を。
でも。
具体的に動こうとする度に心の声が邪魔をする。
結局、美優は3年前と変わらないまま。
仕事をやめて、外に出る事が怖くなってしまったあの頃のまま、何も変わっていない。
『外が怖いなら、二人で住めばいいじゃない。いい部屋探しておくわ』
そう言いだしたのは、沙奈の方だったっけ。
付き合い始めてから10カ月ほどたった辺り。
その頃にはもう、ほとんど双方の家でのデートしかしなくなっていた。
『おしゃれなお店でデートとかしなくて本当にいいの?』
そう聞く沙奈に
『外、本当は怖いの』
そう打ち明けた事がきっかけだったように思う。
沙奈を攫った時にはもう仕事をやめていた美優に、沙奈はその理由を尋ねなかったし、再就職するように強要もしなかった。
「お金大丈夫?足りてるの?」
そんな言葉が当時の沙奈の口癖だった。
まだ貯金もあった美優はその度に「大丈夫、心配しすぎ」と答えていたのを覚えている。
「外が怖いってどういう事?」
「うん……実は……ね……」
それは美優の苦々しい記憶の一つ。
大人になって、両親以外の人間から始めてつけられた深い傷。
でも、あれは美優が悪かったのだ、と思っている。
相手に悪気がない事も分かっていたから。
それでも。
外を、他人をとても怖いと、そして恋人について『閉じ込めておきたい』と思うようになった出来事を、美優は沙奈にゆっくりと話し始めた。
+++
その人は美優が勤めていた百貨店の化粧品売り場の先輩にあたる人だった。
担当するメーカーブースは違っていたけれど、まだ慣れていない美優に彼女はとても優しくしてくれた。
彼女の名前は杉原菜々美。
耳横で揃えられたストレートの黒髪に紅い口紅が映える、控えめに言ってもかなり美人の部類に入る彼女の周りには、取り巻きの客たちが後を絶たなかった。
「冷やかしのお客ばかりで疲れるわ」
休憩時間やトイレで顔を合わせると、溜め息をつきながらそう言うのが彼女の日課になっていた。
「杉原さんセンスいいですし、勧め方も上手だから皆さんつい頼りたくなるんですよ」
彼女に会う度に、自分の鼓動が早くなるのを美優は感じていた。
「おまけに美人だしねぇ」
口紅を引き直しながら、冗談めかした言葉と鏡越しのウィンクを美優に送りながら、彼女が微笑む。
それだけで、神に愛されたような、少しだけ自分が特別な存在なのだと感じられた。
「佐々木さんもいつもアップにしてないで、髪下ろせばいいのに」
指先が美優の頬の後ろを撫でる。
「その方が可愛いわよ」
間近で見る彼女の微笑に顔が、全身が熱くなる。
「それじゃ、午後も頑張りましょ」
背を向けて出ていく彼女を見送りながら、美優はいつも聞こえる自身の自己を否定するマイナスな思考から解放されている事に気づいた。
そして思った。
彼女に愛されたなら、自分は世界で誰よりも特別な人間になれるのではないだろうか、と。
美優もこの年になるまで、様々な恋愛を経験してきた。けれど、彼女ほど美優の心を満たしてくれるかもしれないと感じた相手は初めてだった。
「あの、女同士でこんな事言うの変かもしれないんですけど……」
告白は美優の方からだった。
帰社の時間が同じ事もあって、夕飯に誘うのは難しくなかったし、彼女も快くOKをくれた。
少しだけお酒の回った2軒目の、少し騒がしいバー。
彼女の耳元に唇を寄せて発する言葉が、指先が、震えていたのをよく覚えている。
美優の告白に一瞬、驚いた顔をした彼女は次の瞬間微笑んで「いいわよ」そう美優の耳元に囁き返した。
二人の関係が深まるのに、時間はかからなかった。
彼女はどこまでも大人で、私生活でもベットでも、美優を優しくリードしてくれた。
彼女に愛される度に、美優は自分の存在が昇華されていく感覚に酔いしれる事ができた。
こんなに綺麗で汚れのない女神の様な人が私を愛してくれている。
心を満たす歓びに、美優は彼女の奴隷へと堕ちていく自分自身に気づけなかった。
二人の関係が3ヶ月程続いた頃にはもう、美優は彼女に逆らえなくなっていた。
「ねぇ美優、またお願いがあるんだけど」
「いいよ、幾ら足りないの?」
彼女のお金の無心が始まったのがいつだったかはよく覚えていない。
昔付き合った男にお金を渡さないと酷い目に合わされるの。少しだけでいいから力を貸して。
最初はそんな台詞だった気がする。
その度に、美優はコツコツ貯めた貯金の中から少しづつ彼女にお金を渡していた。
「新作の口紅が出るんだけど、今月苦しいから買えないなぁ」
「じゃあ私が奈々美にプレゼントしてあげる」
「ほんと!?ありがとう美優!愛してる!」
ご褒美のようにもたらされる快感に酔いしれながら美優は自分が幸せだと、まだこの時は信じていた。
だって、彼女は私を愛してくれている。
そう、信じていたから。
やがて一年が経つ頃、美優の貯金にも底が見え始めていた。
「ごめん奈々美。今月はちょっとそれ買ってあげられない……」
「え?いいのよ、そんなつもりで言ったんじゃないから。気にしないで」
「うん、ごめんね」
そう言いながら、美優の心の中にはいつしか不安な想いだけが渦巻くようになっていた。
何もしてあげられない時、奈々美は美優を抱いてくれない。
一緒に寝ることもあったけれど「今日は用事があるから」そう言って帰る日が増えていった。
「あ、でも待って、これなら買ってあげられるよ」
既にマイナスにかかり気味の預金が頭を掠めるのを無視して、美優は必死で彼女を引き止めていた。
「ほんと?無理してない?」
「してないよ」
ありがとう、と嬉しそうに美優を押し倒す彼女の身体にしがみつきながら、自分の脳内で鳴り響く警鐘を、美優はハッキリと聞いていた。
離れてしまえば、どうしてそんなに彼女にこだわってしまっていたのか、よく分からない。
愛していた。そう思うけれど、美優は結局、彼女が抱えている金銭的な問題の根底を知ろうとはしなかったし、根本から改善しようとはしなかった。
きっと沙奈なら、その男を呼び出して話しをつける!とか、正直にお金の使い道を聞き出すまで引き下がらないだろう。
でも、捨てられるかもしれないという恐怖が、失う事への不安が、美優にそれをさせなかった。
結局、最後まで美優から受け取ったお金を彼女がどう使っていたのかは分からない。
彼女が本当に美優を愛していたのかも。
最初は……最初だけは、愛してくれていた、と、美優は信じている。
彼女を変えてしまったのは、お金で彼女に縋り繋ぎ止めようとした美優の責任。
そういう風に利用出来ると思わせてしまった美優が悪いのだ。
利用されていると知りながら、もう愛されていないと知りながら、彼女に縋るしかなかった美優の弱さが全ての原因。
「は?そんなのその菜々美って女が悪いに決まってるじゃない」
その話しをした時、沙奈は迷いもなくそう言った。
「愛されてるのをいい事に相手を利用しようとするなんて、一番卑怯。美優には悪いけど、私その女嫌いだわ」
美優の代わりに腹を立てながら「私の美優を傷つけた奴は、誰だろうと私は許さない」そう言って抱きしめてくれた沙奈の言葉が、とても嬉しかった。
美優が傷つく事に怒ってくれる人なんて今までいなかったから。
父や、母でさえ。
結局、菜々美とはその後すぐに別れる事になった。
きっかけは、職場の非常階段で菜々美が取り巻きの一人と口づけしているのを見た事だった。
その頃、自傷行為が激しくなりつつあった美優は、自身の首を包丁で割いた。
美優からの電話で駆けつけた菜々美のおかげで一命は取り留めたものの、美優が退院する頃には彼女の姿は消えていた。
菜々美の後任者に聞いた話しによると、転勤したという事だった。
『閉じ込めておかなかったから逃げちゃったんだよ』
『ちゃんと鎖に繋いで管理しなきゃ』
『二度と利用されて捨てられないように』
心の声に、美優は頷いた。
「今度の相手は私が閉じ込めるよ」
女神に捨てられた自分に価値はないと、心の声は言わなかった。
だから、しばらくの間、美優はマイナスになってしまった通帳をゼロに戻すために毎日ひたすら働いた。
幸い、オシャレ感を出して巻くスカーフが首の傷を隠してくれた。
通帳の数字がマイナスからプラスに戻る頃。
美優は沙奈を見つけた。
最初は綺麗な人だな、とか、仕事出来そうとか、そんな印象だった。
けれどいつしか、彼女が通る度に自然と目で追うになっていた。
好きな色はなんだろう?
こっちの口紅の方が似合うのに。
どんな香水を使っているんだろう。
日増しに沙奈への興味を募らせていく美優だったが、ある日どこからか、菜々美の転勤は美優のせいだという噂が流れ始めているという情報が耳に入って来た。
元々、菜々美の取り巻きだった女性達が美優に嫌味を言う為に来店してくる事も多くなり、ある日、担当ブースの拡大鏡に美優を罵る落書きが口紅で書かれていた事をきっかけに、美優は離職した。
今でも思い出すと胃が少し痛くなる。
菜々美と美優が付き合っていた事がどこかから漏れたのか、単なる嫌がらせか。
既に取り巻きたちの行動に疲れていた美優に、内部にまで敵がいるという状況は耐えがたく、人間そのものが怖くなってしまった。
外に出れば批判される。
そんな思いが、美優を家の中へと閉じ込めた。
だから、沙奈を攫う為に外にいたあの数日は、本当に久しぶりの外出だったのだ。
首の傷は普段、髪で見えない。
首筋に口づける沙奈くらいしか、美優の首の傷を知るものはいない。
今、美優の全てを包んで守ってくれる沙奈を、美優はどうすれば閉じ込める事が出来るだろう。
ちゃんと愛してくれている。そう感じるからこそ、不安を消してしまいたい。
二人だけの楽園でずっと幸せに暮らしたい。
望んでいるのはそれだけなのに。
ふいに風が部屋の窓を叩いた。
「いけない」
いつの間にか傾いた陽に気づいて、美優は慌てて二階のベランダへと向かう。
洗ったシーツはすっかり乾いて、お日様の匂いを含んでいた。
気持ちいいシーツの仕上がりに沙奈の喜ぶ姿が目に浮かんで、美優は小さく微笑む。
昔を思い出した事で不意に、今の幸せとそれを失ったらどうしようという不安が胸に押し寄せて、美優はその場にしゃがみ込んだ。
だから
目が合ってしまった。
いつも通りさっさとシーツを取り込んでいれば、気づきもしなかったであろう人物と。
話さずに済んだであろう人物と。
「こんにちは」
聞かずに済んだであろう、声を。
+++
思いもかけず早退したところで、やりたいことも行きたいところも思いつかず、栞は一人、街を彷徨っていた。
右手の人差し指が、初めて沙奈からしてもらえた口づけの感触を永遠に残そうとするように、唇のすぐ下を何度もなぞる。
完璧に振られてしまった。
分かっていたことだけど、やっぱり少し切ない。
心のどこかで、重なる肌の温もりを期待していた。
沙奈は……チーフは優しいから。
だから、もしかしたら一度だけ、そう頼めば抱いてくれるかもしれない、なんて。
栞に何かを残してくれるなんて。
冷静に考えれば、そんな事起こるはずもないのに。
「名前……初めて呼んでくれたなぁ」
小さく呟いて空を見上げる。
傾きかけた日差しが街を斜めに照らしていた。
栞の恋はいつも叶わない。
いつもいつも。
誰も、栞を抱きしめてはくれない。
焦がれる想いの痛みだけが栞の心を妬いて、焦げ付いて。
だからきっと、涙も出ないのだ。
だからきっと、まだ諦めきれないのだ。
あれだけはっきり振られたというのに、栞の心はまだ沙奈を諦められない。
そう、諦められるのならきっと恋人が出来たと聞いた時に諦めていたはずだから。
大好きなのだと、心の中で想いが渦巻く。
沙奈が欲しいと栞を急き立てる。
どうしようもないのに。
どうすることも出来ないのに。
口づけの感触が、扉越しに振り返り栞の名を呼んだ優しい瞳が、栞を掴んで離さない。
そんな事をするくらいなら、いっそあの場で押し倒して、そのまま乱暴に抱いて欲しかった。
冷たく見下ろして、傷つけて欲しかった。
そうしたら、昔の栞に戻れたかもしれない。
馬鹿な事をしたと、それでも満足しながら自分を戒める事も出来たかもしれない。
でも。
優しい口づけが栞の胸を締め付ける。
貴女が好きだと、記憶の中の沙奈に何度も何度も繰り返す。
いっそ張り裂け避けてしまった方が楽だと思えるほどに、胸が苦しい。
泣いてしまえたら、少しは楽になるのだろうか。
明日もまた沙奈に口づけしようとする自分が容易に想像出来る。
迫って困らせてしまう自分の姿が浮かぶ。
告白すると決めた時からもう栞は止まれなくなっていたのかもしれない。
気持ちを伝える事そのものが、美優に対する宣戦布告。
ましてや、今のプロジェクトが終わってしまったら、沙奈とは仕事が出来なくなる。
だからこれが、最後のチャンスかもしれない。
この5年、沙奈の隣にいる為に頑張ってきた。
愛人にすらなれず、部下ですらいられないなんて、そんな事、許容出来るはずもない。
このまま、終わりだなんて。
許されていいはずがないのだから。
そんな事を考えながら歩いていたせいで、いつしか栞は沙奈の家の近くまで来てしまっていた。
見慣れた街並み。
沙奈に会いに訪れたのは実質二回だけだけど、実は道に迷わないように何度か下見に来た事がある。
悩み事があるとき、今日みたいにウッカリ訪れてしまった事も一度や二度ではない。
結局いつも、沙奈には会わずに帰ってしまっていたけれど。
「美優……さん……」
どんな人なんだろう。
そんな疑問が浮かぶ。
沙奈が、キャリアを棒に振り、人生を懸けて愛している人。
そんな風に愛してもらえる人。
正直、羨ましいと思うし、自分と何が違うのか純粋に興味があった。
綺麗な顔立ちに、細い線。
栞とはそもそもタイプが全然違うし、ビジュアルでは勝てないという事はもう分かっているけれど。
「久しぶりね」
不意に遠くから聞こえた声に、栞は足を止めた。
見ると沙奈の家の前に一人の女性がベランダを見上げて立っていた。
黒髪と紅い口紅がとても印象的な美人。
黒いスーツが似合うその姿はブティックの店員を思わせた。
「こんなところで会うなんて思ってなかったわ」
二階に向けて放たれる言葉の先に、美優の姿があった。
シーツを抱えて、声を掛けている女性を見下ろしている彼女の顔に浮かんでいる表情に、栞の心臓がドキリと鳴った。
怯えて、いる?
少し離れているからはっきりとは分からない。
けれど、栞の目にも美優が彼女の存在を歓迎していない事だけは明らかだった。
「どうして……」
「偶然通りかかったの。元気そうね」
美優の顔に困惑が広がっていく。
呼吸が早くなっているのか、肩が上下に揺れていた。
何かまずい事態になっているのかもしれない。
咄嗟にそう判断した栞は、美優の方に歩きながら、さも親し気に大声で美優に声をかけた。
episode6 fin
next episode7
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