episode5 Another start of love
熱で倒れてから三日。
身体を覆っていた倦怠感と頭痛もやっと消える気配を見せ始め、身体が軽くなっていくのを沙奈は感じていた。
うっかり栞に送ってもらうという失態を演じたにも拘らず、美優は精神的に乱れることなく、沙奈の世話をしてくれた。
筋肉痛からも解放された身体を動かして、ベットの上で寝返りを打つと、美優の寝顔に辿り着く。
静かな寝息と温もりが伝わってくる。
このどうしようもない安心感。
もし一人だったなら、未だ病院で不自由な思いをしていたか、家にいたとしても、空腹に苦しみ回復にもっと時間がかかっただろう。
「ありがとう」
いつでも沙奈を独占したがる美優の想いの裏側には確かに、捨てられるのではないかという不安や恐怖が存在している。
けれど、それさえも結局、沙奈への愛情があってこその反応なのだと沙奈は知っている。
これだけ自分の事を愛してくれる人を、どうして手放す気になんてなれるだろう。
その危ういバランスさえ、愛おしいと想える人を。
「美優」
そっと抱きしめると、眠ったままの美優が沙奈の胸元に顔を埋める。
鼻先をくすぐる髪の香りに瞳を閉じた。
当たり前に触れ合い、抱きしめ合える。愛していると伝え、受け取ってもらえる。
想い合い気遣い合い、相談しながら二人で歩んでいく人生。
もう当たり前になったそんな日常を改めて沙奈は幸せだと、思う。
【RedCyclamenPerfume】
【episode5 Another start of love】
「言ってない、絶対そんな事言ってない!」
「言ったもんっ、沙奈は絶対言いました~!」
沙奈の熱も下がり、日常生活に戻る為の第一歩を踏み出す朝。
朝食を取りながら、美優は沙奈と小さな口論を繰り広げていた。
「私がそんな事、言うわけないでしょ?」
すまし顔で味噌汁をすする沙奈に美優は頬を膨らませる。
「でも言ったんだもんっ、だいちゅき~って」
ほんのり甘い玉子焼きを口に放り込んで反論する。
「すっごく可愛かったんだよっ」
「……夢でも見たんじゃない?」
「沙奈ぁ、恥ずかしいのは分かるけどそろそろ認めなよ~」
「記憶にないんだから、認めようもないでしょ」
「もう~」
頑固者は斎藤栞とか言う部下に連れられて帰ってきたあの夜に放った言葉に対して、決して認めようとしない。
多分、記憶にない、というのは本当だと思う。
かなり衰弱していたし、見たこともないくらいぼんやりしていたし。
何より、あんな女を私がいる家に連れて帰ってくるなんて。
いやあの場合、連れられて帰ってきたわけだけど。
「私、あの部下さんと一緒に帰って来た事も、倒れるまで無理したこともまだ許してないんだけどなぁ」
鮭をつついていた沙奈の箸が止まる。
「凄く頭にきたけど、怒らずに頑張ってお世話したんだけどなぁ」
「それは……感謝してる」
発言を覚えていなくても、部下に連れられて帰って来た事は覚えているらしい。
沙奈がごにょごにょと小さく呟いた。
食べ終えた食器をまとめて立ちあがり、キッチンで洗い始めると、沙奈が自分の食器を運んできてくれた。
食器を流しに置いた手が、そのまま美優の身体を抱きしめる。
「もう部下を家に入れたりしないから」
「うん」
耳元で囁く声がくすぐったい。
「ごめんね」
「うん」
少し、振り返ると目が合って、そっと唇が重なった。
ほんのり、甘い味。
もし、部下の気持ちに美優が気づけなかったら、もし恋人だと宣言出来ていなかったら、もっと精神的に乱れていたかもしれない。
沙奈をいつでも自分だけのものにしておきたい。
そう願ってやまない美優の、大切な大切な恋人はこの家において絶対的に美優だけのものなのだ。
そして沙奈の態度から、他の人間がどんなに想いを寄せようと沙奈の想いは美優にある。少なくとも斎藤栞と名乗ったあの女に関して、美優の優位性が崩れることはないと確信出来る。
愛されてる安心っていうのはこういう事を言うのかな?
唇を重ねながら、濡れたままの両手で沙奈の背中を掴んで、美優はそんな事を思った。
激しくなっていく口づけに、沙奈が朝から出勤するつもりがない事を察しながら。
+++
体調不良にかこつけてしっかり美優と楽しんだ後、のんびりお昼から出勤した沙奈は、溜まっていた仕事と報告、新プロジェクトの概要説明で忙殺されることになった。
「そしてこれが資料です。後……」
部長や部下たちに長らく休んでしまった事への謝罪を済ませた沙奈へ、栞がメールに添付された大量の資料を開きながら、説明してくれる。
各資料は丁寧にまとめられ、それぞれ概要と注意事項等が書かれた内容別にフォルダ分けされていた。
「という流れで今進んでいます」
「分かったわ。ありがとう」
説明を終えた栞に微笑む。
「相変わらずよくまとまった資料ね。助かる」
「お役に立てたなら嬉しいです」
「この間はほんとにありがと。家まで送らせてごめんね」
出勤時に栞にも軽くお礼は済ませていたものの、改めて沙奈は頭を下げる。
「いえ、私が勝手についていっただけですから。もう無理しないでくださいねチーフ」
いつもと変わらない栞の笑顔に、僅かな違和感を感じながら
「ありがとう」
そう言って、沙奈は自らの仕事に取り掛かる。
栞から伝わってくるこの僅かな緊張感はなんだろう?
実は病院を出た辺りから家までの記憶がほとんどない。
気が付いた時、沙奈は家のリビングのラグの上で、美優に抱き着かれたまま横になっていた。
曖昧なその記憶の合間に何かやらかしてしまったのだろうか。
それとも、やはり長期的に休んでしまう人間に対して、真面目な栞は拒絶感を覚えるのだろうか。
もしくは人前で倒れてしまう醜態を晒してしまった上司に幻滅してしまったのか。
どちらにせよ、社内の人間にとって、今回の件が良くない方向に印象付けられてしまっているのは間違いないだろう。
仕方がない。と沙奈は思う。
起こってしまった事は、どうしようもない。
また少しづつ、誠意を持って生まれてしまったかもしれない溝を埋めていくしかない。
それに、不足の事態だったとはいえ、思いがけず美優とのんびり過ごせたこの数日、沙奈にとってとても満ち足りた時を過ごせた。
社会的信用を引き換えにしても、価値があったと、そう思えるから。
たまには倒れてみるのも悪くないかしら……?
そんな不謹慎な事を考えながら確認書類をチェックし、改めて資料に目を通しながら、沙奈は思わず間の抜けた声をあげた。
「は?」
進めておかなければならない案件が、沙奈の休みの間、完全に放置されている。
メールフォルダの未読欄をスクロールすると、栞のメールの下に、一定権限者の許可が必要な事項に対する要求が、部下たちからわんさかと届いていた。
当たり前のことだが、沙奈だけがその許可を出す権限を持っているというわけではない。
沙奈より役職が上の人間ならば、誰でもGOサインを出せるのだ。
『部長にお願いしましたが、一向に許可が下りないので、出勤なさってからで結構ですので、すぐ認証をお願いします』
そんな感じの悲鳴にも似た文面が躍る。
あのオヤジ……。
部長が座っているだろうパーテーションの向こうを軽く睨みつけて、猛然と返信を打っていく。
体調を崩し、倒れてしまったあげくに休んでしまっていた沙奈が悪い。
それは分かっている。
半日、サボったのも単なる甘えだと承知している。
だから、沙奈に部長と呼ばれているあの男を責める権利はない。
ない、が。
プロジェクトが遅延する可能性の高い案件まで放置しているというのはどういう了見なのだろうか。
深いため息と共に、緩んでいた気持ちが引き締まっていく。
美優と24時間一緒に楽しく生きる人生はまだまだ先か……。
二度と倒れないと心に決めて、沙奈は午後の時間倍速モードでフル活動していた。
せっかく美優と楽しんだ昼食の和やかな幸せ気分が、仕事モードに上書きされていくのをどこか切なく感じながら。
+++
「美優?」
「沙奈」
仕事を終えた帰り道、いつも通り沙奈はスマホを片手に道の端で足を止める。
普段より美優の機嫌がいいのは、数日、沙奈とずっと一緒に過ごせた為だろう。
「今から帰るけど、何かいる?」
「デパ地下のお惣菜屋さんでサラダ買ってきてほしいな」
「いつものでいい?」
「うん」
「分かった」
「気を付けて帰ってきてね」
「うん。じゃ」
そんな会話だけで、口元がほころんでしまう。
仕事の疲れやイライラが解けていく。
スマホをカバンにしまい、駅に向かう人の波に紛れる。
もう暗くなった空の下には人々の雑踏が溢れ、交差点に甲高い歩行用の電子音が鳴り響く。
いつもと変わらない帰り道。
沙奈の日常。
家に美優のいる生活。
付き合って3年。共に生活を始めて2年。
色々あるけれど、毎日楽しい。
美優と出会う前、沙奈の日常は退屈で満ちていた。
仕事だけは充実していたあの頃。
そういえば昔は、栞ともたまに食事に行ったりしてったけ?
曖昧な記憶の中で、昼食を奢ると伝えていた事を思い出す。
明日にでも誘ってみようか。
勿論、美優には内緒で。
たとえそれがこの間付き添ってくれたお礼だったとしても、美優はきっと許容出来ない。
本当に……困った子よね。
伝えているはずの愛情は、肝心な場面で美優のストッパーにはならない。
愛されていると知りながら、受け入れる事をどこかで拒む非幸福の気質。
最近甘やかし気味だったし、今夜はしっかり目に調教しようかしら。
自らの提案に沙奈の足取りが軽くなる。
とりあえず、沙奈が美優に『だいちゅき』と言ったなんて妄言は撤回させなければ。
まずはさっさと一回イカせた後にしっかり指を舐めさせて、妄言を吐くいけない舌だけで何回イケるか試しながら、しっかり反省してもらおう。
蕩けた顔で、沙奈の指を咥える美優の姿が脳裏に浮かぶ。
密やかに一人でウキウキしながら、駅に隣接したデパートの地下で美優の好きなサラダを買った。
気持ち、いつもより多め。
おまけで季節限定の新商品も少しだけ。
エスカレーターで改札のある上階に上がり、一階の宝飾品売り場を通り抜けながら、ふと飾られていたペアリングに目が留まった。
そういえば、もうすぐ美優の誕生日だっけ。
お付き合い4周年記念か一緒に暮らして3周年記念の日に、指輪を贈りたいと前から思ってはいたけれど、誕生日でもいいかもしれない。
そんな事を思いながら、ショーケースを見つめる。
だから、沙奈は背後にいた栞に気づけなかった。
「恋人さんへの贈り物ですか?」
そう、声を掛けられるまで。
+++
『私が彼女の恋人なんです』
そう宣言されてから、栞の心の中は乱れっぱなしだった。
恋人が出来たの。
そう沙奈に打ち明けられた時よりも、酷い。
あの時も相当落ち込んだけれど、今はその数十倍、混乱していた。
だって。
まさか、あこがれの上司の恋人が女性だったなんて。
入社して初めて沙奈に会った時、栞はその美貌と立ち居振る舞いにまず惹かれた。
凛とした立ち姿、よく通る声、時々見せる酷くつまらなそうな憂いを帯びた横顔。
この人は人生に退屈しているんだとなんとなく分かった。
昔から人の顔色を伺い、要領よく人生を生き抜いてきた栞は、察しがいい事を自分の特技だと自負している。
だから、入社して以来、彼女の傍で仕事を学びつつ、彼女の退屈を紛らわせる方法をずっと探していた。
夕飯にランチ。
仕事の合間に交わす、気の利いたお喋り。
少しでも自分といて楽しいと思ってもらえるように。
そして、いつか。
特別だと思ってもらえるように。
2年が過ぎた頃、正式に沙奈の右腕として彼女のチームに配属された時は、眠れないくらい嬉しかった。
もっと役に立てる。
もっと見てもらえる。
彼女の心の中に、自分の居場所が増えていく。
そんな期待に胸を躍らせて。
けれど、3年前のある日を境に彼女は変わった。
その日、彼女は休憩でもない時間に突然姿を消し、数時間後に悪びれもせず戻ってきた。
「ごめんね、急なトラブルで。連絡しようと思ったんだけど携帯壊れちゃって」
粉砕された携帯と、彼女の表情を見た時、少しだけ嫌な予感を感じた。
「探しに来てくれたのね、ありがとう」
そう言ってGPSが最後に示していた場所に向かっていた栞の手を握り、二人で手を繋いで歩きながら、沙奈は笑っていた。
傍にいた3年の間で一番楽しそうに。
嫌な予感というのは大抵当たるもので、その出来事から数か月後。
夕飯に誘った時に、栞は沙奈の恋人の存在を知った。
「おめでとうございます。きっと素敵な方なんでしょうね」
上手く笑えていたか、今でもよく思い出せない。
「ありがとう」
そう言って微笑む沙奈に、酷く胸の奥が痛かったことをまだ覚えている。
沙奈は素敵な女性であり、自分もまた女なのだから仕方ない。
家に帰って、涙を流す自分にそう何度も言い聞かせた。
どんなに思ったところで、女性は大抵、男性を選ぶ。
世間的にはそれが普通の事なのだから。
けれど、ならば自分はどうすればいい?
子供のころからずっと、好きになるのは同性だった。
思い切って告白したこともあるけれど、想いが叶ったことはない。
良くて、お友達。
悪い時は嫌厭されてしまった事もある。
いつでもハイリスク、ノーリターン。
それが栞の恋。
今回も同じ。
ただ一つ違うとすれば、それは栞が沙奈を諦めきれない事。
せめて、優秀な部下として傍にいたかった。
毎朝「おはよう」と交わされる挨拶とその笑顔に小さな幸せを見出して生きていたかった。
いつか沙奈が人妻になっても、部下である自分の立場に揺るぎはない。
唯一無二の気の利く優秀な部下。
沙奈のチームより大きなプロジェクトを動かしている部署への転属の話しが部長から来た時、栞はなんの躊躇もなくそれを断った。
出世がしたくて、ここにいるわけではない。
沙奈の才能に惚れこんでおり、彼女と仕事がしたいのだと。
それ以来、部長は栞に仕事を任せてくれなくなった。
嫌がらせのつもりかもしれないが、それは仕方ない。
そんなこんなでこの5年。
栞は自身のポジションを守り続けてきた。
それなのに。
『恋人なの』
そう告げられたシーンが脳内で何度もリピートされる。
彼女が栞に対して良くない印象を持っている事は、その顔を見れば明らかだった。
栗色の髪に緩くかかったウェーブ。
化粧映えしそうな整った顔。
綺麗な人だと思った。
だから最初、妹さんなのかと思った。
二人はどことなく、よく似ていたから。
美優と呼ばれたその女性の左手首にはいくつもの傷があった。
2年前から沙奈が家庭の事情で早退するという事例が増えたのは、この人の為なのかもしれない。
会った瞬間にそう察したものの、恋人だという考えは浮かばなかった。
だから、そう宣言された時、栞はパニックになってしまった。
得意なはずの笑顔を作る事さえ出来ずに。
ただ、その場から逃げ出した。
待たせていたタクシーで家に帰るまでの間、心臓が強く早く鼓動を刻むのを感じながら、なぜか零れる涙を拭っていた。
それから沙奈が復帰するまでの4日間。
栞は一人、考えていた。
考えて考えて。
そして決めた。
自分も舞台に上がる事を。
恋人がいる人にアプローチをかけるなんて、良くない事だと分かっている。
今まで守ってきた、いい部下という立場も印象も失うかもしれない。
でも、このまま何もしないままで終わりたくない。
だって、女でも沙奈の恋人になれる可能性があると分かったのだから。
諦めていた全てを、望める可能性が、あるのだと。
ダメでもいい。
せめて、栞の想いを知ってほしい。
それでも美優さんを選ぶなら、それはそれで構わない。
ただ自分も沙奈の人生に置いて、恋人になり得る可能性があるのだと示したい。
選ぶのは沙奈。
栞はただ、立候補するだけ。
この5年間、沙奈を見つめ続けたのは美優ではなく栞。
名乗りをあげるくらいの資格はあるはず。
だから、ちゃんと伝えたい。
「貴女が好きです」と。
+++
「恋人さんへの贈り物ですか?」
突然話しかけられた驚きをなんとか表情の奥に隠して、沙奈は栞を振り返った。
「斎藤さん」
いつもとどこか違う雰囲気を纏った栞に沙奈は微笑む。
やはり意識が朦朧としている時に、何か彼女を傷つける事をしてしまった可能性が高い、のかもしれない。
「今日はもう帰り?」
何気ない会話で少し探りを入れてみる。
「はい。私だって平日にプライベートな用事があるんですよ、チーフ」
「それはそうよね。斎藤さん可愛いもの。男どもが放っておくはずないわよね」
微笑む栞に沙奈も軽口を返す。
「チーフ、今日はお急ぎですか?」
「え?」
「少しだけお話し出来ませんか?ご相談したいことが」
「相談……」
沙奈は時計を確認する。
美優はいつも沙奈の帰宅する時間に丁度仕上がるように夕食を作り待ってくれている。
恐らく、さっきの電話をきっかけに準備を始めている可能性が高い。
ただしシチューやカレー、その他煮込み料理やお鍋の場合は、その法則に準じない。
今日の夕飯のメニューを聞いておけば良かった。
「ちょっとだけ待っててくれる?」
「はい」
栞をその場に残して、沙奈は小走りで人気の少ない階段エリアに移動しながら、スマホを耳に当てる。
「沙奈?」
美優が二回目の電話に不思議そうな声を出す。
「ごめん、美優。ちょっと駅で……」
言いかけて、なんとなく沙奈は嘘をついた。
「部長から電話があって、ちょっと社に戻ってくる」
「えー、時間かかりそう?」
「ううん、多分そんなに」
「わかった」
不服ではあるけれど、仕方ないという雰囲気を醸し出した返事に、沙奈はスピーカーに軽く口づけする。
「ごめんね。なるべく早く帰る」
「うん。待ってる」
向こうからもリップ音がして、通話が切れた。
一刻も早く美優の元に帰りたい。
けれど、相談事があるという部下を無視するわけにもいかない。
栞の事だから、きっと明日ではダメなのだろう。
帰りかけた沙奈をわざわざ栞が引き留めたのは、これが初めての事だった。
「ごめん。30分くらいならいいわ」
栞の元に小走りで戻ると、栞はショーケースの中の指輪を見つめていた。
「斎藤さん?」
声を掛けるとハッとした様子で顔を上げ、微笑んだ。
「素敵な指輪ですね」
「ええ」
「美優さんへの贈り物ですか?」
耳に届いたはずの言葉が、沙奈の脳内で空回りして、意味がよく掴めなかった。
今、なんと言った?
「少し歩きませんか?チーフ」
「え、ええ」
動揺したままの思考でなんとか頷いて歩き出す。
先を歩く栞を見つめながら、沙奈は一人、早まる自身の鼓動の音を聞いていた。
+++
街路樹にかけられた小さな電球がキラキラと道路の脇を彩る。
大きな道路に平行する並木道を二人で歩いていた。
方角的に沙奈の家に向かっているのは、栞の気遣いかもしれない。
隣りに並んで歩きながら、沙奈は必死に曖昧になっている記憶の中を探っていた。
送ってもらった時、栞は美優に会っている。
でも、美優は精神的な乱れを見せていない。
どちらかといえば、ここ数日かなり上機嫌だった。
それは沙奈が美優と24時間一緒にいられるからなのだと思っていたけれど、もしかして、それだけではない何かがあったのかもしれない。
それとも、朦朧としていた自分が栞に話してしまったのだろうか。
美優が、女性が沙奈の恋人である事。
別段、栞にバレるのは問題ない。
ただ会社にバレると、中にはおかしな目で沙奈を見る人間が出るかもしれない。
特に、古い思考の持ち主は。
そして残念ながら、会社における上層部を占める人間は大抵、古い思考の持ち主であることが多い。
栞がおいそれと軽率にバラすとは思っていない。
けれど、誤解だと認識してもらえるのなら、それにこしたことはない。
「美優さん、綺麗な方ですね」
考えがまとまりきらない沙奈に栞が話しかけて来た。
「ええ」
そう答えて、一枚言葉のカードを切る。
「大切な妹なの」
いけるか。
背筋の冷たさに、自分が汗をかいている事を知る。
「妹……」
小さく呟く栞の横顔が複雑に表情を変えていく。
怒っているような、寂しそうな、それでいて笑っているような。
「何もご存じないんですね」
ドキリと心臓が鳴る。
ご存じない、とはどういう意味だ。
「何もってどういう事?」
自分の声が僅かに鋭さを増したのが分かった。
自身に対して不利益になりそうな事態に遭遇すると攻撃的になってしまう人間は多い。
沙奈とて例外ではない。
攻撃される前に攻撃してしまおうとする防衛本能。
落ち着け。
沙奈は自身にそう言い聞かせる。
「いいえ、別にいいんです。すみません」
「別にいいって何?」
「怒らないでください。私にとっては美優さんが妹でも恋人でも、関係ない事なので」
そう言って笑う栞の真意を掴みきれずに、沙奈は口をつぐんだ。
栞は多分、知っている。
美優が恋人だという事を。
けれど、沙奈がそうだと明言しない限りはまだ確定ではない。
少なくともまだ逃げ道は残されている。
だからこそ、今は何も言ってはいけないと脳内で警鐘が鳴る。
最初に美優の名前が出た時に『実は恋人なの、内緒にしてて』と素直に言えば良かったのかもしれない。
栞は部下としてはとても信頼できるし、全般的にいい人間だ。
けれども、だからといってプライベートの何もかもを話す気にはなれない。
美優が、そして沙奈が、互いを恋人だと認識している。
それは二人だけが知っていればいい。
沙奈と美優の二人だけの秘密。
二人だけの世界。
そこに他人が介在する余地など必要ない。
「それで?話しって何?」
次の駅の入り口がもうすぐ見えてくる。
さらにその先の駅まで歩けば30分を超えてしまう。
「チーフ」
不意に立ち止まった栞を沙奈は振り返った。
今までにないほどの真剣な眼差しが沙奈を見つめていた。
「私、チーフの事、好きです」
「は?」
自分でもとんだ間抜けだと思うような声が飛び出した。
目の前の出来事に脳が全く追いつかない。
美優が恋人だと知っているのではないのだろうか。
いや、そもそも恋人がいる事は既に知っているではないか。
「何言っ……」
「5年前に初めて会った日からずっと」
駆け寄ってくる栞の唇が沙奈の唇と重なった。
+++
「沙奈、沙奈ってば」
「へ?」
夕食を食べながら、沙奈は美優の声に顔を上げた。
「何?なんか今日は上の空だよ、なんかあったの?」
何か。
何かは、あった。
美優に知られると多分、いや絶対まずい何かが。
「ううん、ごめん。久しぶりの仕事だったからちょっと疲れたみたい」
「じゃあお風呂上がりにマッサージしてあげる。寝室に沙奈が好きなアロマ焚いとくね」
「ありがとう」
「ご飯、美味しい?」
聞かれて初めて、自分がそんな気遣いさえ欠く程に、動揺しているのだと気づく。
「うん、美味しいよ。いつもありがとう」
「えへへ」
嬉しそうに笑う美優に、僅かな罪悪感が胸を刺す。
何も悪い事などしていないのに。
少なくとも、美優に対して罪悪感を抱くような事を沙奈はしていない。
そう、沙奈からは、何も。
+++
突然に重ねられた唇に驚いたまま、背伸びをしている栞の体重が掴まれている腕にかかり、沙奈は反射的に彼女の身体を支えていた。
ゆっくり離れる唇を茫然としたまま見下ろす。
見上げる栞の瞳が僅かに潤んでいるのが見えた。
「私の事、好きにしてもらって構いません」
少し俯いた小さな肩が震えていた。
「都合のいい女でもいいです。だから」
見上げる瞳から零れた涙が沙奈の思考を更に停止させる。
「私もチーフの恋人にしてください」
元々の性格と美優との生活で大抵の出来事には対処出来るはずの沙奈の脳が悲鳴をあげる。
思考が現実に全く追いつけない。
ただぼんやりと白く空回りするだけで、すぐに言葉が出てこない。
今一体何が起きてる?
最適解はどこだ。
「さ、斎藤さん……」
名前を呼ぶだけで精一杯。
二の句を繋げられない沙奈に、少し寂しそうに笑うと
「いつでもお返事、待ってます」
そう言って涙を拭うと、栞は来た道を走って引き返していく。
街の明かりと車のライトに照らされて、沙奈はその背中を一人、停止した思考のまま、ただ見つめていた。
+++
「ねぇ、沙奈」
「んー?」
「やっぱり元気ない?」
ベットの上に敷いたバスタオルに寝転ぶ沙奈の背中を、オイルで濡らした指でなぞりながら美優が心配そうな声で言った。
「美優がキスしてくれたら、元気になる」
「またそんな事言って」
くすくすと笑いながら、嬉しそうにマッサージをしてくれる、美優の指先を感じながら、沙奈は瞳を閉じる。
『5年前に会った時から……』
栞の言葉が脳内で再生される。
5年間。
一体どんな気持ちで栞は沙奈の隣にいたのだろう。
いつも笑顔を絶やさず、優秀で、気遣いの出来る部下。
その全てが、沙奈の為のものだったと思うほどに自惚れるつもりはない。
けれど。
恋人が出来たと言った時は?
同棲を始めたと言った時は?
記念日にウキウキしながら帰る沙奈を見送ってくれた時は?
どんな気持ちで、休日のプロジェクトを引き受けてくれていたのだろう。
全然……気づかなかった……。
集中して観察している相手の変化を感じる取る能力は、優れていると自分でも思っている。
けれど、その範疇に入っていない人間に対して、沙奈はどこか割り切った無関心を決め込むところがある。
今思えば栞の行動に、上司に対する好意以上のものを感じて然るべきだった。
もっと考慮出来たはずで、そうするべきだったのに。
無意識にどれだけ傷つけてきてしまったのか。
少しだけ泣きたくなって、沙奈はバスタオルに顔を押し付けた。
「沙奈?」
「明日、休みたいなぁ」
自己嫌悪が胸を締め付ける。
明日、どんな顔をして栞に会えばいいのだろう。
そして、どうすればこれ以上傷つけずに済むのだろう。
栞は言った。
『私も恋人にしてください』と。
美優を排除せず、ただ自分も愛してほしいのだと。
ズルい。と沙奈は思う。
その身を護る事をしない、まさに特攻。
捨て身の告白。
そんなに想っていたなら何故、もっと早くそう言わなかったのか。
せめて、こんなに沙奈が美優を愛してしまう前に。
「お休み?私は大歓迎だよ~」
ぽこぽこと沙奈の太腿の裏を軽快に叩きながら美優が嬉しそうな声で答えた。
「24時間、365日、ずーっと一緒にいていいんだよ」
閉じた瞼の裏側に滲んだ涙が引いた事を確認して、沙奈は顔を上げると、首をひねって美優を見た。
「そしたら誰がここの家賃払うのー?」
なるべく意地悪な声を出す。
いつもと同じに聞こえるように。
「それは……。なんかもういっそ、私が調香した香水とか作る?」
「作ってどうするの?」
「売る!」
元々、百貨店の化粧品売り場の有名ブランドの一つを担当していた美優は、香水も専門的に扱っていた。
調香師に国家資格はないが、民間資格が存在し、美優はそれを保有している。
「美優が作った香水なら売れそう」
今、沙奈が使用している香水も、美優がいくつかの香水をブレンドしたものを使用している。
「でも、多分上手くいくとして、よっぽど運が良くない限り、認知してもらうのに2,3年くらいはかかるかなぁ」
「2年後に私は大手を振って会社を辞められるって事かな?」
「上手くいけばって話し。失敗しちゃったら在庫分も製作費も全部赤字になっちゃう」
「人生楽しみたきゃ、時にリスクを取る事も必要」
身体を起こして、美優を引き寄せる。
「だから沙奈は私なんかと付き合ってるの?」
「美優はリスクなんかじゃないよ」
沙奈の言葉に、美優が沙奈の右手の掌をなぞる。
「リスクだよ」
沙奈の手の平に刻まれている、一本の傷跡。
それはまだ付き合って間もない頃の美優が付けたものだった。
美優が沙奈の傷跡を気にする。
よくない兆候だ。
沙奈が自身の思考に耽っている間に発してしまったよくない波動がどうやら美優に電波してしまったらしい。
「毎日綺麗で温かい部屋に帰って来られて、美味しいご飯が食べられて、清潔なシーツとお風呂でリラックスできるのに、マッサージまでしてくれるのよ?そんな最高の彼女のどこにリスクがあるのよ」
「でも……」
俯く美優の顔を両手で包み、そっと視線を合わせる。
「おまけにこんなに可愛い」
「沙奈……」
「ついでに化粧するとすこぶる美人」
ムッとした表情が美優の顔に浮かぶ。
「それって、化粧してないと綺麗じゃないって事じゃないーっ」
「すっぴんは可愛い。化粧すると美人。両方楽しめるなんてお得」
怒る美優の唇に口づけする。
「もうそうやってすぐキスで誤魔化すんだから」
「誤魔化してない、誤魔化してない」
そう言いながら、まんざらでもない感じの美優を押し倒そうとする沙奈を、美優が「だーめ」と止めた。
「背中のオイル拭かないと、シーツがオイルまみれになっちゃう」
「アロマオイルでしょ?ラベンダーの香りがついていいじゃん」
「マットレスにまで染み込んだら、取るの大変なの。先に背中拭かせて」
そう言われて渋々、バスタオルの上にうつ伏せに寝転がる。
新しいタオルに、ポットに用意したお湯を染み込ませて、美優が沙奈の背中を拭いていく。
温かく優しい心地よさに、沙奈は再び目を閉じる。
『チーフ』
涙で潤んだ栞の顔が浮かんで、沙奈は慌てて目を開けた。
「ごめん、熱かった?」
僅かに動いた沙奈の身体に、美優が反応する。
「ううん、大丈夫。あんまり気持ち良すぎて寝落ちしそうになっただけ」
「発情したり、寝落ちしたり、今日の沙奈は忙しいね」
「眠いのに襲いたくなるくらい、私の彼女が素敵なのが悪いの」
「もう……馬鹿」
二人で声を重ねてくすくすと笑う。
美優から不穏な気配が消えていた。
「ほんと疲れてるんだね。今日はこのまま寝ちゃっていいよ」
丁寧に身体を拭きとりながら、美優が優しく囁く。
お世話したいお姉さんモードらしい。
それなら、遠慮なく甘えさせてもらおう。
「あったかい抱き枕が欲しいな~」
「湯たんぽはないよ?」
「美優ーーーー」
「うそうそ」
笑いながら、拭き終えたタオルをサイドボードに置くと、沙奈の隣に美優がコロンと寝転んだ。
「はい。どうぞ」
両手を広げて迎えてくれる美優をそのまま抱きしめる。
大好きな香り。
大好きな温もり。
大好きな、日々。
「美優~」
「甘えたな沙奈可愛いから好き」
抱きしめ返される優しい腕の強さ。
「もしかして、ばぶばぶしたいのかな~?」
「それはしない」
美優の声に即効で返事を返す。
「もうノリが悪いな~」
タチとしての尊厳を失うつもりはない。
ましてや沙奈は自分が微Sである事を自覚しているのだ。
「ごめんね」
「いいよ」
本当は今日、しっかり美優を可愛がってあげるつもりでいたのに。
いっぱい気持ち良くして、沢山ゾクゾクさせてあげたかったのに。
「ごめん」
「いいから。もう眠って、沙奈。休むって言いながら、どうせ明日も仕事行っちゃうんでしょ?」
「うん……」
「だったら、今日の疲れをしっかり取らなきゃね」
「……うん」
美優の胸元に顔を埋めて、沙奈はその鼓動に耳を当てる。
心地よいリズムが振動と音で沙奈に伝わってくる。
何より大切な音。
誰より大切な人。
ごめんね……斎藤さん……。
何もかもを投げ出した相手に応えてあげる事が出来ない。
ここに、幸せにしたい人がいる。
誰よりも。
沙奈自身よりも。
大切な人が。
episode5 FIN
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