防衛圏総指揮執政官
部下Aに連れられて、クルスは防衛圏総指揮執政官、エージスの執務室の前まで来た。
「ノックして入ればいいんですよね?」
「当たり前です」
部下Aはやや呆れたような顔をしたが、クルスにとっては、何を言っても嫌味にとられないかが懸念事項だった。
クルスがノックして扉を開けて入ると、ちぐはぐな印象の部屋中に一人の男が座っていた。
執務用の巨大な机の上、整理された机の奥の男は、クルスに咎めるような眼を向けたが、すぐに諦めたようにぎこちなく首を振った。
クルスは長く忘れていた礼儀と言うものを思い出した。
扉はノックして入るものではない。ノックしてから、相手の返事を待って入るものだ。
クルスはこの失敗を挽回する為、跪いて武器を掲げようとした。
「ありゃ」
クルスはそこに至って自分の武器が無い事を思い出した。脳裏をエースの顔がよぎる。
だが、今はそれどころではない。
「防衛圏に参加させていただきたく、はせ参じました。クルスと申します。まずは、未登録での戦闘行為、および、非礼の数々をお詫びさせていただきます。誠に申し訳ありませんでした。また、我が剣はこの防衛圏において、民の安寧のため、防衛圏・・・のエージス様にお捧げしたいと思います」
クルスは一瞬、エージスの肩書を忘れて言葉を詰まらせたが、なんとか誠意をもって言葉を述べた。それから、跪いたまま、形だけでも手にしていない鎌を捧げる仕草を見せた。
その仕草を見たエージスは少し驚いていた。
クルスへの第一印象は礼儀を知らぬ田舎者だった。ところが、クルスと言う男は一定程度の礼儀を仕込まれている。それは今のふるまいから明らかだった。
このちぐはぐな印象からクルスの人生が複雑に屈折した物だと想像するのは、エージスにはたやすかった。どこかでそれなりの教育を受けておきながら、それを忘れるほどの野生生活を送ってきたのだろう。野生生活を送ってきたことは、エージスにはクルスの手を見れば明らかな事だった。
「さて、君の謝罪と誠意は受け取った。まずは、そこの椅子に腰かけてもらおう」
エージスは左手で椅子を指し示した。
そこで、クルスは部屋の中をぐるっと見回した。
部屋には手の込んだ装飾の付いた寝具や鏡が用意されている。装飾はシンプルながらも天井にまで伸びており、それなりに豪華な部屋として作られたことが分かった。
その一方で、他の家具とデザインが異なり浮いている物がある。それは、エージスの使っている執務机と椅子、クルスが座るようにと示された椅子、その前に置かれた簡素な机、エージスの背後に居る別の人物が座っている執務机と椅子だった。
どうやらもともと客室として作られていた部屋にエージスの執務用品を持ち込んだというのがこの部屋の真相なのだろう。
クルスがこの部屋には行ったときに感じたちぐはぐさはそういた背景で生み出された物なのだろう。
クルスは部屋を見まわしながら、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「申し遅れたね。クルス君。私はエージス・バルフォアだ」
エージスはそういってから、立ち上がって挨拶をしようとした。エージスの背後の机の部下が即座に立ち上がってエージスを支えた。
エージスの右肩から先、腕はだらりと垂れ下がり、右唇も力が入っていない。さらに、右眼球も明後日の方向を向いている。言葉もどこか舌が追いついていない様で、ぎこちない。
「まず、君に謝っておきたいのだがね、過労で頭をやられてね。右半身が不随でね」
エージスはそう言いつつ、部下の肩を借りながら、なんとか立ち上がった。
「だからね、名乗りも座ったままでさせていただいたのだ。私の非礼を許してほしい」
エージスは不自由な体を押して、無理やり頭を下げようとした。
「あ、いえ、そのままで結構ですから。俺なんかの為に」
エージスはそれでも無理やり首を振った。
「防衛圏は絶望的な状況だ。本来であれば、この程度の襲撃、陛下直属騎士団の戦力投入によって鎮圧されるものだがね。騎士団はここに人員を割くことも出来ず、君たち冒険者やハンター、フリーランスの戦士たちが唯一の希望だ。しかしね、その状況も絶望的だ。前線では死者が出ることもある危険な状況が毎日続いている。
一方でこの都市の危機は世界の危機ではない。別の都市に避難させ、各都市で自衛に努めれば、ここまで危機的状況の中で戦う必要もない。それでも、ここで人々の命を危険にさらして戦うのは、この都市で暮らす命と生活が大切だからだ。
この世界の片隅の辺境の都市で命をかける勇気を持つ者をね、私は歓迎する」
クルスは笑みを浮かべて大見えを切った。
「危機は承知のうえです。誰かが困っているのであれば、それが世界の危機であろうと、辺境の年の危機であろうと、俺には関係ありません」
エージスはホッとしたような表情を浮かべて、少しだけ、嬉しそうな顔をした。
「防衛圏に、ようこそ。私は君を歓迎する」
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