第2話 まいおりた てんし

「ブー、ブー」


アキは唾をまき散らし、口をすぼめ「ブー」と言っている。口元は力が入りすぎて、赤らんでいるが、決して怒っているのではない。アキは「スプーン」と言いたいのだ。アキの人差し指が示す方向にあるのはフォークであるが。


「これはフォークだよ。こっちがスプーン」


 僕はフォークをアキに持たせた。アキはフォークを力強く握り、それを見つめ笑っている。僕の訂正は聞いていないだろう。

 なにかに夢中になると親の声は聞こえなくなるアキであるが、最近は意思疎通が図れるようになっており、親としてはそれがとてつもなく嬉しい。生まれた時は、僕の抱えた腕からはみださない小ささで、ただただ泣いているだけだった。


 僕は小学生の頃から、子どもが好きだった。とは言っても、その当時は自分自身も子どもなのだが、6年生の頃は休み時間に1年生とよく遊んだ。1年生も積極的に僕に寄ってきてくれるし、自分は小さい子に好かれるんだと思っていた。

 高校生で進路選択を迫られたとき、幼稚園の先生になるのか、それか子どもと関われる仕事を他に探すのか悩んだくらいだ。結局そのような仕事にはついていないのだが、大好きな子どもが生まれてきて本当に嬉しかった。


「ギャー」


 アキは生まれた瞬間から大きな声で泣いた。生まれたばかりのアキは青紫色の肌をしていて驚いた。以前、生まれたての子どもの映像を見たことはあるが、こんな肌の色だっただろうかと訝った。

 それでも次第に、僕らと同じ肌の色となり、退院するまでの間に何らかの異常も見つからず安心した。


どこか僕に似ているような顔つきをして、どこか妻に似ているような顔つきをしていた。僕らの子どもであり、新たな家族であるはずなのに、なぜか家に彼女がいるのが不思議だった。彼女はずっと僕らと一緒にいるのだろうか、本当に僕らの子どもなのだろうか、僕らにしか見えていないのではないか。


毎日毎日、泣きわめき、でもその声が心地よかった。時にはうるさくも感じたが、その小さな手や小さな足を布団の上で寝転がりながら、ずっと動かしている。その懸命さに癒された。


「ひっくり返ったカブトムシ」


 アキの懸命な動きをみて、僕がそう例えたら、妻に怒られたことがあった。それでも、アキがそこにいることで僕ら夫婦は笑顔の回数が増えた気がして、彼女はまさしく僕らのもとに舞い降りた“天使”であった。その愛おしさ故に、彼女が本当に存在するのか、いなくなってしまわないだろうかと不安もあった。


 アキが生まれてから半年くらい経ち、うつ伏せができるようになり、その状態で前に進もうという意欲が出てきた頃、デパートの子ども広場に行ったことがあった。自由に子どもを遊ばせることができるスペースなのだが、そこに遊びに来ていた1歳くらいの男の子が、アキを見て指を差し、なにかを話し始めた。言葉は意味のあるものではなかったが、アキを見て反応しているのは明らかだった。


 今までも大人がアキを見て「可愛いですね」と言ってくれることもあり、アキの存在を他人が認識してくれたことは度々あったが、この時はじめて、


「他の人もちゃんとアキのことを見えるんだ」と心がざわめくのを感じた。


 男の子がアキを認識し、アキに対して何かを話している。その男の子のことを僕はちゃんと見て、そこに存在していることを感じている。それによって、アキが他の人にも認識される、実在する人であることを痛感した。僕らにとって愛おしい“天使”であるが、いつかいなくなってしまう架空の存在ではないことを感じて、僕の眼は人目もはばからず、潤んでしまった。

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