きょうも おうちに かえろうね

春夏 秋冬

第1話 かのじょの おなまえ

「ィヤダー、マー」


 僕の目の前の女の子は着替えることを拒んでいる。嫌だということを主張しているのは分かるが「マー」とはなんだろうか。手を振りながら「マー」と言っている。最近、その言葉を使うようにはなったが、誰もそんな言葉は教えていない。


「マー、マー、バー」


 ママを呼んでいるわけではない。あくまで「マー」という単語を手を振りながら使っている。その人差し指にはご飯粒が付いており、女の子が着ている服には、トマトの汁が垂れた痕がついている。「マー」という言葉を翻訳するならば「私をほっといて」というところだろう。昼ご飯を食べた直後で、とにかく着替えたくないのだろう。そこには彼女にとって重要な理由があるのかもしれないが、大人にとっては大した理由ではない。


「ン、ン」


 ご飯粒が付いている右手の人差し指を一生懸命に伸ばしている。その指し示す方向にはパンダのぬいぐるみがある。僕がパンダのぬいぐるみを持ち上げると、彼女は口角を上げ、まだ小さい歯を覗かせながら、至福の表情を浮かべている。気持ちが高ぶるとなぜか下あごが前に出て、しゃくれる辺りは愛嬌である。


「パン、パン」


 彼女のお友達の一人であるパンダを抱きしめようと両手を広げているが、ご飯粒、よだれ、トマトの汁で汚れている彼女には、白色の面積が大きいパンダのぬいぐるみを渡すわけにはいかない。パンダとは後で遊ぶことを彼女に伝えると、小さい足で立っていた彼女はひざまずき、両手も床につけて四つん這いになった。

 この世が終わるのだろうか。彼女は泣き叫んだ。泣き叫びたいのは彼女の右手につぶされたご飯粒であろう。


 彼女は、僕と妻の大人二人によって着替えさせられた。しばらくの間、妻に抱きしめられていた彼女は、この世が終わると思っていたことも忘れて眠ってしまった。

 力が抜けた小さい手は柔らかく、ただその手を握っていると、脆く壊れてしまいそうな感覚に襲われた。それでも彼女は今までもベッドから落ちたり、転んだり、挟まったりしてきたが壊れることはなかった。

 ある時現れた僕たち家族にとっての世界の中心は丈夫だ。身長も小さく、力も弱い一歳四か月の女の子はか弱いはずなのに、たくましい。パンダのぬいぐるみを抱きしめるという大人にとっては無意味な行為が、手を拭くことや着替えることよりも、彼女にとってはこの世で一番大切なことなのだ。その大人が持つ価値観や大人がみる世界とは違う世界で、彼女は生きているのだ。


「パン…」


 か細い愛らしい声で寝言を発した彼女の名前は、アキである。アキは、いつも僕と妻を笑わしてくれて、いつも困らせてくれて、いつも家族の中心として存在している。

 そう。いつからか目の前に存在してくれていた。

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