3話 カスタム・スタート〜ハヤテと黒風の再会〜

 バックミラーに映る闇の向こうが、星の輝きのように小さく煌めいている。


 ハンドルの真ん中に取り付けているスピードメーターが示す──時速32キロ。

 間違いなく普段の練習モード。

 選手並に走っている奴でなければ追いつかれない自信がある。


 前に、サイドミラーに、また前に。

 視線を行き来するたびに、小さな光は大きさと輝きを増していった。

 頭によぎるのは、あの時の光景。


 よそ見を止めて、前にだけ集中する。

 前を照らすF95のライトの光に、段々と後ろから他のライトの光が混じっていく。

 背中を照らされ、自分の影が前に出る。


 追いつかれた。

 十分も経たないうちに。

 背中がひりつく。


 後ろのライトの光がゆっくりと横にスライドしていく。

 抜く気だ。良いよ。抜かせてやる。前に出ろ。

 そのかわり、じっくりと見せてもらう。

 私をこんなに熱くするあんたが、どんな奴なのか。


 流麗な曲線を描くフロントフォーク。

 ハンドルは下に落ちて行くような見慣れた形をしている。

 綺麗な全開姿勢を取れるように無駄なく形作られたフレーム。

 自分と同じくらい細い車輪。


「(えっ……ロードバイク!?)」


 MTBのあいつじゃない。謎のロードバイク乗りが私の前に躍り出た。

 思いもよらない者の出現に一瞬、呆気にとられたが、私はギアを一段上げて、その後ろにつく。


「(──なんて速さなんだ)」


 クランクを回す足が熱い。

 上下にピストンする膝に鈍い痛みを感じ始める。

 大会で走っている時と同じ速度域。

 本気で勝ちに行くときの感覚。

 あいつじゃないかもだけど、間違いない。速い奴だ。


 カチャン、と変速機が動く音がした。

 同時に、あいつの乗る自転車のチェーンが下に落ちる。

 その時、あいつの自転車のフロントが、軽く浮いたように見えた。


「(……えっ?)」


 スリップストリームについてたはずの私が、あっという間に突き放される。

 あまりに一瞬の出来事に、思考が追いつかなかった。

 ギアを上げたなと認識した瞬間、あいつは、まるでバイクのアクセルでも回したかのように吹っ飛んで行った。


「(うそっ!? なんて加速するのよ!)」


 こっちもギアを上げて加速するけど、一度開いた差はすぐには埋まらない。

 トップギアまで温存していた2段のギア。残していた余力は、再びスリップストリームに入るまでに使い切る。

 トップギアのクランクを回す重たい感覚が消えて、次第に空回るような軽い感覚が混じり始める。

 メーター表示で時速45キロ。

 ──少しづつだけど、追い上げてる。

 ライトの光が、あいつの背中を目一杯照らす。


 たぶん、疲れてきてるんだ。当たり前だ……。

 こいつの格好はロードバイクに本気で向き合うようなものじゃない。

 ジーンズに、腕をまくった長袖のシャツ。街を出歩くそのままの格好。自転車をファッションの一つとして捉えているようにも感じる。

 こうして見ていると、F95に乗り始めた頃を思い出す。

 乗り始めた頃は、お気に入りの服を着てF95に乗っていた。

 でも、一ヶ月、半年と長く乗っていると、次第に乗りづらさを感じてきた。それからは、学校の体育着や動きやすい格好で乗るようになった。


 これだけの運動をすれば、上がった体温と汗でめちゃくちゃ蒸れる。ただでさえ通気性の悪いジーンズの生地は肌に張り付いて、体を縛りつける鎖に変わる。

 相手が男でどんなに体力があっても、その消耗の度合いは凄まじいはずだ。

 そんな格好で、この速度域に到達できても、ペースを保つことはできないはずだ。


 私がこのペースを保てていれば、あとは勝手に自滅する。

 そう思った時だった。


 カチャン。

 また、変速機が動く音がした。


 立ち塞がる空気の壁をものともせず、40キロを超える速度域で、再びあいつは加速する。


 もうペダルは限界まで回しきっていて、もうこれ以上はスピードは上がらない。

 それなのに、あいつは、そこからさらに加速するの?!


 再びスリップストリームから引き離され、空気の壁が襲いかかってくる。

 風に押され、差がさらに開いていく。

 クランクを回す足先の感覚がなくなって、膝は重くなってきた。

 でも、ここで抜けばもう追いつくことはできない。


 新荒川大橋を越えた。

 10分もしないで戸田橋の下を潜ることになる。

 戸田橋の手前はバイク止めのゲートが、二箇所ある。

 門の幅は狭く、そこを通過するには、いったん止まるしかない。

 そこが唯一追いつけるチャンスだろう。

 スタートダッシュの加速力には自信がある。

 上手くいけば前に出られるかもしれない。


 ──見えた!


 戸田橋が大きく迫る。

 浴衣を阻むバイク止めのゲートが、二台のライトをキラキラと反射している。

 思った通り、あいつは減速した。自転車に跨ったまま、フレームやペダルの先を引っ掛けないように、ゆっくりとゲートの隙間を抜けた。

 30メートルほど開いた差が距離が一気に詰まる。

 私も、ゲートの手前ギリギリで、一気にギアを下げて減速する。F95から降りて飛び越えるようにして、一つ目のゲートと、すぐ先にある二つ目のゲートを通過した時、私とあいつがほぼ横並びになる。


 スピード・ゼロからトップスピードになるまで。加速力の勝負──短い距離で最高速に到達できた方が勝つ。


──いっけぇ!






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荒川BLACK・WIND GPZ900R @spike

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